夢現カノジョ
これから読まれるという方も、既に読まれたという方も、この作品を開いていただきありがとうございます。
ささやかではありますが、あとがきと活動報告の方で解説を行なっていますので、読後気になる部分があったという方はぜひご覧ください。
♫
——金木犀の香り。
古い本独特の焼いたナッツのように香ばしく、バニラのように甘やかで不思議な匂いに混じって漂ってくる、彼女の存在感。『割り込んだ』という表現が正しいそれに気がついた時には、すぐ側に彼女がいた。
「…………」
締め切ったカーテンの隙間から漏れ出した、光の粒。音もなく流れてくる風に切り揃えられた栗色の髪が揺れる。しかしそれを気にした様子もなく、少女は静かに手元の本へ目を落としていた。
思わず、少年——音綴天音は、呼吸すら忘れてその少女を見つめてしまう。
こちらに気がついているのか否か、ひとまず声をかけるべきかと悩んで——ふと、少女が顔を上げた。そして澄ました表情のまま、ゆっくりと口を開く。
「……かき氷」
「え?」
間も無く、琥珀色の瞳がこちらを向く。
「食べたいから、買ってきて」
天音は瞬きを繰り返す。
見つめられることに照れ臭さを覚えるよりも早く、様々な思いがふっと湧いて出て——、
「…………はあ」
天井を見上げて、ため息を吐いた。
♪ ♪
人生は物語のようなもの——そんな言葉を聞いたことがある。
事実は小説よりも奇なり、なんて言うくらいだし、日常のある一場面を切り取ってみればそういう機会は案外と多いのかもしれない。
たとえどれだけ現実的でも。
たとえどれだけ非現実的でも。
それは紛れもなく、自分に——天音にとって切り離すことのできない人生なのだから。
——だから今日も、『ボク』は物語を書き進める。
天音は頰から滴れる汗を拭う。
「……詩織。この暑さの中で?」
「暑いのは私も一緒よ」
「いや、外出たらもっと暑いんだけど!?」
必死の抗議に彼女は暗めの長袖長スカートと、明らかに暑そうな服装にもかかわらず、汗ひとつかかず、澄ました表情のまま応じる。
「涼むために買うんだから、いいじゃない。ちゃんとあなたの分のお金もあるから」
そのためにこっちが汗だくになるのはどうなんだろうか、と思いつつ。先程詩織——と呼んだ少女にジトっとした視線を向ける。
「……分かったけど」
「けど?」
恐らく言いたいことは分かっているのだろう、その上であえて聞いているのだろう。それでも天音は自分に言い聞かせるように言う。
「きょ、今日だけだからな。明日はお前が行くんだぞ!」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃ。お前はボクの——」
言いかけ、言葉を直す。
「俺が詩織を呼んだんだから」
「…………」
そんな『ボク』に対し、少女は目を細める。
「な、なんだよ」
「いえ、前々から思っていたけれど……それ、そんなに気にすることかしら?」
それ。彼女が指すものは、天音が先程訂正した一人称だ。
「あ、当たり前だろ!? この歳にもなってボクなんて、……いい加減恥ずかしいし」
まだ中学生だから良かったものの、高校大学と進めばきっと笑い物だ。……いや、実際に確かめたことがないから、あくまで想像だけど。
「……」
「な、なんだよ……」
詩織はさっきにも増して、じっと視線を向けてくる。ついその視線に耐えきれず、
「じゃ、じゃあ、行ってくるから! お金は後で払ってよ!」
逃げるようにして、外へ出ようとして。
「——氷。一番安いのでいいわ」
「……ん、分かった」
相変わらず調子が狂うな、と頭をかきつつ。
今度こそ、外へ出た。
♪ ♪
「…………暑い」
シャクシャクと蝉が鳴き、今日も今日とて絶好調な太陽を忌々しげに睨みつつ、汗に濡れる髪をかきあげる。
これが学校の近くだったら冷房の効いた駅内を歩いて移動することも出来たのだろうけど、残念ながらこの付近に駅はないどころかそもそも最寄駅に空調機は付いていない。
「今時珍しい……のかな」
開発がそこまで進んでないところはそんなものかもしれない。断言出来るほど、そこら中を歩き回っているわけではないけれど。
「…………ボク、甘いのかなぁ」
それはそれとしても、彼女の言葉に頷いてしまったことについては、やはり天音自身にも責任があるわけで。嫌なら嫌と断ればいいものを、もう何回もこういったことが続いている。
「いや、別に嫌ってほどでもないけどさ」
誰に言い訳するわけでもなく、天音は呟く。
確かにこんな暑さの中「行ってきて」なんて言われるのは理不尽とか不満とかを感じるけれど。なんだかんだ言って、色々得られるものもあるわけで。
たとえば今日だって順番が前後したけれど、詩織がお金を払わなかったことは一度もない。それに、何かを食べるにしても彼女自身は一番安いものを、天音は好きなものを選ぶように——と、何だかんだ優しさのようなものが見える部分もあり。
……餌付けされているだけ、とも言えるけれど。
「……っていうか、詩織が馴染み過ぎなんだよ」
栗色の髪の少女——詩織。
正直、今でも半信半疑なところではあるけれど、彼女は人間ではない。
だが、だからと言って誰かを恨み祟る幽霊だとか、甘美な誘惑で堕としにくる悪魔だとか、そういう類のものではない……らしい。
そう、あくまで彼女の話通りに語るのなら——詩織という少女は、天音のある願いが生み出したもの。有り体に言えば精霊みたいなものなのだという。
……と話をしたら、少しは今より家が賑やかになるだろうか。いや、もしかしたら笑い事じゃ済まず病院に連れて行かれるかなぁ、なんて考えているうちに。
「……っと」
いつの間にか、日に焼けてやや黄ばんだかき氷ののれんが吊り下げられた駄菓子屋の前まで来ていて。
「人と話さなきゃ、か……」
どうしても慣れないなぁ、なんて思いながら。天音は汗を拭った。
♪ ♪
詩織はいつも言っていた。
自分は人ではない、と。
実際、彼女はいつもどこからともなく現れるし、消える時も一瞬だ。服装を変えたければ瞬きをしている間に着替えてしまうし、多分ある程度は自分の都合の良いように動けるのだろうと思う。だから、非現実的。
ただそれでも、人と変わらないことはいくつかあって。
時間が経てばお腹だって減るし、眠くもなる。本を読んだからと言って内容一字一句全てを覚えているわけではないし、そもそも四六時中本を読んでいるわけではない。
平然と天音の祖母に挨拶をしていたり、その祖母に店番を手伝ったお駄賃をもらっていたり、この辺りの店事情を知っていたり……と挙げればキリがないほど現実に馴染んでいて、驚きとか動揺があったけれど。
それでも詩織という少女は、確かに人ではなくて、『ボク』の物語が生み、呼び出した存在なのだ。
——それから少しして。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
持っていたかき氷を彼女に手渡しつつ、天音はどさりと彼女の隣に——やや距離を空けて座る。
「どうしたの?」
「いや、汗臭いかなと」
「それくらい、気にすることはないわ」
と言って、すすすと身を寄せてくる詩織。ふわりと漂ってくる金木犀の香りに、天音もまた動いて距離を離す。
「お前が気にしなくてもボク——俺が気にするんだ。びしょびしょ……って程じゃないけど、結構汗かいたし」
つい周りの反応を気にしてしまう年頃なのもあるし、女の子を相手にするとなればなおさら気にしざるを得ない。……特に、彼女のような子の場合。
「私は汗の匂いなんて気にしない…………ことはないけれど、今のところ問題はないから心配しなくても良いわ」
そこは嘘でもいいから気にしない、とか言ってもらえたらなお良かったんだけど。
「それに、わざわざ買ってきてもらった相手に臭い、だなんて失礼でしょう?」
「まあ、それは」
そういう意味では、彼女もある程度言葉を選んでいるのかなと思う。
「ただ、それとこれとは話が別。男のプライドもあるし——って」
ごにょごにょ言っている間に溶け出したのだろう、彼女が手に持った容器から水滴が落ちた。
天音は慌てて近くにあったティッシュを取り出す。
「ごめん。汚れたかな」
「気にしなくていいのに」
「ボクが気にするんだ。あんまり汚れて欲しくない、っていうか」
そう言って彼女の服についた水滴を拭いていると、
「……クスッ」
「……なんだよ」
笑いを漏らす詩織。何か言い出すのではないか、と思わず身構える。
「いえ。捉え方によっては別の意味に聞こえる、っていうのと……」
「別の意味?」
つい気になって問いかけるも、答える気がないのか彼女は無視。ざくりと手元の氷を混ぜながら、
「謝るのは私の方だわ。せっかく買ってきてもらったのに、溶けさせてしまってごめんなさい」
ぺこりと、頭を下げた。
「……いや、謝ることでもない、し?」
そんな彼女にどうするべきか分からず。つい目を逸らして、それでも何だか生暖かい視線を感じて耐え切れなくなって。
「——ほら、いいから。早く食べるぞ」
「ええ。それじゃ——いただきます」
彼女に遅れていただきます、と口にして。天音も側に置いていた自分のかき氷に手をつけ始める。
やはりこちらも溶け出しているが、幸いにもまだ下の方は無事だ。
抹茶あずきバニラ——のバニラの部分は半壊しているものの、全体に味が馴染んだと思えばまあ問題ない。
対して彼女はいつも通り、いちごシロップをかけただけのシンプルなもの。前にカフェモカ……だったか、大人が食べるようなのを買って行ったら「安いのにしなさい」と思い切り嫌そうな顔で怒られたことがあるが、値段とは別にいちごが好みだったりするのだろうか。いや、この場合はカフェモカが苦手なのかもしれないけれど。
「ねえ、詩織——」
何気なく、聞いてみようとして。
息を止める。
「……ん、美味し」
ふふっと笑顔をこぼす少女に、つい、何も言えなくなって。
「……どうしたの?」
「い、いや……」
見ていたのを気付かれただろうか、とか。普段はあんまり笑わないくせに、こういう時だけ笑うのかよ、とか。
思うことは色々あったけれど。
これだから、彼女の頼みは断れないのだろうな、と思ってしまって。
「…………一口、もらってもいい?」
「ええ、じゃあ私も一口もらおうかしら」
——窓の外から蝉の声が聞こえる。
小学生だろうか、元気に走り回る声や、どこかで工事をやっている音、車の通り過ぎる音。
それらがとても遠くに感じられて、彼女と自分の、半径50cmにも満たないこの空間の時間が止まっているような気さえして。
——そういえば、「ただいま」なんて口にするのはほとんどここに来た時だけだな、と思った。
♪ ♪
詩織は『ボク』が生み出した存在。一緒にいると勘違いしそうになってしまうけれど、彼女は人ではない。非現実的で、本来ならあるはずのないもので、だからこの時間は夢みたいなものなんだろう、と時々考えることがある。
名前はイメージと合わなくて。夏なのに秋っぽい香りがして。表情には出さないくせに、態度には出さないくせに、優しくて厳しいちぐはぐな女の子。
気にならない、と言えば嘘になる。
惹かれていない、と言えば嘘になる。
彼女といることで、空っぽの心が満たされるような時がある。
けれど恋愛の好きとは違う。
いずれそうなるのだろうという確信はある。でも今はまだそうじゃない。
だけど、だから、時々思ってしまう。
あの非日常的な時間は、『ボク』にとっての日常だったのではないか——と。
意外にも、自分は自分の住んでいる場所のことを深く知らないんだなぁ、と天音は思う。
朝方ラジオ体操を終えてあの場所へ行くと、
「川に行きましょう」
と言われ半ば無理やり出かけることになり。道中でお弁当屋さんに行かされたり、川に着いたと思ったらかき氷を買ってきてと言われたり。夕方になって帰ろうとすると、
「ここのスーパーが安いわよ」
なんでそんなこと知ってるのさ、という疑問はさておき、そう言われて何故か彼女の分まで夕飯を作ることになって、別れて——ようやく一日が終了。
まあどうせ家にいても誰もいないし、かといって遊べる友達も少ないし、ならばといつも祖母の店の本を読んでいたので、必然的に詩織と会うことになる。だから毎日がそんな感じの生活だった。
とはいえ、夜にもなればさすがに両親は帰ってくるので、お泊まりとかはなかったけれど。……いや、そもそも詩織とお泊まりというのは色々どうなんだろう。色々と。
ともかく知らないお店、知らない人、たくさんの知らないものがあったんだな、と分かって。予想以上に自分は人と話すのが苦手なのだと分からされて。色々気づかされるとともに、一人の時間が少なくなったなぁとも思う。
不満ではないけれど。多分それは彼女のおかげで、きっと良いことなんだろうとは思うけれど。
言葉にできない何かが、喉の奥の方で詰まっていた。
「……うぅ」
轟々と。雨戸は欠けなく閉めたというのに、外から聞こえてくる強い雨風は天音の決して頑丈でない心に「もしかしたら」という不安を駆り立てる。
しかしだからと言って、布団に潜って朝を待つ——そんな子どもじみた行動を取らない。この歳にもなってビビっていられるか、という意地と、彼女の前でそんなことをしてたまるか、というやっぱり意地が半々。
「……ひどくなる前に帰るつもりだったんだけどなぁ」
予報では夜中に台風が直撃、なら夕方くらいに帰ればいいかなと甘く考えていた結果このザマだ。
ぎぎぎ、と天音は立て付けの悪い扉を力を入れて開け、寝室に入る。
「あら、電話は終わったの?」
「ああ、うん。向こうも帰るに帰れない状態だってさ」
そんな天気の中でも変わらずというべきか、小さなソファに行儀良く座って本を読む詩織。いつの間にやら普段の長袖から簡素な寝巻きに着替えているが、相変わらずどういう理屈なんだろうなぁ、と思いつつ。
「泊まることは伝えたの?」
「一応。まあおばあちゃん家って言ってあるから問題ないと思う。家の雨戸もここに来るときに閉めておいたし」
ただし、同じ部屋に同じくらいの歳か、もしくは年上の少女がいるとはさすがに言えず。同理由で天音は祖母にも話していない。
まあこの天気だから仕方ない——と頷いてくれるとは思うのだけど。何とは言わないけど勘違いされそうな気がして。
「あー、うん。それはそれとして。本当にボク——俺がこっち使ってもいいの?」
そう言って敷かれた布団を顎で指す。
さすがに同じ布団で寝るのは色々と——彼女は気にしないと言っているし、実際に気にしているのは天音だけだが——問題があるので、ソファを持ってきて分かれて寝ようと提案したのは良かったんだけど。
「……普通逆じゃない?」
そう頻繁にあるものではないだろうけど、男女のお泊まりでは大抵男がソファ、女がベッドもしくは布団と相場が決まっている。と、思う。
「言ったでしょう? 私は人とは違う。あなたみたいに睡眠をとる必要がないの」
まあそう言うだろうなと思ったけど。つい見栄が出たというか、人としての扱いに慣れてしまっていたというか。
「……まあ、それでもあなたがどうしてもって言うのなら変わるけれど」
「……いや、いいよ。このままで」
もそもそと布団に入りながら「でも男の意地がなぁ」なんて呟く天音を、詩織は表情を変えずにじっと見て。
「もしかして、私が気になって眠れない?」
「……」
この部屋に入った瞬間から考えないようにしていたこと。肯定も否定もできず、つい黙り込む。
虚栄でもそんなことはない、とかどっちの意味だよ、とか言えれば良かったのだろうけど、時既に遅し。
「い、いやでも、台風が気になるってのもあるし?」
「子守唄でも歌ってあげましょうか?」
「俺は子どもか。歌われでもしたら、そっちの方が気になって眠れないよ」
とか言ったら無言で彼女が立ち上がろうとしたのでそれを抑える。
いっそ分かりやすくからかってくれれば良いものを、いや良くもないけど。
天音は観念したように、ため息を吐く。
「……気になるってのは、うん。本当だよ」
それは何も、……いや、まあこの際なので認めよう。彼女の容姿や言動に惹かれている自分はいる。それは事実だ。一緒にいて、心が落ち着かない時は何度もある。
ただ、それとは別に。
「……詩織の存在は謎のままだけど、現れたワケは間違いなく俺が関係してる」
「そうね」
何か思うことがあったのか、わずかに目を細める詩織。あえてそれを無視したまま、続ける。
「でもさ、詩織だって意思があるわけだし。その、何かやりたいこととか……目的みたいなものはあるんだろ?」
そしてそれは恐らく、彼女が彼女だからこそ持っているもので、ここで聞き出せば結果がどうなるかはおおよそ見当がつく。
だから少しだけ迷って。
「……食べたいものとか、欲しいものとか——はいつも言ってるけど、何か他にやりたいことはないの?」
つい怖くなって、核心に迫るであろう質問を誤魔化す。
「私のやりたいこと、ね」
天音の考えが分かっているのかいないのか。詩織は本を閉じ、口元に手を当て考え込む仕草をする。
「あなたは?」
「え?」
「あなたなら、何を望むの?」
ここでどうして自分に話が振られるのだろうか。話を逸らしてるとか、そういう感じではなさそうだけど。
「…………」
少なくとも、彼女の瞳からは何も読み取れない。だから素直に答えることにする。
「ん、と。自分一人で生きていけるようになりたい、かなぁ」
「……」
「友達は少ないし、親はなかなか家に帰ってこないし。でも子どもだからやれることは少ないし。どうせここに来るくらいしかやることがないんだから、早く大人になって自由に生きたい——それが、俺の望み」
そこまで言い切って、天音はため息を吐く。
「——って、前のボクなら思ってたんだろうけど、今は違うかな」
「うん? どうして?」
感心したのか、はたまた驚いたのか。詩織がほう、と息を吐く。
そんな彼女を見て、一瞬言葉に迷い、
「…………詩織が来てから、色々あったしさ。考えだって変わるよ」
彼女が出したままの本を片付けたり。彼女に飲み物やお菓子を用意したり。外で何か買ってくるように言われ、最近ではそこら中のお店の人に顔を覚えられるように——。
「……ボクの私生活ほとんどパシリと雑用だな!?」
「人聞きの悪い」
「え、でも実際間違ってないような」
「本はお客様が来たら戻しているし、何かを買いに行かせるにしても、あなたの分のお金も含んでいるでしょう。……それに」
彼女はこちらを見ると、にんまりと嫌な笑顔を浮かべて。
「——天音。あなた、私が喜んでるのを見るの、好きでしょう?」
「なっ」
「いつも見られてれば気づくわ。……あなた、自分が思ってるより顔に出てるから」
言い訳とか誤魔化しとか浮かんでくる言葉はいくつもある。ただ、どれを取っても動揺を隠しきれる気がせず、結果口をパクパクとさせたまま、嫌な汗が流れる。
「そもそもあなた、本当に嫌なら嫌って断るでしょう?」
「それは……」
つまりあれか。自分は彼女から色々頼まれることを無意識に楽しんでいた、と。
「困らされるのを喜ぶってどうなんだ……」
「いいんじゃない?受け入れてくれる人はいると思うわ」
「いや受け入れられても困るというか、そもそもボクはこんなんでいいのか」
まあ、その辺の事情は持ち帰って検討することとして。
「それで、あなたは何を望むの?」
巡り巡って、結局その話に戻る。
「……」
もちろん考えはある。なので前の話もあるが、あえて。あえて、誤解を恐れずに言うと。
「ボクは——楽しい時間を、大切な人と過ごしたいな、って思う」
大切な人——それは人によって変わると思うけれど、家族とか友達とか。それから好きな人、とか。
「大切な人、ね……」
「……なんだよ?」
彼女は一瞬目を伏せたかと思えば、すぐにいつもの澄ました表情に戻る。
「いえ。大切な人といればいつどこだって楽しいって言うじゃない?」
「言うね。でも、ずっと楽しいなんてまず無理だよ。すれ違いとか喧嘩とかあるわけだし」
「……夢がないわね」
「現実的、って言って欲しい。それに——それが分かってるなら、楽しい時間を作る努力はできるだろ?」
まあ天音自身、語る言葉ほど自分が器用でないことは知っているし、意志だけじゃどうしようもないことも現実にはあると知っている。
——そういう意味では、目の前の彼女という存在はやはり現実からはかけ離れているのだろうな、とも思う。
けれども。
天音にも物語があるように、詩織にだって物語はあり、ならば当然終わりもある。それぞれは混ざることなく、いつかは消えてしまうものだとしても。せめてその間は、一緒に過ごしたい、と思う。
「……って、どうしたの?」
見れば、返事が意外だったのかぽっかりと口を開け、今度こそ驚いた様子の詩織。
「……あなた、悪いものでも食べた?」
「今日は詩織と同じものしか食べてないよ。なんで?」
「あなたにしては、やけに前向きな発言だもの」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
「……その辺も、パシリ効果かなぁ」
「……人聞きが悪いわね」
そして、どちらからともなく笑い出す。
こうしているとただの女の子にしか見えなくて。……そこに何となく、ほっとする自分がいて。
「……寝ようか。いい時間だし」
「私は眠らないんだけど……まあいいわ。おやすみなさい」
「おやすみ」
寝顔とか見られないよな、と思いつつ。再び本に目を戻す詩織を見て。
ゆっくりと、眠りについた。
♪ 『 』
————夢を、見ていた。
まだあの少女と出会う前。
古い本独特のナッツやバニラのような匂いと、土っぽい雨の匂いが混ざった部屋で。音綴天音はシャーペン片手にプリントを眺めていた。
特別意味のある行動だったわけではない。休日だけど遊ぶ友達はいなかったし、両親はいつも通り仕事で家におらず、かといってすることもなかったので雨の降る中傘を差して祖母の家に遊びに来ただけ。
何かを作ってやろうという気はなく、ましてや変化など求めておらず、店の本を適当に取って読む。ただそれも飽きたので何となく学校で配られたプリントを取り出し、裏に落書きをしただけ。
そう、それだけ。
簡単な物語だった。
主人公がある日不思議な女の子と出会って、どこかで読んだような設定とどこかで見たような敵に立ち向かい、どこにでもあるようなありふれた終わりを迎える。
別にそうありたいと思ったわけではない。……いや、少しは思っていたのかもしれないけれど、書き終えてすぐ冷静になって、座布団の下にしまい込んだ。
全く何をやっているのだろうと。
こんなものを書くなんて自分らしくないし、ましてや誰かに読ませるようなものでもない単なる自己満足。万が一誰かに見られたら恥ずかしいなぁ、と後で捨てることを決意した。
——だけど、もし。
もしこの人生が物語だとするのなら、あまりにも現実的で、夢の一つだって見れもしないで決められた終わりを迎えるしかないのだとしたら、それでも切り離すことができないのだとしたら。
せめてこの空虚な現実で、側にいてくれる人がいたらいいな、と。
そう、きっかけはそれだけの願いだった。
理屈なんて分からない。
誰にも説明はできないし、話したところで夢物語の一言だろう。
けれど、その瞬間間違いなく。
「……お前は?」
「……私? 私は——」
————金木犀の香りがした。
♪♪
ぼんやりとした意識が徐々に鮮明になり、周りが真っ白な光に包まれて。
ぱちり、と目を開けた。
「…………あら、おはよう」
「……ん。ボク、寝てたのか」
頭上には彼女の顔があり、頭の下は柔らかな弾力のある感触——などではなく、硬い床。だからか、頭の上の方に鈍い痛みがある。
おまけに体もぐったりと地面に張り付いたまま、動けそうにないのでそのまま寝転ぶことにする。
「そっか、プールから帰ってきて……」
そのまま疲れて眠ったのだった。
金木犀の香りに混じって、消毒っぽい匂いがする。
「夢……」
「うん?」
「いや、なんか夢を見てた気がするんだ。どんな内容だったかな」
考えると胸のあたりがくすぐったくなるような、切なくなるような。よく分からない感覚だけが強く頭に残っていた。
「その夢に私はいた?」
「いた……ような。いなかったような……?」
多分いた、それで何か話した気がする。けれど覚えているのはそれだけ。
そもそも夢なんてものは目覚めればおぼろげで、覚えていても「だった気がする」程度のものだ。
覚えていてもいなくても、生きていけるのだから、つまりはそういうことだ。
「……どうする? まだ、眠る?」
「ん……どうしようかな」
それなりに頭は目覚めてきたけれど、まだ体は疲れているし。眠気も多少は残っている。だけどあんまり眠り過ぎると夜眠れなくなるしなぁ、と迷っていると。
ふわりと、頭が柔らかいものに乗せられる。
「……何してるの?」
「膝枕。して欲しくないの?」
先程までの硬い床の感触と、今のふわふわ。寝起きで判断力が鈍っている中、頭上の少女から必死に視線を逸らしながら、じっくり五秒悩んで。
「……いや、まあ。してくれた方がいい、けど」
「そう」
いっそ起きる前にしてくれていたらここまで動揺せずに済んだんだろうなぁ、と現実逃避していると、彼女の指が天音の髪をすき始める。
「…………」
考えてみれば、親にもこんなことしてもらったことないなと思い出す。
もしかしたら物心がつく前、本当に小さな頃ならあるのかもしれないけど、少なくとも今の天音にその記憶はない。
それにしても、他人に髪を触られるというのは慣れないものだ。ムズムズとくすぐったいような、けれど落ち着くような、不思議な感覚につい眠気を誘われかけて——、
「私が側にいなくても、上手くやっていける?」
彼女は唐突にそんなことを言い出した。
「……何だよ、急に。上手くも何も、元々一人には慣れてるんだ。最近だって色んな人と話せるようになってきたし」
「そうね。出会った頃に比べれば……まあ、良い顔をするようになったわ」
その「良い」がどういう意味なのかで色々と変わってくるけれど。
実際、詩織と出会ってから生活に変化があったのは確かだ。事あるごとに色々と頼まれ、それを行動に移す中で自分の考え方も変わってきた。
「……素直に喜んで良いところなのか……」
「七割くらいは褒めてるんだけど?」
「残りの三割が気になるんだけど!?」
以前困らされるのを喜んでいる疑惑が湧いたけど、実は彼女も彼女で困らせるのが好きなタイプなのだろうか、と思う。普段から澄ました表情してるから分からないけど。
「……ま、いいか。ありがとう」
「どういたしまして」
そういえば、こうして詩織にお礼を述べることはあまりない。別に抵抗があるとかではないけど、どうにも普段は彼女がそういう空気を作ってくれないというか。
いや、本来ならもっとお礼を言うべきところではあるのだ。
天音が詩織に助けられているのは先程口にしたことだけではなくて、もっと根本的に。一緒にいてくれることでずっと救われている。
——けれどそれを口にするのは、ちょっと恥ずかしくて。彼女なら拒絶しないのだろうなと思うけれど、今は目を瞑って心の奥にしまいこんでしまう。
「……もう、大丈夫?」
「大丈夫って、何が?」
「私がいなくても」
いつもと少しだけ違う声色。
気になって目を開いてみると、彼女は天音の髪をすくのを止めて、いつも通りの澄ました表情でこちらを見つめている。いや、少しだけ笑っている……だろうか。
「またその話か。だから言っただろ? ボクは——」
だから天音は、その言葉の意味を深く考えることもなく。
あるいは、考える直前に。
彼女の前だから、ついいつものように、本心を隠して強がった。
「俺は、一人でも生きていけるよ」
「…………そう」
素っ気ない返事。まあ、それも詩織らしいかと再び目を瞑り——。
「…………詩織?」
致命的な何かに気がつき、名残惜しさなど振り切って、体を勢いよく起こして。
振り返った先に————彼女の姿はなかった。
♪
現実は現実。
もし人生の中で非日常的な、不思議な体験があったとしてもそれは一瞬の夢だ。いずれは忘れ、日常に戻っていく。それが人生という物語だから。
だからこれは自然なこと。元々ずれていただけ。だから、元の通りに、平穏が帰ってきたのだ。
違和感も、香りも、温もりも、かき氷の味も、今はここにない。
「……詩織」
彼女がいつも座っていた場所。カーテンの隙間から漏れ出した、光の粒が身を包む場所。指でなぞってみても跡など残ってはいない。
——人ではないのだから、当然だ。
彼女は天音の願いが生み出した存在で、その役割を終えたのなら消えるのが道理。
「……夢はいずれ覚めるもの。なら、これが現実だ」
たとえ失言でも、強がりでも、「もう大丈夫」だと言ってしまったから。
理屈は分かる。何度問いかけても自分は間違いなく「そうだろう」と答える。そう、間違いない。
だって、
「きっと多分、それが俺の人生だから」
光の粒に手を伸ばす。
もしかしたらこれは彼女の残滓なのだろうか。ぼんやりと、そんな考えが湧いて。
『あなた、本当に嫌なら嫌って断るでしょう?』
——『夢』のことを思い出して。
「なら——」
天音は勢い良く、立ち上がる。
「——これは現実じゃない」
言って、少し違うなと首をかしげる。
「現実はボクが決める。もちろん、現実的な範囲で、だ」
うん、これだなと納得して。
壁に立てかけられた丸机を用意する。
それから——座布団の下から、いつぞやのプリントを取り出して。
「……相変わらず、ボクらしくない内容だなぁ」
そこに書かれた内容に、くすりと笑いを漏らす。
まあ、だからこそこんなことになっているのだろう。
ならばこそ、このままではいられない。そのために——『ボク』は。
「ボクは————」
再び、物語を綴り始める。
♪
——あとがき——
人生は物語の連続で。
出会って、別れてを繰り返して大人になっていく。
当然その中には忘れたい記憶や忘れられない思い出もあって。鮮明に覚えているものは何年、何十年先にも思い出す。
傷として、あるいは誇りとして。
本に栞を挟むように、いつでもまた開けるように。
——たとえ一度区切りがついても。
——たとえ一度終わりを迎えたとしても。
それが続き、再び始まることだってあるのだから。
「そうだろ、————詩織」
天音は振り返らないまま、その空間に話しかける。
絶対にそうだ、という確信があるわけではなかった。直感に近い——けれど、彼女の言動や夢が現実としてあり得ることならば、と。
「……一人でも大丈夫、って言ったくせに」
「それは、……うん。ごめん。強がっちゃって」
——後方から聞こえてくる、不満げな声。
最初からそうであったのか、あるいは天音の行動がそうしたのか。
——ふわりと金木犀の香りが漂ってきて。
振り返ると、現実に割り込むように栗色の髪の少女がそこにいた。
「でも、どうやったの?」
「え?」
「一度は終わった私を、あなたはどうやって呼び戻したの?」
本気で分からない、という様子だ。まあ確かに、天音自身も賭けの要素が大きいと思っていたので、彼女のその反応も無理はないと思う。
だから少しだけ言葉を選んで、後はにっと笑みを浮かべて。
「物語にはあとがきがつきものだから——かな?」
「……はぁ」
彼女がため息を吐くなんて、珍しいこともあるものだ。思い当たる節は結構な数あるので、つい照れ臭くなって鼻をすする。
「……ん、どうした?」
すると少女が心配そうな目でこちらを見つめて、
「……ひどい顔。見ないであげるから、顔洗ってきなさい」
「後で行ってくるよ。今はその、ボクは、お前と…………えと」
ごにょごにょと、格好つけようとして言葉に詰まる。
「……はぁ」
再度聞こえてくるため息。今日は珍しい日だな、とやや現実逃避する。
「ここまでやって、そこまで言ったならちゃんと言いなさい」
「……善処します」
こんなだからそもそも彼女を生み出したんだよな、とか。それでも格好をつけ切れないあたりやっぱりまだまだだ、とか。
まあ思うところは色々あったし、どうせなら言えなかったことを言ってしまおうかと思ったけれど。
「その前に、大事なことを言い忘れてた」
「大事なこと?」
手で涙を拭って。
近くにあったティッシュで鼻をかんで、色んな液体でベタベタになってしまった顔を拭いて。
締まらない、と思いつつも最低限見た目を整えて、改めて彼女に向き直る。
「——おかえり、詩織」
その言葉に彼女は瞬きの一瞬驚いて、けれども次の瞬間には笑顔を浮かべた。
「ただいま、天音——」
♫
——金木犀の香り。
詩織が現れる時は、決まってそれが合図となる。音もなく、割り込むようにして現れる彼女は、光の粒を浴びながらいつものように本に目を落としていた。
普段は古本の匂いが目立つこの部屋だから、天音は彼女が現れればすぐに分かる。呼吸さえ忘れてしまうほど胸が高鳴って、つい目を留めてしまう。
開けた窓の外からふわりと風が入り込んできて、栗色の髪が揺れたと思えば。琥珀色の瞳がこちらを見上げていた。
「……かき氷」
「え?」
「食べたいから、買ってきて」
見つめられることに照れ臭さを覚えるよりも、その言葉には思うことがたくさんあったから。
ついこみ上げてくるものがあって、宙へ視線をやる。
「…………はあ」
そうして、ため息を挟んで。
「……詩織。もう秋なんだからかき氷はないよ、さすがに」
夏の暑さも何処へやら。
この頃は肌寒さを感じられる日がしばしばあり、近所の駄菓子屋さんは当然ながら氷ののれんを外してしまった。というかむしろ、当然である。
「じゃあ探しに行きましょう」
「すごい長旅になりそうだな。最悪スーパーで……って、あれ?」
目の前で本を閉じ、軽く伸びをする少女に瞬きを繰り返す。
「行きましょう、って。詩織も来るの?」
「ええ。来て欲しくない?」
「いや、そんなことは……」
こちらをじっと見る詩織は、いつも通りの澄ました表情——ではなく、少しだけ口元が笑っていて。
数秒じっくり悩んで、覚悟を決める。
「うん、ボクと一緒に来て欲しい」
「……顔が真っ赤だけど」
「うるさい」
彼女と出会った頃よりかは、少しだけ成長したのかな。なんて思いながら。
「じゃあ行こっか、詩織」
「ええ。行きましょうか、天音」
どちらからともなく手を繋いで、歩き出す。
人生は物語のようなものだ。
何度も出会いと別れを繰り返し、始まり、終わり、あるいは続く。
夢のような一瞬も覚めることもあれば、共に寄り添うことだってある。
だからもう、一人の物語ではなくて。
だからもう、一時の夢ではなくて。
——これは、ボクたちの夢物語だ。