第二十九話 シェンテラン家の主の部屋
「わたしにふれて――。」
「エキじゃないの?」
「だからエキとは誰かと聞いている!」
久しぶりに殺気を孕んだ声で怒鳴られました。しかも耳元と言ってもいいくらい、間近で。
「ぅえ・・・っく」
ひくっと喉がひきつれてしまい、それっきり上手く呼吸も言葉も続ける事が出来ません。
怖い。やっぱりご領主様は怖い。怒らせた。嫌われるような事をまた、無意識のままやってしまったんだ。
だいぶこの方に慣れてきたとはいえ、このように寝起きですとやはり思考は最悪です。
怖い。もう嫌。いつ怒るか解らないご領主様のお側にいるの、嫌。怖い。
囚われる恐怖感に今さらながら押し潰されそうになります。
「リューム」
「エキ、どこ?エキぃ」
にゃ――――・・・ん!
鳴き声がしました。とても可愛らしい甘い声はエキのものです。
気が付けばまたご領主様に抱きすくめられておりました。
彼の腕がリュームの背に回されていては、呼吸は狭まりますに決まっていますでしょう?
その上後頭部を押さえつけられる形で彼の肩に顔を固定されては、なおの事!
苦しくてもがけばもがくほど彼の腕の拘束力は増すばかり。
足掻きようも無いまま空気を求めて喘ぐ始末。
それが発作につながるんですよ、ご領主様。
いい加減学習して下さい、といつも言われる彼の罵りの言葉を真似てみます。
もちろん心の中だけですが。
「エキとは猫、なのか?」
姿は見えませんが、リュームがエキの名を呼ぶとその可愛らしい声が答えます。
「エキ、猫です」
にゃあん
「誰の」
「リュームの」
決まっています。リュームはためらい無くそう答えていました。
だって名前をつけたのもリュームですし。ご領主様にはあげませんよ。
「おまえは!猫の毛が発作を起こさせるだろう?あまり構うな」
相変らずのバカ力で抱き締められて、リュームの息は上がります。
その口がそれを言いますか!?
「うっぅ、・・・も、お放しください。息、苦しいです」
「――――。」
軽く無視ですか。
それでも心なしか腕の力は弱められたかのような気がします。
ほっと一息つきどうにかこうにか顔を上げて、もっと空気をと求めた次第でゴザイマス。
「ごりょ、しゅさま。もぅ放してください」
「断る」
「はぃ!?」
嫌がらせ反対です!思わず声が裏返りました。
「――断る」
(え・えええええええええええ!?断られましたよ!)
「そ、そんな、何故に、嫌がらせ反対でございます!」
「リューム」
苦しそうに絞り出すかのような声で名を呼ばれます。うわ、と思いました。
背筋が何かぞわぞわします。
それは這い上がってくる恐怖と言うものでしょうか。その正体は。
「放したら何をしてくれる?」
「え。取引ですか。見返りを要求ですか。何が欲しいのですか?」
「リューム、」
「あ!そうだ!エキを紹介してあげます。抱っこもさせてあげますよ。かわいいですよ、エキ」
おしゃべりも出来る魔物ですけど。そこは伏せておきましょう。
またでこっぱちを叩かれるのは目に見えて明らかですから。
それでも、リュームは張り切ってエキを呼びました。
ちちち、ちちちちっと舌を短く鳴らして呼ぶ、独特の方法で。
唇をすぼめて舌先を丸めるので、何気に頬の方まで引きつります。
そんな所の筋肉までが衰えていますか、リュームよ?と感じつつ呼び続けます。
あのツヤツヤ毛並は最高に素敵ですから、一回は撫でてみられた方がいいです。ぜひ!
にゃあ―――ん!にゃあ、にゃ―――ん!
エキが答えてくれます。
一向に緩まない腕の中、視線を窓辺に向けました。
どうやらその窓枠付近にいるらしいエキの、黒い尻尾の先だけが揺れています。
「ごりょう、しゅさま、エキが答えてくれてますよ。エキは、真っ黒の猫なので・・・す」
説明しながら弾んでいた語尾が、小さくなってしまいました。
真っ黒の毛並。それは艶光りする良き手触りなのです。
しかしそれすらもご領主様にしてみれば厭わしいもののはず。
リュームと同じカラス色とあれば。
ギュルミナ様に目を背けられた事を思い出して、俯いてしまいます。
背けられてしまうのなんて見たくはありませんから、リュームは初対面の誰かと会うのは怖くもあります。
だからと言ってずっと苛立った視線に晒されるのも苦しいですが。
「カラス猫か」
「う、はぃ」
ぽつりと漏らされた呟きに身体に緊張が走ります。
リュームはエキを呼ぶのを止めました。
彼に縋っていた腕からも力が抜け、だらんと投げ出します。
「カラス猫です」
「そうか。オマエに懐いているのだな」
「はい」
「俺には多分、懐かないと思うから呼ばなくていい」
「そんな事はないと思いますけど?ぶったり、大きな声を出したり、無理やり抱っこさえしなければ」
エキが嫌う三大要素です。
撫でようと手を伸ばすと耳を伏せて身構えてしまうようなので、慎重に手をかざしましょう。
あと必要以上に肉球をふにふに押し過ぎたり、耳を突いたり、顔をにぎにぎ三角などと歌いながら両手ではさみ過ぎたり、口付けの雨を降らせすぎたりしなければ。
それら全部を、余すことなくやっているのはリュームではありませんか?
「そういえば!?」
(懐かれていないのはリュームの方ではないですか!?)
「どうした?」
「いえ。リュームもたいして懐かれていないだろうな、と思い当たった次第です」
ふん、わけがわからんなとご領主様は呟いてから、リュームの後頭部を撫でられました。
「俺はカラス系統には疎まれているからな。それに俺には既にカラス娘がいる」
最初は表面を撫でるだけだった手のひらが、徐々に力強さを増して行きます。
指先が髪をかき上げるようになり、リュームの項を這い再び押さえつけられるかのように固定されてしまいました。
「そうですか。やはりカラスに属する毛並は、ご領主様の目には厭わしく映るのですね」
カラスはリュームだけで充分と。そう仰りたいのですね。
「だから何故そういう事になるのだ?その特殊発想思考はどうにかならんのか?」
「違うのですか?それこそ何故そうなるのですか?」
驚いて目を見開き、彼の不機嫌そうな瞳を見上げました。
それはエキと同じ緑の眼。
「わかるまで解放してやらん」
「!?」
だとしたら一生このままですよ。
(もう嫌。もう、いいや。好きにシテクダサイですよ)
そんな絶望感にも馴染んだこの身は、そんな投げやり思考でもあります。
「わかりましたから解放願います」
「何をどうわかったか言ってみろ。その特殊思考の導き出した答えを」
「うぅ。シェンテラン家にカラスと名の付くものは、リュームという一羽で充分?」
「そうだが」
「やはりそうですか。それは申し訳ございませんです」
「だから何故そこで詫びが入る?それと。このシェンテラン家ではなく、俺には一羽で充分と言っているのだ」
「そうですよね。こんなのが二羽も三羽もいたら困りますよね。いつもご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
「ああ。俺にとってのカラスは一羽で充分だ。よく覚えておけ」
「一羽ですら手に余るとそう仰っているのですね、わかりました」
「リューム。何か否定的な受け取り方をしているな?オマエは」
「否定的、とは?」
一向に噛みあわない会話に苛立たれたらしいご領主様に、またしても盛大にため息をつかれてしまいました。
これ以上、会話を続けてもらちが明かないと思われたようです。
「俺がリュームを否定していると言いたいのだろう。俺に言わせてみればオマエが俺を否定していると言いたいがな」
俺の自業自得と言えばそれまでだが、とご領主様は苦しげな笑みを浮べられました。
それが何とも言えず自虐的なものだったので、驚いてしまいます。
「え!?だってそうですよね?初めてお会いした時から、七年間ずっと」
「何故、今この状況でそう言えるのか教えてくれ」
「こ、の・・・状況」
彼の腕の中に閉じ込められている、この身動き取れませんな状況を何とするか。
髪を撫でられ瞳を覗きこまれる、この体勢が意味するところとは?
ぱちぱちと忙しなくまばたきする間も、ご領主様には苛立たしいのが見て取れます。
そうなってくると蘇るのは彼のかつての言葉ばかりであります。
それが浮かんでは、再び胸を抉りました。
『俺を間違ってでも義兄とは呼ぶな』
『オマエのような小娘を例え義理だとしても妹とは認めない』
『ジ・リューム・タラヴァイエ。このカラスが』
――抉ります。
いつもタラヴァイエ家のカラスなど、シェンテラン家の一員とは認めないとはっきり口にされてきましたよね。この七年。
それを打ち消してくれたであろう言葉も、あったような無かったような?
例えば、そう!ギュルミナ様から庇ってくださった時の、お言葉とかはどうでしょうかと思い出してみました。
『これのどもりや発言がご不快なようでしたら、この義兄が代わってお詫びいたしましょう』
『義妹は身体が不自由ゆえ、責任は甘やかして育てた俺にあります』
『よって今後二度と、この義妹は責めないでやっていただきたい』
そこそこ威力はあるようですが不思議な事に、リュームにしてみたらまだまだ足りないようです。
特殊発想思考では変てこな受け方しちゃってるんでしょうかねー?
いやいや。七年間の重みの方が、勝っちゃってるだけって話の気がしますねー。
考え込むと相変らず、どんな状況すらも意識の彼方に吹っ飛ぶようです。
この苦手なご領主様の腕の中にいる状況にすら、すっかり身を任せている始末でしたから。
少し前までは『ありえません』なこの体勢にも、あまりに頻繁だと慣れてくるらしいですね。
人間、なんて順応性が備わっているのでしょうかと驚きが隠せません。わーぉ。
「リューム?」
名を呼ばれ、軽く背を揺すられました。
そんな仕草が、早く言ってみろと促がされているのだとは解るくらいには、彼との距離も縮まりましたかねぇ?
「その、リュームの事、そんなに嫌いじゃなくなりました?」
恐るおそる、そう尋ねてみました。
無言のまま頬に押し付けられる唇に、首が傾ぎます。
そ、そうですか。コレがお答えと。そう受け取っていいのでしょうかね?
思いのほか、柔らかな唇を押し付けられておりますよ。
ですが、後頭部を押さえつけられているので、あらぬ方向にまで傾く事はありませんのでどこか安心してしまいます・・・って!
そんな心情に落ち着く自分自身に驚きを禁じえませんよ、ご領主様!!
慣れと言うのは恐ろしいものですね。
押し付けるだけでは飽き足らず、音を立てて吸われた上、湿った温かな感触に慄きます。
(うっっひゃぁあぁぁぁ!!先ほど、くすぐったかったのはエキじゃなくて、エキじゃなくて!)
『かわいいと思っているなら口付けたくなるだろ?自然と』
そこでまた思い出された言葉はクレイズのもの。
でも、それとこれとは話が別でございます。
彼の唇が頬から滑るその合間に、リュームは答えておりました。
「でも。リュームはアナタ様の事が嫌いです」
こうやって抱っこされるのも苦しいし。
謎掛ける様に訳のわからないことを言われて、それを考えろと言われましてもですね。
その割りにリュームの答えがあらかた気に入らないらしいのを、特殊思考と罵られるのは、ただのお仕置きに等しいと思います。
いやいやいや。リューム何も悪いことしていませんよね?
まぁ、あなた様の期待を裏切る行いの数々をこなし続け、ゴキゲンを損ね続けているのが罪とか言い出しかねませんよね、この俺様気質のご領主様。
ですからアナタ様の行いはただの嫌がらせと判断します。ええ。
拷問とまでは行かなくても、リュームにしてみたら近いので御了承ください。
それに対する彼の答えは一言。
「犯す」
「はぃ?おかす?食べるって事ですか?」
「俺のものにする。そこまで減らず口が叩けるのなら体力は回復したと見ていいだろう。
もう遠慮はしない」
「もうとっくに、ご領主様のものなのに?」
言っている合間に味わう浮遊感すら、身体に馴染みつつあります。
そんなに違和感を覚えなくなっている辺りでマズイ気がします。
やはり慣れというものは恐ろしい。だんだん感覚が麻痺していく気がします。
そんな状態のまま、横抱きにされてはひとたまりもありません。
逃げ出しようがなくなるからです。
そのまま寝台に投げ出され、両手を拘束されてしまいました。
しかし以前ほどの恐怖も嫌悪もありませんでした。
「ご領主様」
それでも戸惑いは隠せません。
覆いかぶさるように覗き込む彼の瞳の色を探りました。
相変らず深い森の色は、揺らぎも無いようです。
窓辺から差し込む日の光は傾いています。
彼を見送ってからいつのまにか、もうそんなに時が経っていたようです。
朝日の中で見る清清しさよりも、何故かしら哀愁漂って見えますのはリュームの希望でしょうか?
「ご領主様はリュームが嫌い。リュームもご領主様が嫌い。
そのままでいいのではないのですか?」
「何故そう言える?」
「ご領主様はリュームを、嫌うようにしなくてはならない何かがあると思います」
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「何故そう思う」
「どうしてでしょうねぇ?」
「何だ。余裕だな」
ふん、つまらんとご領主様は意地悪く唇の端を持ち上げて見せました。
ですが、目はまったく笑っていません。
怒りと焦りと。それと何かが入り混じった瞳は、憐れみに近い気がします。
そんな彼にリュームもきっと似たような眼差しを向けていることでしょうよ。
「余裕なんてありません」
そんな減らず口の応酬をやり合ってる間も、彼の手は休まることなくリュームの胸元の飾り紐を弄んでいます。
その上には相変らず妖しいまでに紅く輝くザクロ様こと、シェンテラン家宝の首飾りがかしゃらん・らんと音を立てました。
「着替えたのだな。しかもこんな脱がせにくい物を選ぶとは」
「何様基準でしょうかね、それ。着替えますとも!いつまでも寝間着でいてはいつまでも寝付いてしまいますからね」
「そのままもう二、三日寝込め」
「何故ですか」
「目の前に獲物がいるのに、ただ転がしていただけで堪えた俺の忍耐力を褒めろ」
「もう少し堪えられません?」
「断る」
「今なら、まだ。引き返せます。間に合いますよ?」
「もう黙れ」
「い・・・や、です!ご領主様はリュームの許可無く、これ以上触れてはなりません」
必死で身を捩りながら、言葉を絞り出しました。
「何故オマエの許可が要る。俺の持ちモノのオマエの?」
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『彼女の許可無く、リューム嬢を自分以外の嫁に出せない身体にしない事!それが必須の条件』
立ち去り間際、ルゼ様がご領主様に告げられたお言葉です。
「ルゼ様の出された条件を思い出して下さい、ご領主様!」
「忘れた」
「ですから、思い出してくださいと・・・・・・んぅぅ!」
申し上げているんですよ、という言葉はまたしても。
ええ。
またしても封じ込められてしまい、文字通り唸るしかないリュームです。
「――も、許されると思ってるんですか。許可も無く!」
さて。リューム嬢。ピンチの割りに余裕のような?
次回誰かさんはお花を〜とか言いましたが、長すぎてまた先送りになりました。
小話もまた、お待ちくださいませ!