114「兄妹」
「すー……はー……」
扉の前で深呼吸。
ここに来るまでに何度かイメージトレーニングをしたが、いざ扉を前にするとアタシは緊張のあまり体が固まっていた。
ドアを軽くノックして、中に入り、これまでのことを話し謝る。
そうした一連の流れを何度も想像し、途中に罵声を浴びせられる覚悟をしながら、震える手足を押さえつけてここまで来た。
あとはこのドアを叩くだけ――そのはずなのに、それができずにいた。
いまアタシはリリィが住んでいた実家の前にいる。
目的はもちろんリリィの兄にあたるクロガネさんへの謝罪と告白。
自分が今までリリィという少女を演じて、彼の妹として振舞っていた行為への。
キョウの話では兄はすでにアタシが本物のリリィではないことを知っており、その上でアタシのことを憎んでいないと言っていた。
その言葉を信じていないわけではないが、それでも兄に会うのが怖かった。
兄はとても優しい人物だった。
アタシが妹ではないことに気づいたのがいつかは分からないが、それでもその違和感を感じさせずにずっとアタシに優しくしてくれた。
兄妹という概念をあれほど強く感じ、その絆の温かさに浸れたのは全て彼のおかげである。
そんな優しかった兄をアタシは今まで騙していた。
兄が許していてもアタシは自分自身が許せずにいた。
なによりもこの扉の向こうへと入り、そこで真実を話した瞬間、アタシと兄は血の繋がらない赤の他人となってしまう。
そんな恐れがアタシの指先を震えさせて、何もできずにその場で佇ませていた。
やがて意を決してドアをノックしようとした瞬間、扉が開き、その先から兄の顔が現れた。
「あっ……」
驚きと焦りが思わず声がつまり、口をパクパクさせてしまう。
そんなアタシに兄は優しく微笑み、家の中へと手招きをする。
「どうぞ、リリィ」
いつもと変わらないアタシの知る兄の声に、アタシは逆にその穏やかさに不安を感じなら、顔を俯かせ静かに中へ入る。
そのまま部屋の中央に置いてるソファへと座り、その向かい側のソファへと兄が座る。
しばしの気まずい沈黙のあと、アタシの方から口火を切らなければならないと決意し、顔を上げて兄の顔を正面から見つめて頭を下げる。
「――ごめんなさい!」
アタシの急な謝りにポカンとしている兄の雰囲気が伝わる。
それでもこれだけはハッキリと言わないといけない。
「アタシが……あなたの妹さんを……殺しました。そして、なに食わぬ顔で妹さんの振りをしてあなたの下に入り込み、今までずっとリリィという役を演じていました……本当に、ごめん、なさい……ッ!」
言っているうちにアタシは改めて自分のしたことを後悔するように涙が溢れてくる。
同時に思い出していく本物のリリィとの記憶。
彼女はアタシよりも、よっぽど心優しく清らかで世界が求める勇者に相応しい少女だった。
そんな彼女に成り代わっていた自分の罪の重さに恥じる。
ううん、本当に恥じるべきはそんな彼女のことを忘れて、彼女がいるべき場所を奪ったことであった。
そんなアタシに対し、兄はただ静かに口を開く。
「――リリィ。ここでは君のことをリリィと呼ぶけれど、オレは君のことを恨んではいないよ」
わかっていた。この人がそう言うことは。
それでもこれはアタシ自身のケジメの問題であり、絶対に謝らなければならない問題。
アタシは顔を伏せたまま、続く兄の言葉を黙って聞いた。
「まず君がリリィを殺したというのもおそらくは違うんだろう? オレは前に妹から話を聞いていたんだ。森の奥で新しい友達ができたと。そして、それが君なんだと後から気づいた」
リリィがアタシのことを兄に話していた?
それを聞いた瞬間、アタシは思わず顔をあげ、兄と目が合った際、彼が優しく微笑んだのが見えた。
「最初に君を発見したとき、それは驚いたよ。実の妹が血だらけで森の中を放浪していたんだから。しかも意識もひどくぼんやりとしていたからね……」
「…………」
それはアタシがリリィの姿へと変化した後、その直前まであの冒険者達によって傷つけられた体で森を彷徨っていた時のことなのだろう。
アタシを見つけた兄はすぐさまアタシを家へと運び治療を行った。
その後、アタシの体調は元に戻ったけれど見つかる前後の記憶と、それ以前の色んな記憶を失っていた。
兄はアタシがなんらかの事故に巻き込まれたと見て、記憶障害もその一種だと思い、無くした記憶のことを色々と教えてくれた。
けれど、それはアタシがリリィの姿をかたどった偽物であり、記憶を引き継ぐ能力を持たなかったため。
アタシの記憶にあったのはリリィがアタシに話してくれた部分だけであり、兄から教えてもらった部分と足すことで今のアタシの記憶が形成された。
その後はリリィがなるはずだった勇者の道を進むため、この家から飛び出し、気づけばアタシは大勇者の一人となっていた。
その頃からアタシは借宿暮らしを始めて、兄との接触は減ったが、それでも時折家に戻っては兄との食事を楽しんでいた。
「……いつから、気がついたの?」
「? 君が本物のリリィでないことにかい?」
アタシは静かに頷く。
その問いに兄はわずかに考えるようにして、あっさりと答えた。
「君がこの家に来てからひと月後くらいかな」
「?!」
それは予想よりも遥かに早い時期での発覚であり、アタシは思わず驚いた。
それはアタシの体が回復し、勇者を目指そうとした時期でもあったのだから。
「ど、どうして、気づいたの?」
思わず問いかけたアタシに兄は柔和な笑みを浮かべたまま答えてくれた。
「それはまあ、兄妹だからな。妹がいつもとは違う雰囲気には自然と気づくものだよ。けれど、なによりの違いは話題かな」
言って兄はアタシの顔を正面から見つめる。
「それまでずっと口にしていた森の奥での友達の話題をまったくしなくなったからだよ」
「…………」
確かに。それは気づいて当然の異変であった。
アタシ自身はリリィに成り代わるために故意に自分自身の記憶を封じた。
それはあそこで死んだのがリリィではなく、SSランクの魔物であるアタシだと思い込むために。
けれど、それが逆にリリィという人物になるにあたって一番の違和感になることに気づくことができなかった。
「それでオレは妹が言っていた森の奥へと足を踏み入れた。そこで妹が話していた遺跡を見つけてね。中に入ってそこにあった無数の死体と惨状を見て、なにがあったのか理解した。なによりも妹の――本物のリリィの死体がそこにあったからな」
「……ごめんなさい……っ」
再び謝るアタシに兄は驚いたような顔をするが、しかしすぐにその首を横に振る。
「いいや、君を責めるつもりはない。むしろ感謝してるくらいだ。その惨状にあって妹の死体だけは綺麗に処置を施してあったよ。それだけでも、妹のことをとても大事にしてくれた気持ちが伝わったよ」
そう呟いた兄の表情を見ながらもアタシは溢れる涙を止められなかった。
その時のアタシ自身の記憶は曖昧だし、自分がどうしたのかもよくわからない。
それでも大事なはずの友達をそんな場所に放置していたことをアタシは心から謝罪した。
そんなアタシを慰めるように兄は優しく語りかける。
「……君が妹を殺していないのはあの惨状と妹の傷跡を見れば確信できるよ。だからその件について謝る必要はないよ」
「けれどもアタシは……リリィの、あなたの妹に成り代わって、あなたを……騙していた……」
そうアタシが謝るべき一番の罪はそこなんだ。
どう言い繕うともこの人を、リリィの兄を騙していたことに変わりはない。
だから、その件についてきちんと謝らなければならない。
そう口にしたアタシに、しばし無言で考え込んでいた兄がゆっくりと口を開いた。
「確かに……リリィの死を知ったあとは最初は戸惑った。君に対してどう接すればいいのか。君がリリィの話していた友人だとしても君はリリィではない。そんな人物とどう向き合えばいいのかと」
それはこの人がずっと抱え込んでいた本音だったのだろう。
大事な妹が死に、その代わりとして全くの別人が妹の振りをする。
そんな状況に戸惑いを感じない人はいない。
だから、その奥にある憎悪や恨み、そういった全てをアタシをぶつけられる覚悟で兄の顔を正面から見た。
だが、そんなアタシを見つめ返した兄の表情は――穏やかだった。
「けれど、それでもオレは君に感謝をしたい。なぜならオレは君の中に妹の面影を見れたのだから」
「え?」
思いもかけぬ言葉に呆気に取られるアタシ。
だが、それに構わず兄は続ける。
「君が妹でないことはわかっていた。けれど、どんなに偽物だと分かっていても君の表情や仕草、笑った顔や怒った顔、オレと喧嘩した時の態度なんか全てリリィにそっくりだった。その中身が違うと分かっていても、君の姿はリリィの生き写しだ。死んだはずの妹が目の間で生きて振舞っている。それはとても心の支えになった」
「…………」
確かに。死んだはずの肉親と同じ姿を持った人物がいれば心を動かされない者はいない。
なによりも大事な人の声や、動いている姿を見られる。
人はそんな単純なことでも救われるんだ。
「なにより君の中には本物のリリィの感情があった。その想い、信念とでも言うべきかな? 妹がよく言っていた勇者ポイントのために魔物を狩るのではなく、お互いが共存できる道。君は妹が言っていたその言葉を現実にしてくれた。あのキョウという若者と一緒に」
――そうだ、それはリリィがよく言っていた言葉。
アタシがリリィとなってからも心の内に刻まれていた言葉と想い。
アタシがキョウに協力していたのも、もしかしたらそうしたリリィの夢を叶えたい気持ちがあったからかもしれない。
「だからオレは君に感謝をしている。君がリリィとしてオレの元に戻ってきたおかげでオレは救われた。なによりも――リリィの、妹の願いを叶えてくれた。だから、ありがとうと礼を言いたい」
それは本物のリリィが生きていたらやっていただろうことを、アタシが引き継いでくれた事へのお礼。
アタシ自身はリリィの記憶や感情を引き継いだり、そんな能力なんかは持ってはいない。
それでもアタシのやっていた行動にリリィの想いが籠っているのなら、それは彼女の魂を引き継ぐ行為。
アタシはこれまでずっと自分を恥じていた。
リリィを殺して、彼女に成り代わったことに。
けれど、そうじゃない。
いくら後悔をしてもリリィは戻らないし、そんな悔やんで悩むようなことがリリィへの供養になるのだろうか?
そうではなかった。
彼女を大事に想うのなら、彼女がやりたかった想いを遂げさせること。
それは彼女の役割に座ったアタシにしかできないことだったんだ。
それを目の前の兄はアタシに伝えてくれた。
悔やむのではなく、想いを引き継ぎ、遂げさせること。
それこそが、本当の意味でのリリィへの弔いになるのだと。
それが分かった瞬間、アタシは今度は嬉しさで涙がこぼれ、顔は笑っているのに変な表情のまま泣いている自分におかしくなった。
それを見ていた兄もおかしそうに笑う。
「その嬉し泣きの顔もリリィそっくりだよ」
そう言って微笑んだ兄は立ち上がり、アタシの方へ手を差し伸ばす。
「さあ、それじゃあ話し合いも終わったし、久しぶりに飯でも食べていかないかい? リリィ」
それはアタシがこの家に戻るといつも決まって言う兄の言葉であり、それに対してアタシもいつもの返事を返した。
「うん、それじゃあ、ご馳走になるね――兄さん」
兄は先程救われたと言った。
けれど本当に救われたのはアタシの方なんだと、心の中で呟き、差し出された兄の手を取り、涙を拭った。




