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閉鎖奇譚

作者: 遠野しま

 明け方、台所で一杯の水を飲む。昨日の蒸し暑さを繰り越しているような、じっとりとした空気のまま夜が明け始めていた。

 鈴虫は朝日に目もくれず、盛んに鳴いたままである。しばらく耳を傾けていると、彼らが自分の耳朶にいるような、鼓膜が勝手に震えているような、妙な感覚がした。きぃきぃ、と高い音になるにつれ音量を上げ、ふっと力を抜くように時折、彼らの声は止む。耳を塞いだところで、今度は自分の掌を流れていく血液の音に気を取られてしまうだろう。それよりは、鈴虫による演奏会を立ち聞きする方がいい、と僕は思った。

 ワインの試飲でもするかのようにコップを気取って回し、水道水を口にする。なまぬるい、透明な液体が喉を伝って僕の中に流れ込む。その水によって溺れることがない、ということに僕は不可解さを感じている。

 レースカーテンが僅かに開いている。その隙間から白み始めた空が見え、月はすでに姿を消していた。電信柱に打たれている「三丁目四番地」という標が読めるほど、外は明るくなっている。この時間帯はどこかの誰かがまどろんでいる朝のようであり、どこかの誰かが眠れない夜でもあるようだった。

 ――ちゃぽぉうん。

 僕の中で水音が聞こえたような気がした。波長を変えて耳の奥で反射するように響く、水のさざめき。さきほど飲んだぬるい水へ何かが落ちた音。水に阻まれて聞き取れない誰かの声、のようなもの。

 何かが何であるのかは、詳しくわからない。たとえば僕の中に川があって、その岸辺で暮らす少女の手から転がってしまった鞠が、川へ飛び込んだ音かもしれない。あるいは少女の糧となる橘の木から果実が落下した音だろうか。けれど僕には、僕の中に閉じ込められている何かについて考えることはできても、干渉することはできない。いや、そう言うのは卑怯かもしれない。僕は、何もしないだけだ。

 たとえばと言っていたわりに、僕の中に閉じ込められている少女のことを僕は知っている。少なくとも、僕は少女の存在を認めているのだ。それは物語の登場人物のように、僕の人格が分裂してしまっていることを意味しているわけではない。ただ僕は、飲み込んでしまったのだ。コップに汲まれた水のように、何の気なしに僕は少女を飲み込んでしまった。

 ある日、少女は幼い僕の中へと真っ逆さまに落ちていき、一度川に沈んだ。川にできた波紋はしばらく収まらず、少女は水面に顔を出さなかった。胎児のように身体を丸めて、二酸化炭素のあぶくを吐きながら、少女は川の底で目を閉じていた。それは水中花の装いに似ていて、一番美しい姿を保ったまま静止していた。その美しい姿が永遠に続くことを僕がおそろしく思うまでの間、少女はあぶくに包まれたまま眠っていた。


「これはなんだろう」

 水を飲んだ後、またうつらうつらしてから馴染みのパン屋で朝食をとっていると、口にしたロールパンの中に固いものが入っていた。休日はこの店でモーニングセットを頼むのが習慣になっていたのだが、こんなことは初めてだった。

「当たりですね、おめでとうございます」

 僕が疑問の声を上げていると、右手にコーヒーポット、左手に砂糖とミルクの入ったバスケットを下げたウェイトレスが溌剌とした笑顔を僕に向けた。自分がくわえていた謎の物体を手のひらに乗せる。丸いコインの形をしていて、このパン屋のロゴが型押しされた銀貨のレプリカようである。いや、レプリカというよりはモドキと呼んだ方がしっくりくる玩具めいた代物だった。

「お出ししているパンの中に、一日一個限定で当たりが混じっているんです」

 客に対応するためか、少々媚びを含んだウェイトレスの声に落ちつかなさを感じながら、僕は質問する。

「どういう特典があるの?」

「もう一個、お好きなパンをプレゼントいたします」

 屈託のないウェイトレスの言葉を聞きながら、なぜ世の中に「もう一個」というサービスが根付いてしまったのだろう、と僕はぼんやり思う。自分が満たされる分だけ購入した後に「もう一個」と言われても、特にありがたみを感じることができないのは損な性格と言うべきか、それとも正常な感覚なのか。「半額返金」の方がよほど嬉しいと感じる心性が嫌になる。

 給仕服のワンピースを優雅に翻し、ウェイトレスは僕をパン売場へ案内してくれるようだった。僕は溜息をついて、銀貨モドキをポケットに突っ込みながら席を立った。


 思ったより長居してしまったと思いながら店を出ると、雲行きが怪しくなっていた。空模様と自宅までの距離を頭の中で秤にかけ、早足で帰ることを僕は選んだ。黒い雲から差してくる陽光の柔らかさは穏やかだったが、その光線をくるんでいる雲はどこまでも陰鬱である。僕が行動の天秤を計り間違えたと気づいたのは、ちょうどパン屋と自宅の中間で鼻の頭に雨粒を受けた時だった。

 それはぽつん、とひと跳ねすると、次の瞬間にざあざあと降りそそぎ、僕が立つ路面の色を濃く塗り変えていった。僕はシャッターの降りている店を見つけ、その屋根の下に入った。屋根はトタン製で、幅が僕の足のサイズと同じくらいしかない。通り雨だといいのだけれど、と僕が考えていると、僕の中で釣りをしていた少女が「とおってるから、きをつけて」と銀色の魚影を観察しながら呟いた。

「ずいぶんな、雨ですなぁ」

 ぼんやりとした少年の声が隣から聞こえたのは、少女の忠告と同時だった。よれよれの白いTシャツを着たその少年は、かしこまった関西弁で続ける。

「晴れろ、晴れろと思もては、いっつも裏切られます」

「楽しみにしてることでも、あるのかい」

 いつの間にか雨のせいで体温が下がっていたようだ。足音一つさせずに、いつの間にか隣に立っていた少年へ、僕はおそるおそる尋ねる。

「さぁなぁ。楽しみやったはずなのに、何が楽しみやったか、忘れてしまいました」

 少年は小首を傾げて返事をした。どうやら、話が通じない相手ではない。けれど、僕の身体はいつの間にか直立不動の姿勢で動かなくなっていた。僕の中の少女は悠長で困る。何か言うなら、事が起きる前に教えてほしい。これではまるで彼女が宣言することによって、何かしらの厄介事が舞い込んできているようだ、と僕は思った。

「休日なのに、君は早起きなんだね」

 まだ八時を過ぎたばかりの時刻だったので、くだらない話題だと思いつつも言ってみる。表情筋がうまく動かせず、僕は緊張した面もちで少年に語りかけていた。けれど少年は、それを馬鹿にすることなく、僕と同じように真面目くさった顔をして答えてくれた。

「早起き……そやな。今日は休日やから、晴れたらどっかいこかって、言われて」

 僕は話の背景というものを唐突に理解することがあった。僕が言う背景というのは、話の流れを操っている雰囲気であったり、相手が重きをおいている事柄であったり、なんと説明するべきか非常に迷うのだが、直感でしか理解できない、何をすべきかを導くための指針のことである。

「どこいくって言われたっけなぁ」

 逆に、その指針がなんであるかを理解すれば、おおよその不可思議な物事に幕を引けるはず、というのが今までの経験から導き出した僕の対処法だった。

「遊園地?」

「ちゃう」

「デパート?」

「ちゃう」

「友達の家?」

「近い!」

 僕らはまるで餅つきでもしているかのように息を合わせて会話した。この少年の「どこへ」を解決することが、今の僕には必要なのだろう。彼の横顔を眺め、はたから見たら叔父と甥に見えるだろうか、年の離れた兄弟にみえるだろうか、と考える。

 雨音は強まったかと思えば遠ざかろうとしているように聞こえ、そのまま立ち去るかと思えば強まり、いつまでも足踏みをしている。たぶん、少年の行き先を見つけるまで、この雨は止まないだろう。

彼は本当のことを知った上でとぼけているのだろうか。それとも本当のことを忘れた上で僕に投げかけているのだろうか。友達の家が「近い」と言うが、友達が近いのか、家が近いのか。僕はどちらも疎遠だからこの問答の正解を出すのは案外難しいかもしれない。

 ふと、少年の首に紐が巻き付いていることに気づいた。麻紐、のようである。おしゃれにしては不格好だし、(まじな)いにしては素っ気ない。白いTシャツを引っ張るようにしてから少年は佇まいを正し、「あともうちょっとなんやけどなぁ」と道路の反対にあるバス停をじっと見つめていた。

 僕も少年につられてバス停を眺めると、それが昔住んでいた町のものであることに気づく。緑色の表示板に、白抜きの路線名。錆びた鉄の枠が雨に濡れて、薄汚れた雫を滴らせている。土台のコンクリートはぼろぼろで、端が欠けていた。僕は唯一動く首を上に向ける。この薄いトタン屋根も、よく考えれば見覚えがあった。雨が屋根に落ちるたびにぽうん、と音がして、雫が傾斜を伝って地面に落ちていくのが屋根の内側からわかる。

 小学校からの帰り道、雨に降られた時はいつもここで雨宿りをしていたのだ。何かが通っているのではない。僕が通っている最中だったのだ。少女の言葉を誤解していたことに気づき、僕は少年に視線を戻す。

「君、ばあちゃんの家に行きたかったんやな」

 僕が忘れかけていた関西弁でそう言うと、少年は目を見張って、それから「あ、そうや」と合点がいったように狭い屋根から雨の中へ一歩踏み出した。

 雨音に混じってバスのエンジン音が近づいてくる。少年の足は透けていき、さらに一歩踏み出すと胴が透けた。バス停までたどり着いた少年は僕の方を振り返ると、もう彼は肩までしか姿が見えなかった。

「ありがとう、兄ちゃん!」さいなら、と彼の振った手が雨の中に溶けていき、こぢんまりとした車両がバス停に停車した。そしてすぐに発車のベルを鳴らし、燃費の悪そうなけたたましいエンジン音を立てながら走り去っていった。

 空になったバス停を見ながら、僕は硬直していた全身が解放されたのを感じて大きく伸びをした。少女は釣りに飽きたのか、川縁に寝そべっている。雨音がまばらになり、これくらいなら歩けるだろうと屋根の下から出ようとすると、足下に白いものが落ちていることに気づいた。

 拾い上げると、それがずいぶんと頭の大きいてるてるぼうずであることがわかった。点と線だけの、素朴というより華奢な顔立ちに、首を麻紐で結んだ白い木綿の布。晴れますように、晴れますように、と思いを込めすぎて、頭でっかちのてるてるぼうずを小さい頃に作ったことを僕は思い出す。少女が寝そべる姿勢を変える時、小さく「あなたはぶきようよね」と言ったのが聞こえた。


 家に帰った僕はトイレで用を足し、そして閉じ込められた。

 鍵の不具合だと思ってつまみを回そうとしたり、強引にドアノブを捻ろうと試みたが、すべて失敗に終わった。一畳のトイレには通り抜けられない小さい窓と、トイレットペーパーの買い置きや掃除用の洗剤があるだけで、残念ながら工具類は一切ない。置く必要がないのだから、当然といえば当然だった。僕の中の少女がおかしそうに「おまぬけさん」と笑った。僕は洋式便座に蓋をして、椅子代わりに座った。けれど、みしっと嫌な音がしたので慌てて腰を上げ、行き場なくトイレのドアにもたれかかった。すると、

「よう」

 外から懐かしい声が聞こえた。やあ、と僕が返事をすると彼は吹き出した。

「厄介事にはずいぶん慣れてるんだな」

「そうだね。今みたいなことは、わりとよくある方かな」

「わりとよくある? 控えめな表現だことで」

 僕の曖昧な日本語を彼は揶揄する。学生服が立てたと思しき衣擦れの音がして、彼がドアの外に座り込んだらしいとわかる。他人を無意味に威嚇する原因になっていたチェーンも相変わらずベルトにつけているようで、ちゃり、と床と鎖が接触する音がした。

「お前の姉さん、元気?」

「それなりにやってるよ」

 僕の中の少女が不思議そうに首を傾げていることから目を背け、僕は悟る。

「そっちはまだ成仏できていないようだけれど、何かあった?」

 彼が灰になって一〇年が経とうとしていた。どうして、彼は僕を訪ねてきたのだろう。


 高校時代の同級である彼とは廃部寸前の文芸部で知り合った。部活棟の一階、その左端にあった文芸部の部室は、上にある吹奏楽部の生徒たちと楽器の重みで歪んでしまった扉が目印だった。

たまたまその部室の張り紙を目にして、吹きつけてくる桜の花びらも構わず、新入生の僕は立ち止まった。その後ろで、僕と同じように張り紙を見て思案している男子生徒がいたので思わず振り向くと、彼は切れ長の瞳を僕に向けた。「入る?」彼が扉を指して言う。「迷ってる」僕は肩をすくめた。張り紙には「あと一年で廃部になりますが、もし文学がお好きならいつでもどうぞ」という奇妙な文言が書かれていたのである。

 結論から言えば、僕と彼はその扉を叩き、その時たった一人の部員兼部長であった女生徒から説明を受けた。

 なんでも、歴史だけが古いばかりで以前から部として成立するための人数を確保できずにおり、特段めざましい活動などもしていないため、最後の部員となっていた彼女が卒業すると同時に文芸部は廃部にする、と言い渡されているのだそうだ。

 先生たちは、もっと社会貢献をアピールできるボランティア部の創設に躍起で、その部室としてここを使いたいのよ、と部長はおさげ髪を揺らしてシニカルに笑った。

「本当は今年から廃部にしたかったみたいだけれど、そうはいくものですか」

 一通り話し終えると、部長は僕と彼に入部する意志はあるかと尋ねた。僕がいくらか思案するのに時間をかけていると、彼は快活に答えた。

「ぜひ入らせてください。コーケンなんて考える自己満足の塊みたいな連中に、嫌な顔させてやれるのは楽しそうですから」

「反抗部ではないのよ?」

「その点もご心配なく。俺、こう見えても太宰の愛読者ですから」

 彼の瞳が「太宰」と口にした瞬間、オパールのような光彩を帯びたことに僕は気づいた。彼の純真な崇拝を目の当たりにして、僕はどうするべきか迷った。確かに僕は本が好きだった。でも、どちらかと言えば僕にとっての本は娯楽であり、彼や部長の意図する「文芸部の活動」からは外れているかもしれない。

「あの、うまく言えないのですが……仮入部させてもらって、僕がいてもいい場所なのかを考えて、返事をしてもいいですか」

 僕がそう言うと、部長はおや、と驚いた顔をしてから俯いて肩を震わせた。どうしたのだろうと思っていると、隣で彼がぶはっ、と吹き出した。

「お前……深刻なヤツだなぁ!」

 そこでようやく部長も笑っているらしいことに僕は気づいた。それだけで、桜の花びらが胸に吹き込んでくるようだった。


 僕は仮入部期間を終えてからも文芸部に居着いていた。月に一度の輪読会は、毎回面白いくらいに彼と部長の本の趣味が合わずに紛糾した。そして僕は二人の意見を事細かに記録する書記の役目を果たし、さらにどちらの意見の方がもっともらしいかジャッジする係にいつの間にか任命されていた。

 喧嘩腰の舌戦も多く、頭を抱えることもあったけれど、片方に軍配が上がった後、つまり輪読会が終わった後にはすっかり和解して、いつも通りに談笑できるところが、彼らの気持ちのいいところだった。部室はコンクリートの壁に包まれており、僕らの笑い声がよく反響した。

 意見を口にするのが得意でなかった僕が、仮入部期間が終わってからもこの場所にいようと思ったのには理由があった。文芸部には仮入部員と部員の合作である「桜号」、夏休み前に三年生の引退を記念する「青空号」、文化祭で発表する「祭号」という部誌がある。

 僕は仮入部員として「桜号」に参加させてもらったのだが、彼と部長が評論を書くなかでただ一人、小説を提出したのだ。今となってはほとんど朧気だけれど、確か花見客の中を歩く男の話だったと思う。どこの宴会の輪にも入っていけるけれど、どこにいてもしっくりこない男がひたすらとぼとぼ歩いているイメージだけは覚えている。そんな小説を、彼と部長がひどく喜んで読んでくれたのを見て、僕は正式に文芸部に入部しようと決めたのだった。そのことを伝えて、これからもどうぞよろしくお願いします、と僕が礼をすると、やはり二人は揃って吹き出した。


 僕にとって親しい友人となった彼は、不思議な少年だったと思う。初めて部室に訪れた時の発言からも窺い知れたが、彼は利他主義を憎悪しており、自らの価値観の正しさを信じていた。彼はあなたのために、と言われるとその相手に耳を覆いたくなるような罵詈雑言を平気で浴びせた。

 主に教師たちが彼の凶暴な言動にたじろぎ、うろたえ、そそくさとその場を立ち去っていくのを、僕は何度か目撃したことがあった。そのくせ彼は非常に頭の回転が良く、普通に話していれば笑顔を惜しみなく見せる、活発な気のいい奴だった。

「桜号」を読んでからというもの、彼はまるで眠る前にお伽噺をせがむこどものように、次の小説について尋ねてきた。僕は、完璧な姉の話にしようと思う、と答え、部室で顔を合わせるたびにその話の構想を具体化させていった。

 僕の完璧な姉は、長い黒髪をして、抜けるような白さの肌をしている。ただ、幼い頃に大きな病気をして声帯が丸ごとないのだ。僕の家は貧しくて、姉に人工声帯をつけてやることはできない。姉はいつも寂しげに微笑みながら、通り過ぎていく人々を眺めている。――というのが出だしだった。

「青空号」を出した時、僕はその物語の完結を「祭号」に持ち越した。部長は「青空号」をもって引退だったためにひどく残念がったので、「祭号」を発行した際は届けに行くと僕は約束した。逆に彼は物語が続くことを望んでいたようで、喜んでいた。

 けれど、いつしか彼は僕の文章に別の物語を見始めていた。その齟齬に気づいたのは、夏休みのことだった。

 二人きりの部室で、彼は僕に「お前の姉さん、元気?」と尋ねてきた。僕は一瞬、なんのことだかわからなかった。僕は一人っ子だったし、彼もそれを承知していたはずだった。僕が答えないでいると、彼はこう続けた。

「いいよなぁ、綺麗な姉さんがいて。でも、こんなに暑いと体調を崩していないか心配になるだろ? なにせ一度ひどい病気をしているもんな。俺にできることあったら何でも言ってくれよ。協力するからさ」

 最初、彼が僕のことをからかっているのだと思った。でも、彼の瞳の中にオパールのような煌めきが走っていることに気づき、僕は息をのんだ。あの桜の花びらが吹きつける頃に見た、純真な崇拝の眼差し。それが僕の書いた物語の「姉」に向けられていることに当惑し、それでも彼との関係性を壊さない最善の選択だと信じて、僕は彼の夢に同意した。

 それからひっきりなしに僕らは「姉」について話し合った。僕自身、彼と話しているだけで物語が生まれていくような感覚がして、気分が良くなっていた。彼はますます僕の「姉」に傾倒していき、恋心を募らせていった。

 僕らは病的だったのだ。文字でしかない「姉」の存在を認めて膨大な嘘を積み上げ、夢から覚めた時にはすべてが手遅れになっていた。


「お前の姉さんに、会わせてよ」

 もう夏休みも終わる時期だった。部室の窓から夕焼けが見えていて、ヒグラシが静かに鳴いていた。僕は突然冷や水を浴びせられたような心持ちになり、身を固くした。それから笑ってこの話を流してしまおうと「何言ってるんだよ」と返した。

 すると彼は「俺、真面目だよ」と言った。本当に真面目な瞳で彼は僕を凝視した。途端に、今まで彼と交わしてきた会話の薄気味悪さを理解してしまった僕は、思わず強い語気でこう言ってしまった。

「姉さんは、君のための登場人物じゃないか」

 外にいたヒグラシが、すべて死に絶えてしまったようだった。

真空の空間が僕らの間に現れ、時間の概念が消失した。彼は大きく目を見開いていた。そして呻き声を漏らしながら、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった。激しい怒りによって呼吸ができなくなった彼は、苦悶の表情を浮かべながら僕を見下ろした。そうして、パイプ椅子を持ち上げた。僕はただ、彼の様子を見つめていた。「もしかしたら殺されるかもしれない」ではなく、「殺されなくてはならない」と僕は思った。

 彼の一番嫌っていた言葉で、彼が一番大事にしていた夢を壊してしまったその罪悪が、僕の息すらも止めてしまうかのようだった。

「僕は、君を文章の中に閉じ込めてしまっていたのかもしれない」

 遺言のように語りかけ、僕は目を閉じた。

 次に聞こえたのは、空気が唸り、硝子が砕けた音だった。反射的に目を開くと、部室の換気に使われていた小窓が彼の振り下ろしたパイプ椅子によって粉砕され、その破片が部屋の中に降り注いでいた。

 夕焼けの光を受けた硝子の、寂しくなるような煌めきに僕は場違いにも見惚れていた。その光景を覚えていようとしたのに、右目の端を硝子で切ってしまって、すぐに僕の視界はつまらない赤色に染まった。彼がパイプ椅子を捨て、どこかに走り去ってしまったことに僕は気づいた。けれど僕は、その後を追いかけることができずにうずくまってしまった。


「わかって聞いてるんだろ?」

「わからないよ。君の声を聞けば聞くほど後悔が跡を絶えないのは、わかるけれど」

「そりゃ、お前の心の問題であって、俺の問題じゃあないな」

 あっけらかんと言いながら、彼は話を続ける。

「あの日、硝子割った後、屋上から飛び降りたじゃん?」

「そうだね、それで君は死んでしまった」

「あんまりな死に方だったからさ、家族も驚いたのか忘れちまったんだよ」

「何を?」

「六道銭」

 そこでようやく僕は、彼が三途の川を渡れずに立ち往生しているのだと知った。三途の川は広く、船を要する。そしてその船頭に六文渡すことで、初めて死者は冥途へ足を踏み入れられるのだという話を僕は聞いたことがあった。

「何度か頼んでみようと思ってたんだけど、なかなか生者のお前には声が届かなくて」

 世界を巡ってふらっと最近帰ってきたら、お前と話せそうな気がして、と彼は言った。

「ポルターガイストめいた訪問をしないでくれよ」

「悪いな。あっちこっち傷んじまって、見られるわけにいかないんだ」

 完全に見た目ゾンビだからさ、と冗談めかして彼は言い、それに、と付け加える。

「祭号の内容が、気になって」

「……たった一人で部誌を出すと思うかい?」

「そうか。未完なのか」

 彼の苦笑に対して、僕はいいや、と見えもしないのにかぶりを振って、はっきり答えた。

「僕の完璧な姉さんは、ある時、一人の少年と出会うんだ。彼は切れ長の目をしていて、時折、オパールのように輝いた瞳をしてみせる。少年は毎日のように姉さんを訪ねてきて、外の世界の話を楽しげにする。姉さんは彼の話を聞いているうちに、自分の声で彼と会話がしたいと思うようになる。そして自分のために出窓から飛び出して、姉さんは少年と一緒に外の世界へ声を取り戻す旅に出る」

 僕は一息ついてから、付け加える。

「――それが僕の、デビュー作」

 彼は返事をしなかった。

 大人になった僕は、細々と書き物をして暮らしていた。そのきっかけとなったのが、小さな文学賞に入賞した、完璧な姉の話だった。

 彼が死んだ後、僕はすべての元凶だった原稿を焼き捨てようとした。でも、彼との会話を思い返して、その選択は間違っているように思った。この物語を最後まで書いて終わらせなければ、と僕はこの原稿の完成を責務のように感じたのだ。

 結局、すべてを書ききっても喪失感が僕の胸を押し潰すばかりだった。ただ、完成した原稿を見て、葬式の時にも出なかった涙がこぼれ落ちたのは本当だった。ひとしきり泣いてから、もう手元に原稿を置いておく必要もないと気づいて、手書きの原稿用紙をそのままポストに投函し、僕は物書きとして生きている。

 そう話すと、扉越しに笑い声が響いた。

「あ、はは。すごいな、お前。本当にすごい。俺の大好きな言葉で、あの話、終わらせてくれたのか」

 泣きじゃくっているような、震えた声で彼は笑っていた。

「ああ。そうは言っても、自分のためにやったことだから」

 彼はそれでいい、それでいい、と手を叩いて僕を褒めそやした。僕もおかしくなってきて、いいんだよね、それで、と笑いながら泣いていた。しばらくして、僕はポケットからパン屋でもらった銀貨モドキを取り出した。

「代わりになるかわからないけど、これ使ってくれないか」

「これ?」

「銀貨、みたいなもの。扉、開けてもいいかい」

 頼む、と彼が言うので、そっとドアノブを後ろ手で捻り、銀貨モドキを掌に乗せて彼を見ないよう、僕はそれを隙間へ差し込んだ。冷たい空気のような、霧のようなものが掌をさっと撫で、銀貨モドキはどうやら彼の手に渡ったらしかった。

「助かった。これでいけるはずだ」

「そうか。もう、いくんだね」

 彼が立ち上がった気配を感じて、僕も立ち上がった。

「じゃあな。お前はしばらくこっち来んなよ」

「そうだね、気をつける。……さよなら」

 僕はドアを大きく開けた。何の不具合もなくすんなりと開いたドアの先には、木目の廊下が続くばかりだった。その木目の隙間に、夕日の赤を閉じこめたような色硝子の玉が一粒だけ残されているのを見て、僕は唇をかみしめる。「よしよし」と僕の中の少女がなだめるように呟いているのが聞こえた。


「それにしても、今日は来客が多い」

 自分の書斎が朝顔の鉢でいっぱいになっている光景を眺め、台所で淹れてきたレモングラスティーを一口飲んで立ち尽くす。差し入れにもらったはいいが草の味しかしないその茶を持て余しながらどうするべきか考えていると、浴衣姿の娘がその奥から顔を覗かせた。

「あら、いらっしゃいませ」

 媚びを含んだその声に覚えがあった。朝顔の髪飾りをしきりに気にする娘へ、僕は言う。

「市にはもう遅い時期じゃないかい、ウェイトレスさん」

「よくわかりましたね。男性というのは服装と髪型が違ったら、女性を見分けられない生き物だとばかり」

「その言い方からして、君は僕が嫌いなんだということはわかったけれど、どんな用件で僕の部屋を朝顔市にしたんだい?」

 紫や藍、白、絞りに縞。ラッパの形に咲いたもの、未だつぼみのままのもの。円筒型の支柱に巻き付き、朝顔たちが夏の盛りと言わんばかりに並んでいる。今朝パン屋で見かけたウェイトレスが、青と白の浴衣に身を包んで熱心に朝顔の世話を僕の部屋でしている。ここからどんな背景が読み取れるだろう。

「これはほんの遊びです。私がこれだけの光景を作り出せることを示すための、お遊び」

 彼女は扇子を懐から取り出し、優雅に広げて口元を押さえた。それに対して、僕の中の少女が面白くなさそうにそっぽを向いた。ずいぶんと不思議なことに出会ってきたけれど、少女がこんな反応を示すことは珍しかった、というより初めてかもしれない。

「朝顔が関係ないのだとしたら」

「立ち話というのも無粋でしたね、こちらへ」

 僕の話を歯牙にもかけず、彼女は扇子を閉じて歩きだした。僕は渋々彼女の後を追う。青、紅、藍、紫、白、朝顔の花が色の洪水となって視界を埋め尽くしていき、そのうち花の形が消え去って、色ばかりが視界を巡っているような感覚に襲われた。彼女の足取りはゆっくりとしているはずなのに横に並ぶことはなく、ただ僕は彼女の背を追いかける。

「昔のあなたは西の言葉で話していたのですね。今では東京に魂を売ってしまわれて」

 なぜ、彼女が雨の中での出来事を把握しているのだろう。

「ご友人とはきちんとお話しできましたか? 死者とのわだかまりをお持ちだなんて、本当にお気の毒なことで」

 彼女の終わりの言葉を飲み込む口調が、僕は少し苦手だ、と思った。

「気の毒じゃない。死者に何の感情も抱かないなら、その人は大切な人ではないんだ」

「そうですか。では私は誰のことも大切に思わずにいる、という」

 少しだけ、彼女の声色に寂しさが滲んだ。けれど次には元通りの声で

「着きましたわ。どうぞあちらへお掛けになって」

 そう言った。色の洪水に眩んでいた目が落ち着きを取り戻すと、そこは家屋の縁側のようだった。僕と彼女は朝顔と苔むした岩で造られた庭園を突っ切って、その中庭にやってきていたようだった。彼女は草履を脱いで縁側に上がると、朝顔のような、白波のような模様の袖を邪魔にならないよう片手でたぐり寄せ、硝子戸を引いた。その先にはわずかな通路と、閉じている障子があり、さらに彼女が流れるような動作でそれを開け放つと、畳の部屋と食卓机が現れ、その上に急須などの茶道具が一式用意されていた。

「そのカップにお淹れした方が?」

 彼女に指摘され、僕はもてあましていた草味の茶のことを思い出した。靴下のままここまで歩いてきたので食卓の方へ上がるに上がれず、僕は縁側に腰掛けながら言う。

「ああ、いや。おかまいなく」

「編集者さんからの差し入れでしょうか。変わったお茶のようで」

「そうだよ。変わっていて、僕の趣味には合わなかったみたいだ」

 僕のことについて彼女はずいぶん周到に調べているようである。彼女が自らの分の緑茶を淹れ、僕と並んで縁側に腰掛けたのを見計らって、もう一度尋ねる。

「君の用件を教えてくれないか」

 彼女は音をいっさい立てずに緑茶を飲んでから答えた。

「そうですね、ウタアワセをしていただけないかと」

 僕は間抜け面で復唱する。ウタアワセ。確か題を決め、和歌の出来を競う遊びだったはずだ。僕は即座に首を振る。

「無理だよ。僕が作れるのは頑張っても交通安全のキャッチコピーくらいだ」

「説明が不足していましたわ。あなたの知っているウタアワセとは、趣が異なるかと」

 彼女は盆に乗せてあった花の形をした練り切りを、こちらへ差し出してきた。僕は説明の先を促しながらそれを受け取る。

「あなたが考えているような、古くに伝わる和歌遊びとしての歌合わせともう一つ、詩合わせ、というものが私たちのような存在の間ではございまして」

 受け取った練り切りを僕は放射状に四つに分け、その一つを口に入れた。

「詩合わせ?」

「ええ、歌合わせでは読み手の言葉を筆で、もっと言えば指という身体を使って紡ぎます。ですが、詩合わせはもっと根元的な、内側の言葉を必要とするので」

 湯呑みを傍らに置き、彼女は初めて僕と真正面から向かい合うように座った。

「血を流していただきたく」

 華やかな彼女の笑みに、僕は心を奪われた。そして身体の自由がきかなくなった。視界が揺らぎ、強い眩暈を起こしているとわかっても、どうすればそれが収まるのか検討がつかない。マグカップが手から滑り落ち、下に敷かれていた岩にあたって派手に砕け散った。僕は縁側へ仰向けに倒れ、彼女は翡翠色の目で僕の様子を見つめている。

「私は、あなたの中に閉じ込められているものを返していただきたいだけなので」

 彼女の背景が掴めない。それが知れたらこれから起きる出来事への覚悟できるというのに、彼女は一向に結論を口にしない。いや、それ以前に彼女はどうやら僕の中に閉じ込められている少女のことを知っている風である。

 僕が少女の様子を伺うと、ねぐらの中でやはり知らぬふりをしようとしていた。朝顔の娘はそっと僕の腕をとり、シャツを折り上げて手首の静脈を露出させた。

「あら、とても綺麗な朝顔の色をお持ちなようで」

 その言葉に、僕は自分が通ってきた朝顔の道を思い返す。青、紅、藍、紫、白。鮮やかすぎる花々。まるで命の色のような、艶やかな朝顔たち。

「あの花の色は、まさか」

 震える声で僕が呟くと、彼女は答えずに帯の間から小刀を取り出した。そして、僕の手首の内側を撫でるようにすうっと切りつけた。傷口が熱を持ち、血が手首から肘にかけて伝い落ちていく。彼女は盆の上にあった、客用の器でその血を受けた。僕はただ自分の血が器に滴っていくのを見るしかなかった。

 僕の血によって器の底が見えなくなると、彼女は布巾で僕の腕を拭い、傷口を押さえた。そこでようやく彼女の行動の背景が見え始める。この娘は僕を殺そうとしているわけではない。今度は彼女が自分の指に小刀を走らせ、僕の血の入った器にその血を垂らした。

「祖母のマジナイみたいだ」

 僕の祖母は生涯村で呪い師をしていた。反対に、母は村から飛び出してきた人だったので、故郷にあまり帰りたがらず、年に一度きりしか祖母に会う機会はなかった。だからこそ僕は、休日にてるてるぼうずを作って祖母の家に行く日を待ち望んでいたのである。

 しかし祖母は短命で、僕が一〇歳の時に亡くなってしまった。

僕は形見として祖母が占いに使っていた石をもらい、それでよく遊んだ。彼岸花が刺繍してある布袋に入っていた翡翠やかんらん石、瑪瑙といった小さな欠片たちは飴玉のように魅力的だった。

 僕は鉱物辞典と見比べながらそれらの名前を覚えていったのだが、その中に一つ、妙な形をした名前のわからない石が混じっていた。四角いとも丸いともいえない固まりで、爪よりも少し小さく、クリーム色の混じった白色の石だった。こどもの僕にはその石が甘い砂糖菓子のように見え、遊び半分でそれを口にしてしまった。そして運悪く母に後ろから声をかけられて驚き、弾みでその石を飲み込んでしまったのだ。まるで水でも飲み込むかのように、ごくん、と。そして僕の中に少女が落ちてきたのである。

「君は、祖母のお弟子さん?」

 祖母の家を訪ねた時、僕より幼い女の子を見かけたことがあった。瞬きをした間にその子はいなくなっていて、僕はてっきり夢だと思っていたのだがそうではなかったようだ。

「あら、あなた、もしかして自分の中にいるのが誰なのか知っていて?」

 なんでもかんでもポケットに突っ込む癖が僕にあるのを見通しているかのように、娘はポケットを探り、僕が拾ったてるてるぼうずを取り出した。彼女は混ざり合った血を指先につけ、てるてるぼうずに複雑な文様を描いていった。それを地面におくと、てるてるぼうずはむくむくと形を変え、僕の中に今まで閉じ込められていた少女の姿になった。萌葱色の小袖を着た、僕よりもずいぶん小さいその少女に、朝顔の娘は慇懃な礼をした。

「お師匠様、お久しぶりでございます。ずいぶんお若くなったようで」

「おまえは、なまいきなくちをきくようになったね」

「そんなに不機嫌になるほど、お孫さんの中は居心地がよかったので?」

「そりゃあね。このこのなかには、かわがながれているのだもの」

 僕は彼女たちのやりとりを黙って聞いていた。僕の中に閉じ込められていた何か、というのは、僕の祖母だったのである。正確には祖母の霊というものだろうか。

 白い石を飲み込んだ後、僕は自分が何か重大なことをしでかしてしまったのではないかと思い、おそろしくなって誰にも相談することができなかった。その間も祖母は僕の中にある川の底で眠っており、時折、水流とともに回転し、あぶくを吐いていた。こどもの僕は、その光景を見ないようにずっと振る舞い続けていた。

 しかし文芸部の一件以来、僕は空想の世界に逃げ込むことが多くなった。そこから自然と僕の中に広がる世界について知るようになったのである。少女が生活するようになった世界には、橘の木が盛んに広がり、地平線の先まで真っ直ぐな川が続いており、その河原には小石がたくさん転がっていた。

「このこのかわは、とくべつよ。おさかながたくさんいて、みんなぴかぴかひかっている」

 祖母の話に、朝顔の娘は少し不満そうな顔をする。

「それは、お師匠様のミズハをこの人が飲み込んだからこそのことでは?」

 ミズハ。聞きなれない言葉だ。僕が話に取り残されていると、朝顔の娘はじれったそうに言った。

「あなた、お師匠様の遺品を飲み込んだのではなくて?」

「どうしてそれを知っているんだい」

「だって私、ずっとあなたが飲み込んでしまったものを探していたのだから」

「それがミズハ?」

「そう。瑞々しい歯。めでたいしるしの瑞歯」

 ようやく僕は合点がいく。あの白いものは石ではなく、祖母の歯であったのだ。それが弟子である朝顔の娘にとって必要なものだったようである。

「あなたとお師匠様の瑞歯はもう同化してしまっているから、こうしてあなたの内側に溶け込んでいるお師匠様を取り出すしかなかった、という」

 朝顔の娘は初めて済まなそうな顔をして、軟膏の缶を取り出した。僕はようやく身体の自由がきくようになったのを確かめ、それを受け取る。

「けれど、君の話が本当なら、祖母の瑞歯はもうこの世にはないのかい」

 そうだとすれば、朝顔の娘には大変な迷惑をかけてしまったことになる。すると、祖母が急に大口を開けた。朝顔の娘が祖母の口の中を指で示す。そこには健康そうな色をした歯茎と舌、汚れ一つない小さな歯が並んでいた。そしてその右奥の、歯の並びからは少し離れた場所に、ひときわ小さな歯の欠片が顔をのぞかせていた。祖母は手を口に突っ込むと、その小さな歯の欠片をためらいなく引き抜いた。

「これで大丈夫かと」

 朝顔の娘は祖母からそれを受け取ると、今までの嫌みな笑みとは違う微笑を見せた。

「すみません、そこに井戸があるのでお水を汲んでいただいても?」

 そう言われて僕が庭を見渡すと、紅色の朝顔の鉢に囲まれた井戸が確かにあった。僕は立ち上がって井戸の前へ行く。柵はなく、井戸の底は光を通さない闇の世界が広がっているようだった。

 釣瓶を落とすと、ちゃぽぉうん、という音が井戸を響き上がり、それに聞き入っていると、背に温かい手が添えられた感触がした。僕が振り向こうとすると、

「水の端に立つというのは、旅立ちのようですわね」

 ようやく言葉を最後まで口にした娘の声を聞きながら、僕は井戸の中へと落ちていった。

 

 水面というのは、打ちつけられるとコンクリートに匹敵するほどの固さを持っている、と噂に聞いたことがあったので、死ぬほど痛い想いをするとだろうと覚悟しながらも、どこかで助かるのでは、という気がした。

 そしてその見通しは間違っておらず、僕は緩やかに水面へ着水した。気泡が一瞬だけ舞い、深緑色から藍色へ、藍色から黒色へと変化していく水の移り変わりを眺めながら、僕は沈んでいく。このままだと息が続かないだろう、と考えていると、胸ポケットから赤い光が漏れていることに気づいた。

 その光は懐かしい夕焼けの色をしていて、真っ暗な水底を照らし出していく。光の中に消えてしまいそうだと思いながら、僕は自分の手を離れていこうとする色硝子玉を掴もうとした。


 水底は心地よい柔らかさのベッドに変わっていた。ベッドから身を起こして耳を澄ますと、キッチンからこちらの方へスリッパの音が近づいてきて、部屋のドアが開けられた。

「先生、起きたかしら。いい加減、家の中で行き倒れるのはよしてほしいのだけれど」

 いつも世話になっている女性編集者が、草の香りがするマグカップを二つ携えて現れた。

「先輩、先生は止めましょうよ。僕、何も偉いことしてません」

「物語が書ける人間は、私にとってみんな先生なのよ。しかも私は高校時代から貴方のファンなんだから。あ、キッチンにあったロールパン、もらったわよ」

 情報量の多い言葉にどう切り返せばいいかわからず、僕はどうも、とぼそぼそ言って、

「先輩はもう、おさげにしたりしないんですか?」

 遠い過去のことを尋ねた。突然の話題に先輩はうろたえることなく澄ました顔で、

「大人になると似合わなくなるものって、あると思うわ」

 答えながら軽くパーマをかけた髪を一撫でした。僕はマグカップを受け取ろうとして、手の中に小さな色硝子玉が残っていたことに気づき、ポケットの中にそれを隠した。窓の外には、本物の夕焼けが広がっていた。そして僕と先輩は仕事の話を始めた。

 先輩と話している間、僕の中にある川をそっと覗いた。

 ねぐらがきちんと残されたまま、そこには誰もいなかった。銀色の魚がちゃぽぉうん、と一匹跳ねた音がした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 興味深く拝見しました。 表現はとても面白かったです。上手いですね。 一つ一つの物語をもっとはっきりとする箱に収めたほうが良かったかもしれません。意図的なのかもしれませんけどね。 がんば…
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