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氷の闇に堕ちる刻

作者: 水月さなぎ

 随分と、昔の話だ。

 私は雪女に出会ったことがある。

 アレが本当に本物の雪女だったのか、私には分からない。

 彼女はとても美しく、そして冷たかった。

 性格が、というわけではない。

 むしろ性格の方は穏やかで優しく、とても温かい人だったように思う。

 ただし、その身体は人のものとは思えないぐらいに冷たかった。

 触れた手は氷のようだった。

 一夜を共にしたので彼女の身体全てに触れさせてもらったが、やはり人の体温とは思えなかった。

 あれは一夜の幻想だったのかもしれない。

 本当にあった出来事なのかどうかも定かではない。

 それでも彼女の顔、彼女の声、彼女の仕草のひとつひとつが記憶に刻み込まれている。

 あの美しい夜を忘れることなど出来やしないし、忘れたいとも思わなかった。

 私はずっと憶えている。

 きっと、死ぬまで忘れないだろう。

 それでも普段は考えなかったことだ。

 彼女のことも、あの夜のことも、日常で思い出すようなことは無かった。

 けれど、今になって強く焦がれる。

 あの夜から十六年。

 一度も足を向けなかったこの場所に、もう一度訪れている。

 彼女と出逢ったこの山に。


 深い山だった。

 山の名前はなんと言ったか……

 いや、どうでもいいか。

 山の名前そのものにはあまり興味がない。

 登山者には余り人気のない山のようで、標高が低い割には鬱蒼とした、登るだけで異界の森に迷い込んだような気にさせられる不思議な場所だった。

 当時の私は親戚の家に立ち寄ったついでにこの山を訪れたのだ。

 登山は趣味ではなかったが、この山には何となく惹かれたのだ。

 しかし素人が何の準備も泣く足を踏み入れた代償は大きかった。

 夜になっても帰り道が分からず、途方に暮れることになったのだ。

 灯りのない山の中は真っ暗で、恐ろしくもあった。

 このままここから出られずに死んでしまうかもしれない。

 星明かり一つ届かない暗闇の中、ずっとこの場所から出られないかもしれない。

 そんな根拠の無い恐怖に一度でも囚われると、もう一歩も動けなくなる。

 動かなければここから出ることも出来ないと分かっているのに、どうしても身体が動かなかった。

 私は死を覚悟した。

 ここで死ぬかもしれないと、諦めかけた。

 そんな時、彼女に出逢ったのだ。

 真っ暗な闇の中で見つけたただひとつの光。

 青白い光を纏った彼女がそこに立っていた。

 真っ白な髪は銀色のように見えて、淡く輝いているのが分かる。

 これは人間だろうかと疑ったが、それよりもこの状況で誰かに出会えたことの方が嬉しかった。

「道に迷ったのですか?」

 彼女は姿だけではなく声も美しかった。

 少し重たい音を鳴らす鈴のような、澄んだ声。

 それは耳に心地よく響き、先ほどまで感じていた不安が一気に霧散していく。

「ええ。何気なく入ってみたのですが、すっかり立ち往生してしまいまして」

 正直に迷ったと告げると、彼女は微笑みながら頷いた。

「それは大変でしたね。よろしければ私の家で朝までお過ごしください。明るくなればきっと帰り道が分かるようになりますから」

 どうやら彼女の家は山の中、しかもこの近くにあるらしい。

 私は彼女の厚意に甘えることにした。

 屋根のある場所で過ごせるのはおおいに助かるし、彼女自身にも興味が湧いたのだ。


「狭い家ですが、どうぞ」

「お邪魔します」

 彼女の言うとおり、本当に狭い家だった。

 台所が辛うじて存在しているが、とても料理が出来るようなものではないように見えた。

 お湯を沸かすぐらいしか出来ないのではないかと疑ってしまう。

 もしかしたらここは家などではなく、一時的な避難小屋なのかもしれないと思った。

 彼女はここの管理人、なのだろうか。

「どうぞ、寒かったでしょう?」

 手早くお湯を沸かした彼女はお茶を出してくれた。

 出されたお茶を素直に受け取って口に含む。

 緑茶にしては香ばしい、恐らくは玄米茶だろう。

「ありがとうございます」

「いいえ。困っている人を見捨てるのは主義に反しますので」

 彼女は善人なのだろう。

 普通に話しているだけでも性質の良さが分かる。

 あっという間に彼女に惹かれた。

「もしよかったら、名前を教えて頂けますか?」

浅葱あさぎ、と申します」

三枝灯さえぐさあかりです」

 名前を教えてもらったので、こちらも礼儀として名乗り返しておく。

 浅葱、というのも美しい名前だと思った。

 どこまでも広がる清浄な青、そんな印象だ。

 それから浅葱と多くのことを話した。

 疲れていたが、不思議と眠くはなかったのだ。

 それよりももっと浅葱と話したかった。

 立った一夜の関わりしか持てない浅葱と、少しでも関わっていたかった。

 夜も深まり、私たちはようやく横になることになった。

 浅葱はお客に布団を譲ってくれようとしたが、まさか女性を差し置いて男である私が布団で寝る訳にもいかない。

 一組敷かない布団なので、浅葱に使ってもらいたかったのだが、それならば一緒に寝ようと提案されてしまう。

「もちろん、灯さんがお嫌でなければですが」

「……それはこちらの台詞ですよ」

 初対面の男性相手にそんな大胆なことを言ってのける浅葱に苦笑する。

 気を遣わなければならないのはこちらの方だ。

 結局、私たちは二人で同じ布団に入ることになった。

 身体を密着させてようやく収まるほどの小さな布団だったが、狭苦しさは感じなかった。

 それよりも浅葱の体温が気になった。

 冷たいのだ。

 人間とは思えないぐらいに冷たい。

 まるで冷蔵庫に触れているような、そんな体温だ。

 私がそれを訝しんでいると、浅葱は申し訳なさそうに笑った。

「ごめんなさい。びっくりしたでしょう?」

 その笑顔は儚げで、今にも泣き出してしまいそうなものだった。

「確かに驚きましたが……」

 それ以上は何も言えない。

 病気なのか、それとも生まれつきなのか、訊きたいことは山ほどあるのだが、それは軽々しく踏み込んでいいことではないし、迂闊に問いかけると浅葱を傷つけてしまいそうで怖いのだ。

「生まれつきこうなんです。病気というわけではありませんし、強いて言うなら体質でしょうか」

「………………」

 一体どんな体質がこんな現象を可能にするのか。

 それを考えることに意味は無いのだろう。

「寒いのですか?」

 この体温だ。

 常に凍えているのかもしれないと思って問いかけてみたのだが、浅葱は首を横に振った。

「いいえ。寒いと感じたことは一度もありません」

「………………」

「ですが……」

 浅葱がそっと私に近づいてくる。

 はだけた私の胸元にそっと手が触れられた。

 冷たくて、寂しそうな手だった。

 けれど焦がれるような熱を感じ取ったのは、きっと気のせいではない。

「本当に、寒くはないのです。けれど……」

「けれど?」

「あなたの肌はとても温かいです」

「………………」

 触れた指先の熱を感じ取って、浅葱はうっとりと目を閉じる。

「ヒトの身体はこんなにも温かいのですね。初めて知りました」

「………………」

「もう少しだけ、もう少しだけ触れていても構いませんか? あなたは明日にはいなくなる。それまでに少しでもこの熱を憶えておきたいのです」

 その切ない願いを聞き届けないほど私は冷たい人間ではないつもりだ。

「ならば、これでどうです?」

 私は浅葱の身体を引き寄せて、強く抱きしめた。

 全身の熱を伝えられるように。

 少しでも彼女が温かさを感じられるように。

「温かいです。とても……」

「それはよかった」

 本当に安らいだような彼女の声に、私も嬉しくなった。

 身体はきっと寒くは無いのだろう。

 けれど彼女はずっと凍えていた。

 一人きりで、孤独という闇に凍えていた。

 だから少しでも温めてやりたかった。

 儚げに笑う彼女の顔が、嬉しそうにはにかむ浅葱自身が、とても愛おしかった。

 そして、私たちはこのまま肌を重ねたのだ。

 たった一夜の思い出ではあるが、浅葱の記憶は鮮明に焼き付いている。

 私は彼女に自分を刻んだつもりだが、同じように浅葱の存在も私の中に刻まれているのだろう。

 別れる間際、浅葱はありがとうと言ってくれた。

 花開くような、雪花のような笑顔だった。

 その笑顔は私の記憶に残り続け、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 それでもあれからもう一度浅葱に会いたいと思わなかったのは、何となく彼女がそれを望んでいないような気がしたからだ。

 別れ際に言われたありがとうの言葉と共に、さようならとも言われた。

 貴方に出逢えて良かった、とも。

 それは二度と逢えない、逢わないことを決意している言葉でもあったのだろう。

 私は浅葱の意思を尊重して、その後も逢わないことに決めていた。

 不思議なことに、逢いたいと焦がれることもなかった。

 あれは一夜の思い出。

 それだけで満足してしまったのかもしれない。


 ならばどうして十六年も経過した今、こうしてこの山に足を運んでいるのか。

 その答えは分かりきっている。

 浅葱に逢えなくても構わない。

 ただ、死ぬ前にもう一度、彼女を鮮明に思い出したかったのだ。

 私は一ヶ月前、医者に余命宣告をされた身だ。

 長くてあと二ヶ月の命らしい。

 幸いにしてこの病気は命を蝕むものであっても、体力を蝕むようなものではなかったので、私は今でも比較的自由に動き回ることが出来る。

 身体が思い通りに動くのはとても大切なことなので、これは素直にありがたかった。

 山の中を歩き続けると、木漏れ日が頬に当たった。

 柔らかな温かさはとても心地よいものだ。

 あの時は真っ暗で、恐ろしかったこの場所も、浅葱に出逢ってからは懐かしいものに変化したようだ。

 きっとこのまま夜になって光が失われてしまっても、今と同じように穏やかな気持ちでいられるだろう。

 歩を進めていく。

 確か浅葱に出逢ったのはこの辺りだったか。

 立ち止まって目を閉じてみる。

 そうすることで、彼女の幻を見ようとしたのかもしれない。

 もちろん誰もいないことは分かっている。

 これは人生の終わりに求めた未練の欠片のようなものだ。

 しかし……


「お父様……?」


 彼女によく似た、しかし知っているものよりもずっと幼い声が耳に届いた。

 ぎょっとして目を開けると、そこに一人の少女が立っていた。

「君は……」

 浅葱の面影がある。

 声だけではなく容姿も、そして纏う雰囲気もだ。

 銀色の髪は陽光に映えてキラキラと輝き、浅葱と同じ翡翠色の瞳が感激に震えている。

 浅葱よりも随分幼いが、それでもこの神秘的な姿だけは間違いようがない。

 少女はぱっと顔を輝かせて私に抱きついてきた。

「やっぱり、お父様だっ!」

「っ!?」

 いきなり抱きつかれて、しかもお父様呼ばわりされては戸惑うしかない。

「ええと、君は?」

「あ、ごめんなさい。いきなり抱きついちゃって」

「いや、それはいいんだが……」

 可愛い女の子に抱きつかれて悪い気はしない。

 浅葱に似ている子なら尚更だ。

 物静かだった浅葱とは違い、この子は随分と明るい性格のようだが。

「お父様というのは? 君と私は初対面の筈だが、誰かと間違えているんじゃないか?」

「いいえ。貴方はお父様です」

「………………」

 いや、だからどうして私を父と呼ぶのか、その理由を先に説明して欲しいのだが。

 少女はこちらの言いたいことを察してくれたようで、こくりと頷いて笑ってくれた。

 そっと私の胸に手を当てて、そして言ったのだ。

「ここに、お母様の名残を感じます。お母様がお父様に残したものを感じるんです」

「………………」

 その言葉だけで十分だった。

 浅葱によく似た少女がそう言うのなら、それは浅葱のことに他ならない。

「君は、浅葱の娘か?」

「はい。雪花せっかと言います。お父様の娘でもあります」

「………………」

 確かに年頃は合っている。

 しかし一度きりのことだった。

 そのたった一度の交わりで子供が、しかも娘が出来ていたとは……

 俄には信じがたいことだが、しかし信じようという気持ちになる。

 雪花が嘘をついているようにも見えないし、間違いなく心当たりはあるのだ。

 だからこの子は確かに私の娘なのだろう。

 人生の終わりに新しい家族と出会えるとは、嬉しいこともあるものだ。

 抱きついたままの雪花の頭を撫でてやる。

「初めまして、雪花。三枝灯だ」

「はい。お母様から聞いていて知っています」

「そのお母様は元気かな?」

 何気なく問いかけたのだが、しかし雪花は僅かに表情を曇らせてから首を横に振った。

「いいえ。お母様は十年前に亡くなりました」

「……そうか」

 もう一度浅葱に合いたかったのだが、亡くなったのなら仕方がない。

 それに、そう遠くないうちにもう一度逢えるかもしれないのだ。

 そう考えると不思議なぐらい悲しくは亡かった。

「では雪花は十年前からたった一人でこの山に?」

 いなくなってしまった浅葱のことよりも、幼い少女が一人きりで十年も過ごしてきたことの方が心配だった。

「はい。この山は静かでいいところですから」

「そうか……」

 そういう問題では亡いのだが、まあ雪花が問題にしていないのならこちらが構うことではないのだろう。

「良かったらまた家に寄ってください、お父様」

「雪花が望むのなら、そうしよう」

 可愛い娘の招待に応じない父親はいない。

 喜んでお招きにあずかることにした。


 あの家は当時のままだった。

 十六年が経過しているというのに、驚くほど何も変わっていない。

「どうぞ、お父様」

 あの時と同じように、お茶を差し出された。

「ありがとう」

 口に含むと、慣れない味が広がった。

「これは……」

 一体何だろう、と首を傾げる。

 緑茶ではないし、紅茶でもない。

 独特の香りがあるが、深いではない。

「この山で取れる香草をブレンドしたものです。私、オリジナルのお茶を作るのが趣味なんですよ」

「じゃあ、これも雪花が?」

「ええ。気に入ってもらえました?」

「ああ。立派に売り物になるぞ」

 本心からの褒め言葉だった。

 十六歳の少女がオリジナルのブレンドでこれだけのものを作り出したのだから本当に大したものだと感心する。

 このお茶は独特の味わいだが、気に入るヒトはたくさんいるだろう。

 売りに出せばちょっとした話題にもなるかもしれない。

「喜んでくれて嬉しいです。でもこの山で自生しているものばかりで作っているから、量産は無理ですね」

「そうか」

「趣味でやっているだけなので、これで儲けようとは思いませんけど」

「それもいいだろう」

 楽しむ為に何かを作る。

 私の娘はなかなか有意義な人生を送っているようだ。


 それからいろいろな話をした。

 主に雪花が浅葱との思い出などを話してくれた。

 浅葱は雪花にとっていい母親だったようで、思い出話も常に微笑ましいものだった。

「いいお母さんだったんだな」

 口に出して言うと、雪花も満面の笑顔で頷いた。

「ええ。優しくて素敵な人だったわ」

 会話に慣れてくると、雪花の言葉からも硬さが消えた。

 親しみが増したその口調にちょっと嬉しくなる。

「私にとっても優しくて素敵な人だったよ」

「お父様がそう言ってくれて嬉しいわ」

 浅葱と違い、感情表現がとてもストレートな雪花は、笑うとかなり愛嬌がある。

 子供らしくてとてもいいと思うのだが、浅葱と違いすぎて戸惑いも大きい。

「お母様はお父様のこともよく話してくれたわ」

「へえ、どんな?」

 浅木が話す私の話題には興味があった。

「お母様は言っていたわ。お父様は自分に『温かさ』を教えてくれたとても大切な人だと」

「………………」

「たった一夜だけだったけれど、お父様はお母様にありったけの熱を注いでくれた。その熱が今でも自分の中に残っているからこそ、幸せを実感できるのだと、そう言っていたわ」

「そうか……」

 浅葱はそういう人だった。

 触れた指先から伝わる熱を、重ねた肌から感じる温もりを、宝者のようにいとおしんでくれた。

 その事実は私にとっても幸せを感じるのに十分なもので、死ぬ前にこんなにも穏やかな気持ちにさせてもらえたことに感謝したい気分だった。

「私たちにとっては、ヒトの熱は何よりも焦がれるものなの」

「そうなのか?」

「ええ」

 雪花は私に近づいてきて、頬に触れてきた。

「……冷たいな」

 やはり、彼女と同じだった。

 とても人間の体温とは思えない。

「でしょう?」

「ああ。そして雪花にとって私は『温かい』んだな?」

「そうよ。その通りだわ。お父様はとても温かい」

 ぎゅっと、再び抱きついてくる雪花。

 私は雪花を強く抱き帰した。

 きっと、私が雪花とこういう風に過ごせるのはこれが最初で最後だ。

 だから可能な限りの愛情を注ぎたかった。

 浅葱に死なれ、一人きりで生きてきた雪花。

 しかし、私ももうすぐいなくなる。

 この子に何も残せないまま死んでしまう。

 それだけた心残りだった。

「ねえ、お父様。ずっとここにいてくれない? ここは静かでとてもいいところよ」

「雪花……」

 それは一人寂しく生きる子供にとって当たり前の願いだった。

 ヒトは、一人きりでは生きられない。

 雪花の気持ちは嫌というほど分かるのに、それでも私は頷けなかった。

「すまない。それは出来ないんだ」

「どうして?」

 不思議そうに首を傾げる雪花。

 出来ることなら雪花の願いを叶えてやりたい。

 しかしそれは無理なのだ。

 私にはそれが出来るだけの時間が残されていない。

「私ももうすぐ死ぬからだ。恐らく、あと二ヶ月ほどで」

「っ!」

 私の病気のことを話すと、雪花はとても悲しそうに目を伏せた。

 浅葱を失い、私に出逢った。

 しかし、私ももうすぐいなくなる。

 まだ大人になりきれていない少女にとって、こんなに酷な事実を突きつけることに罪悪感を覚えなかったと言ったら嘘になる。

 しかし隠していても意味がない。

 いずれ分かることだ。

「お父様も、いなくなるの……?」

「すまない……」

 悲しそうな声を聴くのが辛かった、

「嫌よ……そんなの嫌……」

「雪花……」

 私の胸に顔を埋めて泣き続ける雪花。

 拭った涙は氷のように冷たかった。


 やがて泣き疲れたのか、雪花はそのまま眠ってしまう。

 横に寝かせてから、その隣に潜り込んだ。

 せめて、今夜は一緒にいてやりたい。

 それが父親として出来る最後のことだから。

 出来ることなら最後の瞬間までいてやりたいが、それは雪花の心に深い傷を残すことになりかねない。

 私は一人きりで死ぬことを選んだのだ。

 今更雪花に死に水を取らせるようなことはさせられない。

 勝手な願いかもしれないが、それでも私は雪花をこれ以上泣かせたくなかった。

「本当に、すまない……」

 まだ涙の跡が残る雪花の頬を撫でた。

 とても冷たかったが、そこから私の熱が少しでも伝わればいいと願った。


「………………」

 身体が動かない。

 辛うじて眼は開けられた。

 しかし自分の意志では指一本動かすことが出来ない。

 一体どうなっているのだろうと首を傾げたくなるが、その首すらも動かすことが出来ないのだ。

「あら、目が覚めたのね。お父様」

「………………」

 いつの間にか上に覆い被さってきた雪花が嬉しそうに笑う。

 その笑顔は昨日までの無邪気なものと違い、どこか狂気を孕んだ危ういものだった。

「………………」

 雪花、と口を開こうにも、口も動かない。

 舌や声帯まで麻痺しているようだ。

 そんな私の焦燥に気付いたのか、雪花は優しく笑いかけてくる。

「無理よ、お父様。お父様はもう自分で動くことも喋ることも出来ないわ」

「………………」

 優しい口調でとんでもないことを言われてしまう。

「お父様はもうすぐ死んでしまう。けれど、私はお父様に傍にいて欲しいの。だから、お父様が死なないように、ずっと私の傍にいてくれるように、氷人形にしてあげたのよ」

「………………」

「ねえ、お父様。そろそろ気付いているんでしょう? 私とお母様が人間ではないと言うことに」

「………………」

 何も言えない。

 気付いていたとも、気付かなかったとも。

 今まで敢えて考えないようにしていたことだ。

 想像はしていても、確信を持ったことはなかった。

「私とお母様は雪女と言われる種族よ。雪と氷を司る存在なの」

 そう言って、目の前で雪の結晶を作って見せてくれた。

 雪花と同じ名前の、とても綺麗な結晶だった。

 キラキラと輝く美しいそれに、私は動けないまま魅入っていた。

「だから、お父様の身体を氷人形にして、永久に保存することも出来るわ。これなら病気も進行しないし、死ぬこともない。ずっと私と一緒にいられるわ」

「………………」

「お父様はもうすぐ死ぬつもりだったんでしょう? だったら失うものは何もないはずよね? それなら私のために残りの時間を捧げて欲しいわ」

「………………」

「これからずっと、ずぅーっと一緒に過ごしましょう、お父様」

 触れてくる雪花の指先はもう、冷たくはなかった。

 それは私自身が雪花と同じく、冷たい身体になってしまっているからだろう・

「大好きよ、お父様。ずっとずっと、愛してる」

 底冷えするような愛の囁きと共に、私の意識は氷の闇へと堕ちていくのだった。







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気に入ったら投票してくれると嬉しいですにゃ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 娘ヤンデレか〜いい話やったわ〜
[一言] 悲しいけど、とても綺麗な話に感じました。 切ないですね。
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