9.王太子の思惑
クロードはドレーサ館の最上階にある賓客室へと案内された。
埃ひとつ落ちていない広い二つ続きの部屋と、大人が三人ほどゆうに眠れそうな天蓋付きのベッドが置いてある寝室。磨き抜かれた大理石で設えられた浴室までついている。
「旅の疲れをお取りになりたいのでしたら、すぐに湯の準備をさせましょう」
家宰のブルックが恭しく申し出たのを、クロードは軽く手をあげ断った。
「それは後で頼むよ。しばらく一人にしてくれ。仮眠を取る」
「仰せのままに、殿下」
ブルックは深く一礼を取って、静かに踵を返す。
傍に控えていた近衛騎士ら全員が部屋の外に出ようとしたところで、クロードは声をかけた。
「お前たちもゆっくり休め。部屋の見張りなど、してくれるなよ」
「そうは言われましても……」
エドワルドが騎士を退いた後、代わりにクロード付きの筆頭騎士を務めているフィンが苦い顔をする。
「ここはロゼッタ公爵の領地だぞ、フィン。しかも当主の館だ。王城の次に安全な場所だと思わないか。二、三日のうちにここを立つ。王都に戻れば、凱旋や褒賞の分配などで忙しくなるだろうから今のうちに休んでおいてくれ」
「御意」
長旅で疲れているのは、兵も同じ。クロードの心遣いを有難く受け取ることにして、フィンは皆に部屋に戻るよう指示を出した。
「フィン様はどうされるのですか?」
騎士の一人に尋ねられ、フィンはニコリと人懐っこい笑みを浮かべた。
「婚約者殿がここまで出迎えに来てくれたようなのでね。久しぶりに顔を見てこようかなって」
フィンの言葉を聞いた途端、仲間たちが不服顔になる。
「あの、すごい美人って噂の……」
「いいなあ、フィンばかりずるいぞ」
「俺たちのことも考えて、ちょっとは遠慮しろよ!」
同期からの遠慮のないからかい文句を素知らぬ顔でやり過ごし、フィンは彼らに背中を向けた。
階下に降りたところで、探していたお目当ての女性を見つけ、瞳を輝かせる。フィンの大好きな豊かな赤毛は綺麗に編み込まれ、形の良い頭に巻きつけられていた。茶色の美しい瞳は、誰かを探すかのように辺りを見回している。
「マアサ」
大切な恋人の名前を呼ぶと、彼女はハッとした様子でフィンを振り仰いた。急ぎ足で駆けてくる様子がまた愛らしい。
「フィン様!」
飛びつく直前で彼女は踏みとどまり、彼の頭のてっぺんからつま先までを食い入るように見つめた。どこも欠けてはいない、と納得できたのか、ようやく彼の腕の中に飛び込んでくる。
「ご無事で何よりでしたわ! こうしてお顔を見るまで、私がどんなに気を揉んだか……」
マアサの声に涙が混じり始める。
フィンはまだ少し痛む左腕をかばいつつ、案外心配症な婚約者の背中をゆっくりと撫でた。心配させてしまった、という申し訳ない気持ちを喜びが上回ってしまうのは、マアサがなかなか彼の求婚に頷いてくれなかったという経緯があるからだ。
「俺が君を置いて、どうにかなるはずない。出陣前に約束しただろ?」
「それでも! ……フィン様の約束ほど、当てにならないものはございませんもの」
小憎らしいことを言いながらも、マアサは柔らかな頬を胸元に擦り付けてくる。フィンは遠征の後の兵士に対してそんな振る舞いをしてはならない、と諭そうかと思案した。婚約者を置いて遠い異国まで出かけていった男には特に――。思わず、騎士らしからぬ振る舞いに出てしまいそうになる己を押さえ、軽くマアサの肩を叩く。だが潤んだ瞳にまっすぐ見つめられ、言うべき言葉を忘れてしまった。
「……さあ、もっとちゃんと顔を見せて。俺の可愛い人は留守中いい子にしてた?」
「ふふ、もちろんですわ」
すっかり安心したのか、いつもの笑顔を取り戻したマアサをエスコートしながら、彼女の部屋へと足を向ける。ファインツゲルトからの奇妙な客人達について聞きたいことは沢山あるだろうに、マアサは一言もその話題に触れようとはしなかった。
「気にならない?」
「いいえ……と申し上げれば嘘になりますわね。でも私が聞いていいことなら、姫様は必ずお話になって下さいますもの。そうでないうちは、控えておきます」
今でもマアサはナタリアのことを『姫様』と呼ぶ。かつての主に全幅の信頼を寄せる彼女を、フィンは改めて愛おしく思った。
人払いをした後、クロードはマントを脱ぎ捨て腰に佩いていた長剣を外した。
すぐに手の届く場所に愛剣を置き、ベッドに仰向けに寝転がる。彼は前髪をかき上げ、長い溜息をついた。
流石に、疲れた。
遠征の間中ピンと張り詰めていた気が、ようやく緩む。グレアム王に侮られるわけにはいかない。十も違わない彼が同盟を結んでいるのはクロードの父。いずれ自分が王位に就いたとき、かの国からの寿ぎを必ずもぎ取らねばならない、と決意していた。
サリアーデは豊かな国だ。だからこそ、西方の国からは狙われ続けている。それをさせないのは、ラヴェンヌやフェンドルなどの有力な同盟国が傍らにあるからこそ。自分の代で今までの国王が築き上げてきた平和を水泡に帰すわけにはいかない。
判断を誤った、か? 抑えきれない不安にクロードは優美な眉を寄せた。
皇女を一時は保護するとしても、場合によっては彼の手で処断することもやむを得ないと思っていた。フィンは真っ直ぐな男だから、クロードがそんなことを考えているなどと思いもしなかっただろう。
クロードの両手にはすでにサリアーデ国民全ての未来が載ってしまっている。彼女一人の命とは比べ物にならないほど重い責任が。
――<わたしを、しなせて>
だが、荒れた国と失われた民を悼み、最後のけじめをつけようとしていた皇女を、あの時、どうしようもなく惜しんでしまった。
そしてその思いは、帰国の旅でますます深まった。どうにかして生かしたい。できれば、平穏な幸せを掴ませたい。
――『これは一つ貸しだと考えてもよろしいか』
あくまで冷静だったグレアム王の声が耳に蘇る。
彼の示唆したその貸しをどういう形で返さねばならなくなるのか。クロードはじっと天井を睨みつけながら、考え続けた。
馬車の中でおずおずと寄り添ってきたティアの、痩せた肩の感触を思いだす。まるで昔から知っている幼馴染の姫のように感じてしまうのが、自分でも不思議だった。今更彼女を亡き者にすることは出来ない。どうあっても、出来そうにない。
私がティアを守らなくては。クロードは改めて決意を固めた。
そして次の日。
クロードはエドワルドとナタリアを引き連れ、別館を訪れた。使用人たちを下がらせ、ティアと向き合う。
ゆっくりと体を休めたせいか、彼女達の血色は見違えるほど良くなっていた。エルザとカンナは、ナタリアには小さな笑みを見せたものの、後ろに立っていたクロードとエドワルドに気づくと、慌てて跪いてしまった。
「ああ、そんなに硬くならないで。何もしやしない」
クロードは困り顔で手を振った。
エルザとカンナの心には、皇帝や大貴族から受けた仕打ちの数々が刻み込まれている。王太子、というだけで恐怖の対象になってしまうのだ。
「兄様。カンナたちには後で私が話します。ここは、一度席を外して頂いたら?」
昨晩クロードから、全ての事情とこれからの腹積もりを聞かされたナタリアは、落ち着いた物腰でカンナたちに近づいた。青ざめた彼女たちの前にかがみこみ、優しく話かける。
「あなた達の大事な姫に、無体な真似をしたりはしないわ。ここでは落ち着かないでしょうから、隣の部屋で待っていらして? 決して悪いようにはしませんから」
「はい、ナタリア様。仰る通りに致します」
カンナが確かな声で返事をしたことに、クロードは眉を上げた。今まで狐に狩られるうさぎよりも酷く、彼らに怯えていた彼女たちが、ナタリアに対しては普通に接していることに驚いたのだ。
ナタリアが足腰の弱ったエルザを支えるようにしながら、別室に向かうのを見届けて、エドワルドは姿勢を正しクロードに向き直った。
「殿下は、本気でいらっしゃるのですね」
「ああ。私がフェンドル国王ならば、そうすると思うだけだがな。万が一の時に備え、彼女には出来るだけの準備をさせておきたい」
「……リセアネ姫が頷くとは、到底思えませんが」
「いや、了承するさ。あの子も王女なのだから」
ティアは、怪訝な表情を隠そうともせず、目の前の二人の会話に聞き入った。
リセアネ姫、というのは誰なのだろう。
昨日は久しぶりにぐっすり眠れた。マアサという女性に甲斐甲斐しく世話をしてもらい、今まで口にしたこともないような美味しい食事を取り、手にしたこともない美しいドレスさえ与えられた。
これは、一体何を意味するの? 不安が暗雲のように胸に立ち込める。
ようやくナタリアが戻ってくる。エドワルドにそっと手を取られ、彼女は愛する夫の脇に微笑ながら寄り添った。
「さて、君のこれからのことだが、ここにいるロゼッタ公爵夫妻を後見人として、王宮に上がってもらうことにした」
予想もしなかったクロードの言葉に、パトリシアは鋭く息を飲んだ。
「仕えてもらうのは、私の妹姫、リセアネだ。第二王女の侍女筆頭として、君を王都へ連れていく」
<わたしは、敵国の皇族です! なぜ、毒蛇をむざむざ、その身に取り込もうとなさいます!>
こんな風に扱われるはずではなかった。
自分だけが、この平和な国で安穏と暮らすなんて許されるはずがない。
ティアは両手で顔を覆い、苦しみに呻いた。
――『姫様、どうかこの国をお頼み申し上げます』
縋るように言い残し、処刑台へと引き摺られていった忠臣たちの断末魔が蘇り、ティアは声にならない叫び声を上げる。
誰か、私を罰して! ただ一人生き残った皇女でありながら、塔の中で震えることしか出来なかった臆病者を!
激しい反応を見せた元皇女に、ナタリアは胸を押さえ、唇を噛み締めた。
ご自分を責めていらっしゃるのだ。同じ立場にあったナタリアには、それが痛いほど分かった。もし、自分が彼女であっても、同じことを願っただろう。守るべき民を守れなかった無力な自分を罰して欲しい、と。
「何を勘違いしている? 言ったはずだよ、君は私の『奴隷』だと。いつ私が、口答えを許した」
先程までの親しみ深い態度を一変させ、クロードはティアの前に立ちはだかった。彼女は反射的に身を竦ませて、後ずさる。何の感情も浮かんでいないクロードの冷たい瞳に、ティアの背筋は凍りついた。本能的な恐怖に安堵が入り混じる。もういっそ、ここで全てを終わらせて欲しい。
「にいさまっ!?」
ナタリアはエドワルドの腕から抜け出し、ティアを助けようと二人の傍に駆け寄った。小刻みに震えるパトリシアを背中に庇い、兄をきつい眼差しで見上げる。
「そのような振る舞い、誇り高き王太子殿下のものとは思えません。即刻、お取り消しを!」
ナタリアの正義感に満ちた声がかつての自分と重なり合う。『賢しげに囀さえずる小鳥ほど、わずらわしいものはない』
あの時、父はそう言って、そして――――。
<やめてっ!>
ティアは、とっさにナタリアのドレスの裾を引っ張り、自分の骨ばった腕の中に抱え込んだ。女性らしい丸みを帯びた温かなその身体を、必死にクロードの目から隠そうとする。
<罰はわたしが受けます! おねがい、ゆるして!>
エドワルドは突然の事態に、あっけに取られた。
まさかこの女性は、殿下が妹であるナタリアに手をあげようとしていると思ったというのか?
ひゅーひゅーと喉を鳴らし、ティアは必死にナタリアを守ろうとしていた。
「……なんと、惨い……」
思わずエドワルドの口から、そんな言葉が漏れる。クロードは予想していたのか、軽く息を吐き、首を振った。
「何度も言うようだが、私は決して怒りから女性や子供に手をあげることはない。そうするくらいなら、この腕を切り落とした方がマシだからだ。君の父上は、下劣だった。そうは思わないか?」
<……それでも、あの方がわたしたちの国の導き手でした>
「ああ、非常に残念なことにね」
震えながらもしっかりと自分の意見を述べるティアに、クロードは強い胸の痛みを感じた。折れそうで折れないたおやかな強さに、圧倒される。かつて感じたことのない種類の切ない痛みに、クロードは目を細めた。
「兄様が私をぶったことは一度もないのよ、ティア。でも、ありがとう。守って下さって」
エドワルドと同じく、驚きのあまりされるがままになっていたナタリアはようやく立ち上がり、ティアの手を取った。
「リセアネはとても良い子なのだけど、世間知らずで我儘な部分もあるの。優しい思いやりと義に満ちたティアのような方が傍にいてくれれば、きっとあの子も沢山のことを学べるはずよ」
何とかお願いできないかしら、とナタリアに請われ、混乱したままティアは頷いてしまった。
――クロード様は、降嫁された妹君にあのような言い方をされたというのに、手をあげなかった。
そちらの衝撃の方が強すぎて、何を言われているのかきちんと理解できなかった部分も多い。
だが、この時ティアの運命は決まったとも云える。
リセアネと出会うことにより、彼女の行く末は大きく変わることになるのだった。