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8.レディ・ナタリア

 ナタリアが驚きで動けなかったのも一瞬。彼女はすばやく三人の姿に目を走らせ、クロードに向き直った。

 まっすぐ立っているのがやっと、という客人の疲弊した様子に眉をひそめる。


「詳しいお話は、また後で。先に御三方を休ませて差し上げなくては。特にお年を召した方には、長旅は堪えるものですわ」


 ナタリアの言葉を受け、ロゼッタ公爵であるエドワルドもすぐさま頷いた。


「リカルド嬢に応援を頼もうか。離れに女性向きの部屋が余っているから、そちらに案内しよう」


 本館にはクロードと近衛騎士らの部屋しか用意していない。

 先程の衝撃的な告白を信じるのならば、彼女らが目立たないように配慮した方がいいだろう、とエドワルドは判断した。クロードは「すまないね。よろしく頼むよ」とエドワルドを労い、そのまま彼女らを振り返った。


「これから先の話は、明日にしよう。今日はゆっくり休むといい」


 クロードが優しく話しかけると、カンナとエルザは深く腰を折って礼を取った。ティアだけが、軽く頷いたので、ナタリアは「この方が、皇女なのだ」とすぐに分かった。

 ――でも、どうしてこんなに痩せ細っていらっしゃるのかしら。

 顔色は悪く、髪の毛にも艶がない。黒い瞳に生気がないせいでパッとしないが、形の良い鼻と唇をみれば、容姿はかなり優れていたことが分かる。もっとふっくらすれば、の話だが。


「彼女は、皇帝である父に虐待され育った。私たちが皇城に踏み込んだ時には、塔に幽閉されていたんだ」


 ナタリアの横を通り過ぎる時、クロードは身をかがめて妹に小声で耳打ちした。

 ナタリアはサッと顔色を変え、大きく目を見開いて兄を見上げた。


「だから、どうか優しくしてやっておくれ、ナタリー。彼女は十分辛い目に合ってきたのだから」


 慈愛に満ちたクロードの囁き声に頷き、ナタリアは兄を見送った。

 フィンはクロードの傍に付き従い屋敷の中へ消えていく。残されたエドワルドに促され、彼女たちはよろよろと離れの館へと足を向けた。


「いいわ、私が案内するから。あなたは本館に戻って、マアサに来てくれるよう頼んで下さらない?」

「……君がそういうなら」


 エドワルドは決して妻の頼みを断らない。本音を云えば、敵国であったファインツゲルトの者たちとナタリアを一緒に行かせるのは嫌だったのだが、彼女に何か考えがあるのだろう、と頷いた。

 武器をどこかに隠し持っている可能性はないだろう。であれば、若く健康なナタリアに害をなせるほどの力は、とてもじゃないが残ってなさそうだ。


「ありがとう、エド。では参りましょう。……大丈夫、ゆっくりでいいの」


 甘い微笑を夫に投げかけた後、ナタリアは歩調を緩めながら、無言のままの三人を離れへと導いた。


 ティアは内心、非常に驚いていた。

 自分が敵国の皇女であったことを知っても、サリアーデ国王の娘であるナタリアが大した動揺を見せなかったことに。

 ――クロード様を信じていらっしゃるのだわ。

 うっすらと涙を浮かべクロードの無事を喜んでいたナタリアを一目見た時から、彼女に対する親愛の情を覚えていたティアにとって、それは嬉しい驚きだった。

 自分たちの体調に対する気遣いにも、胸が温められる。

 ナタリアは途中でよろめいたエルザの手すら取った。


「も、もったいのうございます! どうか、お許しを!」


 ナタリアの振る舞いに、エルザは泣き出さんばかりに取り乱した。

 エルザにとって貴族とは、自分たち使用人を遥か高みから見下してくる天上の人だった。同じ人間ではない。パトリシアの母である皇妃はエルザに優しかったが、彼女の傍で守られて過ごすことが出来たのは、ほんの僅かな間だった。

 パトリシアは母に似たのか、高潔で使用人に分け隔てなく接する慈悲深さを備えていた。だが、そのせいで皇帝に煙たがられ、しまいには塔へと追いやられたのだ。

 ぶるぶると震えるエルザの細い肩を、ナタリアはそっと抱いた。


「大丈夫よ。誰もあなた達を傷つけたりしない。もう、戦は終わったの。あなた達は、誰にも怯えずに生きていくことが出来るのよ」


 ゆっくりと小さな子供に話しかけるような辛抱強さで、ナタリアは言葉を紡いだ。


「信じて。もちろん、すぐには無理でしょうけど。あなた達は、安全なの。私は、決してあなた達を傷つけない。……傷つけようとするものを、決して見逃さない」


 きっぱりと言った彼女を、ティアは羨望の眼差しで見つめた。

 なんてお強い。そして、なんて優しくていらっしゃるんだろう。

 エルザとカンナはナタリアの言葉を聞き、とうとうすすり泣きを漏らし始めた。


 大きな館に入ると、そこには先回りをしてきたのだろう、一人の美しい女性が何名かの使用人を従え、彼女らを出迎えた。


「姫様! 話はエドワルド様から聞きましたわ。今、部屋を整えさせているところです。しばらく使っていなかったせいか、埃っぽくて」

「ああ、マアサ。こんなことを今の貴女に頼むのはいけないことなんでしょうけど、すごく助かるわ。彼女たちはすっかり疲れてしまっているの。兄様の大事なお客様だから、粗相があってはいけないし。――どうか丁重におもてなししてね。お願いよ」


 最後の言葉は、突然現れた異国人へ好奇の目を向けている使用人たちに向けられた。


「かしこまりました、奥様」


 使用人頭と見られる壮年の女が深々とお辞儀をして、他の者に指示を出し始める。あっという間に、居心地良く整えられた大きな部屋に、三人は招き入れられた。

 上等なベッドが三つ並んだ寝室とその隣の居間を見渡し、ティアは息を飲んだ。

 ゆったりとしたソファーの前にあるテーブルには、温かなスープやお茶、お菓子や軽食がずらりと並んでいる。ベッドのリネン類は絹で揃えられ、ガウンや部屋着が一式準備してあった。


「とりあえず、着替えからかしら。窮屈でしょうから、靴はお脱ぎになって。室内履きを用意させましたから」


 マアサと呼ばれた娘が、見事な手つきでティアらを着替えさせていく。カンナは真っ赤になって、それを辞退した。エルザにはもう、抵抗する気力すら残っていないようだった。


「あ、あの私は侍女でしたので、自分のことは自分で出来ます!」

「まあ、では私と同じですわね。私もここにいらっしゃるレディ・ナタリアの侍女を勤めさせてもらっておりましたの」


 にっこりと微笑み、マアサは続けた。


「でも……カンナ様、でしたかしら。今はクロード殿下のお客様でいらっしゃるのですもの、どうかお手伝いさせて下さいな」


 話しながらも手は休めようとしないマアサによって、三人はあっという間に着替えさせられた。

 体を締め付けないデザインの美しいデイドレスに、繻子の室内履き。ひっつめ髪を留めていたピンは抜かれ、丁寧に梳くしけずられた髪の毛は、ゆったりと下の方で纏め直される。


「これでいいわ。いつでもベッドに横になれるもの。――さあ、何かお飲物でもいかが? 私たちがいては、ゆっくり休めないでしょうから、これで失礼するわね。足りない物があったら、ベルを鳴らしてちょうだい。すぐに使用人が来るように手配しておくわ」


 ナタリアは、てきぱきと部屋の様子を確認し、彼女らをソファーに座らせた。呆然としたままのティアたちは、かろうじて礼だけ述べることが出来た。


<ありがとうございます>


 声を出せないティアは、読み取ってもらいやすいよう、大きく唇を動かした。


「……ご病気で喉を傷められたの?」


 ナタリアの瞳が痛ましさに曇る。マアサは、気まずげに俯いた。着替えの時に、彼女の喉元の傷跡に気がついてしまっていたからだ。


<いいえ。父に、サーベルで突かれました>


 なんと説明すればいいのか分からず、ティアは事実だけを伝えた。

 ナタリアは唖然としていた。しばらくして、言葉の意味をようやく飲みこめたのだろう、彼女の瞳は潤み始め、苦しみに揺れた。


「まさか……ああ、神よ。なぜ、このようなことをお許しになられたのですか……」


 ナタリアの吐き出すような呟きに、ティアはゆるく首を振った。


<わたしが無力だったのです。どうか、お嘆きにならないで>


 ナタリアの顔に浮かんでいる苦悶の表情に、ティアは胸が痛くなった。

 憐みを受けるのは嫌だと思い込んでいた。だが違った。初対面のナタリアに惜しげもなく優しい同情を寄せられ、ティアの心は確かに喜んでいる。


「お名前を教えて下さらない? カンナとエルザ、そしてあなたは……」

 <ティア、と申します、ナタリアさま>

「ティアというのね。どうか、仲よくして頂戴ね、ティア。同じ年頃の女性とお話出来る機会は少ないの。お知り合いになれて、光栄だわ」


 優しく微笑むナタリアに、ティアは苦い笑みを浮かべた。彼女の兄であるクロードがこの言葉を聞いたら、何と云うだろう。

 ――『だめだよ、ナタリー。この子は私の奴隷なのだから』

 そしてその言葉を聞いたら、ナタリアはどうするのだろう。

 まだ皇女であった時に、出会いたかった。願わくば、同盟国同士の姫として。そして友情を深めることが出来たら、どんなに素晴らしかったか。


 ナタリア達が部屋から出て行った後、カンナは感嘆の溜息を吐いた。


「はあ~。なんて素敵な方なんでしょう! この大国の第一王女であられたなんて思えないほど、気さくでいらっしゃるし。姫様と同じくらい、お優しい方でしたわね。ねえ、母さん、そうは思わない?」

「ああ……本当にそうだねえ」


 エルザは自分の皺だらけの手をじっと見下ろした。ナタリアの柔らかな手のぬくもりが、まだ残っている気がする。

 カンナは新しいドレスをしばらく撫でまわし、ようやく気が済んだのか、嬉しそうに温かなスープに手を伸ばした。パトリシアは、そんな二人をじっと見つめた。

 長い旅の果てに、まさかこんな幸運が待ってくれていただなんて、思いもしなかった。だがその幸運がこのまま続くとも、思えなかった。


<エルザもお食べ。お腹がいっぱいになったら、みんなでお昼寝しましょうか>


 この先の不安を隠すように、ティアはにっこり笑ってみせた。

 結局三人は、夕方湯あみの準備にマアサが訪れるまで、ふかふかのベッドに横たわり、何か月かぶりの安眠を享受した。

 安らかな寝顔でぐっすりと眠り込む彼女たちを起こすのが忍びなく、マアサは長いこと居間をうろつく羽目になった。




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