7.そしてサリアーデへ
サリアーデまでの道のりは、長かった。皇城から一歩も出たことのないティアにとって、それは世界の果てへの旅と同じだった。
ルクサ共和国との国境沿いを南下し、ゼル荒原を渡り、ラヴェンヌ王国を横断する。
クロードはティア達の体調を気にかけ、何度も休憩を取った。彼女らがいなければ、半月は旅程を縮められただろう。
「姫様。クロード殿下は、そんなに酷い人ではないのでしょうか?」
カンナに問われ、ティアは思案した後、首を振った。主の困惑をカンナは汲み取り、押し黙る。
同じ馬車で移動する間、自分は彼にしっかりと抱き寄せられ人肌で暖められている、と知ったらカンナとエルザはどんなに驚くだろう。
十分な食べ物を与えられ、毎日のように体を清めるお湯を用意してもらった。それだけでは気持ち悪いだろうと、休憩先の宿で入浴させてもくれた。身一つで母国を後にした彼女らの身の回りの品は、フィンがどこからか入手して揃えてくれた。これほど丁重に扱われる奴隷がいるとは思えない。
ゼル荒原を抜けた辺りから寒さは和らぎ始め、クロードは馬車を降りた。
「ここまでくれば、大丈夫かな」
柔らかく笑み、クロードはそっとティアの頬に手を伸ばした。彼女の体は反射的に丸まり、攻撃に備えようとする。
――無様な姿を晒したくない。
頭ではそう思うのに、苦い虐待の記憶はティアの理性を簡単に上回る。まだほんの少女の頃から、ティアは父にぶたれ続けた。彼の目に留まらないように気を付けるようになってから、その回数は減ったのだが、小さい頃の記憶は身に染みついてなかなか消えない。
初めの頃は、無理に触れようとはせず手を引いていたクロードだったが、方針を変えたのか、そのままゆっくりとティアのこけた頬に手を滑らせた。
「もう寒くはないだろう? それとも、まだ私が必要?」
ティアの頬がほんのり染まる。食事をきちんと取るようになったせいか、初めて会った時にくらべ随分娘らしく見えるようになってきたティアは、ふるふると首を振った。乾ききって襤褸布のようだった髪の毛も、きちんと櫛が通され一つに結われている。
「それは良かった。私もそろそろ限界だった」
ニコリと目の眩むような微笑を投げかけ、クロードは一際立派な黒馬に跨った。
彼とて石で出来てるわけではない。痩せ細ったティアではあったが、生身の女性を常に傍に置くことは、彼にとってかなりの試練になりつつあった。意味が分からず首を傾げるティアを見て、すぐ傍に控えていたフィンははあ、とため息を漏らした。
――殿下の無自覚は性質たちが悪いからな。
妹二人を持つ長兄として育ったせいか、クロードは女性に対して非常に優しい。それを自分に対する特別な好意と取り違えてしまう哀れな令嬢も多かった。
数えるのも嫌になるほどの日数、馬車に揺られ続けた後、ようやくティアの視界は大きな検問所を捉えた。
その高い石壁を越えれば、もうそこは広大なアユルデ大陸の中でも『煌めく東の宝石』と謳われるサリアーデだという。サリアーデの最東端は海に面していて、ルザンという港街が南北の国々との貿易の窓口になっているのだ、とフィンが教えてくれた。フェンドル王国とは船で行き来するのが普通だという。大陸を馬で横断することなど滅多にない、とティアは知り、深々と溜息をついた。
――良かった。こんな旅が普通だと言われなくて。
体のあちこちがきしんで痛い。だが自分よりもエルザの方が辛いだろう。ティアは老いた乳母を見つめた。彼女はうつろな瞳で、じっと俯いている。生まれた国に二度と戻れない、という事実が、彼女をすっかり打ちのめしているかのようだった。
若い分、カンナは元気だった。しきりに暖かい気候に感心している。
一面に広がる緑。遠くに連なる美しい山々。活気のある人々。
ティアは、瞳に映り込む風景のあまりの眩しさに目を細めた。
こんな国もあるのか。驚きと憧憬で胸がいっぱいになる。
ティアはやがて大きく息を吸い込み、目を閉じた。
――我が民の、なんと不運であることか。
遥か遠くに残してきた、飢えに苦しみ圧政に疲れ果てた国民を想う。
胸は潰れそうに痛んだ。ティアの瞳に諦めと自嘲が浮かぶ。私に彼らを憐れむ資格はない。
腹は満たされ、清潔な服を着せてもらい、大切に保護されている亡国の皇女。
誰一人、救うことの出来なかった役立たず。責任を取ることすら叶わず、名を奪われ、こうしておめおめと生き延びている。
――この先どう償えば、私は生きることを許されるの?
ティアに答えてくれる者は、もういない。皆、粗末な墓地の下で凍えている。
ラヴェンヌ王国との境目に配置された大きな検問所を通った後、王国軍は細かく分散された。
もともと王国軍は、国境の警備にあたる「青の軍」、領主を監督する目的で各地に配置された王家の直轄地を守る「赤の軍」、そして王都の盾となる「白の軍」に分かれている。それぞれの軍から今回の戦に徴兵された者たちは、ようやく国元に戻ることが出来、歓声を上げていた。
クロードは「白の軍」を先に王都に戻らせることにした。
出立前に国王から与えらえた指揮権を「白の軍」の将軍であるモンゴメリ伯爵に一時的に譲渡し、晴れやかに笑う。
「それにしても遠かった。貴殿もご苦労だったね。先に戻っていてくれ。せっかくここまで来たんだ。妹の顔を見て帰ることにする」
「畏まりました。それにしても、お見事な指揮でしたぞ!」
齢50を数えてもなお、現役で前線に立つ屈強なモンゴメリ伯は、感嘆の眼差しでクロードを見つめた。
「流石は殿下。ご立派に役目を果たされましたな。陛下もさぞお喜びになられるでしょう」
「ふふ。どうかな。……叱られそうだけど」
最後の言葉は小さすぎて、モンゴメリ伯には聞き取れなかった。
「では、クロード殿下。御前を失礼致します」
カツと踵を合わせ軍隊式の敬礼を取ると、モンゴメリ伯は白い裏打ちのマントを翻した。
「……さあ、私たちも行こうか」
自身付きの近衛騎士数十名を引き連れ、身軽になったクロードが再び黒馬の鐙に足をかける。フィンはすかさず、彼を守るように前に出た。ティアたちを乗せた馬車を従え、ゆっくりと行列は動き始めた。途中の宿場町で一泊したのち、ようやく彼らは王国の西部に位置するロゼッタ領に入ったのだった。
「私たちは、これからどうなるのですか?」
カンナは恐る恐る馬車の小窓から顔を覗かせ、一番近くにいた年若い騎士に尋ねた。疲れ切ったエルザはうとうとと目を閉じていたし、ティアは沈んだ表情で俯いている。せめて、この先の予定が分かれば、とカンナは考えた。
「今、僕らが向かっているのはロゼッタ公爵領だよ。そこにクロード王太子殿下のすぐ下の姫様が嫁いでいらっしゃるんだ。殿下はそこに寄ってから、王都に向かわれるつもりらしい」
馬上の若い騎士は、親切にそう教えてくれた。
「ありがとうございます。……姫様、どうやらすぐに王都に向かうわけではないようですわ」
窓を閉め、自分に向かってそう告げたカンナにティアは、温かな眼差しを向けた。
<わたしは、もう姫ではないわ。ティア、と呼んで、カンナ>
「ですが!」
<おねがい。あなたたちを、危険にさらしたくない>
懇願するティアを見つめ、カンナはようやく頷いた。もしここにいるのが、亡国の姫だと誰かに知られたら、大変なことになるのではないか、と思い至ったからだ。
口を噤んだカンナは、激しい憤りに身を焦がした。パトリシアは、生まれ落ちた時から誰に傅かれるわけでもなく、日陰に追いやられてきた。殴られ、食事を抜かれ、それでも民の為に何か出来ないかと心を砕いてきた。それなのに、国が荒れ滅んだ責任だけを取れというの?
「これ以上ティア様を苦しめようとする者が現れたら、私は正気でいられません」
<わたしもおなじよ。あなたたちまで、うしないたくない>
ティアは微笑み、大切な友人の手を撫でた。
ドレーサ館には早馬を飛ばしておいた。
降嫁し公爵夫人となったかつての第一王女は、兄の無事を見るなり、泣きそうな顔でクロードに飛びついてきた。
「ああ、ご無事で何よりです! この度の戦では負傷者もほとんど出なかったと聞いております。流石は兄様ですわ!」
滅多なことでは取り乱さないナタリアが、珍しく興奮している。彼女の目尻に滲んだ雫に、クロードは苦笑を浮かべた。
「ずいぶん心配させてしまったようだね、ナタリー」
彼は両手を広げ、妹の抱擁を受け入れた。埃と汗にまみれた旅装を解き、「白の軍」の将校が纏うマントを羽織ったクロードはいつもに増して凛々しい。
――生きて戻って下さった。
ナタリアはこみ上げてくる安堵にきつく目を閉じた。戦に『絶対』はない。いくら強いとはいえクロードもただの人間だ、と弁えていたナタリアは、兄の腕の中から離れようとしなかった。とくとくと打つ彼の心臓の音に耳を傾け、その音を数える。
「さあ、リア。その辺にしておかないと、殿下方が休めない」
ナタリアのすぐ後ろに立っていたロゼッタ公爵が、優しく声を掛ける。夫の声に弾かれ、ナタリアは顔を上げた。
「まあ、私ったら! ごめんなさいね、兄様」
彼女は目元を指で拭い、一歩下がる。それからフィンや他の騎士たちに声をかけ、女主人らしくドレーサ館に招き入れた。
先に連絡を受け、準備を済ませていたのだろう。厩番らがやってきて、軍馬の世話を引き受けた。その他の使用人たちも甲斐甲斐しく動き始め、あっという間に荷物は各部屋に収まり、彼らは屋敷の中でくつろぐことが出来るようになったのだった。
「あら、その方たちは?」
騎士たちの姿が消えた後には、クロードとフィン、そして馬車からよろよろと降りてきた三人の異国人が残された。簡素なドレスを纏った若い女性二人と年老いた女性が一人。面を伏せたまま、誰も言葉を発しようとしない。
言葉が通じないわけではない。アユルデ大陸には大小50を越える国々があるが、文化の違いはあれど、言語は共通だ。大陸全土に信者を持つ教会の教えによれば、この世界を創造された神からの最大の贈り物が、この共通言語であるということだった。
辺りに誰もいないことを確認した後で、クロードは声をひそめ妹夫妻に告げた。
「紹介しよう。ファインツゲルトの元皇女殿下と、その侍女と乳母だよ。フェンドル国王から貰い受けて来た、私の戦利品だ」
自分の耳が信じられない、と云わんばかりの表情で、公爵夫妻は大きく目を見開いた。
「……え?」
「っ!! ……クロード殿下、今、なんと」
フィンは天を仰ぎ「ストレート過ぎますよ」とぼやいた。