手紙(クロード×ティア)
華々しい結婚式をあげ、無事サリアーデの王太子妃となったティアだったが、周りの風当たりが急に和らぐということはなかった。
異国人であり、しかも敵国の生き残りでもあるパトリシアに対する偏見を持つ人達は相変わらず存在する。
フェンドル国王、それにロゼッタ公爵。名だたる面々がパトリシアを強固に擁護しているからこそ、表立った嫌がらせがないだけだ。
息子の妻となったティアに王夫妻は親切だった。だが過干渉は逆にティアの為にならないと、一定の距離を保ってもいる。
ティアは真摯な態度で公務に臨み、隙あらば揚げ足を取ってやろうと狙う貴族達にも柔らかな笑みを向けた。そんなティアを、愛妻家のクロードはやきもきしながら見守っている。
クロードが必要以上に庇い立てすることを、ティアは酷く嫌った。
その日もティアが嫌がらせをされたとの報告を受け、クロードは端正な顔を歪めた。予定を手早く消化し、妃のいる光の宮へと駆け戻る。
クロードの元へと書付を寄越したのは、ティア付きの侍女だ。サリアーデ小貴族の娘は、仕え始めて半年もしないうちにすっかりティアの信奉者になっている。
彼女曰く、来月の慰問の日程を知らせにきた高位文官が、ティアに対し非常に無礼な態度を取ったというのだ。
「あなたは大げさよ。あの方は責務を果たそうとしただけなのに、わざわざアレク様にお知らせするなんて」
ティアは困ったように眉を下げ、クロードと侍女を見比べている。
「あれが嫌がらせでなくて何でしょう! 何度も、何度も聞き返して。その度、馬鹿にしたように鼻で笑って言い直して。パトリシア様はお優し過ぎますっ」
まだ若い侍女は、瑞々しい頬を怒りに染め、拳を握りこんだ。きつい物言いで同僚や上司に厭われることが多いその侍女を、ティアは大切に扱っていた。
思ったことを口にせずにはいられないまっすぐさ。強すぎる正義感。ここにはいない大切な友人を連想させる美しい娘は、ティアの心を大いに慰めてくれている。
「……君の発音は完璧だよ、ティア」
クロードは歯を食いしばり、低い声を押し出した。
ティアの嗄れた声を欠損としてあげつらう者だけは、どうしても許せない。後で侍女からその文官の名を聞き出さねば。ティアをどれほど問い詰めようと、決して白状はしないだろうから。
「それは夫の贔屓目というものだわ」
ティアは肩をすくめ首を振った。
「今日は朝から多くの人と話したせいで、滑舌が悪くなっていたみたい。今みたいにゆっくり、簡単な言葉で話せば良かったのに、私も変な見栄を張ってしまいました」
クロードは慌ててティアに近づき、ソファーへ座らせた。
侍女に目配せすると、娘は全てを承知したように一礼し、部屋を退出していく。じきに薬湯が届けられるだろう。消炎効果のある根菜をすりつぶし、蜂蜜とお湯を足して溶いたもので、ティアがフェンドル国のエレノア嬢から教えて貰ったレシピだ。
クロードと二人きりになったことで、ティアは肩の力を抜いた。
甘やかすように回された夫の腕の中、引き締まった胸板にそっと頭を預ける。
「……疲れただろう。君は少し頑張り過ぎだ」
クロードは愛情の籠った口調で、ティアを叱った。
「まともに相手をしようとしなくていい。筆談で済ませていいし、後から目を通すから日程表をそこへ置いておけと、身振りで示すだけでもいいんだ」
ティアはクロードにもたれ掛かったまま頷く。
「ええ。だから、これは私のわがままなの」
「ティア……」
「よく思われたい。アレクさまが無理やり娶らされた妃は、とんだ欠陥品だと、もう誰にも笑われたくない」
「そんなことを言う人間が!?」
ついに我慢の限界を超え、クロードは声を荒らげてしまった。途端にティアが身を竦める。
彼女は今でも成人男性の怒鳴り声が苦手だった。
「怖がらせてごめんね。でも大丈夫だよ、ティア。何も起こらない。君を脅かす者は私が全て排除する」
クロードは意志の力で表情を和らげ、小さな子供を宥めるように愛しい妻の腕を撫でた。
腹の底は怒りで煮えくり返っているが、ティアを怯えさせては本末転倒だ。
「ごめんなさい、つい。だめね、なかなか昔が消えなくて……ありがとう」
ティアは頬を緩め、夫の手に自分の手を重ねた。
「私は大丈夫。本当に辛くなったら、きっとアレク様に言うわ」
「約束だよ、ティア」
半信半疑のまま、クロードは念を押した。
「君の辛い思い全て、私が取り去ってしまいたい。毎日笑って過ごせるよう、君を苦しめる者はみな――」
「なりません」
不穏なことを口走ろうとするクロードを、ティアはきっぱり窘めた。
「この国を害する者はみな、と仰って。私も例外ではないと」
「そんなことは言えないし、言いたくない」
「私情と政を天秤にかけてはいけないの。本当はアレク様も分かっているのでしょう?」
もちろんクロードにも分かっている。
万が一のことがあれば、どれほど愛しい妃でもたとえ我が子でも、国の為に手をかけなければならないことは。
それでも今は考えたくなかった。
ようやく手に入れたかけがえのない幸せを噛み締めていたかった。
「君は本当にいい子だね。……たまには悪い子になってもいいんだよ?」
「では、わがままをもうひとつ」
「うん。何でも言って」
眩い笑みを浮かべたクロードに向かい、ティアはある願い事を口にした。
翌日。ティアの元に一通の手紙が届けられた。
侍女は不思議そうに首をかしげながら「王太子殿下からのようですが……」と銀のトレイをティアに差し出した。そこから手紙を取り上げ、ティアは深々と息を吐く。
「私が呼ぶまで、一人にしてくれる?」
「かしこまりました」
主の嬉しそうな顔を見て、侍女も笑顔になる。いそいそと部屋を出て行く娘の背中を見送り、ティアは書机の前に座った。
レターナイフを使って慎重に封を切り、中から便箋を取り出す。
『 我が最愛の妻へ 』
書き出しを目にしただけで、ティアは早くも喉を詰まらせた。
「私の大切なティアへ」そんな書き出しで始まる手紙を、ティアは心の支えにしてきた。今でも大切に保管してあるクロードからの手紙は、繰り返し読んだせいで、その一言一句を覚えている。
『我が儘なんていうから期待したのに、まさか手紙だとはね。
でも宝石や二人きりの遠出をねだらないところが、すごくティアらしいと思ってしまったのも確かだ。
どうか誤解しないで。無理を言わない君だから好きなんじゃない。
どんな願いでも、それが君の本心からの言葉なら、私は叶えずにいられないだろう。
ティアには私の正気を疑われているようだから、この際はっきりさせておくね。
私が君を際限なく甘やかしたいと思っても、きっと君は止めるよね。
そんな君だからこそ、私は本音を口にできる。
立派な王太子であるべく、私は常に自分を制してきた。
いつの間にか、何が欲しいのかも分からなくなるほどだった。
全ては国の為。愛する家族の為。それが辛かったとは言わない。むしろ、ある意味幸せだった。
だけどふと立ち止まった時、自分の為に何かを渇望する気持ちが消えてることに気づいたんだ。
寂しい、というより侘しいと思った。そんな調子で国の為の生涯を淡々と終えるのだと思っていた。
君に会うまでは。
いや、違うね。君を好きになるまでは、だ。
なんせ私たちの出会いは、ロマンティックとはかけ離れていたからね』
クロードの明け透けな心情が、率直な筆運びで書かれている。
ティアは何度も頷きながら、視線を走らせた。
『君に送った手紙の中で、私は何度も書いたよね。
どんなに離れていても、私の心は、魂は君の傍らにあると。
あれは嘘でも誇張でも何でもなく、本当のことだよ。
今でも同じだ。
君のぬくもりを肌で感じることが出来る今も、私の心は君が持っている』
ぽたり、ぽたり。切ない音を立てながら、大粒の涙がティアの頬を転がり落ちる。
どこまでもまっすぐで強烈な愛の告白に、ティアは泣かずにはいられなかった。
「わたしも同じですわ、アレク様」
ティアは呟き、改めて決意を固めた。
これからも決して諦めない。
王太子殿下にふさわしいのはパトリシア妃以外にないと、いつか周囲にも認めさせてみせる。努力が足りないというのなら重ねよう。歩み寄りが足りないというのなら教えを請おう。
ファインツゲルトの皇女としては最後まで不足だったかもしれないが、人生はまだ続いている。
泣き虫なティアが強くあれるのは、彼女の心を最愛の人が預かってくれているからだ。
代わりに怒り、傷つき、慰めてくれる。
こんなに幸せなことがあるだろうか。
『君がサリアーデに来てくれて、私の日常は一変した。
君がいてくれるだけで、私は本当に幸せなんだ。
そのことが上手く伝わっていますように、と願うばかりです。
忘れないでね。どんなことがあっても、私はティアを愛するよ。
君が死ねば、私の心も死ぬ。
なんて、これじゃ脅しみたいだ。
君の要望通り、思ったままを素直に書いただけだから、許してくれると嬉しい』
手紙の結びは、去年までと変わらない。
「貴女の忠実な下僕 アレク」
ティアの発した言葉はそのままクロードの文字になり、便箋の最後を飾った。