42.リセアネとグレアム
「ほら、どうした! もう終わりか?」
フィンの剣が若いフェンドル兵の籠手を掬うように跳ね上げた。
それほど力を込めたようには見えなかったのに、相手の剣は手から離れ、空を舞って少し離れた地面に突き刺さる。
フィンの一連の動きは鮮やかで、洗練された舞のようですらあった。
試合を見守っていた兵士たちの間から、歓声が上がる。負けたフェンドル兵は悔しそうだったが、これまでフィンは誰にも負けていない。胸を貸してもらったのだ、と潔く諦めて一礼した。
「すごいわ!」
場外の柵の外から見物していたリセアネも、手を叩いて喜んでいる。
そんな妹姫を、クロードは呆れ顔で窘めた。
「こら。リセはフェンドル兵の味方をしなきゃ駄目じゃないか」
「これはただの訓練でしょう? フィンは家族同然なんですもの。エド義兄さまとだったら、エド義兄さまを応援するけど、知らない人相手には負けて欲しくないわ」
愛らしく唇を尖らせたリセアネではなく、クロードの視線は彼女の後ろに向けられた。
「では、私が相手だったらどうだ?」
突然後ろから響いた声に、リセアネの耳が痺れる。
まさか……こんなに早く到着するはずはない。でもこの声は確かに――。
素早く振り返ろうとしたリセアネを、彼の人は背後から優しく抱きしめた。
背の高いグレアムに抱きかかえられる形になった妹姫の驚いた顔を見て、クロードは口元を緩めた。
「これは陛下。まさかもういらっしゃるとは」
「ああ、全速力で飛ばした」
「理由をお伺いしても?」
からかいを帯びた兄の声色は、半分以上耳に入ってこない。
リセアネの美しい頬は、熟れたコケモモよりも真っ赤に染まってしまった。
「決まってるだろう。我が妃に一刻も早く会いたかったからだ」
「……仰いますね」
率直な答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。クロードもグレアムの明け透けな物言いに驚きの表情を浮かべた。
「陛下!」
ようやく状況が飲みこめたリセアネは、悲鳴を上げ身を捩った。
グレアムは大人しく手を離し、自分に向き直って柳眉を逆立てる王妃を面白そうに見つめる。
「驚かせないで下さいませ! そ、それに、私にご帰還の挨拶もさせないなんて、酷いわ!」
「言ってくれ、私も聞きたい」
グレアムは余裕たっぷりにリセアネを促してくる。
黒の乗馬服にマントを纏った旅装の彼は、いつにも増して精悍に見えた。
端正な顔に疲れの色は見えない。代わりにリセアネを落ち着かなくさせる類の情熱が、焦げ茶色の瞳には宿っている。
「おかえりなさいませ、陛下」
まともに視線を合わせるのが恥ずかしい。それでも必死に我慢し、リセアネはグレアムを見つめ返し挨拶を述べた。
「今、戻った。不在の間のことは、レオンハルトから報告を受けている。よくやってくれた」
本心からだと分かるねぎらいの言葉に、リセアネの胸が熱くなる。
たった一言で、頑張って良かったと素直に思えるのが不思議だ。
感激のあまり瞳を潤ませたリセアネを見て、グレアムはわざと大きな溜息をついた。そのまま膝をかがめ、愛らし過ぎる妻に耳打ちする。
「頼むから、そんな顔は外ではしないでくれ」
吐息混じりの甘い声に、リセアネは飛び上がりそうになった。
「ど、どんな顔です!?」
「今ここで教えてもいいが、困るのは王妃だぞ?」
グレアムの艶っぽい眼差しを真正面から受けてしまい、リセアネはしゃがみ込みたくなった。
年の差、そして経験の差からくる戸惑いと羞恥で真っ赤になった王妃を眺め、グレアムは苦笑した。
突然姿を現した王に、訓練場は静まり返っていた。
整然と並び直したフェンドル兵と近衛騎士の間に、フィンはポツンと立っている。随分と居心地が悪そうだ。リセアネを再び抱き寄せると、グレアムはフィンに目を留め声をかけた。
「なかなかの腕前だな。どうだ、私とも一戦交えてみるか?」
「恐れ多いことでございます」
胸に拳をあて辞退するフィンを見て、クロードが微かな笑みを浮かべた。
「では、その勝負。私が代わりに受けましょう」
「ほう?」
リセアネの頬から血の気が引く。
クロードの剣の腕は凄まじい。優美な外見からは想像もつかないほど容赦のない戦い方をする。
グレアムが剣を手にしたところを一度も見たことのないリセアネは、見当違いの不安に取りつかれ、思わず手を伸ばしてしまった。
「陛下……」
自分のマントの端をぎゅっと握り込んだ王妃を見下ろし、グレアムは安心させるように頭に手を乗せた。
「なに、ほんの手合せだ。心配するな」
「でも――」
「それで? 我が妃は、どちらを応援するのかな?」
「陛下に決まっています!」
リセアネが間髪入れずに叫んだので、両陛下の微笑ましいやり取りを見守っていた訓練場の兵士達は、一斉に湧いた。
簡単な胴鎧と籠手を身に付け、潰した剣ではなく木刀を持ってグレアムとクロードは向かい合った。
二人ともかなりの力量の持ち主なので、万が一綺麗に入ることがあれば剣先が潰れた剣でも致命傷になりかねない。
木刀であれば骨折程度で済むだろうという配慮がそこにはあるのだが、何も知らないリセアネとティアは彼らが手にした得物を見て、安堵の表情を浮かべた。
「恐れながら、ご婦人方の前です。どうか、自重下さいますよう」
念の為、フィンは小声で二人に奏上した。
「分かってるよ、フィン」
「ああ、大丈夫だ」
クロードもグレアムも同じような返答を口にしたが、次の瞬間にはもう動いていた。
目にもとまらぬ速さで抜き放たれたクロードの一撃を、グレアムは難なく受け止める。そのまま跳ねのけ、グレアムは返す刀で上段から振り下ろした。
微かに体をずらすことでクロードは太刀筋を避けた。間髪入れずに半身を返し、二撃目を入れようとしたところでグレアムは大きく後ろへ飛びすさる。
膝をたわめ着地し、その反動を利用してクロードの左側に飛ぶ。利き手ではない側に回り込まれそうになったクロードだったが、刀を逆手に持ち替え振り向きざまにグレアムの一振りを受け止めた。
風を鋭く切り裂く音と木刀同士がぶつかり合う高い音が、リズミカルに場内に響いていく。
力比べではグレアムに軍配が上がるが、クロードは決してその力比べに持ち込ませようとしない。
二人のあまりに激しい打ち合いを前に、兵士たちは唖然とした表情を浮かべ、やがてただの観客と化した。
リセアネとティアも、口をポカンと開けたまま彼らの動きを目で追った。そのうち追い切れなくなって、はあ、と溜息をつく。
「兄様に張り合える方がいるとは思わなかったわ」
「……アレク様があれほどの剣の遣い手でいらっしゃったなんて」
二人は同時に口を開き、それから顔を見合わせて笑った。
始まった時と同様に、打ち合いも突然終わった。
息を乱していない所をみると、確かに『ほんの手合せ』だったのだろう。
訓練場にいた誰もが心の中で「化け物か」と呟いたのだが、リセアネとティアだけは嬉しそうな笑みを浮かべ、試合を終えた彼らを出迎えた。
「陛下は、お強かったのですね!」
無邪気に喜ぶリセアネをみて、グレアムは相好を崩した。
「なんだ、知らなかったのか」
「だって初めて見ましたもの」
「恐ろしくはなかったか?」
「真剣であれば、それはもちろん。ですが、今日の試合はとてもその……」
リセアネは俯き、ポツリと言った。
「凛々しくて素敵でしたわ」
耳まで赤く染めたリセアネは、触れなば落ちんといわんばかりの風情を漂わせている。
「……煽るなというのに」
グレアムは汗で湿った髪をかきあげ、無自覚に誘ってくる王妃から視線を外した。滅多なことで顔色を変えない王がほんのり目元を染めたのをみて、ティアは微笑みを浮かべる。
どこから見ても仲睦まじい相思相愛の夫婦だ。
ティアは、心からの祝福を彼らに送った。
私の大切なリセ様。あなたが私に下さったもの全てを、私はきっと忘れません。
どうかリセ様の幸せが、一生続きますように。
あなたの歩んでいくこの道が、笑いと愛で溢れたものになりますように。
四人で夕食をという話になり、連れ立って訓練場から引き上げる途中、クロードはティアの手を掴み引き留めた。
「私にはティアからのご褒美はないの?」
キラキラと瞳を輝かせ自分を愛しげに見下ろしてくる婚約者に、ティアは目を丸くした。
「ご褒美、ですか?」
「ああ。リセもグレアム王に言っていたじゃないか。ああいうの、欲しいな」
あっけに取られたのも一瞬、ティアは満面の笑みを浮かべた。
「アレク様が魅力的じゃない時なんてないんですもの。特に言葉は見つかりません」
「……それは反則」
流石のクロードも、ティアからまっすぐに向けられた信頼と愛情に降参の白旗を上げた。
再会の夜は更け、そろそろ休むという段になった頃。
リセアネに与えられている寝室にグレアムが姿を見せた。レオンハルトは抜かりなく王の為の部屋を整えていたはず。リセアネは訝しげに眉を寄せた。
「陛下? 一体どうされたのです」
「どうしたとはご挨拶だな。妻の寝室を訪れた夫には、もっと違う出迎えの言葉があるべきではないか?」
くつろいだ寝衣を身に纏ったグレアムは部屋の中に入ってくるなり、リセアネの髪を梳かしていた侍女に声をかけた。
「下がっていい。明日は起こしにくるな」
「か、畏まりましたっ」
グレアムの引き締まった長身をうっとりと眺めていた侍女は、その言葉でハッと我に返り、転がるように部屋から出て行く。
リセアネは白いナイトドレスに着替え、長い銀髪を下ろしていた。
そうしていると本物の精霊のようだ。
「会いたかった」
グレアムは立ち上がったリセアネの前に進み、軽々と彼女を抱き上げた。
「リセアネは? 私がいなくて寂しくはなかったか?」
目線を同じ高さにし、愛しげに瞳を覗き込んでくるグレアムを、リセアネもひたと見つめ返す。
「寂しゅうございました。手紙の一つも寄越しては下さらないんですもの」
「手紙なら出しただろう?」
「私宛の個人的なものはありませんでしたわ」
頬をふくらませ、不満を素直に表現するリセアネをもう幼いとは思わない。ただ愛しいだけだ。
頬を緩めたグレアムは、リセアネを寝台へと運んでいった。
壊れ物を扱うかのような丁寧な手つきで寝台の上へ座らせ、グレアムもリセアネの隣に腰掛ける。
「次があるなら、忘れずに私信を書く。……私は約束を守ったぞ。貴女を貰ってもいいな?」
「ええ」
リセアネは、グレアムから視線を外さずしっかりと頷いた。
これで本当の夫婦になれるのだと思うと、嬉しくて堪らない。
嫁ぐ前に、母から夫婦の床入りについてきちんと話を聞いてきた。万事抜かりはないはずだ。
「これで私は名実ともに陛下の妻になれるのですから、断る道理もありません」
「……意味が分かって言っていることを願うばかりだな」
照れなくリセアネがはきはきと答えるものだから、グレアムは逆に不安になった。
それでも、彼女を自分のものにしたいという気持ちを抑えることは出来そうにない。
「出来るだけ、優しくする」
「はい、グレアム様」
花開くようにリセアネは微笑み、初めてグレアムの名前を呼んだ。
「リセアネ……私もリセと呼びたい」
「呼んで下さいませ」
「分かった。これから二人でいる時は、私のことも名前で呼んでくれ、リセ」
「はい。グレアムさま」
リセアネは気づいていなかった。
自分がどれだけ危険な挑発をしたのかを。
無知による迂闊さを後悔したのは、その後すぐのことだった。