40.再会
サリアーデからの知らせが届いてからというもの、リセアネは指折り数えてグレアムの到着を待っていた。
ティアにはクロードからの手紙が程なくして届いたが、グレアムからは何の音沙汰もない。
突然ファインツゲルトの皇女の存在が明らかにされたことで、ランズボトムを始め重臣たちはさぞ驚いていることだろう。サリアーデから戻った後は、慌ただしく彼らの対応に追われているに違いない。
それにきっと兄様ほど筆まめな方ではないのだわ。リセアネは自らを慰めた。
窓際に近づき、青い空を見上げる。雲一つなく晴れ渡っているはずの空が、窓枠に固く填められた分厚いガラスのせいで綺麗に見えない。
グレアムとは離れていても同じ空のもとにいる。まだ幼かったティアから容赦なく奪われた母や兄弟のことを思えば、これほど贅沢な話もない。
だが自分でも信じられない程、グレアムが恋しい。彼の逞しい腕で、今すぐ強く抱きしめてもらいたい。離れている間寂しかった、とあの魅力的な声で囁いて欲しい。
「……ありえないわね」
女性に甘い兄を持った弊害が、ここにきてリセアネを苦しめている。兄ならば当然のように行うことをグレアムに望むのは酷というものだ。
リセアネは忍び笑いを漏らしながら、想像した。グレアムはきっと平素と変わりない厳しい顔つきで姿を見せ、言葉少なに「ご苦労だったな」と労ってくれるだろう。それで充分だ。
夫との再会を思い描いている間だけは、寂しさがほんの少し紛れた。
クロードが婚約者となったパトリシア皇女を迎えに自らやって来る、という先触れの届いたある日。
ティアは侍女たちを下がらせ、一人裏庭を散策していた。
北国の夏は短い。
ダルシーザの国境を越えてから二月ほどの間に、暦は秋を迎えている。
帰国を果たしたばかりの皇女の結婚を、ゲルトの民は祝福してくれた。どこへ出掛けていっても「おめでとうございます!」「お幸せに!」と声を掛けられる。
レオンハルトが流した『真っ先にパトリシア皇女の助命を請うたのが、サリアーデのクロード王子』という噂は、あっという間に国中に広がったようだ。
『囚われの姫を救った他国の王子、という分かりやすい図式が、特に女性の憧れの対象になっているようですよ』レオンハルトの報告を受け、ティアは頬を真っ赤に染めた。
実際はもっと殺伐とした話だった、とティアは懐かしく思い出した。
――『サリアーデに連れて帰り、飼って差し上げますよ』
冷たく自分を見下ろしたクロードに連れられ、マントのフードを深くかぶり、逃げるように祖国を去ったあの時とは全く状況が変わっている。
ファインツゲルトの最後の皇女としてサリアーデに嫁ぎ、みなに祝福されて最愛の人と結ばれるのだ。
こんな幸せがあってもいいのだろうか。
ティアは目の眩むほどの多幸感に若干の怯えを感じていた。
北の裏庭には、粗末な墓地とも呼べない場所がある。
母の名前と兄の名前を刻んだ石が、ドサリと投げ出されているだけの草むらに近づき、ティアは身を屈めた。
右手にようやくかき集めた草花を持ち、うやうやしく墓石の前に跪く。
「母様。兄様。遅くなって、ごめんなさい」
ティアは小さく呟き、そっと花を供えた。しばらく祈りの言葉を口の中で唱え、後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。
弟は地下の霊廟に皇帝ちちと共に眠っている。死してなおバラバラな家族にティアはほろ苦い表情を浮かべた。どうにもやりきれない気持ちで立ち尽くしていたその時。
「御一人で出歩くのは感心しませんね」
「レオンハルト様……」
ティアの居場所を侍女に聞いたのだろう。数歩離れた場所から声をかけてきたのはレオンハルトだった。
「すみません。でも……フェンドルの方たちに知られたくなくて」
ティアは俯いたまま、小声で弁明した。荒れ果てた裏庭に転がっているその石が王族の墓標だなどと、にわかには信じ難い話だろう。誰にも嘲笑われたくなかった。
「まさか、このような場所に……私の配慮が足りず、皇女殿下には大変申し訳なく存じます。今日中に教会のものを呼び、霊廟に埋葬させましょう」
レオンハルトは驚いたようにティアと墓石を交互に見つめ、それから痛ましげな声で言った。その声を聞いた途端、ティアの目から一筋の涙が溢れ出た。
「何から何まで、ありがとうございます」
慌てて涙を拭い、涙声で微笑んでみせる。
レオンハルトは、「失礼」と呟き、ティアの隣りにしゃがみ込んだ。手袋を外し、素手で苔と土に汚れた墓石を払っていく。
ティアにしか読めなかった母と兄の名前を、レオンハルトは丁寧な手つきでなぞった。
「……任期の限り、いいえ、いつかフェンドルに戻った後も、私の持てる力の全てでこの土地を守っていくと、ここで誓わせて頂けますか?」
片膝をついたレオンハルトに請うように見上げられ、ティアはすぐさま頷く。
愛する民の為に過ごせたのは、本当に短い時間だった。
ファインツゲルトの皇女ではなくなってしまう前に、祖国を誰かに託したい。その相手がグレアムとレオンハルトであることに、ティアは深く感謝していた。
「それは私がお願いしなければならないことです」
「では、許す、と」
レオンハルトの静かな声に背中を押され、ティアは微かに震える唇を開いた。
「許します」
「ありがとう」
レオンハルトが敬語を崩したのは、これが最初で最後だった。
「サリアーデ王国王太子、クロード殿下がおいでになられました」
「お通しして」
広い謁見の間に、ポツンと置かれた煌びやかな椅子2つ。
高座に置かれた主のいない椅子から数段下に、正装したリセアネとティアが並び、その脇に控えるようにレオンハルトが立っている。
兄の訪れを告げる侍従の声に、リセアネが凛とした声で答えると、重々しい扉がゆっくりと開いた。
白のロングコートで正装したクロードが、騎士団服姿のフィンをすぐ後ろに従え、颯爽とした足取りで部屋に入ってくる。
レオンハルトとフィンの2人は、それぞれ拳を胸にあてることで相手側の王族に敬意を示した。
「王妃陛下。お久しゅうございます」
兄妹であっても、クロードはまだ王位を継いでいない。今この場で一番身分が高いのは、フェンドル国正妃のリセアネであった。
まず彼女に向かって型通りの挨拶を述べ、クロードは美しい菫色の瞳をその隣に移した。
しばしの沈黙が謁見の間に落ちる。サリアーデにいた時よりも、更に輝きを増したティアを崇拝の眼差しで見つめていたクロードだったが、やがて優雅に一礼した。
「そしてパトリシア皇女殿下。再び、麗しきご尊顔を拝することが出来、大変うれしく思っております」
言葉だけとってみれば節度を弁えた再会の挨拶なのだが、声に籠った熱を隠しきることは出来ていない。ティアの白い頬は、瞬く間にバラ色に上気した。
「遠いところ、ようこそお越し下さいました」
ティアが口を開くと、クロードの表情がサッと変わる。
「――本当だったのですね。声が戻られたというのは」
恋しい相手の顔に浮かんでいる驚きの表情に、ティアの心臓は音を立てて縮んだ。
醜くしわがれたこの声を聞いて、クロードはどう思っただろう。
祈るような気持ちで言葉の続きを待っていると、クロードは一歩踏み出し、ティアとの距離を詰めた。
「皇女殿下のお声をこの耳で聞くことができ、今、私はとても幸せです」
クロードは迷わず右手を差し伸べ、ティアもそれに応えるように手を差し出した。
指先が触れあった瞬間、ティアは感極まってクロードの手をぎゅっと握りしめてしまった。
この手をどれだけ懐かしく思い出したか。ここに誰もいなかったなら、きっと泣き出してしまったに違いない。
リセアネとフィンは親しげな目配せを交わし、一度も会えないままずっと想い合ってきた二人の再会を微笑ましく見守った。
「レオンハルト。貴方ももう下がっていいわ。お茶の準備が整った頃でしょうし、歓談室に移動します。兄様もフィンもお疲れでしょう? 熱いお茶でどうぞ温まって下さいな」
弾んだ声でリセアネが提案すると、クロードとフィンはくつろいだ雰囲気を漂わせた。クロードはちゃっかりティアと手を繋いだままだ。
レオンハルトは表情を変えることなく「かしこまりました」と頭を下げ、退室していった。
「では、お言葉に甘えることにしようか」
「ブランデーを落として貰えると、ありがたいんだけどな」
「フィンったら!」
幼い頃から兄妹同然に育ってきた近衛騎士の軽口をとがめると、フィンは肩をすくめた。
「だって、今から甘すぎるクロードの台詞を近くで延々と聞かされるんだぜ? 先に酔わなきゃ、やってられないだろ」
「それもそうね。私も一杯頂こうかしら」
リセアネが真面目な顔つきでわざとフィンに合せるものだから、ティアは目を丸くして「リセ様!?」と声を上げた。
クロードはやんわりとティアの手を繋ぎ直し、宥めるように微笑みかける。
「冗談だよ、ティア。リセは飲めない体質なんだ。酒が嫌いみたいで」
「それは兄様たちのせいでしてよ! 小さい頃、ナタリー姉様と光の宮に遊びに行ったことがあったの。その時、兄様たちったらね――」
久しぶりに兄に会えて嬉しくてたまらないリセアネが、昔話を面白おかしく披露すると、ティアは声を上げて笑った。
クロードとフィンは「昔のことなのに、よく覚えてるな」「あれは酷かった」などと顔を顰めている。それがまたおかしくて、ティアはなかなか笑いを止めることが出来なかった。
和気藹々と歓談室に移動し、給仕の者が下がるのを見届けると、クロードは人目をはばかることなくティアを見つめた。
ティアもまた、真っ赤になりながらも嬉しそうにクロードを見つめ返すものだから、リセアネとフィンはすっかり甘い空気に酔ってしまう。
「完全に傷は癒えたの? もう痛まない?」
「ええ、大丈夫です、クロード殿下。でも――」
「アレクシスだよ、ティア。君には本当の名で呼んで欲しい」
「……アレク様にこの声を厭わしく思われたら、どうしようかと」
「ありえないな! でも出来れば、君の声を初めて聞くのは私でありたかった」
「アレク様……」
いつまでここにいればいいのか。耳が燃え落ちていないのが不思議でならない。
耳たぶを確かめながら、本気で酒を頼みに行こうと考え始めたフィンの袖を、リセアネはつんと引っ張った。
絞った声量で、リセアネはフィンに訴える。表情を見れば彼女もうんざりしているのが丸わかりだった。
「もう限界ですわ。フィンは?」
「同じく」
「抜けましょう」
「お供しましょう」
こそこそと顔を寄せ合って密談し、リセアネはたった今思いついた、というように両手を打ち鳴らした。
「大変! 私、急用を思い出したわ。フィン、供をお願いできる?」
「もちろんです、王妃陛下。恐れ多くも陛下を御一人で歩かせるわけには参りません。よろしいでしょうか、我が主」
突然始まった二人の小芝居に、クロードは笑い出しそうになるのを堪え、もっともらしい顔で頷いた。
「そうだな。頼むよ、フィン」
「では、しばし御前を失礼します」
フィンは席を立つと踵を合わせて礼を取り、それから腰を折ってクロードに耳打ちした。
「まだ式の前だ。姫様に悪さするなよ、クロード」
「するわけないだろう!」
舌打ちして睨み付けるクロードの視線を人の悪い笑みで躱し、フィンはリセアネを促して部屋の外へと出て行った。
あれよあれよという間に二人きりになり、ティアは困惑の表情を浮かべた。クロードはティアの手を取り、戸惑いながら立ち上がったティアをテーブルから少し離れたところに連れて行く。
クロードはおもむろにティアの前に片膝をついた。
「アレク様?」
「――こんな形でしか君を迎えに来られなかった私を、どうか許して欲しい」
クロードは希うようにティアを見上げた。
「だが、ようやく言える。貴女を愛していると」
真摯な声で愛を告げられ、ティアの心は歓喜に染まった。
「私はいずれ王となり、サリアーデを守らなければならない。忠誠と剣は、すでに王国に捧げた身だ。だけどこの心はもうずっと、君だけのものだ。ようやく祖国に戻ることが出来た君に、苦渋を強いることになってしまうが――お願いだ。私の后としてサリアーデに来てほしい」
ティアの頬はしとどに濡れていた。次々に零れる涙をそのままに、ティアは頷いた。
「アレク様のいるところに私も参ります」
クロードは立ち上がり、震えるティアを優しく抱きしめた。それから耳元で囁きかける。
「……君を何と呼ぼうか。もう名を隠す必要はないだろう?」
「私はパトリシア皇女としてサリアーデに嫁ぎます。でもあなたの前でだけは、ただのティアでいてもいいですか?」
「もちろんだよ、私のティア」
ファインツゲルトの最後の皇女は、今度こそ消える。
クロードの隣で、ティアはこれから光の道を歩んでいく。
幸せなことばかりではないはずだ。妬みや謗りは避けられない。
それでもティアは、どうしようもなく幸せだった。
ようやく、幸せを自分でも許すことが出来る。
<ごめんなさい>
私だけ幸せになってしまって、本当にごめんなさい。
心の中で母、兄、弟。そして死んでいった多くの民に頭を下げる。
いいから幸せになれ。
彼らは笑ってくれた気がした。
リセアネが話していた昔話は、以前活動報告に上げたナタリア小話です。
http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/388527/blogkey/880066/
「酔っ払い(ナタリア小話)~リクエスト企画第四弾」
気になる方は、こちらをご覧下さい




