39.届いた知らせ
ここはダルシーザの首都ハージェス。
長い旅程を終え、ようやくかつての皇城に到着したリセアネとティアを出迎えたのは、城門前や城壁に鈴なりになったフェンドル兵だった。
「王妃陛下だ!」「おお、なんと美しい!」
先に馬車から降りたリセアネに向かって、大きな歓声が湧き起こる。
祖国を離れて一年あまり。フェンドルから派遣されている兵や文官の間には、疲労と不満が溜まり始めている。そんな重い雰囲気を吹き飛ばすような王妃のダルシーザ視察に、皆明るい表情を浮かべた。
リセアネも、レオンハルトから現状はすでに聞かされていた。
思い切り華やいだ笑みを浮かべ、歓声に手を振って応える。
「うわ! 王妃様が手を振って下さったぞ!」「馬鹿、お前にだけじゃないだろ!」
ドッと笑いが起き、兵士たちがお互いを小突きあう。
後続の馬車から降りてきたティアは、リセアネのお蔭で注目を浴びずに済み、胸を撫で下ろした。首元が露わになっているせいで、どうにも落ち着かない。
前皇帝に虐待されていた、という彼女の過去こそが重要なのだとレオンハルトに諭され、ティアは今日も襟ぐりの開いたドレスを身に纏っている。
引き攣れた傷跡を首に刻んだ彼女はまさしく、美しくも哀れな亡国の皇女だった。
「喉の傷はお隠しにならないで下さい。直接殿下の姿を見たことがある者は、この国にはもう残っていない。殿下のその傷こそが、皇女の証なのです。偽者を皇女に仕立てあげているとの謗りを受けない為にも、どうかご辛抱を」
「分かっています。……気遣って下さってありがとう」
ティアの穏やかな返答に、レオンハルトは驚いた。
「――なぜ、礼など」
「私の感情に配慮して、そう言って下さったのだと思って」
レオンハルトはあっけに取られティアを見つめていたが、やがてふいと視線を逸らしてしまった。
「そういうつもりはありません。今取りうる、最善の方法を口にしたまでのこと」
レオンハルトの目の端がほんのり赤くなっている。ティアは自分でも気づかぬうちに微笑んでいた。
「一より百の、百より万の民の為に尽くすのは、難しいことですわね。それを成そうとしていらしゃるレオンハルト様はご立派な方です。……もっと冷酷なやり方でダルシーザを管理することも出来るはず。そして、その方が楽ではありませんか?」
レオンハルトはまっすぐに見上げてくるティアの眼差しを受け止めきれず、視線を外したままそっけなく返事をした。
「……どうやら殿下は、ずいぶんと私を買い被っているようだ」
儚げな見た目とは裏腹に一本筋の通った強さを秘めている、この型破りな皇女に、レオンハルトの心はかき乱されっぱなしだ。
だがいつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。気を取り直し、レオンハルトはティアに左肘を差し出した。
「どうぞ、こちらへ。復興を手伝ってくれているファインツゲルト人を紹介します」
どうやら、エスコートしてくれるつもりらしい。ティアは遠慮がちに彼の腕に手をかけ、歩幅を合わせてくれるレオンハルトの誘導で城の中へと入っていった。
嫌悪していた豪奢な装飾品や調度品などは、全て取り除かれている。ガランとした城の様子に、ティアは寂しさよりも安堵を覚えた。
そして引き合わされたファインツゲルトの役人らと共に、夕食をとることになったのだが――。
「よくぞ生き延びて下さいました」
彼らは皆、口々にティアの無事を喜んでくれた。
話を聞くところによると、レオンハルトは必要以上に各地の領地経営には介入せず、今は中央と領主のいなくなった土地を中心に治めているのだそうだ。
前皇帝派だった大貴族たちはみな戦の際に処刑されたので、ダルシーザに残っているのは反皇帝派だった小貴族だけらしい。
亡くなった皇帝派の貴族の奥方や子供達はどうなったのか、とティアが問うと、彼らは意味ありげに顔を見合わせた。
「そちらにいらっしゃるレオンハルト様が、速やかに処断なさいましたよ」
どうか憐みを! 泣き叫び縋ってくる彼女達を、レオンハルトは「貴女方は、そう泣いて慈悲を乞うた民に、一体何をしましたか」と、にべもなく撥ね退けたのだという。
結局彼女らは身分をはく奪され、それまで住んでいた屋敷を追われることになった。突然平民に落とされた彼らが、市井で生き抜くことは難しい。長年虐げられてきた民達が彼らを許す可能性は低かった。
「流石は氷の猛将殿です」
ゲルトの役人の一人は揶揄するように宗主代理の二つ名を口にした。当のレオンハルトは、気にした様子もなく食事を続けていたのだが、隣に座っている皇女が突然自分を弁護し始めたのには驚いてしまった。
「冷静で妥当な判断です。亡き父におもねった貴族に連なる者をそのままにしておけば、この国は再び膿むことになる。立派な殿方が、泣いているご婦人を何も感じずに無下に扱うとは思えません。憎まれ役をかってでて下さったレオンハルト様に、私は深く感謝しております」
ざらついた低い声で、それでもティアはきっぱりと言い放った。
「私が、やらなくてはいけなかったことでした。それが出来なかったからこそ、ファインツゲルトは滅んだ。形ばかりの皇女であることを、今でも恥ずかしく思っています。――どうか、お願いです。フェンドルへの恨みや憎しみは捨てて下さい。未だ苦しむゲルトの民の為に、どうか力を貸して下さい」
深々と自分たちに頭を下げた皇女を見て、件の発言をした男は決まり悪そうに俯いた。ダニエル・クリストフは、賛美の色を隠そうともせずにティアを見つめている。
「……私からもお願いしたい。復興に時間がかかればかかるほど、民の疲弊は増していく。誰も住まない荒れた国にしたくはないのだ。どうか、力を貸して欲しい」
レオンハルトの請願に、その場に居合わせた者はみな度胆を抜かれた。彼らがここに集められ半年が過ぎているが、戦勝国の敵将であるレオンハルトに、今のような言葉をかけられたのはこれが初めてだったからだ。
「もちろんです、レオンハルト様。名は変わろうとも、我らの祖国であることに変わりはない。全力を尽くす所存です」
ダニエルが口火を切ると、次々に賛同の声が上がっていく。ティアは泣きそうになるのを必死に堪え、きゅっと唇を引き結んだ。
感謝を述べようとレオンハルトの方を見ると、すでにこちらを見ていた彼と視線が絡む。
「ありがとうございます」
囁き声にも似たティアのか細い声に、レオンハルトは柔らかな笑みで応えた。
ティアが案内されたのは、かつて母が使っていた部屋だった。
寝台はそのままに、寝具などは全て新しい物に取り換えられている。長年、主がいなかったとは思えないほど、部屋は綺麗に整えられていた。レオンハルトの細やかな心配りを感じ、ほう、と息をつきながら辺りを見回す。それからティアは翡翠の簪を髪から抜き取り、磨かれたライティングデスクの上にそっと載せた。
「帰ってきましたわね、母様」
生まれてすぐに死に別れた母の記憶など持っていない。それでも、エルザにねだって教えてもらった母の話の一つ一つをティアは大切に胸にしまっていた。
しばらく形見の簪を眺めていたティアだったが、ふんぎりをつけるようにして寝台にもぐりこんだ。眠りに落ちる前は必ず、クロードからの手紙を読み返すことにしている。何度も広げたせいで、くたくたになってしまっている紙を丁寧に伸ばし、枕元の燭台の明かりに透かして文字を追う。
力強いクロードの筆跡を目にするだけで、ティアの心は温かく満たされるのだった。
「私の大切なティアへ」「あなたの忠実な僕 アレク」
書き出しと結びの文は、いつも同じ。手紙の中身は、彼の日常とカンナ達の近況報告が大半を占めていたが、その端々に自分への愛情が仄めかされている。
「君にも見せたい」「ここにティアがいたら」「貴女を想わない日はない」
そんな言葉を替えの訊かない宝石のように、ティアは心の奥に隠し持っていた。
何かある度に引き出して眺め、彼かの人の声や姿を思い起こす。忘れたくない、と強く想っているせいか、今でもありありとクロードの姿を思い描くことが出来た。
「アレク様」
声に出してみて、自分の声の醜さにハッと我に返った。
彼はサリアーデの王太子だ。近いうちに、彼にふさわしい身分の立派な令嬢と華燭の典を挙げることになるだろう。その知らせが最後の手紙になるのだろう。
アレクシス、という特別な呼び名もその時、王太子妃にお返ししなくてはならない。
呼び慣れてしまわぬように、とティアは最近では「アレク」という呼びかけを使うことは避けていた。
「クロード殿下」
呟くように言い直してみる。二人の間に厳然と横たわる身分の差が、改めて胸に迫る。
ティアはうっすらと浮かんできた涙をぐいと拭い、丁寧に手紙をしまってから目を閉じた。燭台の小さな灯りだけが、ようやく主の戻った部屋をゆらゆらと照らしていた。
それからしばらく経ったある日。
リセアネが飛び跳ねるようにして、ティアの居室に飛び込んできた。手にはしっかりと書簡を握りしめている。
「ティア! やったわ! ねえ、やったのよ!」
リセアネは大声で叫んだかと思うと、城下の視察に出かける準備をしていたティアに飛びついた。
支度を手伝っていた侍女たちを部屋の外に追い出し、あっけに取られているティアに迫る。
「サリアーデから早馬が来たの。ねえ、ティア。兄様の婚約者が正式に発表されたわ!」
ティアの顔色は、一瞬のうちに青ざめた。
小刻みに震える唇で「お、おめでとうございます」と祝福の言葉を紡ぐ。リセアネは今にも倒れそうなティアに向かい、勢いよく首を振った。
「違うの、待って! まだ気絶しないでよ、ティア。ここからが本題なんだから」
聞きたくない、耳を塞いでしまいたいと願うティアの顔を両手で挟み、リセアネは容赦なく続けた。
「兄様の政略結婚のお相手は、旧ファインツゲルトの第一皇女・パトリシア殿下ですって。……ああ、ティア。あなたが兄様の花嫁になるのよ!」
感極まったようにリセアネは叫び、手紙を荒々しい手つきで広げて、ティアの目の前に突き付けた。
「ほら、サリアーデ国王フィリップって玉璽があるでしょう? お父様からの正式な手紙よ!」
そしてそのまま玉璽の押された手紙を応接机に放り投げ、ティアの両手を取ってくるくると回り出す。
されるがままになっていたティアの頬に、ようやく赤みが戻ってきた。
「待って、下さい。そんな! そんなこと、ありえませんわ!」
「だってもう決まったことなんですもの。ティアにも私にもどうすることも出来ないわ。そうでしょ?」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせたリセアネに、ティアはとうとう泣き出した。
「リセ様……りせ、さま」
自分の知らないところで、奔走して下さったに違いない。グレアム王がサリアーデまでわざわざ出向いていったのは、自分のことをフィリップ王に直接頼みに行くためだったのだ、とようやく気がついた。
「陛下に頼んで下さったのですね? そして、陛下も骨折って下さったのでしょう?」
ボロボロ泣きながら確かめてくるティアを、リセアネは思い切り抱きしめた。小柄なリセアネの方がすらりとしたティアより小さいのでいまいち決まらないが、それはもう仕方ない。
「私は自分の為にしたのだし、陛下は……そうね、罪滅ぼしの為になされたのだと思うわ」
「仰っている意味が、よく分かりませんわ」
しゃくりあげながらティアが唇を尖らせる。
罪滅ぼしなどする必要がない。グレアムは、あのまま国民全てを巻き込んで滅ぶはずだった祖国を救ってくれた救世主だ。
たとえあの時、彼の手で首を刎ねられたとしても、最後までティアはグレアムに感謝し続けただろう。それほどの絶望の中に、ファインツゲルトはあった。
「ラドルフ皇子のこと、陛下から聞いたわ。まだ陛下が王太子だった時分に何度か会われたのだそうよ」
「兄様、と?」
「ええ。ラドルフ皇子は、いつも下の妹のことを気にしていた、と。いずれ自分が皇帝になったら、うんと甘やかして大切にするのだ、と口癖のように仰っていたのだとか」
とうとうティアは膝から崩れ落ちてしまった。
次々に溢れてくる涙で、前が見えない。嗚咽を漏らしながら今はいない兄を呼ぶティアに、リセアネまで泣き出してしまう。
リセアネは一緒になって床に座り込み、美しい頬を涙で濡らしながら、ティアの肩を抱いた。
「ねえ、お願いだから、そんなに泣かないで。私まで、泣けてきてしまったじゃないの!」
それから半刻後。
皇女の部屋の前を、困ったようにうろついている侍女たちをレオンハルトが発見した。
「一体何の騒ぎだ」
「それが……突然王妃様がいらっしゃって、私達を締め出してしまわれたのです」
レオンハルトの冷たい美貌に気圧され、一人の侍女がおずおずと口を開く。
彼は肩をすくめ、溜息をついた。
朝方早くにやってきたサリアーデからの早馬は、どうやら王妃の悲願達成の知らせを運んできたらしい。
「控えの間に戻っていい。今日の視察は私一人で出向く。皇女殿下に呼ばれたらそう伝えるように」
「かしこまりました」
レオンハルトは短く告げると、すぐに踵を返した。
皇女がここに長く留まることはない。最初から分かっていた未来なのに、何故か胸が小さく軋んだ。