4.身代わりの代償(後編)
哀れを誘わずにはいられない掠れた泣き声が大理石の床に反響した。声の持ち主であるエルザの傍に付き添ってゆっくりと歩みを進めている騎士は、もう何度目になるか知れない深い溜息を吐いた。まっすぐに前を見つめ、揺らぐことのない決意を固めたパトリシアがその後に続く。
「おや、フィンじゃないか。ということは、見つかったんだね」
亡国の姫の哀れな半生の全てを道々エルザから聞かされ、どうしろというのだ、と頭を抱えていたフィン・パッシモは思わぬ人物の声にハッと目線を引き上げた。
ガランとした人気のない通路の奥から、数名の近衛騎士を引き連れた彼の主人がこちらに向かってくるのが見える。フィンはすぐさま決心した。身に余る事案ならば、さっさと誰かに丸投げしてしまうのが一番だ。
「クロード殿下。僅かな時間で構いません。話を聞いて貰えませんか」
長い付き合いの腹心の友でもあるフィンが珍しく真剣な顔をしている。
これは何かあったのだな、とクロードは美しい眉を上げた。
「いいだろう。その部屋はどうだ。中を改めろ」
サリアーデ王国の王太子であるクロードの声に、護衛らはすぐさま動いた。すらりと剣を抜き放ち、ちょうど前を通りかかった一室の中に踏み込んで、誰もいないことを確認して出てくる。
「この部屋は安全なようです、殿下。隠し扉のようなものも見当たりませんでした」
「分かった。では扉から距離を取りつつ、ここを守れ。私が出てくるまで、誰一人通すな」
普段は柔和な人当たりのいい笑みを絶やさないクロードなのだが、流石に戦場では厳しい軍人の顔つきになるらしい。想像以上のこの国の荒廃ぶりに、胸が悪くなるほどの怒りを覚えているからでもある。
それでも、すれ違う誰もが目を奪われるほどの美貌は少しも損なわれてはいなかった。エルザとパトリシアの息を飲む音が聞こえ、フィンは内心顔を顰めた。クロードの美しさは老若男女、時と場所を問わず影響を及ぼすらしい。
エルザとパトリシアを従え、クロードに続いて無人の部屋に入った。
「で、早速聞こうか、フィン。グレアム王はかなり首を長くしてお待ちのようだよ、その」そこで一端言葉を切り、改めて不思議そうにエルザとパトリシアを交互に眺めた。
「エルザというのは皇女の乳母だそうだから、そちらの若い方ではないだろう」
「はい、殿下。実は、この若い方こそがパトリシア皇女なんですって。暴虐な所業を諌めようと進言した為、実の父である皇帝に喉を突かれ声は出ません。ここ数年塔の上にある牢獄に幽閉されていたそうです。今捕らわれている娘さんこそが皇女の侍女で、エルザの娘カンナらしいんですが」
手短に事情を説明する。パトリシアはフィンの言葉を受け、嘘ではない、と言わんばかりに侍女の制服のボタンをいくつか外し、自身の喉に残る引き攣れのような傷跡を示した。
あっけに取られたような表情で話を聞いていたクロードだったが、辺りが沈黙に支配されると、たまらず声を上げた。
「言うなよ、私にそんなこと! 一体どうしろというのだ、フィン」
「同じ台詞を謹んでお返ししますよ、殿下! こんなこと貴方にしか言えやしないでしょうが」
幼馴染である彼らの気安いやり取りに、パトリシアもエルザも目を丸くしている。臣下であるフィンが王太子に向かってそんな物言いをしたのだから、首を刎ねられたって文句は言えないのではないか。
二人は同じような怯えの表情を張り付かせ、クロードの方に視線を向けたが、彼に激昂の色は少しも見られない。
「ここまで国を荒れさせたんだ、皇帝の血筋を残しては後々為にならないっていうのは分かります。でも、だからと言って罪のない侍女が処刑されるのも、今まで散々酷い目に合ってきた皇女殿下を引き渡すのも、あんまり可哀想じゃないですか」
フィンの主張に、クロードは僅かに首を振った。この国を攻め滅ぼしたのは、あくまでフェンドル国なのだ。同盟に準じて兵を貸しただけのサリアーデの跡継ぎが、そのフェンドル王の判断を覆すような真似を出来るはずはない。
「どうしようもないよ、フィン。彼女に選ばせよう。身代わりを死なせるか、己が死ぬのかを」
パトリシアを想って身代わりを申し出た侍女を持つほどなのだ。きっとこの皇女の人柄は素晴らしいものなのだろう。しかも喉が使えないとなれば、この敗戦を生き延びたとしても玉座に返り咲く為の手段を持っているとは思えない。そもそも彼女を手助け出来るような貴族など残ってはいない。クロードに出来ることと言えば、身代わりの事実に知らぬふりを貫くことだけだった。
<わたしは、じぶんのせきにんをとります。おおぜいのたみをしなせたというのに、わたしひとりがいきのびるつもりはありません>
それまで黙って控えていたパトリシアが、一歩前に進み出し、ゆっくりと大きくその唇を動かした。
その拍子に荒れて乾ききった唇の端が切れ、真っ赤な鮮血が口の端に滲む。
クロードは彼女の唇に魅入られたかのように、身じろぎもせずじっと見つめた。
<どうか、カンナをたすけて>
喉から洩れる息が痛々しい。フィンは、それでいいのか、と挑むような目付きでこちらを睨んできている。クロードは、肩を落として力なく両手を挙げた。降参だ。
年のころは、妹のリセアネと同じくらいだろうか。凛とした光を宿す潤んだ瞳からまだ若いということが知れるのだが、リセアネとは違ってやせ衰え、頬はこけて目の下は落ち窪んでいた。元の顔立ちが分からない程に。
どうしたらこんな酷い仕打ちを実の娘に出来るのだろう。
これがもし、ナタリーやリセだったとしたら?
そこまで想像し、クロードはぞくりと背筋を這い上る恐怖に身震いした。
とても耐えられそうにない。
だが、助けようとそのまま申し出ても、彼女は決して同意しないだろう。皇女としての役目を全うせねばなるまい、という決死の覚悟が全身から溢れている。最早その意志だけが、彼女をこの世に繋ぎとめていると言ってもいいほどだ。
「分かりました、貴女とカンナという侍女を助けましょう。その代わり、貴女には約束して頂きます。私の言うことには決して逆らわないことを。もちろん皇女としての身分は剥奪します。この国に残ることも許しません。いわば、この私の奴隷ですね。サリアーデに連れて帰り、飼って差し上げますよ。わざわざ国元から遠征してきたのです。そのくらいの褒美を貰ってもいいでしょう」
「そんな!! 姫様になんということを!!」
エルザが顔色を変えてクロードに詰め寄ろうとするのを、フィンは無言で引き留めた。
全くクロードらしくない言い草だ。しかし、そうとでも言わなければ、自分を罰したがっているパトリシアの決意を翻すことは出来ないとフィンにも分かっていた。
「この申し出に頷かないのならば、侍女がこのまま死ぬだけです。さあ、どうされますか?」
わざと酷薄そうにみえる笑みを浮かべながら、両腕を組んで彼女を見下ろすクロードを、パトリシアは屈辱に打ち震えながら睨み返した。
奴隷ですって?
私を飼うですって!
フェンドル王を欺き、亡国の皇女を攫っていこうというのか。
なんという鬼畜な男なのだろう。
フィンに向ける眼差しや彼らの会話から、柔和で優しそうな方だと思った。亡くなった兄とは似ても似つかぬ美丈夫だが、温かな雰囲気が似ている。それでいて引き締まった体躯からは、彼の圧倒的な強さが伺えた。軍装を身に纏ったクロードからは、その腰に帯びた剣が飾りなどではないと人に知らしめる覇気が溢れている。パトリシアの兄は、優しかったが体つきは華奢で病がちな男だった。
こんな方が我が国にいて下さったなら、と一瞬でも憧れた自分を恥じた。
「さあ、私はあまり気が長くない。どちらを選ぶのです?」
ニヤリと厭らしく口元を歪めたクロードは、それでも人を惹きつける魅力に満ちていた。
なんて人なの。
悪魔は醜悪な中身を覆い隠すため大層美しい外見をしていると云うから、きっとこの方はその悪魔に違いないわ。
パトリシアは自嘲の笑みを浮かべた。
今までだって民の誰一人として救うことは出来ず、父に飼われてきたのではないか。
皇女としての誇りを奪われて、この男の奴隷となることとどう違うというのか。
生きて屈辱の汚泥の底を這いつくばるのが、我が身に与えられた罰だというなら、甘んじて受け入れるまでだ。
<わかりました。あなたのどれいとなりましょう>
「姫様っ!! ああ、なんとおいたわしい……」
慢性的な飢えのせいで弱り切っていたエルザは、とうとう気を失って倒れ込んでしまった。すかさずフィンが崩れ落ちる彼女を抱き留める。
「で、どうされるおつもりなのです?」
そっとエルザを床に横たえ、フィンはクロードを見上げた。
「うん。とりあえず、利き手じゃない方の腕を斬れ、フィン」
「はあ!?」
突然何を言い出すのだ、と目を剥く彼にクロードは長い指を突き付けた。
「お前が持ってきた厄介ごとなんだから、そのくらいいいだろう。何も腕を落とせとは言っていないんだから。それから、パトリシア。……この名前で呼ぶのは最後にしようか。ミドルネームは何という?」
<ルクサーヌ>
仮面のような無表情さで、そっけなくパトリシアは答えた。
「では君は、今日からルクレティアだ。ティアと呼ぶからね。ティアは私がいいと言うまで、死んだ振りをして。ここにグレアム王を呼ぶから。彼が入ってきたら息も極力止めるように。分かったね」
私から名前まで奪おうというのね。
絶望で目の前が暗くなる。
『パトリシア』というのは、亡くなった母が私を身籠っている間に考えてくれた名だというのに。
目がちくちくと痛む。
泣きたくない、この男の目の前でだけは。
パトリシアはきつく唇を引き結び、クロードの言うとおり従順に頷いた。
「はあ、そんなことであのフェンドル王を騙せるとは、到底思えませんがね」
フィンは籠手を外し、腰の剣を抜き放った。ためらいもせず、籠手を外した方の腕をザックリと斬りつける。そのまま素早くパトリシアに近づき、彼女の鳩尾に拳を食らわせた。もちろん手加減して放った拳だが、幽閉生活で弱り切っていた彼女には充分だった。痩せ細った身体が弓のように前かがみにしなり、そのままゆっくりとパトリシアは床に倒れ込む。
倒れ込んだ彼女の胸元を中心に、フィンは腕から流れ出る血を何度も擦り付けた。
「くそっ。いってーな! こんなもんでどうですか、殿下?」
「随分思い切りやったね。血止めをするから、手だして」
「まあ、茶番を見抜かれたとしてもここまでやれば、あの義に厚いフェンドル王のことだ、見逃してくれるかもしれませんしね。利き腕ではないと言え、傷が塞がるまで剣を自由には使えません。護衛の者を増やして下さいね」
「お前のか?」
「はあ? 殿下のに決まってるでしょう。ここは敵国なんですよ!」
「分かった、そう怒鳴るな。いざとなれば私がお前を守るさ。そうでないと国に戻った後、リカルド嬢とナタリーに絞め殺されそうだからな」
しばらく前に甲冑は外してある。クロードは分厚いロングコートのポケットを探り大判のハンカチを取り出した。それをフィンの固い腕に巻き付け、傷の手当てをしながらクロードは小さく笑った。
フィンは今年に入って、長年口説き続けてきたマアサ・リカルド男爵令嬢と婚約を交わしたばかりなのだ。マアサは降嫁した妹・ナタリアの侍女を勤めていたこともある。二人は主従の枠を超え、親しい友人関係を築いていた。
この戦にフィンを連れてきただけでも、マアサからは随分と恨みを買っているに違いない。
「はいはい、とっとと治しますよ。それにしても、この姫様を国に連れて帰って、どうされるつもりなのですか?」
「うん。リセに面倒を見させようかなと思って」
リセの面倒を見させる、の間違いではないのか。ポカンと口を開けたままのフィンの腕に籠手を嵌め直してやり、クロードは扉の外で待機している騎士らに声をかけるべく、踵を返した。