38.クロードの決断
ここはサリアーデの光の宮。
普段は執務や視察に忙しいクロードなのだが、今日は礼儀正しい笑みを浮かべ、とある令嬢と共に庭に出ていた。夏の盛りの庭には、沢山の美しい花々が咲き誇っている。その中にどうしても探してしまう『パトリシア』。秋にしか咲かないあの小さな紅い花が、恋しくてたまらない。
扇で半分顔を隠した公爵令嬢と彼女の付添人である公爵夫人は、もう一刻ほどもクロードにうっとりと魅入っている。溜息をつきたいのを必死で堪え、クロードは当たり障りのない儀礼的な会話を何とか全うした。
「王太子殿下。うちの娘は私が言うのも何ですが、とても気性の穏やかな優しい子ですの。恥ずかしがりなところが玉に疵ですけれど、初めて社交場で殿下を見かけてからというものずっと、クロード殿下のことをお慕いしていたのですわ」
「お母様!」
あけすけな母親の推挙を耳にし、真っ赤になった令嬢の桃のような頬は、確かに愛らしい。だが、それだけだ。クロードは笑みを崩さず「それは光栄ですね」とだけ答えた。
更に何かを言い募ろうとする公爵夫人を、甘い一瞥で黙させる。
「もう行かなければ。これからあと三名の令嬢に会わなければならないんです」
クロードの淡々とした説明に、公爵令嬢の瞳は寂しげに翳った。柔和な表情こそ変わってはいないが、それは暗に望んだ顔合わせではない、と突き付けてくるような事務的な口調だった。
「陛下にも困ったものだ。そうは思いませんか?」
「いえ……私は」
困惑する公爵夫人に対し、クロードははっきりと告げた。
「私には以前からの想い人がいるというのに、一方的にこのような場を持たされてはたまらない。ご令嬢にも失礼な話です。どうか許して欲しい」
「…………」
あっけに取られた顔で立ち尽くす2人をその場に置き去りにし、クロードはそのまま踵を返した。少し離れたところで主の様子を見守っていたフィンが、苦笑を浮かべクロードの後に続く。
「もう少し温情をかけてやったらどうだ。可哀想に、泣きそうになってたぞ」
辺りに誰もいないことを確認し、小さな声で窘めてくる幼馴染に、クロードは苛立たしげな溜息で応えた。
「仕方ない。後々まで引き摺られては迷惑だ。彼女の為にもならないだろう?」
「そりゃそうだけど……陛下も本気らしいな」
「ああ。ティアのことを打ち明けたせいだろう」
あっさりとしたクロードの言い様に、ふうんと相槌を打ちそうになり、フィンは大きく目を見開いた。光の宮の居室まで戻るまで我慢したが、扉を閉めるなりクロードに詰め寄る。
「本気か? 彼女を娶りたいと、そう言ったのか?」
「ああ。ティア以外を隣に置く気はない」
「……それで、陛下はなんと」
「気持ちは分かるが、認めることは出来ない、と」
フィンはくしゃりと髪をかき上げ、それから長い溜息をついた。
「――だろうな」
クロードは美しい菫色の瞳に剣呑な光を宿し、フィンを睨み付けた。
「内政は安定している。外交にも不安はない。私の結婚によって何かを補わねばならない状況ではないはずだ」
「それとこれとは話が違う。素性も知れない他国の使用人をサリアーデの次期王妃に? それこそ、大貴族達に付け入る隙を与えることになるぞ」
「ティアは皇女だ!」
「昔は、な。……殿下。どうか御心を確かに」
2人きりの時は気安い態度でいることの方が多いフィンだが、急に言葉と態度を改め、王太子に向き直った。受けて立つように、クロードも強く見つめ返す。
「国を乱れさせてはなりません。上に立つ者には、それ相応の義務が課せられている。だからこそ、レディ・ナタリアも3年もの婚約期間を置いてエドワルドが公爵になるのをお待ちになられた。リセアネ王女殿下も、フェンドルとの政略結婚を受け入れた。そうではありませんか?」
フィンの口から吐き出される正論に、クロードはグッと拳を握りしめた。
痛い程分かっている。だが、もう手遅れなのだ。
他の女性を抱くことは、己の心を殺すことに他ならない。ティアは微笑んでこの結婚を寿ぐだろう。彼女はそういう人だ。だが、その陰で一人泣かせるのなら、この胸を剣で刺し貫かれる方がまだましだ。
「……では、王位継承権を放棄する」
「クロード!!」
フィンが掴みかかってくるのを、クロードは甘んじて受け入れた。襟首を掴まれ、激しく揺すぶられる。
「この国を守っていくのではなかったのか! 武を磨き知を修め、サリアーデの平和と豊かさを守っていくとお前は言った。そんなお前に、俺は剣を捧げたはずだ。違うか!?」
「……すまない」
「泣き言など聞きたくない!」
フィンは荒々しくクロードを突き放した。
荒ぶる感情のせいで、フィンの肩は上下していた。激しい剣戟の後でも滅多に呼吸を乱すことのない近衛騎士の激高に、クロードはたまらず目を伏せた。間違っているのは、自分だ。頭では分かっている。
「諦めて下さい、王太子殿下。私に、あの時彼女を殺しておくべきだったなどと、思わせないで下さい」
奥歯を噛みしめ、辛そうに唇の間から言葉を押し出したフィンに、クロードはただ「分かった」と短く答えた。
そして、いよい半月後に誕生祝いの盛大なパーティが開かれる、というある日の午後。クロードは父である国王に呼ばれた。
憔悴しきった息子の顔を見て、サリアーデ国王フィリップは眉を曇らせる。
幼い頃から、王子という身分をよく弁えた聞き分けのいい子だった。勉学も剣も乗馬も、課せられた科目全てに懸命に取り組む姿を、愛しくも誇りに思ってきた。
そんな王太子が、たった一度だけ口にした我儘。
出来ることなら叶えてやりたい、と思ったものの、国王としての責務がそれを許さないでいる。
だが、今ようやくその苦しみを取り除いてやれるのだ、とフィリップは気を取り直した。
「お呼びと伺い参上致しました、陛下」
うやうやしく挨拶をするクロードに鷹揚に頷き、ソファーに腰掛けるように促す。謁見の間ではなく王の私室に招かれたことに、クロードは困惑を隠せないでいた。
「お前の婚約者が決まったので、伝えておこうと思ってな」
「――そう、ですか」
見えない炎で炙られたかのように、クロードの瞳が苦悶に歪んだ。それ以上見ていられず、フィリップは、口早に言葉を続けた。
「旧ファインツゲルトの第一皇女であり、現在はフェンドル国王に庇護されておられるパトリシア皇女だ。同盟国である我がサリアーデで、かの姫を引き取ることになった。ただ引き取るというわけにもいかぬから、そなたの正妃として迎えようと思う。異論は認めぬ。――以上だ」
唖然とした表情で父王の命令を聞いていたクロードは、すぐには返事が出来なかった。
今、なんとおっしゃられた?
空耳でなければ、確かにパトリシア皇女、と――。
「かの皇女は亡き皇帝に喉を突かれ、今でも頸に醜い傷があるそうだ。声はひび割れた老婆のようだという。それも全て、弱き民を守ろうとして起こした行動の結果。我は素晴らしいと思うが、そなたがもっと美しい娘を望むのならば……」
「父上!!」
ようやくからかわれていたことに気づいたのだろう、クロードは怒ったように吠えてフィリップの言葉を遮った。
「すぐに返事をせぬから、てっきりに気に入らぬのかと」
片眉をあげ、わざとらしく嘯く父に、クロードは泣き笑いに似た表情を浮かべた。
「動転していたのです。……姫の傷も声も、私にとっては愛しい印でしかない。謹んで、拝命仕ります」
「そうか。では、そなたの誕生祝いの場で正式に発表することにしよう」
フィリップが満足げに頷くのを見て、クロードは慌ててしまった。
「は!? 私はまだ姫に正式に申し込んでもいないというのに、ですか?」
「諦めてもらおう。なにせこれは、政略結婚だ」
笑みを噛み殺して真面目な顔を作ろうとする父王の前で、クロードはたまらず応接テーブルに突っ伏した。
◇◇◇◇
そしてパーティ当日。
国賓として招かれた、ということになっているグレアム王の隣で、クロードは釈然としない顔つきのまま杯を傾けていた。
「まだ怒っているのか?」
「そのような物言いはおやめ下さい」
グレアムの問いに、クロードは苦笑を浮かべ首を振った。
「貴方からみれば何を青いことを……と呆れられるでしょうが、一年近く引き離されたまま、彼女の知らないところで婚約することになったのですよ? 男として割り切れないものがあると、察して頂きたい」
「そうだな。気持ちは分かる」
グレアムの返答に、クロードは心底驚いた。
徹底的な合理主義者であるフェンドル王には、甘い感傷を鼻で笑われると思っていたからだ。
「……リセアネを可愛がって下さっているのですね」
「おかしいか?」
逆に問い返され、クロードは端正な顔に華やかな笑みを浮かべた。
手の届かなくなってしまった王太子を遠くから見つめていた若い令嬢方から、黄色い悲鳴が上がる。
「いいえ。嬉しいだけです。――手はかかりますが、可愛い子でしょう?」
「ああ。早く国に帰りたいくらいに、な」
2人は心からの笑みを交わし、杯を捧げあって口に運んだ。
久しぶりの美味い酒に、クロードは深々と満足げな息を漏らした。
「フィン」
「――な、何でしょう、殿下」
「お前の厚い忠義のおかげで、道を踏み外さずに済んだ。礼を言わなくてはな」
「……すみません」
「胸倉をつかまれたのは、実は生まれて初めてだった。いや、ほんとーに、いい経験をさせてもらった」
「……勘弁して下さい申し訳ありませんでしたあああっ!!」
という主従コンビの会話を挟みたかったのですが、あえなく散ったので、ここに載せさせて下さい。