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37.傷跡

 ダルシーザ――旧ファインツゲルト皇国の荒廃は、リセアネの想像以上だった。

 フェンドルの進軍を何とか堰き止めようと皇国軍も徹底抗戦の構えを取り、市街地の多くで激戦が繰り広げられたのだという。

 非戦闘民を巻き込まない、というのが世界共通の戦の大前提だ。だがいったん内地に攻め込まれてしまえば、その前提はたやすく覆される。

 家を焼かれ田畑を踏み荒らされた民たちは、ただでさえ乏しい生活の糧を失い、その多くが飢え死ぬことになった。

 崩れかけた粗末な家。ガリガリに痩せた子供。怯えた表情を隠す気力もない母親たち。

 目に飛び込んでくるすべての光景に、ティアもリセアネも打ちのめされた。


「墓地はどこにあるの? せめて天に召された魂へ祈りを捧げたいの」


 ある町でリセアネは護衛騎士の一人に尋ねた。レオンハルトがつけて寄こした騎士なのだから、ダルシーザの事情にも詳しいだろう。

 残された者が心からの祈りを捧げれば、亡くなった者の魂は浄化され、苦しみや悲しみからも解放されるのだという教会の教えを、リセアネは信じている。

 ちょうどティアはレオンハルトに伴われ、炊き出しの視察に出かけていた。

 パトリシア皇女の慰問はゲルトの民に熱狂的に受け入れられているようだが、戦勝国であるフェンドルの正妃はお呼びではないという空気を敏感に感じ取り、リセアネは控えめに振る舞うように心がけている。人目の多いところに我が物顔で出かけるつもりはなかった。

 じっと返事を待つリセアネに、問われた騎士は逡巡する様子をみせた。


「墓地、ですか」

「ええ。亡くなった方たちはどこに埋葬されているの? ここまで一度も見かけていないから、どこか離れた場所にあるのかしらと思って」

「……ありません」

「え?」


 疫病を防ぐため死体は郊外に運び、そこでまとめて焼いている、と彼は説明した。残った骨は大きく掘った穴に投げ込んでいるのだと。

 リセアネは真っ青になり、両手で口元を押さえた。微かな悲鳴が唇から洩れる。


「陛下!」


 側付きの侍女が慌てて傍に寄ろうとしたのだが、リセアネは気丈にも持ち直し、片手を軽くあげてそれを制した。


「いいえ、大丈夫。……そうなのね」


 リセアネはしばらく黙ったままくうを見つめていたが、やがてしっかりとした視線を周囲に巡らせた。


「では、そこまで参ります」

「しかし!」


 女性に、ましてや貴人に見せられるようなものではない。護衛の騎士達は皆反対した。だが、リセアネは首を縦に振ろうとしない。

 豪華な馬車では行きたくない、とリセアネは重ねて主張し、とうとう騎士の一人の馬に同乗することになった。

 ゲルトの民の感情を逆なでしたくないという王妃の言い分は分かる。

 分かるのだが、このことがグレアム王の耳に入ったら一体自分はどうなるのだろう。

 華奢なリセアネを前に抱えるようにして手綱を握った騎士は、天を仰いだ。

 グレアム王の王妃への寵愛は、ダルシーザにまで聞こえてきている。

 どうか罰せられませんように。ひたすら心の中で祈る彼に、リセアネは「苦労をかけますね」と大輪の華のような笑みを浮かべた。その魅惑的な笑みを目にした途端、罰せられてもかまわない、という心情に変わってしまった歴戦の騎士に、周りの王室警備隊の面々は深い同情を覚えた。

 そして、リセアネは赤茶けた土にぽっかりと空いた大きな穴の前に立つことになった。


「――レオンハルト様が治めるようになってからしばらくして、ようやく焼く炎は絶えました」


 騎士の一人が説明するのを、リセアネは感情の麻痺した青白い顔で聞いていた。

 王妃が焼き場に来たとどこかから聞きつけたのだろう、かなりの数のファインツゲルト人が遠巻きにこちらを見ている。

 悲しみと怒りが入り混じった強い視線を彼らから感じ、リセアネはわずかに身じろぎした。


「献花をさせて欲しいわ」

「申し訳ありません。この辺りには花はなく……」


 困惑を滲ませた騎士の返事に、リセアネは自分の愚かさを罵りたくなった。

 黒麦さえ碌にとれない枯れた大地に、美しい花を咲かす余力があるわけないじゃないの。

 では、どうすればいい。ここまで来て私は何もせず引き揚げるしかないの?

 リセアネはしばらく考えた後、その場に両膝をついた。

 戦の是非を問うことは難しい。ただ、哀しかった。

 無造作に焼かれ、墓標すら立ててもらえない者の魂が、哀れでならなかった。


「陛下!?」「お召し物が!」


 止めようとする側仕えの者に軽く首を振り、リセアネはドレスの裾が土にまみれるのも厭わず両手を組んだ。


 ――大いなる神よ 大地と命を創られた偉大なる創造主

   あなたの慈悲深い御手に 委ねられた魂を

   どうか癒して下さい どうか御守り下さい

   悲しみを取り除き 憎しみを鎮め

   ただ愛と安らぎを あなたの元へ還った御霊に注いで下さい


 教会の讃美歌の一つである鎮魂歌を、リセアネはたしかな声で歌い始めた。

 透き通った美しい響きが、辺りを満たしていく。

 心に染み入るその歌声に含まれた真摯な祈りに、一人、そしてまた一人と騎士達も頭を垂れ、片膝をついていく。

 何が始まるのだろう、と白けた気持ちで眺めていた民たちの目からも、気づけば涙が零れ落ちていた。

 涙は枯れ果て、二度と感情が動くことなどないと思っていた者さえ、はらはらと熱い涙を流していた。


 


 その頃ティアは、炊き出しの行列に並ぶゲルトの民の前にいた。

 ドレスの袖をまくり上げ、民が家から持ってきた木の椀にせっせとスープをよそっている皇女の姿に、レオンハルトは内心驚いていた。

 少しだけ手伝わせて下さい、とティアに頼まれ、そのくらいなら、と許したレオンだったが、どうせすぐに音をあげると思っていたのだ。

 皇城から外に出たことのない世間知らずの姫のこと。困窮したファインツゲルト人の現状にめそめそと泣きだすのが関の山だろう。

 ところがティアは、感傷的な様子は一切見せず、懸命に働いている。

 皇女から直接椀を受け取りたいという民たちの想いは、長い行列となっていた。


「そろそろお時間です、殿下」


 レオンハルトが声をかけると、行列のあちこちから落胆の声が上がる。

 ティアは悲しげに眉を下げ、それでも自分の立場を弁えているのだろう、すぐに頷いた。

 炊き出しの広場を去ろうとしたその時、1人の少女がよろよろと列から飛び出してきた。止めようとする母親の手をすり抜け、ティアの元まで駆けてくると、細い肩を苦しげに上下させながら手に持っていた汚い編みぐるみの人形を差し出す。


「ひめさま。これ、ひめさまにあげます」


 落ち窪んだ少女の眼窩には、暖かな光が灯っていた。

 嬉しくてたまらない、というように少女は骨ばった顔に笑みを浮かべた。

 4歳ほどにしか見えないが、言葉の確かさから本当の年齢はもっと上なのだろう。ティアは止めようとする護衛の騎士を下がらせ、少女の手から編みぐるみを受け取った。


「ありがとう。でも、いいの? 大事なものではないの?」

「だいじだから、あげたいの」


 恥ずかしそうに少女はティアを見上げ、おずおずと手を出した。垢じみたその手が届くように、とティアはしゃがみこんだ。少女の手がそっとティアの喉に触れる。

 平民が皇女に触れたことで、群衆の間からどよめきが起こった。少女の母親は、今にも倒れそうな顔つきで両手を揉み絞っている。


「のど、いたい?」

「いいえ。――いいえ、大丈夫よ」


 ティアは大粒の涙をたたえ、その少女を抱き上げた。愛しげに痩せた頬にほおずりする。

 不潔な饐えた匂いに、付き従っていた侍女たちは鼻を押さえそうになったが、ティアはまるで頓着せずに少女を抱きしめ、そして優しく下ろした。


「フェンドルの人たちが手助けしてくれるから、一緒に頑張ってくれる? もう誰も泣かないですむように、たくさん美味しいものが食べられるように」


 ティアのひび割れた声は、炊き出しに集まっていたゲルトの民の心に深く突き刺さった。希望などないと思っていた。なるようになれと自棄にもなっていた。

 そんな自分達に、痛めた喉で皇女は「前を向いて歩け」と言っている。

 少女は力強く頷き、手を振って母親の元に戻っていった。


「かあさん! ひめさま、すごくいいかおりがしたよ!」

「そうね……そうね」


 泣きながら母親は娘の手を握りしめた。



 宿に戻ってすぐ、ティアは侍女たちの手によって着替えさせられた。大事に手に持っていた編みぐるみまで取り上げられそうになり、慌てて胸に抱きかかえる。


「いけません、姫様。そのような汚いもの。さあ、こちらへ」


 年嵩の侍女が一歩前に出ると、ティアはきっぱりと首を振った。


「いいえ。これは私の宝物です。汚いというのなら、洗います」


 侍女たちを振り切り、洗面台で丁寧にティアは編みぐるみを洗った。すっかり冷たくなった赤い手を見て、部屋に入ってきたレオンハルトは溜息をついた。


「ご自分でされずとも、この者たちに命じればよいのです。――誰か、拭くものを」


 レオンハルトの切れ長の瞳に鋭く捉えられ、ティアは俯いた。凄みのある整った顔立ちに、すらりとした体躯。切れ長な瞳も艶やかな茶色の髪も、それだけとってみれば女心を刺激するのに十分な要素なのだが、なにしろレオンハルトには『甘さ』というものが一欠けらも見当たらない。

 きつい物言いをするレオンハルトは、ティアにとって恐れの対象でしかなかった。

 だがグレアム王にここまで信を置かれているのだ。悪い人ではないと思いたい。


「ありがとうございます」


 ティアは必死に自分を奮い立たせ、笑みを浮かべてみせた。


「礼など不要ですよ、殿下」


 レオンハルトは侍女の一人から布を受け取るとティアに差出し、「しばらくこの部屋には誰も入れるな」と人払いをした。

 緊張に身を固くするティアは、ぎこちない手つきで編みぐるみの水気を拭っていく。しばらく無言でその様子を見守っていたレオンハルトは、おもむろに口を開いた。


「民の人気取りをして、それで貴女はどうされるおつもりです? 前にも一度聞きましたが、今一度はっきりとお聞かせ願いたい。我が王に弓引くつもりがあるのか、ないのかを」

「ありません」


 ティアは試すようなレオンハルトの言葉を、きっぱりと撥ね退けた。


「レオンハルト様は、本当に忠実な方ですね。そのような方を臣下に持つグレアム陛下を、本当に羨ましく思います。ファインツゲルトにもレオンハルト様のような方がいたのなら、ああなる前に父を止めてくれたのでしょうか」


 ティアの声色に滲む羨望と慚愧に、レオンハルトは唇を引き結んだ。

 柔らかな眼差しと笑みをもって、ひたすら民の心に寄り添おうとする稀有な皇女。その笑みの裏に蛇のような企みを隠し持っているのではないか、と疑っていた自分が嫌になる。


 ――いつか、信じて下さい


 初めて言葉を交わした日の、ティアの流麗な筆跡が脳裏をよぎった。


 ――陛下は、私とゲルトの民を救ってくれた恩人だと思っているということを


 あの時この方は、本当に心からそう思っていたのだ、と今なら分かる。レオンハルトは軽く溜息をつき、不安げにこちらを見つめているティアに謝罪した。


「降参です、皇女殿下。どうかこれまでの無礼を、お許し下さい」


 うやうやしく跪こうとするレオンハルトを前に、ティアはすっかり慌ててしまった。

 何とか自分を立たせようとする愛らしい黒髪の姫を見上げ、レオンハルトは小さな笑みを浮かべた。



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