36.属州ダルシーザ
レオンハルトは、謁見の間で各地の復興についての報告を受けた後、苦虫を噛み潰したような表情で執務室に戻った。
しばらく机を指で叩いていたレオンハルトだが、軽く息を吐き、傍で書類を選り分けていた文官の一人に声をかけた。
「ダニエル・クリストフを呼んでくれないか。彼が来たら、しばらく人払いを」
「かしこまりました」
皇城で現在働いている者の多くは、レオンハルトがフェンドルから連れてきた役人だ。
いずれ国元に戻さなければならない。そのこともあって、彼はファインツゲルト人の登用を行なうことを早々に決めた。
フェンドルの属州になったとはいえ、この国に住んでいるのは今もファインツゲルト人なのだ。ある程度の自治を認めた方がやりやすい、というのが、レオンハルトとグレアムの共通した考えだった。
最後まで反皇帝派だった貴族を探し出すのは骨だったが、息をひそめて領地に引き籠っていた彼らを見つけ、半ば無理やり皇都まで呼び寄せている。ダニエル・クリストフもその内の一人だ。
程なくして執務室に姿を見せたのは、まっすぐな黒髪を一つに束ねた30過ぎの男だった。理知的な瞳が印象深い彼は、レオンハルトの前までやってきて拳を胸に当てる。
「お呼びと伺いました」
もとは地方貴族の次男坊であるダニエルには、兄がいた。
クリストフ伯爵家の跡継ぎだった兄は、戦争に出たまま帰らぬ人となった。病がちだった母は、唯一戻ってきた血塗れのマントに縋り付いて泣き、そのまま息子の後を追うように息を引き取った。めっきり老け込んだ父は、ガランとした領主の館で、それでも領民を守ろうと痩せ細った両足を踏ん張っている。
戦に負けた方が悪いのだ。ダニエルはその全てを諦め混じりに受け入れた。
だが、まさかこんなことになるとは。
フェンドルの属州となったダルシーザで、今まで通り領民に混じって荒れた畑を耕し、父を支えながら生きていくつもりだったダニエルにとって、レオンハルトは厄介な仕事を押し付けてくる面倒な相手に他ならない。
そもそも出世に興味があったなら、皇帝の意に逆らって民を保護しようとする父を諌め、もっと早く中央に上がっていただろう。
「この報告書に目を通してもらおう。その上で貴殿の意見が聞きたい」
「私の?」
訝しげに眉をあげるダニエルを促しソファーに腰掛けさせ、レオンハルトもその前に腰を下ろす。宗主代理の冷徹な眼差しにもたじろがず、平然と書類をめくっていくダニエルはある意味心臓の強い男だった。
「なるほど。予定よりかなり遅れていますね」
各地の復興状態を細かく記した書類にざっと目を通し、ダニエルはそれが当然だというような表情を浮かべた。
「そうだ。民の間にあるフェンドルへの不信感が拭えない限り、この先も大きな改善は望めないだろう。多くの者が積極的に働こうとせず、家に引き籠っているようではな。――率直に問おう。貴方たちは何が気に入らない。あの戦争がなければ、この国はもっと疲弊していたということが分からないのか」
苛立たしげなレオンハルトの言を受け、ダニエルは軽く首を振った。
「まさか。あのままいけば、間違いなくより多くの犠牲が出ていたと、この国の誰もが分かっているはずです。ただ……」
ダニエルは軽く唇を舐め、わずかに躊躇った後、意を決したようにレオンハルトを見つめた。
「最後の頼りだったラドルフ皇子が身罷られた後、私たちは苦しい生活の中、塔に幽閉されているパトリシア皇女を心の支えにして生きてきたのです。貧しい民を慮り、何度も皇帝に進言を繰り返して下さったという我らの希望。フェンドル軍が進軍してきたと聞いて、民はみな『これで姫様が解放される』と喜んだ」
ぎり、と唇を噛みしめ、ダニエルはレオンハルトを睨み付けた。
「だが、あなた方は幽閉の理由を調べようとしないまま、パトリシア様を弑した。驕慢な側室や肥え太った醜悪な貴族どもと同列に、あの方を扱った。――無慈悲なグレアム王の噂は、国の隅々にまで広がったことでしょう。私達ゲルトの民が、不遇のまま儚くなられた皇女殿下を忘れることはない。……それだけの話です」
レオンハルトは一部始終を黙ったまま聞き、「そうか」と短く頷いた。
後顧の憂いを絶つため、あの時はそれが最善のように思えた。だが、彼女を旗印に反乱を起こそうと立ち上がるような気骨のある者はもうすでに、誰も残ってはいなかったということか。
「それほど大切な姫ならば、何故救おうとしなかった。彼女が消えたのは、我々のせいではない。皇帝が狂っていくのをただ見ていた、無能なお前たち全員のせいだろう」
レオンハルトの冷たい言葉に、ダニエルはグッと喉を鳴らし、拳を握りしめた。
そうだ。八つ当たりに他ならないということは、自分が一番よく分かっている。だがそれでも、再び前を向き進んでいこうという明るい気持ちにはなれないのだから仕方ない。
もう放っておいてくれ! 叫び出したい衝動を何とか抑え込み、ダニエルは口を開いた。
「仰る通りです。――話を元に戻しますが、ファインツゲルトという国はもうない。ここはフェンドルの領土ではありませんか。言うことを聞かない者には罰を与え、無理やりにでも働かせてはいかがです? 自分の命を人質に取られれば、誰もが必死になるでしょう」
ダニエルの揶揄するような白けた口調に、レオンハルトはこれみよがしな溜息をついた。
「ラドルフ皇子やパトリシア皇女がそのような言い様を耳にしたなら、さぞ喜ばれたことだろうな」
「お前がっ!」
猛然と立ち上がり、ダニエルは外面をかなぐり捨ててレオンハルトの襟首を掴んだ。
「お前のような奴が、あの方々の名を軽々しく口にするな!」
レオンハルトは、無言のままダニエルの手を逆に捻りあげ、部屋の端まで殴り飛ばした。
痩せたダニエルの身体は、壁に激しく叩きつけられる。
唇の端から流れた血を手の甲で拭い、怒り狂った獣のようなギラついた目で己を睨みあげてくるダニエルの前まで歩いていき、レオンハルトは言い捨てた。
「私がお前なら、たとえ戦に負けようとも自国への誇りを捨てたりはしない。国民を守り安寧に導くのが貴族としての役目だ。お前は、ただの野良犬か」
「違うっ!」
「違うというのなら、さっさと立って仕事を全うしろ。冬が来る前に少しでも備えをしておかねば、今年もまた多くの民が死ぬぞ」
ダニエルはあっけに取られ、レオンハルトを見上げた。
「ゲルトの民が死ぬのが……嫌だというのか」
「そうだ。力なき者が愚政に振り回され死んでいくことほど、我慢のならないことはない」
ダニエルは、ようやくレオンハルトの言っている意味を飲みこんだ。
戦争は終わったのだ。
恨みを乗り越え、自分達は生きねばならない。皇子や皇女が生きておられたなら、きっと同じことを仰っただろうから。
ダニエルが退出した後、レオンハルトは一通の手紙をしたためた。
早馬で本国のグレアム王に向けて送ったその手紙には、ティアの扱いについてのレオンハルトの意見がほのめかされていた。
『小鳥は生かしておいて正解だったようです』歯に衣着せないレオンハルトの手紙に、グレアムは苦笑いを浮かべた。
エレノアとの密談の後、日を置かずリセアネの元にレオンハルト・トランデシルからの書簡が届いた。
一度ダルシーザに視察に来てほしいという要望が綴られた文面の最後には、
【小夜啼鳥を迎え入れる準備は整いました。吟遊詩人は夜明けの歌を唄うでしょう】
とある。
打ち合わせ通りの文句を目にしたリセアネは、安堵の息を漏らした。
ここまで全てグレアムの描いた筋書き通りだ。
レオンハルトからの手紙を受け取ったグレアムが立てた計画は、ティアを元の身分に戻すというものだった。
もちろん権力は持たせず、ファインツゲルト人の心の拠り所としての象徴に祀り上げる。グレアム王の庇護下にある傀儡として、一端祖国に戻すのだ。
その後、ティアをクロード王太子に嫁がせれば、実質的にファインツゲルト皇族の血は途切れることになる。生まれる子はサリアーデの王族であって、ダルシーザへの干渉権は一切持たないという誓約書をグレアムはサリアーデ国王からもぎ取るつもりだった。
これでゲルト民の間に根深く残るグレアム王への恨みも、少しは解消されるだろう。
「そううまくいくでしょうか?」と不安げに首を傾げたリセアネに、グレアムは不敵な笑みを見せた。
「うまくいかせるのだ。王妃と私で」
自分を対等に扱おうとしてくれるグレアムに、リセアネは泣きたくなった。
それは、今まで誰一人として彼女に与えてくれなかった信頼だった。愛する兄や姉でさえ、リセアネを無力な守るべき対象として大切に扱ってきた。
「私がサリアーデに行っている間、どうかダルシーザを頼む」グレアムはリセアネにそう言い残して旅立った。
恋い慕う相手から寄せられた期待に、リセアネはしっかりと頷いた。
「王妃陛下のおなりでございます」
「お通ししてくれ」
レオンハルトの書簡を携え宰相の執務室を訪れたリセアネを、アシュトンはにこやかな笑みで出迎えた。
だがその瞳には明らかな嘲りの色が見える。エレノアが城へ上がってからというもの、アシュトンはあっさりと王妃への関心を失くしていた。
「これは、王妃様。本日もご機嫌麗しゅう」
「ごきげんよう、ランズボトム公。今日は伝えたいことがあってきたのです」
リセアネは鷹揚な態度でランズボトムの挨拶を受け、そして用件を告げた。
「――ダルシーザへ訪問を?」
「ええ。復興において問題が発生しているので力を借りたい、というトランデシル伯からの要望が陛下宛てに届いたのです。留守中の手紙の扱いに関しては、私が一任されておりますので中を改めたところ、どうにも急ぎの様子。よい機会ですから直接見てこようかと」
リセアネは、事実の一部分だけを説明した。
嘘をついているわけではないので、すらすらと言葉が口を衝いて出る。
アシュトンはわずかに眉を顰めた。そして、年若な王妃の生意気な言い分に一矢報いてやろうと口を開く。
「では、貴族院から適任者を差し向けましょう。深窓育ちの王妃様に、生々しい戦争の爪痕をお見せするわけには参りません。それに、また馬車から外を覗くような危ない真似をされても困りますからね」
「――聞こえませんでしたか?」
「は?」
リセアネは凄みのある微笑を浮かべ、ひたと宰相を見据えた。
「これは相談ではないの。この私が行く、と決めたのです、アシュトン・ランズボトム」
宰相をやり込め溜飲を下げたリセアネは、ティアを伴って王都を立った。
馬車に揺られること10日あまりで、ようやく大きな検問所が見えてくる。
以前の国境沿いはいつ始まるとも知れない戦を警戒して、民が寄りつかなかったそうだ。戦争が終わった今は、宿場町としての機能を持たされ、徐々に人が増えてきている。
小さな窓枠にしがみついているティアを横目で見て、リセアネは唇を引き結んだ。
復興の道を歩み始めているファインツゲルトだが、全てが一息に好転したわけでは、もちろんない。各地の飢えは未だ解消されず、ようやく皇都に活気が戻りつつある段階らしい。まずは政治体系から整えていくというレオンハルトの方針が間違っているわけではないが、ティアの目に飛び込んでくる光景が、どうか最悪のものではありませんように、とひたすらリセアネは祈っていた。
荒れた畑。飢えて痩せ細った女子供。
そして並び立つ粗末な墓標を想像し、リセアネは胸元を押さえた。
どれほどサリアーデが恵まれていたのか、今更ながら身に沁みる。
上に立つ者がその義務を疎かにした時に起こってしまう国の荒廃というものを、リセアネは初めて肌に感じ始めていた。
「ようやくダルシーザに入るのね。ティア、大丈夫?」
「はい。どんなことでも受け止めるつもりです」
ティアの嗄がれた掠れ声にも大分馴れた。
非常に弱々しい声なので注意深く耳をそばだたせる必要があったが、リセアネがそれを苦にしたことは一度もない。
少なくとも、声が出るようになったのだ。それにティアの声には柔らかな響きを感じ取ることが出来る。
喉を突かれる前は、どんなに美しい声だったのだろう。ティアの過去を思うたび、リセアネの胸は潰れそうに痛むのだった。
ティアは緊張はしているようだが、しっかりとした態度でリセアネに微笑みかけてくる。
リセアネが手を伸ばすと、ティアもすぐにその手を握る。手袋越しに伝わる温もりに目を閉じ、リセアネは大きく息を吸った。
不安がないわけではない。ダルシーザの酷い有様に気絶したり取り乱ししたらどうしよう、と怯えるもう一人の自分を必死に宥める。
だが、グレアムが寄せてくれた信頼を裏切るわけにはいかない。
リセアネとティアには、ここでやるべきことがあるのだから。
「王妃陛下。到着致しました。扉を開くご許可を」
馬車が止まったかと思うとすぐに、外から近衛の一人が声を掛けてきた。
「許します」
凛とした声を響かせ、リセアネは毅然と頭をあげた。
検問所には、レオンハルトが数十名の護衛騎士を引き連れ、出迎えに来ていた。
まさか、宗主代理自らが出迎えにくるとは思っていなかったリセアネは、大きく目を見開いたまま手袋越しの接吻を受けた。
驚くリセアネに丁寧な挨拶を述べた後、レオンハルトは後ろに続いたティアの前に進み出、うやうやしく片膝をつく。
「ご帰還をお待ちしておりました、パトリシア皇女殿下」
喉の傷跡をわざと目立だせるような襟ぐりの広いドレスを身に纏った亡国の皇女の姿に、周囲からどよめきが起こった。
一体何が起こるのか、遠巻きに様子を見守っていた民からは悲鳴に似た叫び声が次々にあがる。
「まさか……あの噂は本当だったのか!?」「馬鹿、あの喉の傷を見ろ!」「ああ、神よ。感謝いたします!」
すすり泣く女達まで現れ、警備の兵たちはもっと近くで皇女を見ようと懸命になる民たちを押し戻すのに追われることになった。
衆人環視の中、ティアは薄く微笑み片手を差し出した。レオンハルトはその手に軽い接吻を落とす。
「再びこの国に戻ることが出来たこと、感謝致します。トランデシル伯」
声を張ったせいで、ティアの声はますます酷いものになってしまった。
周囲のざわめきが水を打ったかのように静まり返る。
ティアに応えるレオンハルトの声は、誰の耳にもしっかり届いた。
「感謝でしたら、皇女殿下を保護された我が王と、その盟友であるクロード王太子殿下へどうぞ。長旅でさぞお疲れでしょうが、今しばらくのご辛抱を願います」
皇都までの道すがら。
ティアとリセアネは、目を覆いたくなるような悲惨な町並みを視察し、皇女の帰還を国中に広めながら進むことになる。
だが、ティアの心はこれまでになく凪いでいた。
ようやく皇女としての責務を果たすことが出来る。
父を、そして息子を返せと石を投げつける者がいたなら、甘んじて打たれよう。おめおめと一人生き延びて、と罵る者がいたなら、気の済むまで受け止めよう。
それが、狂帝を止めることが出来なかった無力な皇女に出来る、たった一つの償いだ。