33.夫婦喧嘩
近衛騎士と侍女数名に付き添われ、リセアネはグレアムの待つバンケットルームに向かった。
入り口の扉は開いている。リセアネとティアが中に入ると同時に、騎士らの手によってゆっくりと扉は閉じられた。
頑丈そうな広いテーブルには、すでに料理がずらりと並べられている。
サリアーデでもここフェンドルでも、晩餐はスープ、サラダ、メインの肉料理の順番で給仕されるのが普通だ。それなのに、使用人の姿はなくデザートの果物まですでに運ばれてきている。
2人を待ち構えていたグレアムは、おもむろに立ち上がり無言でリセアネを見つめた。
ティアは王が発するささくれ立った空気に驚いた。
最近のグレアムは、見ていて思わず照れてしまう程の柔らかな雰囲気を纏ってリセアネと過ごしていたというのに、これは一体どうしたことだろう。
夫の厳しい表情に、リセアネもあっけに取られた。
「……お招きありがとうございます、陛下」
動揺を隠しながら優雅に膝を折ったリセアネに続き、ティアも深く身をかがめる。グレアムは軽く手を振って、席につくよう示した。最初にリセアネを座らせ、続いてティアを座らせる。
グレアム自らがエスコートしてくれるとは思ってもみなかったティアは、身が縮む思いを味わった。
女性2人が腰を下ろしたのを見届け、グレアムもテーブルについた。
水を打ったように静まり返った広間で、口火を切ったのはグレアムだった。
「王妃。私は身内と話す時は、まわりくどい言い方を好まない。だから率直に聞く」
身内と呼ばれくすぐったく感じたのも一瞬。リセアネはグレアムの次の言葉に凍りついた。
「今日ランズボトムと話したのだが、私の知らないところで傍妃の選定が始まっているようだな」
静かな物言いから、グレアムの抑えた怒りが伝わってくる。
リセアネは唇が乾くのを感じた。ティアも動揺しているのか、スプーンをテーブルに戻し両手を握り合わせている。
「大変申し訳ありません、陛下。……ただ、弁明をさせて頂けるのなら、今夜こそ私からお伝えしようと思っていたのです」
どうか、毅然と振る舞っているように見えますように。リセアネは祈った。
愛されてはいなくても、少なくとも嫌われてはいないと思っていた。だが、明らかに今、グレアムの瞳には冷たい拒絶が浮かんでいる。
ともすればくじけそうになる心に鞭を振るい、リセアネはまっすぐグレアムを見つめ返した。
「では、聞こう」
人払いは済ませてある。だからこそ、料理も先に運ばせたのだ。
グレアムはふつふつと煮え立ってくる不可解な感情に蓋をし、冷静に話を聞こう、と改めて決意した。
そもそも最初に傍妃を娶ると口にしたのは自分なのだ。ゆっくりとではあるが王妃と心が通じ合ってきているのでは、と密かに嬉しかった。
それが期待による勘違いだったからといって、リセアネを責めることは出来ない。
グレアムは未練がましい己の思考に気づき、深々と息をついた。
いつのまにか、形ばかりの王妃をかけがえのない存在だと思い始めていた。だが今更気づいたところで何も変わらない。リセアネの心は、ここにはないのだから。
リセアネも、覚悟を決めた。
ティアの利益になるだけでなく、グレアムにとっても悪い話ではないはず。彼は公平な男だ。寵妃が出来たとしても、正妃である自分を決して粗末には扱わないだろう。
それに教会の教えが広がっているこの世界において、神の御前での誓約は絶対不可侵なもの。王だけは特例で許されているが、いくら寵愛を受けようとも傍妃と王の子は脆弱な立場に置かれる。
リセアネが王子らの養母になることを誰もが望むだろう。
だから大丈夫。私の立場は揺らがない。
この胸の痛みも、きっといつかやり過ごせる。
「あれは、離宮からの帰りの宿でのことです――」
リセアネは何度か咳払いした後、ランズボトムから持ちかけられた取引についての全てを打ち明けた。
話が進みやすいように相槌を打ち、落ち着いた態度で耳を傾けていたグレアムだったが、彼女の軽率な振る舞いにはかなり苛立っていた。
敵国の前皇女をランズボトム公爵家の養女に、だと?
クロード王太子殿下がティアに想いを寄せていることも、初めて知った。そんな素振りは一度も見せなかったクロードの言動を思い返し、彼の自制心に舌を巻く。
ランズボトムがサリアーデに密偵を放ったことも初耳で、何とも言えない虚しさを覚える。
そこまでして娘を私に嫁がせたいのか、強欲な狸め。
ランズボトムは交渉事にかけて一流の腕を見せる。そうでなければ、大貴族の当主や宰相は務まるまい。
リセアネには荷の重い相手だったのだろうが、それにしても一言自分に相談するべきではないのか。
公爵家というのは、いわば王家の傍流。そのランズボトム家に、ファインツゲルトのたった一人の生き残りである皇女を引き渡すこと自体、新たな火種を生む可能性を孕んでいる。
その上、サリアーデの世継ぎであるクロードとの婚姻が成れば、王妃の養父となるランズボトムのこの国での権勢はますます強固なものとなるだろう。
「――もともと陛下も傍妃を娶りたいと希望されていました。悪い取引ではないと思いましたの。どうか傍妃候補として、エレノア嬢を考えては頂けませんか?」
淡々とリセアネは話し終え、更に「エレノア嬢はとても素敵な女性ですわ。あの方ならきっと素晴らしい妃になるでしょう」などと駄目押ししてきた。
他の女を抱けと迫るリセアネに、グレアムはきつい眼差しを投げつけた。
「やはり王妃は箱入りだな。何も分かっていない」
全く意図せずして、グレアムはナイフを振りかぶることになった。
リセアネが心の奥に隠していた柔らかな部分、最も触れられたくなかった劣等感の根源に、容赦なく言及する。
「ランズボトムが大国サリアーデの王妃の養父、そして我が国の王の父になるということだぞ? あれに今以上の権力を持たせればどうなるか、想像出来ないのか?」
――我が国の妹姫は、姉姫のような聡明さに欠けるとは思いませんか? ははは。聡明さなど王子に備わっていればいい。王女はその美しさを武器に出来ますからね。 ああ、リセアネ姫は本当に美しい。そのまま黙って微笑んでいれば、まるで春の女神のようですね。 あなたは何も考えなくていい。一生私が守って差し上げますから――
長年リセアネを苛んできた様々な記憶が、堰を切ったように溢れだしてくる。
幼い頃の教育係。成人した後、群がってきた求婚者たち。
リセアネの価値は、その見た目だけなのだと繰り返し吹き込んできた大勢の人の言葉が、耳の奥で一斉にがなり立てる。
私は聡明な姉様とは違う。未熟で頭が悪い。
自分でもわかっているの。どうか、それ以上おっしゃらないで。
あなたまで私を能無しの人形だと蔑まないで。
「ランズボトムには十分注意しろと言っておいたはずだ。……浅はかな真似を」
吐き捨てるようなグレアムの口調に、リセアネの心はついに悲鳴を上げた。
椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった正妃に、グレアムは眉を上げた。
怒りと絶望にリセアネの手はきつく握りしめられ、美しく伸ばされた爪が柔らかな手のひらに突き立てられる。
重いものなど持ったことのないリセアネの掌は容易く破れ、大理石の床にポタポタと真っ赤な血が落ちていった。
その時になってようやく、グレアムは王妃の異変に気がついた。
<リセ様っ!>
喉を鳴らして、ティアがリセアネに駆け寄る。ティアはリセアネの手を無理やり開かせ、割けた部分にハンカチを強く押し当てた。
<いけません、リセ様。力を抜いて下さい>
普段のリセアネなら、ティアの唇を読み取ろうと努力してくれただろう。だが、今のリセアネは頑なに俯いたままだった。
「……考えの足りない馬鹿な小娘が、出過ぎた真似を致しました。どうか、ご容赦くださいませ」
掠れた小さな声が、グレアムの鼓膜を打つ。
言い過ぎた、と彼が後悔した時には遅かった。
リセアネは、生まれて初めて恋心を抱いた相手に、完膚なきまでに叩きのめされた。
グレアムのことを何とも思っていなければ、ここまで傷つくことはなかっただろう。皮肉の一つでも返していたかもしれない。
だが、そうは出来なかった。悲しみのあまり、そもそもまともに考えられない。
「傍妃選定は、陛下のお好きなようになさって下さい。御前を失礼するお許しを」
これ以上惨めな姿を晒したくない。その一心でリセアネは申し出た。
「それほど私を遠ざけたいのか」
グレアムは言い募ったが、リセアネは首を振る。
「とんでもないことでございます。陛下は私には過ぎた方だとよく分かりました。賢い傍妃をお召しになり、どうかその方とお幸せに」
菫色の美しい瞳は涙で揺らめいている。深く傷ついたリセアネの表情を見て、グレアムは自分を盛大に呪った。
恋心を自覚した相手に他の女と番えと言われ、グレアムも動転していた。
どちらが浅はかだ。もっと言いようはあったはずなのに、私は何と言った?
「王妃。私は――」
「御前を失礼する、お許しをっ!」
とうとうリセアネは大粒の涙を零し、耳を塞ぎたくなるほど悲痛な声で叫んだ。ティアが宥めるように、リセアネの肩を抱く。
堪えきれずにむせび泣く彼女に、グレアムはただ「許す」と言うことしか出来なかった。
それからほどなくして、王宮に一人の令嬢が上がった。
彼女の名はエレノア・ランズボトム。
行儀見習い、という名目を誰も信じてはいない。
彼女は城に来たその日のうちに、王の寝室へ呼ばれたらしい。その話を侍女から聞きだし、リセアネは薄く微笑んだ。
今では彼女の為に本宮の一室が与えられているのだとか。これまで本宮には王と王妃の為の部屋しかなかったのだから、エレノアの受けている寵愛の深さがすぐに分かる。
「王妃様の耳には入れるな、との直々のお達しでございますれば、どうかこの話は」
「分かっているわ。ここだけの話にしておきます」
同じ本宮に暮らしているのに、陛下はこのままずっと私に隠しておけると思っていらっしゃったのかしら。よほどの馬鹿だと思われてるのね。
クスと笑ったリセアネの凄みを増した美貌に、侍女は思わず目を伏せた。
そわそわと辺りを気にしている年若い侍女を解放し、リセアネは影のように付き従っているティアを振り返った。
「……ティアったら、なんて顔してるの」
<リセさま>
ティアは唇を噛みしめ、瞳をうるませながらリセアネを見つめていた。
同じ言葉を問い返したい。
リセアネの弾むような明るさはすっかり影をひそめ、瞳はあの夜から凍りついたままだ。
公務を黙々とこなし、接する者全てに分け隔てない微笑みを与える。公務のない日は、図書室に入り浸ってフェンドルの歴史や地理、そして経済などの本を紐解くのが日課になっている。勤勉で美しい王妃を支持する者は日々増えていった。
そしてランズボトムは、あれ以来リセアネの前にピタリと姿を見せなくなった。
ティアには申し訳ない。
クロードとティアのこれからのことを思うと、どうしていいか分からなくなってしまう。
心細さを抱えながら広い寝台に1人横たわり掛布を首まで引き上げる度、リセアネの心は切ない音を立てて軋んだ。
――思い出しては、だめ。
きつく目を閉じ、記憶の中の優しい手を追い払う。
あの晩餐会以来、リセアネとグレアムはただの一度も2人きりになっていなかった。外国からの賓客を迎える夜会では、何事もなかったかのようにグレアムの隣で優雅に振る舞う。最初のダンスも、にこやかに踊ってみせた。
公の場に、なぜかエレノアは出てこない。
傍妃となったからには、グレアムの隣に立つことを許されているはずなのに。リセアネは不思議に思っているのだが、直接グレアムに真意を問うわけにもいかない。
リセアネは注意深くグレアムを避けていた。
夜の訪れも「体調が優れない」と拒み続けている。
もうエレノアがいるのだから、こちらに来る必要はないはずなのに、三日置きにグレアムは王妃の寝所を訪れた。
ティアが応対に出ると、しばらくしてそのまま立ち去っていく。
グレアムの遠ざかっていく足音を、息を潜めて追ってしまう自分が憎い。
いずれはこうなったのだから、早いうちで良かった。リセアネは心の中で繰り返し、寂しがるもう一人の自分を抑え込んだ。