32.初恋
離宮からようやく王妃が戻ってきた。
長年の悩みの種であった隣国・ファインツゲルトを平らげてからというもの、フェンドル国の中枢部にはのんびりとした雰囲気が漂っている。
でなければ、宰相が半月近く城を空ける状況は許されなかっただろう。
ランズボトムは賢い男だ。東の大国の姫であるリセアネに滅多な真似はしないだろうが、それでもグレアムは不安だった。
リセアネには向こう見ずで無鉄砲なところがある。自覚なしにランズボトムを挑発し、怒らせているかもしれない。
困ったものだ、と一人ごちる自分の口元が緩んでいることに気づかないグレアムを、近侍が怪訝そうに見つめた。
「陛下。その文書に何かございましたか?」
サインを待っていた近侍の文官に問われ、グレアムは書類から目を上げる。
「特に問題はないようだが。……何故、そのようなことを聞く」
「いいえ。失礼いたしました」
明らかににやけていたとは指摘できない。
王妃様の御戻りが嬉しいのですね、などと軽口を叩くわけにもいかず、近侍はグレアムからそっと目を逸らした。
リセアネが城に戻ったその日、早速グレアムは彼女の寝所を訪れた。
「どうだった。母は息災にしていたか?」
「はい。訪問を大変喜んで下さいました。体調も良いとのことでしたわ。次は是非、陛下もご一緒して下さいませ」
まだ就寝するには早い。
湯あみを済ませくつろいだ部屋着に着替えたグレアムに、リセアネは葡萄酒を勧めることにした。
繊細なカッティングが施されたワイングラスになみなみと注ぎ、夫の待つソファーまで運ぶ。
「兄様が送って下さったんです。今年初めての葡萄酒なんですって。あまり強いお酒ではないと手紙にはあったので、寝る前に嗜まれても問題ないはずです」
「クロード殿下から? せっかくだから、頂こう」
リセアネが隣に腰掛けると、ふわり石鹸の香りがグレアムの鼻先を掠めた。
王妃の洗い髪はまっすぐに梳かれ、片側で纏められている。思わずじっと見つめてしまったグレアムに、リセアネは破顔した。
「大丈夫ですわ」
「何がだ」
「毒など入っておりません。――ほら、ね」
グレアムの訝しげな視線を受け止めたまま、リセアネはワイングラスに口をつけた。
上目遣いでグレアムを見つめ返しながら、白い喉をコクリと鳴らす。赤い唇が艶やかに濡れた。
軽い眩暈を覚え、グレアムは熱い溜息をついた。
「誰も疑っていない」
「そうですの? 毒見が仇になりましたわね。すぐに新しいグラスをお持ちします」
立ち上がろうとしたリセアネの手を掴み、グレアムは彼女を隣に引き戻した。
「まだ残っているではないか。そのグラスでいい」
そう言うとグレアムは、リセアネが口をつけたワイングラスを一気に傾け、全て呷ってしまう。
さほど強くはないとはいえ酒には変わりない。リセアネは心配そうに夫を見つめた。
グレアムは無造作に手の甲で口元を拭い、リセアネの視線を受けとめる。
彼の瞳の奥には、獰猛な光が宿っていた。今まで見たこともない鋭い欲情がそこにはあった。
捕食者に狙いを定められた兎のように、リセアネの心臓は止まりそうになる。グレアムの壮絶な色気に、上手く息が吸えない。
慌てて目を逸らし、リセアネは何度か咳払いをした。
「そ、そのような飲み方、体によくありませんわ。何かあったのですか?」
何でもない振りをして、明るく尋ねてみる。
リセアネの動揺に気づいたグレアムは苦笑をこぼし、瞳を和らげた。
「私の方は特にない。外交も内政も、今のところ安定している。ダルシーザの復興もレオンに任せていれば問題はないだろう。――それより、王妃こそどうだったのだ。近衛からの報告書を見たが、一度ランズボトムが部屋を閉め切ったらしいな。大丈夫だったのか?」
リセアネは大きく息を吸った。いい機会だ。宰相から持ちかけられた取引を、打ち明けてしまおう。
ところが、リセアネの口から飛び出たのは全く違う話だった。
「叱られてしまったのですわ。王妃たるもの、軽々しく馬車の窓から手など振ってはならない、と」
「そうなのか?」
意外な答えにグレアムは眉を上げた。
人酔いしやすいリセアネのことだ。移動の間は、馬車の中に閉じこもるだろうと思っていた。ロベルの離宮まで大きな街道はいくつもある。
大勢の民が彼女の姿を一目見ようと集まってくるだろうが、それに応えてやってくれと頼んだ覚えはない。王妃に無理をさせるつもりはなかった。
「いけませんでしたか? 王都に住む一握りの民だけに挨拶するのは不公平だと思ったのですもの。王族は国民を守る為に存在していると教わってきました。私が守らねばならない者を、この目で見たいと思うのはいけないことでしょうか」
グレアムにまで叱られたくはなかった。余所行きの笑顔を貼り付け、手を振り続けた苦労をすげなく捨てられるのは悲しい。
リセアネの口調は虚勢を含み、きつく尖る。
グレアムは優しい笑みを浮かべると、毛を逆立てた王妃を抱きしめた。
「へ、陛下!?」
「それは大変だったな。だが民はさぞ喜んだことだろう」
いつの間にか、グレアムの膝に抱き上げられている。
心の籠った口調で労わられ、宝物を触れるような手つきで背中を撫でられた。
小さな子供を慈しむようなグレアムの手つきに、リセアネは泣きたくなるのを必死で堪えた。
グレアムにしてみれば、リセアネは幼い子供同然なのかもしれない。
それでもいい。広い胸に頬を摺り寄せ、引き締まった背中に手を回してしまいたい。
だが、そんなことをしてしまったら、もう後には戻れない。
グレアムに召し上げられ寵愛を受ける傍妃に嫉妬し、いずれ生まれてくる彼の子すら憎むようになるだろう。
己の気性の激しさは、リセアネ自身が一番よく分かっている。愛されたいと一度願ってしまえば、報われない恋情はいずれ悲劇を招く。
――『私は、人の美醜にさほど関心の持てない性質でね』
初夜に告げられた彼の言葉を思いだし、リセアネは自嘲の笑みを浮かべた。
そうだ。子供に見えているから抱けないのではなかった。リセアネが見かけだけの空っぽな女だからだ。
人形のように綺麗なお姫様。黙ってそこにいるだけでいい装飾品のようなお姫様。
老いれば、汚く古びた人形のように屑籠に捨てられてしまう。それがリセアネだ。
「ええ、耳が痛くなるほどの歓声でしたわ。さあ、そろそろお放しになって。私、疲れてしまいましたの」
「ああ、そうだったな。すまない」
グレアムはリセアネを抱きかかえたまま立ち上がり、彼女を寝台へと運んだ。掛布を引き上げ、冬に彼女にしていたようにすっぽりと首元まで覆ってしまう。
それからグレアムも隣に横たわり、無言のまま天井を睨み付けているリセアネに穏やかな視線を投げかけた。
「よく休め。私も久しぶりに、ゆっくり眠れそうだ」
「――はい、陛下」
目を何度も瞬かせ涙を逃しながら、リセアネは自覚したばかりの恋心に絶望した。
初めての恋だった。決して振り向くことのない仮初の夫が、その相手だった。
姉様に会いたい、会って大丈夫だと慰めてもらいたい。
ナタリア姉様。私が貴女のようであったなら、どんなに良かったか――。
それから半月後。
王の執務室にランズボトムが姿を見せた。いつになく上機嫌な宰相に、グレアムは嫌な予感を感じ眉を顰める。
「陛下、王妃様から話は聞いていただけましたか? こちらが傍妃候補のリストになります。いずれも家柄、人物、容姿ともに優れた娘ばかり。きっと陛下のお役に立つことでしょう」
グレアムの嫌な予感は確信に変わった。
離宮への旅の途中、ランズボトムとリセアネの間には、何かしらの密約が交わされたのだ。そしてリセアネはそれを、夫であるグレアムには打ち明けなかった。
何故かと問うなら、答えは一つしかない。グレアムは王妃からまだ信頼を得ていないから。
たったそれだけのことに、自分でもどうしようもないほど苛立つ。
「そこに置いてくれ。王妃と共に選ぶとしよう」
グレアムの口元に浮かんだ冷笑に、ランズボトムはたじろいだ。
グレアムの引き締まった長身から、一気に膨れ上がった殺気が放たれる。一回りも年下の王に気圧されたことに気づき、ランズボトムは歯噛みした。何とか体勢を立て直し、優雅に一礼する。
「一日も早い御世継の誕生を、心よりお待ちしております」
「……分かっている」
グレアムは苦々しげに吐き捨て、視線を手元に落とした。
宰相が机に置いていったリストをすぐさま破り捨てたい衝動を抑え込み、執務に戻る。
その日は、近侍たちにとって散々な一日となった。
サリアーデと違い、フェンドルには王族だけが集う晩餐会はない。
ここ三代に渡って王の子は一人だけだったから王弟というものも存在せず、そもそも隣国との度重なる国境紛争でそんなゆとりはなかったのだ。
リセアネが嫁いできてからというもの、グレアムと共に食事を取ったのは数回ほど。それも、外国の賓客を招いての食事会だった。二人きりの食事は皆無といえる。
「え? 晩餐室に?」
「はい。陛下からの言伝で、今夜は夕食を共にしたいとのことです。そちらの侍女殿もご一緒に、との伝言を預かっております」
「分かったわ」
珍しいこともあるものだ。だが、グレアムが夕食に招いてくれたことは単純に嬉しい。
リセアネはティアを呼び、浮き立つような気持ちでドレスを選んだ。
<こちらの菫色のドレスはいかがです? リセ様の瞳の色と同じで素敵ですわ>
「そうね。そうしようかしら」
パフスリーブのシフォンドレスは優美な曲線を描いている。
裾がふんわり広がるタイプよりも、この体にぴったりと沿ったデザインの方が大人っぽく見えるかもしれない。
グレアムから贈られた真珠の首飾りと耳飾りを合わせ、鏡の前に立ってみる。夜会には煌く輝石をつけるのが約束だが、今夜はグレアムとの個人的な食事会だ。
彼が選んでくれた真珠の方がいいだろう。果たして気づいてくれるだろうか。ティアが結い上げてくれた髪も、薄紫のドレスによく映えている。
リセアネは鏡の前でくるりと回り、期待に胸を膨らませた。
「さあ、次はティアの番よ」
<私はこのままで結構です>
「だめだめ。お仕着せの服で私達と同じテーブルにつくつもり? ついこの間、兄様から送ってきた新しい首飾りをつけてみてよ。ティアが持っている翡翠の簪と合うようにって、兄様がわざわざ作らせたのでしょう?」
翡翠のネックレスと共に送られてきたクロードの情熱的な手紙の内容を思いだし、ティアは真っ赤になった。
そんな彼女の様子を微笑ましく見守りながら、リセアネは決意していた。
今夜こそ、ランズボトムとの密約について打ち明けよう。
グレアムが他の娘を召し上げても、正妃はリセアネただ一人。
決しておそろかにはしないというグレアムの言葉を信じてみよう。
次代の王を産むのはエレノア嬢かもしれない。だが、リセアネだってグレアムの信頼を勝ち得ることは出来るはずだ。