31.取引き
ロベルの離宮で数日を過ごし、ゆっくりと王太后との親交を深めたかったリセアネなのだが、同行したランズボトムも彼女自身も忙しい身。
一泊しただけで早々に王都に戻ることになった。
「是非、またいらしてね。相談事があったら遠慮せずに、いつでも手紙を寄こして頂戴」
名残惜しそうな様子で手を握ってくれたキャサリーヌに、リセアネも心からの礼を述べた。
前王ライオネルも立派な人格者だったと聞いている。その二人の子なのだから、グレアムも信用に値する誠実な男なのかもしれない。
王城に戻ったら、もっとじっくり話をしてみよう。
馬車の中でそんなことを考えていたリセアネは、途中の宿でランズボトムから思わぬ提案をされることになった。
「――傍妃候補を城に、ですって?」
「ええ」
王妃であるリセアネには常に護衛がついている。
その騎士たちを部屋の外に追い払い、ピッタリと扉を閉めて自分の前に腰を下ろしたランズボトムに、リセアネはたじろいだ。
リセアネは既婚者だ。男性と二人きりになったところで咎められる立場にはないが、それでも相手が公爵となれば話は別だ。
いつだったかグレアムに忠告された内容が脳裏に浮かぶ。
――『自分で思うより、王妃はか弱い。充分用心すると私に誓うなら、ある程度は好きにすればいい』
まさかこんな場所で直接危害を加えようとはしないはず。
リセアネの背中を冷たい汗が滑り落ちた。王妃の人形めいた美貌をよぎった怯えに、ランズボトムは深い笑みを浮かべ言葉を続けた。
「恐れながら、王妃陛下が御輿入れされてはや半年。未だご懐妊の兆しはない。王族付きの医師の診察も、頑なに拒まれているそうですね」
リセアネが医師の診察を拒否していることは、王妃付きの侍女数名、そして医師とグレアムしか知らない筈だ。
ランズボトムが持っている情報網に内心舌打ちしながら、リセアネは悲しげな表情をこしらえた。
まさか夫婦として寝てはいないということまでは知るまい。しらを切りとおせばいいだけだと判断し、瞳をうるませてみる。
「陛下のご寵愛を頂いているにも関わらず、子を成せないのは女としてとても辛いことですわ。どうか、ご容赦下さいませ」
「ええ、お察し致しますよ。王妃陛下のご心痛を取り除く為にも、傍妃を召してはいかがでしょう。世継ぎが生まれてしまえば、今感じていらっしゃるような重圧もなくなるというもの」
ランズボトムは、いかにも親身な調子で話を合わせてくる。
リセアネに覚悟はあった。グレアムからも『いずれ傍妃に子を産ませる』と通告されている。
それなのに、リセアネは言い知れぬ不快感を覚えた。
グレアムが他の女性の元に通い、愛を囁き慈しむ。その女性は彼の逞しい腕に夜ごと抱かれ、いずれ王の子を孕むのだろう。
結婚したばかりの頃なら、ランズボトムの言う通りせいせいしたかもしれない。
だが今は、ただ苦しかった。リセアネは説明のつかない自分の苦悩に困惑した。
「陛下は大層王妃様を大事になさっておられます。きっと私が忠言申し上げても、聞き入れては下さらないでしょう。ですから、王妃様の方から薦めて頂きたいのです」
ランズボトムの何気ない一言が、鋭くリセアネの心を抉る。
大事にしている? いいえ。違う。そう見せているだけ。
嘘の契約で結ばれた仮初の夫婦の間に、真実の感情は存在しない。
「それは買い被りですわ。私の申し上げることもきっと聞いてはくれません。あまりに出過ぎた真似ですもの」
以前、それでひどくグレアムを怒らせてしまったことがある。
リセアネが拒絶すると、ランズボトムはそれまでの遜った態度を一転させ、威圧的な空気を纏わせた。
「はっきり申し上げた方がよろしいようですね。――王妃陛下が片時も離そうとしないティアという侍女。彼女はサリアーデの人間ではありませんね。ゲルト洋装店というサリアードの二の郭にある洋裁屋を営んでいる年寄と若い娘もまた同じ。違いますか?」
リセアネはグッと扇を持つ手に力を込めた。
――掴んだ。やはり、サリアーデに間諜を放ったのはランズボトム公爵だったのだ。
王妃の弱みを握り、自らの娘を国母に押し上げる心づもりなのだろう。そうまでしてフェンドルの実権を握りたいのか。
実はランズボトム自身に国政を思うままにしたいという野望はないのだが、その辺の男よりよほど現実家であるリセアネには想像もつかなかった。
ランズボトムはただ、娘を国母にしたかった。昔の初恋の名残を大切に抱きしめながら、彼は娘こそが王妃に相応しいと信じていた。
「何の話をしていらっしゃるのかしら?」
「ゲルト洋装店には、クロード殿下が頻繁に出入りしているとか。サリアーデの王太子殿下とファインツゲルト人の娘に、いつ接点が出来たのでしょう。私には、先の戦しか浮かばないのですよ」
ランズボトムは確信に満ちた顔つきで、声を低めた。
「ファインツゲルト皇国には、幽閉されたいた皇女がいたそうです。喉に傷のある黒髪の皇女。ティア殿と年も外見も合う皇女殿下です。哀れにも亡くなられたそうですが、奇妙なことに亡骸がどこに葬られたのか知っているものはいないそうですよ」
リセアネは黙り込み、動揺を見せまいと歯を食いしばった。
ランズボトムは表情を和らげ、声を明るくした。
「聞くところによれば、ティア殿にはクロード王太子殿下が並々ならぬ関心を抱いているとか。素性の不確かな侍女と次期国王という身分の違いには、クロード殿下もさぞ心を痛めておいででしょうね」
ランズボトムは、美しい瞳を煌めかせにっこりと微笑んだ。
「侍女殿を私の養女にして差し上げてもいい。妹姫の結婚式で王太子殿下が偶然公爵令嬢を見初め、ゆっくりと愛を育み、そして娶る。そう不自然な筋書きでもありますまい。北国の出だと一目で分かるあの容姿では、サリアーデの大貴族の娘と偽り続けるのは難しいでしょう?」
リセアネは激しく俊巡した。
ランズボトムの申し出はひどく魅力的に見える。
ティアがどれだけクロードに焦がれているか、近くにいるリセアネが一番知っていた。
クロードも同じだ。今まで誰にも呼ばせなかったアレクシスというミドルネームを彼女に許したことが、それを証明している。
ティアの出自を盾にとんでもないことを強請られるのではないか、と危惧していたリセアネにしてみれば、破格の申し出だった。
いずれグレアムが娶るはずの傍妃を、先に薦めればいいだけなのだから。
――『すぐに後悔したわ。どんな醜態を晒しても、わたくし以外の女性を娶らないでと懇願するべきだった、と』
キャサリーヌ王太后の言葉が耳に蘇ってくる。
いいえ、後悔などしない。私は、陛下を愛していない。だから大丈夫だ。
リセアネは、苦しさを訴え続けるもう一人の自分を無理やり胸の奥に押しやり、ランズボトムをまっすぐに見つめ返した。
「亡国の皇女とティアに何の関係があるのか私には分かりませんが、彼女を養女にというお申し出はありがたいですわ。最後まで責任をもって私の大切な侍女を兄に嫁がせてくれると約束頂けるのなら、私も協力を惜しまないつもりです」
「理解が早くて助かります。ではそのように。まずは私も家に戻って、手続きを進めます。王妃様も、傍妃候補の召し上げにお口添えをお願いいたします」
リセアネが小さく頷くのを見届け、ランズボトムは優雅な身のこなしで部屋を出て行った。
入れ替わるように、ゆらりとティアが続きの間から姿を見せる。ただでさえ白い彼女の頬からは、すっかり血の気が引いていた。
「聞いたでしょう? もう少し待っていてね、ティア。あなたを兄様の元に返してあげる」
ティアの頬を涙が伝って零れ落ちる。
ティアは懸命に微笑もうとするリセアネに駆け寄り、取り縋った。
<どうか、お考え直し下さい。陛下はリセ様を愛おしんでおられます。見ていれば分かります!>
声を出さないように口を動かすティアだったが、喉はヒューヒューと鳴り始めている。
リセアネは慌ててティアの口元に手を当てた。
「喋ってはダメだと言われているはずよ! さあ、お葬式のように泣くのはやめてちょうだい。私は大丈夫なんだから」
ティアは何度も首を振り、顔を歪めた。
<これ以上お傍にはいられません。私はリセ様から奪うばかりのお荷物です。どうか放逐して下さい>
「いいえ、貴女は私に沢山のものをくれたわ」
リセアネは涙を流すティアの髪を優しく撫で、きっぱりと言い切った。
「私にも出来ることがあるのだと、思わせてくれた。いずれは衰えていく見た目の美しさしか取り柄のない私に、ティアは生きがいをくれた。与えられるより与える方がどんなに幸せか、私に教えてくれた」
一つずつ数え上げるリセアネに、ティアはたまらず嗚咽を漏らしながら泣き伏した。
「あなたは幸せになるべき女性よ、ティア。お願い、私にあなたの幸せを祈らせて」
暁の姫巫女なんていう大層な通り名がついているのだもの、本当に加護があるかもしれないわ、と笑ったリセアネに、ティアはきつく目を閉じた。
実の父に虐待され、挙句の果てに監禁され、生き恥を晒してまで生き延びた。
祖国は滅び、心を寄せた者はカンナとエルザを残して皆、死んだ。何度も無力な自分を呪った。
それでも生きていて良かった。今、心から思えるのは、リセアネのお陰だ。
ティアは主の華奢な手を握りしめた。
私も、この方を守る。何に変えても、守り切ってみせる。
ティアの心に生まれた強い決意に、リセアネが気づくことはなかった。