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30.王太后キャサリーヌ

 キャサリーヌ王太后の住まう離宮は、フェンドルの南端に位置している。

 王都から馬車で5日ほどかかる辺鄙な場所なのだが、フェンドル国の中では比較的暖かな土地らしい。

 先王はグレアムに王位を譲位した後、そこで最愛の后と共に最期のひと時を過ごしたのだという。

 リセアネはティアと共に馬車に乗り込み、移りゆく風景を眺めていた。

 サリアーデと比べて、畑が少ない気がする。

 今のうちに種をまき育てていかねば、秋の収穫は望めないのではないだろうか。

 心に浮かんだ疑問をティアに話してみると、彼女は手帳に何かを書き込み始めた。


<北の国は土地が痩せているのです。黒麦、ルザ麦など、寒さに強い品種だけが育ちます。それも、家畜飼育の行われている土地だけです。肥料がないと作物は育ちませんもの。城で供されている白パンは貴重品ですわ。白麦は貿易品ですから>

「そうだったの! ティアは物知りね」


 感心した様子で頷くリセアネに、ティアは苦い笑みを向けた。


<こちらに来て図書室で本を読み、私も初めて知ったのです。元の身分でいた頃は、何も知りませんでした。己の無知ゆえに民の助けになることが出来なかったのだ、と今になって知ったのです>


 皇帝に諫言する前に、数少ない味方であった臣下に相談し、飢饉を避けるための手立てを講じることが出来たのではないか。今更になって浮かんだ考えにティアは苦しめられていた。

 何も知らずにいたこと自体、皇女としての自分の最大の罪だったのではないか、と。

 苦悩するティアを見て、リセアネは唇を噛んだ。

 あちこちに視察に出かけてはいたが、通り一遍の説明をもっともらしく聞くことに心を砕いていた自分を振り返り、恥ずかしくなる。

 気候にも土壌にも恵まれていたサリアーデとは、何もかもが違うのだ。そのことにすら、今の今まで気づかなかった。


「私もこの国のことを知りたいわ。城へ戻ったら、簡単な本から読んでみようかしら」

<リセ様は賢いお方です。すぐにどのような書物も読み解かれておしまいになりますわ>


 ティアの励ましに、リセアネはしっかりと頷いた。

 何度か宿場町に泊まり、離宮のあるロベルへと到着するまでの間。

 王太妃慰問の噂はあっという間に国中を駆け巡り、街道には大勢の国民が溢れていた。

 事前にランズボトム公爵から『決してお姿をお見せになりませんように』と言い含められていたのだが、リセアネは馬車の窓を開け、民に向かって手を振った。

 王都に住んでいる者だけが王妃の姿を見ることが出来るなんて、不公平だと思ったからだ。


「王妃様だ!」

「おお、なんと美しい!」

「神様がお遣わしになった巫女様らしいよ?」

「なるほどなぁ」


 『暁の姫巫女』というわけのわからない呼び名は、教会への信仰から派生したものだったのか。リセアネはげんなりしてしまった。

 こんな狭量な人間が、神の御使いなわけがないじゃないの。

 群衆の叫び声を耳にし、一瞬苛立ったリセアネだったが、すぐに思い直した。

 グレアムの威光を高める為には、そう思われている方が好都合かもしれない。

 とっておきの儚げな微笑を顔に貼り付け、リセアネは辛抱強く国民に向かって手を振り続けた。

 隣に座っていたティアは、懸命に王妃たろうとする彼女に感動せずにはいられなかった。

 リセアネは見知らぬ土地でも、自らに課せられた義務を果たそうと努力している。サリアーデでは、自由奔放に過ごしていたリセアネにとって、それは並々ならぬ苦労に違いない。

 ようやく街道が途切れる。リセアネはぐったりとした様子でティアにもたれ掛った。


「腕がつりそうだわ。でも、せっかく並んで待っていてくれたんだもの、挨拶して良かったわよね?」

<もちろんですわ、リセ様。みな、とても喜んでいたではありませんか。王族への尊敬の念は、彼らの誇りでもありましょう>

「ふふ。ティアにそう言って貰えると、もっと頑張らなくちゃと思えるから不思議ね。まるで姉様みたい」

<恐れ多いことでございます>


 慌てて首を振るティアを、リセアネは悪戯っぽい表情で見つめた。

 いずれきっとそうなるとリセアネは信じていた。


 満ち足りた気持ちで馬車を降りたリセアネだったが、その日の宿場町に到着した途端、ランズボトムの叱責を受けることになった。


「王妃陛下ともあろう御方が、軽々しく下々の前に姿を見せるのは如何なものでしょうか」


 リセアネが部屋に落ち着くのを待ってやってきたランズボトムは、冷ややかに言い放った。


「警護の騎士たちの苦労も、どうかご考慮下さいませ」

「騎士たちの苦労、と仰いますけれど、何も騒動は起こっていませんでしたわよね?」


 リセアネは愛らしく首をかしげ、おっとりと反論した。

 ランズボトムは眉をあげ、やれやれと首を振る。


「陛下は何も分かっていらっしゃらないのですよ。何しろこれまで高貴な世界で大切に御育て遊ばされた深窓の姫君なのですから」


 意訳すれば『箱入り娘は黙って私の言うことを聞いていろ』となる。

 リセアネは困ったように眉を下げ、両手を組んだ。


「宰相殿にそれほどのご心配をおかけするとは思ってもみなかったのです」


 高級な宿屋の一室で、リセアネは項垂れてみせながらも、内心はまるで別のことを考えていた。

 ――うるさい。差し出がましい真似は控えろ。

 グレアムのような口調で本音を叩きつけたら、どんなにスッキリすることだろう。

 だがそういうわけにもいかない。ランズボトムはフェンドルの大貴族で、決して蔑ろには出来ない男だ。他国から嫁いできたばかりの若い姫が太刀打ちできる相手ではない。世継ぎを産んでいれば別なのだろうが。

 リセアネは相手に気づかれないよう、細く息を吐いた。


「では、明日からは窓を開けないで頂けますね?」


 ランズボトムは念を押してくる。リセアネはやんわり彼の助言を退けた。


「わが父の口癖は『王族たるもの、民に添うべし』というものでしたの。私の目に余る振る舞いは、サリアーデ風と割り切って頂けると嬉しいですわ」


 意訳すれば『あんまりな態度を取るようなら、父に言いつけてやるわよ』だ。

 ランズボトムは苦虫を噛み潰したような表情になり、ぐっと拳を握りこんだ。


「……恐れながら、ここはフェンドルです」


 ようやく彼は、その一言を口にした。

 リセアネは、待ってましたとばかりに、にっこりほほ笑んだ。


「もちろんですわ。ですから王城に戻ったら、陛下に直接、この度の是非を尋ねてみることにしますわね」


 ランズボトムは慇懃なほど丁寧に退出の辞を述べ、憤然と去って行った。

 隣の部屋でやり取りの一部始終を聞いていたティアは、笑いを噛み殺そうと肩を震わせていた。

 リセアネのしてやったりという顔が目に浮かぶ。


「出てきていいわよ、ティア」

<よろしかったのですか? 公爵閣下はすっかりおかんむりのようでしたけれど>

「敵に回すつもりはないわ。三大公爵家の当主で、しかも貴族院の筆頭でいらっしゃるんですもの。でも、大人しく傀儡になるつもりもないわ」


 リセアネは片眉を上げ、手にしていた扇をピシャリと閉じた。


「王太后様がどのような方かによって、また出方を考えなくてはね」


 キャサリーヌがグレアムと自分の味方であることを、この目で確かめたい。

 まさかとは思うが、彼女がランズボトムと通じているのなら最悪だ。

 王妃という肩書だけで彼に対抗するのは、難しくなる。

 ランズボトムの娘であるエレノアが、グレアムの寵愛を受け跡継ぎを産めば、彼は次期国王の祖父。この国の実権を手に入れることになるのだから。


 ロベルの離宮は、とても美しい宮だった。

 王城もそうだが、フェンドルの建物は頑丈な石造りのものが多い。しっかりと隙間なく組まれた石に、わずかな小窓。寒さを防ぐには適しているのかもしれないが、辺り一面が灰色で塗りつぶされたように見えて、リセアネはあまり好きではなかった。

 ところが王太后の離宮は、大部分が大理石で作られ、窓は分厚くも大きな両開きのものだった。

 白亜の宮殿の瀟洒な佇まいを目にし、リセアネはサリアーデを懐かしく思い出した。

 王太后付きの侍女に案内され、奥の間に通される。

 ティアは控えの間に残すことになったが、王自らが選りすぐった精鋭の騎士が護りについてくれている。

 あの夜以来、ランズボトムはリセアネを避けていた。

 今も能面のような表情でリセアネの後ろに続いたランズボトムだったが、キャサリーヌが姿を見せると堪えきれないように瞳を輝かせた。


「初めまして、リセアネ王妃陛下。わたくしが、キャサリーヌです」


 60を超えているとは思えない若々しさだ。

 金色の豊かな髪をゆったりと片側でまとめ、フェンドルの伝統衣装である古風なドレスに身を包んだ王太后に、リセアネは一目で魅入られてしまった。

 若草色の瞳はどこまでも澄んでいて、優しい光を宿している。


「お会い出来て光栄です、キャサリーヌ王太后様。挨拶が遅れましたこと、深くお詫び申しあげます」

「そんな堅苦しい挨拶は抜きにしてちょうだい。なんて愛らしいんでしょう! 話には聞いていたけれど、まるで春の女神ね」


 キャサリーヌは「どうか、私のことはリーナと呼んで」とねだり、嬉しそうに両手を合わせてまじまじとリセアネを見つめてきた。

 少女のような義理の母に、リセアネは思わず微笑んでしまう。

 母様によく似ている。リセアネはまたしても故郷を懐かしく思い出した。


「リーナ様。今日はお加減はいかがですか?」

「冬の間は寝込んでしまったのだけど、ここしばらくはとても気分がいいの。――アシュトンがロベルまで王妃を守って下さったのね? お礼を言わなくては」


 キャサリーヌは後方に控えていたランズボトムに目を留め、ねぎらいの言葉をかけた。

 幼い頃の彼を知っているキャサリーヌにしてみれば、すっかり立派になった今でも公爵は可愛い弟分のような存在だ。


「恐れ多いことでございます」


 たったそれだけを口にして、ランズボトムは押し黙った。

 ――もっと他に言うことはないのかしら?

 リセアネは訝しげに彼を振り返り、そして驚いた。

 ランズボトムの頬は上気し、はにかみを帯びた視線は床に向けられている。

 どこからどう見ても、彼の片思いだ。

 思わず脱力しそうになったリセアネは、何とか踏みとどまり平然を装った。

 油断ならない相手だと警戒していた宰相の姿はどこにもない。


「宰相閣下は、リーナ様の幼馴染でいらっしゃるとか?」


 リセアネが水を向けてみると、ランズボトムは滑稽なほど動揺した。


「そ、そのように親密な関係ではありません! 公爵家同士の付き合いの中で、幾度かお目にかかったことがあるというだけです。疾しい気持ちなど持ったこともない」


 誰もそこまでは言っていない。

 リセアネがクスクス笑い始めると、ランズボトムは苦々しげな表情になった。

 だが、キャサリーヌが鈴を転がすような声で笑い出すと、たちまち機嫌を直したようだった。

 あまりに分かりやすい態度に、リセアネは可笑しくなった。だがそんなアシュトンの想いは全く通じていないようで、キャサリーヌは「貴方はミリュエル一筋ですものね」などと言い始めた。


「ミュリエル様とは?」


 リセアネが小首を傾げると、キャサリーヌは悪戯っぽく口角を上げた。


「わたくしの恋敵であった方ですわ」

「え?」


 リセアネは意外な言葉に目を丸くした。すかさずランズボトムが否定する。


「我が妻は、陛下の寵愛を受けたことなどありません。名ばかりの傍妃であったこと、王太后様が一番よくご存じのはずでは」

「それでもあの方が城にいた間、わたくしは自分でも恐ろしいほど嫉妬したのですよ、アシュトン」


 目をかすかに細め、キャサリーヌは遠き日を想いだしているようだった。


「グレアムを産んで体を壊してしまったわたくしは、二人目の子を産む道を絶たれたのです。ですから傍妃の召し上げには、ライオネル様より先に賛成したのよ。それが正妃としてのプライドでもあったから。――でも、すぐに後悔したわ。どんな醜態を晒しても、わたくし以外の女性を娶らないでと懇願するべきだった、と」


 淡々とした語り口だった。

 それが余計に当時のやりきれない気持ちを表しているようで、リセアネの胸はきゅうと締め付けられた。


「貴女にはわたくしと同じ想いを味わって欲しくないわ。グレアムはちょっと堅物なところがあるけれど、いい子でしょう?」

「え、ええ。大変良くして頂いております」


 まさか夫婦として真に結ばれていない、とは言えない。

 リセアネは湧き起こる罪悪感を無理やり抑え込み、当たり障りなく答えた。


「それを聞いてホッとしたわ。貴女のように眩しい姫を人生の伴侶に迎えることが出来たなんて、我が子ながら運がいいわね。ねえ。良かったら、2人のなれ初めを教えて下さらない?」


 キャサリーヌは嬉しそうに頬を緩める。

 敵国の皇女の命を贖う為に嫁いできたのです、とはもっと言えない。

 この婚姻は初めから偽りにまみれている。前王のようにグレアムが正妃を愛することは決してない。

 リセアネは無性に寂しくなった。


「兄が陛下と知己の関係にありますので、それで私に目を留められたのではないかと思います」

「クロード王太子殿下ね。武勇とその美貌は、わたくしの元まで轟いていてよ? サリアーデの話をもっと聞きたいわ」


 すっかり打ち解けた様子のキャサリーヌとリセアネのやり取りを、ランズボトムはただ黙って見守っていた。




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