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29.近づく距離

 ようやく春がやってきた。

 といっても、地面から雪が消えライファの花が芽吹くようになったというだけで風はまだ冷たいのだが、冬籠りが終わりを迎えたことで王城にも活気が溢れている。

 正妃であるリセアネのお披露目も無事執り行われた。

 その日だけは王城の正門が開放され、フェンドル国民であれば誰でも城の正面広場まで進むことが出来た。

 グレアム王と並び、広いバルコニーに姿を見せた『暁の姫巫女』の姿に、広場に集まった数千の民は熱狂の声を上げた。


「なんとお美しい……!」

「わあっ。こっちに手を振って下さったわよ!」

「王妃陛下、万歳!」

「王陛下、万歳!」


 波のように絶え間なく押し寄せてくる群衆の歓声に、リセアネは精一杯の微笑みで応えた。

 もう小一時間ほども同じ姿勢で、手を振っている。

 いつになったら、部屋に戻れるのだろう。

 リセアネの心の声が隣に立つグレアムに伝わったのか、王は身をかがめて王妃に耳打ちした。


「もう少しの辛抱だ。頼むから勝手に戻ってくれるなよ?」

「そのようなこと、言われずとも分かっておりますわ」


 リセアネも夫の頬に唇を寄せるようにして、ドスの利いた低い声で囁き返す。

 仲睦まじい国王夫妻の姿に、広場から一際大きなどよめき声が上がった。

 お披露目式以来、リセアネは急に忙しくなってしまった。

 領地の視察、孤児院や医療院への慰問。

 大貴族の催す茶会、そして夜会への来賓としての出席。

 数名の騎士に護られ、三日置きにはどこかへ出かけなくてはならない。

 昔のリセアネならばとうの昔に音を上げていただろうが、クロードの不在時の忙しさに比べれば楽なものだった。

 また、グレアムが職務に忙殺されているのを近くで見ていることもあり、少しでも彼の負担を減らすことが出来ればいい、とも考えていた。その程度の情は移っている。

 控えめな微笑を浮かべ、文句の一つも言わず公務をこなすリセアネを、王城の人々はさすがは大国・サリアーデの姫よ、と褒め称える。

 嬉しそうに自分の評判を報告してくれるティアに、リセアネも満更でもない気分になっていた。

 リセアネはどこへ行くにもティアを伴っている。

 目の届かないところに置き、彼女に万が一のことがあれば、クロードは一生自分を許さないだろう。

 常に一緒に行動している黒髪の侍女のことは「サリアーデのとある大貴族の遠縁の娘」だと人には紹介した。


「肌の色といい、顔立ちといい、侍女殿はこちらの出身なのかと思っておりました」

「北国の血が混じっているからですわ」


 そして、リセアネの言葉に疑問を抱く者はいないように見えた。


 三日ぶりに王妃の間へ渡ってきたグレアムの様子に、リセアネは眉を顰めた。


「随分お忙しかったのですね」


 公の場では僅かな隙さえ見せないグレアムなのだが、ここに居る時は気が緩むのか、珍しく溜息をついてリセアネの隣に腰を下ろす。

 彼の眉間を揉む仕草に、リセアネは思わずドキリとしてしまった。

 『王』の空気を纏わせていないグレアムの無防備さは、彼女にとって困惑の種となっている。

 ――慰めて差し上げたい。

 十四も年上の夫だというのに、一体どうしてそんなことを思ってしまうのだろう。

 人払いを済ませ、ティアも続きの間へと下がっている。


「顔色が悪い気がします」


 誰も見ていないことを言い訳に、リセアネはそっと夫の頬に手を伸ばした。


「なんだ。今日はやけに優しいな」


 伸ばした手は、途中でグレアムの右手に掴まってしまう。

 リセアネは慌てて引っ込めようとしたのだが、グレアムはリセアネの手を取ったまま、ソファーに仰向けになってしまった。

 収まりきらない長い脚の膝から下を、肘掛の外に放り出す。

 リセアネの太腿に頭を乗せ、グレアムは目を閉じた。


「少し仮眠を取らせてくれ」

「こ、こんな場所では休めませんわ。どうか、寝台に御移り下さいませ」

「ここでいい。半刻経ったら起こしてくれ」


 グレアムはリセアネの膝枕で寝てしまうことに決めたらしい。

 あっという間に、安らかな寝息を立て始める。

 狸寝入りではないのか。疑ったリセアネはグレアムの髪を引っ張ったり、高い鼻をつまんだりしてみた。ところが彼は煩わしげに顔をしかめるだけで、目を開けない。

 とうとうリセアネは諦め、グレアムの好きなようにさせることにした。

 このままじっとしていなくてはいけないなんて、暇で仕方ないわ。

 内心毒づいてみるが、実際は寝顔を眺めているだけで不思議と飽きはこないのだった。

 凛々しい眉。高い鼻梁に、薄い唇。きつい眼差しさえなければ、なかなかの美丈夫ではなくて?

 眠っているのをいいことに、リセアネはじっくり夫の顔を検分する。

 ――キスしたら、どうなるのかしら。

 馬鹿げた思いつきがリセアネの頭に取りついた。

 グレアムに唇を許したのは、結婚式の一度きり。あれから彼は性的な意味では決してリセアネに触れようとしない。

 「幼すぎて抱けない」という初夜での言葉を思い出し、リセアネは鼻を鳴らした。

 二十二歳の立派な大人をつかまえて、幼い、ですって?

 サリアーデでは沢山の男が欲望の入り混じった熱い目で見つめてきたのだと打ち明けてしまいたくなる。

 あれはあれで非常に不愉快だったと思い直しながら、リセアネはグレアムの唇に指をおいてみた。

 想像していたより、柔らかい。

 好奇心に負け、リセアネはゆっくり体を前に倒した。


 まさか、本当に寝てしまうとは思わなかった。グレアムは愕然とした。

 目を閉じ、柔らかな感触を枕に横になるだけで、少しは疲れが取れるだろう。そんな軽い気持ちで横になったというのに、僅かの間とはいえ、本当に意識が飛んだ。

 警備の騎士を立てているわけでもない昼間の王城内で、だ。

 今までの自分からは想像も出来ない失態だった。

 意識を取り戻し、グレアムは盛大な溜息をつきたくなったのだが、王妃はまだ自分が眠っていると思っているらしい。無遠慮な視線をあちこちに感じる。

 いつまでじろじろ見ているつもりなのか。

 何故か少し可笑しくなってくる。

 そのまま目を閉じていると、いきなり唇に細い指の感触がして、グレアムは驚いてしまった。

 身じろぎしそうになるのを、必死でこらえる。

 ふわり。

 王妃がいつも使っている薔薇の香油の匂いが近くなる。プラチナブロンドの艶やかな髪がはらり、とグレアムの胸元に落ちたのが分かった。

 直後、柔らかなものが唇に押し当てられる。温かな息が口元をくすぐった。

 まさか、キスしているのか?

 驚き過ぎて、思わず息を飲む。

 リセアネは弾かれたように身を起こし、愛らしい咳払いを繰り返しはじめた。

 グレアムは、いかにもたった今気が付いた、というように大きく伸びをしてみせた。


「……だいぶ経ったか?」

「いいえ。ちょうど半刻ですわ」


 腹筋だけで上体を起こし、リセアネの顔を見つめてみる。

 深い菫色の瞳にはキラキラとした光が浮かんでいた。頬はほんのり赤く染まっている。

 グレアムは、自分の吐いた台詞を悔やみたくなった。幼すぎてその気になれないなどと、よく言えたものだ。

 リセアネは立派に女だった。それも極上の。

 今すぐ、この腕に抱きたい。恋情ではなくただの欲望かもしれないが、この天邪鬼な姫が欲しくてたまらない。


「そろそろ仕事に戻る」

「はい。夜のお渡りをお待ちしております、陛下」


 ぎょっとして振り返ると、無邪気な微笑みを浮かべて自分を見送っているリセアネと目が合った。

 立ち止まったグレアムを不思議そうに眺めている。

 ――無自覚に煽ったつけは、いつか払ってもらうからな。

 グレアムは決意し、足早に王妃の間を後にした。


 

 ようやく頬を撫でる風が柔らかくなってきた5月。

 リセアネは、離宮に住むキャサリーヌ王太后との対面を果たすことになった。病弱なキャサリーヌ后なのだが、暖かくなったせいか最近は床を離れているというのだ。

 先王ライオネルの寵愛を一身に浴び、今でも国民に深く愛されている王太后に初めて会う、というのでリセアネは柄にもなく緊張していた。

 緊張の理由は、もう一つあった。

 クロードの放った『耳』の情報によると、ランズボトム公爵には長年想いつづけている女性がいるらしく、それはどうやらキャサリーヌ妃だという。

 まさか、と自分の目を一瞬疑ったリセアネだったが、『耳』の情報は確かなはず。すぐさま報告書を火にくべ、リセアネは行動を起こした。


「元はといえば、私が一緒に行けないのが悪いのだが……。どうしても、ランズボトムを伴に、というのだな?」

「どうか、お願いいたします」


 実は宰相は王太后に長年懸想しているらしい、などという下世話な情報を、グレアムの耳に入れたくはなかった。

 リセアネは理由を伏せて、王に懇願した。


「あれ以来、何も言ってこないのが逆に気になるのです。充分気を付けますし、二人きりになったりしないと約束しますわ」

「そこまで言うのなら、了承しよう。だが、ランズボトム家の騎士は付けさせない。王室警備隊から護衛の騎士を増やす。いいな」

「ええ、もちろんそれで結構です。ありがとうございます、陛下」


 胸を撫で下ろすリセアネを見て、グレアムはからかうように片眉を上げた。


「いつになったら我が妃は、私のことを名前で呼ぶのだろうな」


 リセアネは笑顔を曇らせ、瞳を伏せた。


「……恐れ多いことでございます」


 グレアムと呼んでしまえば、今以上に近しく感じてしまうのは明らかだ。

 いずれ他の女性を愛するようになる夫に、そこまで心を明け渡してしまうのは恐かった。

 リセアネの心は積もった雪が溶けるように、少しづつグレアムに傾いている。


「陛下だって私のことを、名前では呼ばないわ」


 顔を上げ思い切って言ってみると、グレアムは珍しく視線を逸らした。

 ――呼ぶ価値もない、というところかしら。

 リセアネとの距離を詰める気はないのだろう。

 お互い様だ、と諦め混じりにリセアネは自嘲の笑みを浮かべた。


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