28.雪解け
「本当に、兄様はまめな方ね。はい、ティア。これはあなたによ」
吹雪に閉じ込められる日が少なくなり、空を覆う分厚い雲が薄まってきた3月。
サリアーデから届いた書簡の一つを手に取り、リセアネはティアに差し出した。
フェンドルに来てからというもの、ひと月に一度はクロードから手紙が届いている。忙しい方なのに、とティアは胸が苦しくなった。
せわしない毎日の中で自分を忘れないでいてくれることが、こんなにも嬉しい。
そっと手紙を胸に抱きしめたティアを、リセアネは優しい眼差しで見つめた。
「私は少しお昼寝しようかしら。下がっていいわよ、ティア」
<ありがとうございます、リセ様>
王妃様、と呼んでいたティアが「リセと呼ぶように」と命じられたのはしばらく前のこと。
固辞するティアを見て、リセアネは『王妃、なんて呼ばれるのはこの国の人間だけで結構だわ』と臍を曲げた。
一度言い出したら聞かないのがリセアネだ。とうとうティアは折れ、二人きりの時は「リセ様」と呼ぶようにしている。
クロードからの手紙が届くと、リセアネは決まってティアを休憩に追いやる。その不器用な気遣いに、ティの心はいつも温められるのだった。
王妃の間から少し離れたところにある自室へ戻り、丁寧に封を切る。
「私の大切なティアへ
元気にしているかい?
君からの手紙に、いつも心を慰められています。
こちらは相変わらずの毎日だよ。
書類仕事が続くと体がなまって仕方ないから、時々騎士の訓練所に通うようにしているんだけど、フィンやノルンたちにもう来るな、と嫌がられてしまった。
困ったものだよね。
フィンなんて新婚なのだから手加減しろ、痣や傷は奥方が心配して困る、というのだよ。
余計に力が入ってしまうのは、仕方のないことだと思わないか?
カンナとエルザは、元気にやっているよ。
冬のないサリアーデに驚いていた話は、この間の手紙に書いたよね。
もうすぐ春だから、仕事が忙しいと張り切っている。
音楽祭や感謝祭など、大きな祭りが続くから、仕立ての依頼も多くなるんだろう。
サリアーデの春はとても美しいんだ。
いつかティアにも見せたいよ。
そちらの寒さも緩む頃だろうか。
体調にはくれぐれも気を付けて。
喉の調子はどうかな。
君の指が毎日恋しいです。
貴女の忠実なしもべ、アレク」
クロード・アレクシス=サリアーデというのがクロードの正式名だ。
サリアーデの王族男性はミドルネームを家族以外には明かさないというしきたりを持っている。
クロードは、ミドルネームであるアレクシスをティアに許し、自分のことはアレクと呼ぶようにと初めての手紙で懇願してきた。
それをティアから聞いたリセアネは、手を打って喜んだ。
『とうとう、我らが王太子殿下も腹を括ったってわけね。ティアをお兄様から引きはがして正解だったわ』
リセアネはにんまり笑い、ティアはわけが分からず首を傾げたものだ。
腹を括る、とはどういう意味だろう。
私たちが再び会うことなどないというのに。
クロードの真意は分からないが、自分だけしか呼ばない彼の名前を心の中に大事に持っているのは、とても幸せなことだった。
離れていても、クロードは沢山の幸せを自分にくれる。
そのことが、本当に嬉しかった。
何度も手紙を読み返した後、ティアもリセアネから貰った美しい便箋を机に広げた。
「アレク様
いつもお手紙ありがとうございます。
フェンドルはまだ寒いですが、雪解け水が西の小川を流れるようになりました。
皆さんとてもよい方ばかりなので、毎日穏やかに過ごせています
グレアム陛下も、リセアネ様をとても大事にして下さっています。
エルザやカンナのことも、気にかけて下さって嬉しいです。
私は元気にしていると、どうか安心させてやって下さい。
喉は全く痛みません。」
そこまで書いて、ティアは羽ペンを止めた。
――私も、アレク様の手のひらが恋しいです。
そう書きたくなったが、しばらく考え、再び手を動かす。
「リセアネ様は、王城すべてを散策し尽そうな勢いです。
乗馬の練習も春になったら始められるとか。
陛下が下さった大人しい白毛の牡馬に『ノルン』と名付け、可愛がっておられます。
恐れ多いことに、私にも乗馬の手ほどきをして頂けるとか。
馬に乗るのは初めてなので、とても楽しみです。
『ティアの乗る馬には、フィンと名づけたらいいわ』と笑っておられます。
もし馬を頂けたら、どんな名前にしたらいいのでしょう。
フィン様には内緒にしておいて下さいませ。
ティア」
ゆっくりと便箋を折り、そっと唇に当てる。
クロードを真似て「あなたのティア」と書くことは出来そうにない。だから、せめて。
想いが届きますようにと願いながら、ティアは封蝋を押した。
一方、グレアムは相変わらずの態度のリセアネにすっかり手を焼いていた。
無礼な真似をされるわけではない。
むしろ、礼儀正しくたおやかにグレアムを迎え入れてくれる。
生意気な口も、もう叩かない。おっとりと微笑み、グレアムの言葉をただ受け入れるだけだ。
だが、それがすべて仮初かりそめのものだと知ってしまっているグレアムにしてみれば、実に腹の座りが悪いものだった。
ランズボトムにはすでに「王妃との直接の面会は今後控えるように」と申し渡している。
「よほど大事にされているのですね」と笑みをうかべた宰相に、グレアムはその通りだ、と頷いてみせた。
「愛しい王妃に何かあれば、正気ではいられない。そのように心に留め置いてくれ」
牽制するために発した言葉だが、ランズボトムは返す言葉に詰まったようだった。
とうとうある夜、グレアムはリセアネに屈した。
「私の何が気に入らなかったのか、単刀直入に聞こう」
「まあ、一体どうなさったのでしょう。もちろん、陛下の全てをお慕い申し上げておりますわ」
菫色の瞳にうっすらと涙を浮かべ、リセアネは悲しげに視線を外した。
グレアムはそんなリセアネの頬を両手で挟み、逃さない、とばかりに覗き込む。
「いい加減にしろ、王妃。そんな手練はもういい。貴女の本音が知りたいのだ」
寝台の上、グレアムは膝詰でリセアネと向き合ってる。
リセアネは、わっとグレアムの膝の上に泣き伏した。
「少しでも、陛下の役に立ちたいと、そう思いましたのにっ。子を生せない望まれぬ私でも、そうすれば陛下に気に入って頂けると、浅はかにも思いましたの。でも、それすら許さぬと叱られてしまえば……。私は、ここでどう過ごせばいいのです? ――陛下まで、私を人形のように扱うのですか?」
もちろんリセアネは演技のつもりだった。
だが、訴えているうちに次第に悲しくなり、いつしか涙は本物になっていた。
ひくひくとしゃくりあげているリセアネを黙って見ていたグレアムは、短く溜息をつき王妃を膝に抱き上げた。
そして宥めるような優しい口づけを、彼女の髪や頬に落としていく。
突然与えられ始めた王からのキスに、リセアネは硬直してしまった。
息を殺してじっとしているうちに、すっかり涙は止まっている。
「ふっ」
やがて聞こえたかすかな笑い声に、リセアネの頬は真っ赤に染まった。
「からかうなんて、酷い方!」
リセアネは手を上げ、グレアムの筋肉質な腿をピシャリと叩いた。
「どちらが酷いんだろうな」
グレアムは笑って、リセアネを解放した。
慌てて寝台の端に後ずさった王妃を眺め、グレアムは肩をすくめた。
「なんだ。寵愛をねだっていたのではなかったのか」
「ち、違いますわ! ただ私は、自分で考え行動する自由を奪われたくないのです」
「自由を奪ったつもりなどない。ただ――」
心配だっただけだ。
そう続けようとしたグレアムは、自分で自分に驚き、口をつぐんだ。
リセアネは、急に押し黙ったグレアムをいぶかしげに見つめている。
「自分で思うより、王妃はか弱い。充分用心すると私に誓うなら、ある程度は好きにすればいい」
ようやくグレアムは口を開いた。
精一杯の譲歩に、リセアネの表情がみるみるうちに明るくなる。
「ある程度は、だぞ?」
「ええ、もちろんですわ!」
リセアネはすっかり機嫌を直し、打ち解けた態度でグレアムに近寄った。
何をするのかと思えば、先ほど叩いたグレアムの膝近くに手を乗せ、よしよしと撫で始める。
グレアムは十代の少年のようにたじろいだ。
「ぶってしまって、ごめんなさい。陛下」
リセアネは芯から申し訳なさそうに、グレアムの太ももを撫でた。
「痛かったでしょう? 痣になったらどうしましょう」
たったあれしきで痣になるわけがない。グレアムは笑い出したくなったが、ぐっと我慢し唇を引き結んだ。
気の強い子猫を少しずつ手なずけているような、奇妙な満足感がグレアムを満たす。
「もう、いい」
リセアネの手を引き、華奢な体を隣に横たえる。
リセアネはされるがままに、じっとしていた。
髪へのキスだけで硬直する初心な姫君だというのに、こういう時は全く抵抗しない。
そのアンバランスな無防備さがグレアムを不安にさせるのだと、本人は全く気付いていない。
グレアムは溜息をつきつつ、妻に毛布をかけてやった。
リセアネはそんなグレアムをじっと見上げて言った。
「陛下のこと、嫌いではありませんわ。この国のことも。平和で強く豊かな国であり続けて欲しいと、私なりに願っています。だからこそ、ランズボトム公の本心が知りたいのです」
本音が知りたいという先ほどの質問への返答なのだ、とグレアムは気づいた。律儀で素直なところはリセアネの美点の一つだ。
「そうか。私と共にあってくれようとする心は、正直ありがたい」
グレアムも率直に答える。
リセアネは安堵したのか、幼い笑みを返してきた。
余所行きに取り繕った眩い美しさはそこにはない。
だが、グレアムはその笑みに心が和むのを確かに感じていた。