27.不和の種
リセアネが、フェンドル国王妃となって三か月。
季節は秋から冬へと移り、本格的な寒さが北国を覆うまで、ティアの毎日は飛ぶように過ぎて行った。
サリアーデでしばらくの間とはいえ侍女勤めをしていたおかげで、馴れない仕事に戸惑うことはなかったし、無駄な浪費を嫌うグレアムの方針により、そもそも王宮で働く使用人の数自体が少ない。
よそから嫁いできた王妃とその侍女に対しての風当たりというもの自体、最初から存在しなかった。
サリアーデでは何日にも及んで盛大に行われるという年越しパーティも、ここフェンドルでは貴族や主だった地主を集めて晩餐を催すだけの小規模なものだ。
レオンハルトに至っては『今はダルシーザを空けられない』という短い断り文句を送ってきたし、グレアムは笑ってそれを許した。
天気の良い日は、リセアネは外に出ることにしている。その日も、毛皮の防寒コートと分厚いブーツを装着し、積もった雪にはしゃぎながら中庭を散策した。
ティアも付き合ったので、王妃の間に戻る頃には二人共すっかり体が冷えてしまった。
暖炉の前で雪で濡れた髪を拭きながら、ティアとリセアネは和やかに談笑した。
<姫様は星の宮にいらした頃より、のびのびとしてみえますわ>
「そうね。だって、どこへ行くのも自由なんですもの。王城内だけだとしても、サリアーデとは大違いだわ」
最初は気軽に出歩く王妃に目を剥いていた女官や侍従、そして騎士たちも、今ではすっかり慣れたのか眉ひとつ動かさない。
グレアムの仕事の邪魔をするつもりはないリセアネは、王の執務室や謁見の間近辺には近寄らなかった。故に、挨拶なしでは行き過ぎることの出来ない大貴族にばったり出くわすこともない。
サリアーデでは自分の宮に引きこもっている方が楽だった。隙あらばリセアネを口説こうとする煩い男どもがいないだけで、これほど開放感を味わえるとは思ってもみなかった。グレアム王の妻、という立場はある意味リセアネをしっかり守っている。
「ねえ、春になったらティアの国も見てみたい! ティアは嫌? まだ……辛い?」
眉を下げたリセアネに見つめられ、ティアはしばらく思案してから鉛筆を走らせた。
<いいえ。私も見たいのです。許されれば、ですが>
リセアネは強ばったティアの肩を抱き、励ますように笑った。
「そうよね。祖国なのだもの、帰りたいわよね。すぐお隣の国なんだし、きっといつか行けるわよ!」
二人がゆっくりと王宮に馴染んでいくさまを、グレアムはそれとなく見守っていた。
いずれリセアネにも視察や慰問など、王族としての責務を果たして貰わねばならないが、それは春以降の話だ。
そもそも冬の間、北国の民は家に引き籠って寒さをやり過ごす風習を持っている。
ちょうどいい時期に輿入れしてきた、とグレアムは一人ごちた。
国民の間にはグレアムがとうとう王妃を娶ったということで、明るい雰囲気が流れている。先の戦で多大な出費を強いられ国庫の蓄えは減っていたが、リセアネの持参金や各国からの祝いなどで財政面はさほど案じなくてもいい、と大臣からの報告が上がっていた。
リセアネを娶ったことは、間違いではなかった。
そう安堵する自分と、このまま白い結婚を続けるわけにはいかないと悩む自分がいる。
リセアネと話すのは苦痛ではない。
婚約者候補だった令嬢方たちとは、一曲踊る間ですら話題は続かなかったというのに、リセアネの突拍子もない話はグレアムを微笑ませることすらあった。
妹がいたなら、こんな感じだったのだろうか。
若いというより幼く、思慮深さより自由奔放さが目立つリセアネを、ただ一人の妻として愛する心境にはまだなれない。グレアムの理想とはあまりにもかけ離れている。
だが抱けないのであれば、子供を産ませる為の女を別に召し上げなくてはならない。
女を抱きたいだけなら高級娼婦を呼べば済む話だが、次期国王を産む女性となれば扱いもそれなりにしなくてはならない。
本音を言えば、面倒だった。
「毎夜とは申しませんが、たびたびここに通って下さいね」
大真面目な顔で、リセアネはグレアムに念を押した。
「添い寝が必要か?」
「私は子供ではありません!」
グレアムがわざとからかうと、途端に頬を膨らませ細腰に手を当てる。
「王にないがしろにされている、などという不名誉な噂が立ったら、私の居場所がなくなりますもの」
「そんなことにはならない」
グレアムは即答した。
リセアネほど正妃に相応しい出自の女性は他にいない。傍妃を娶ったとしても、フェンドルの女性の頂点にはリセアネが立つべきだとグレアムは考えていた。
そうでなければ国が荒れる。どれほど理想通りの女性が今後現れたとしても、国政を揺るがすような寵愛を与えるつもりは全くない。
「真に好いた娘が出来ても、同じことを仰って下さいますか?……陛下の愛情は、何より強力な後ろ盾になるに違いありません」
リセアネは俯き、ぽつり零した。
彼女の頼りなげな口調に、グレアムは眉根を寄せた。
時々こうしてリセアネは、自分を籠絡させるような手を使ってくる。
もちろん本人にそのつもりはないのだろうが、普段強気なリセアネが垣間見せる弱音に、グレアムの庇護欲は容易く刺激されてしまうのだ。
「まだ召し上げてもいないうちから、嫉妬とは。これでは先が思いやられるな」
胸に灯りそうになった温かな想いを消す為、グレアムはわざとそっけなく言い放った。
リセアネはきゅっと唇を引き結び、顔を上げた。その表情は普段の勝気なもので、グレアムは密かに安堵した。
「やはり陛下も男性ですわね」
「どういう意味だ?」
「鼻持ちならない自惚れ屋、という意味ですわ」
ツンとそっぽを向くリセアネの愛らしさに、ついグレアムの頬はゆるむのだった。
王と王妃の仲睦まじさが、王宮仕えの者の間で噂になり始めた頃。
グレアムの執務室に現れた宰相が、思いがけない提案を持ち出してきた。
「王妃に会わせろ、と?」
「はい。私はまだきちんとお話させて頂いたことがございません。何でもトランデシル伯は王妃の間に召され、長い時間歓談したことがあるとか。是非、私にもお目通りの機会を」
どこから聞きつけてきたのか式直後の話まで持ち出すランズボトム公爵を見て、グレアムは渋面になった。
「そうだな。王妃に聞いてみて、都合がつけばだが」
「もちろんそれで結構ですとも、陛下」
娘のエレノアを正妃に、と熱心に根回ししていたランズボトム公爵のことだ。
何か考えがあるのだろうが、同席していれば問題はあるまいとグレアムは見積もった。
ところが真冬にしては比較的穏やかな日。グレアムが港の視察に出かけたのを見計らい、公爵は王妃の間に使いを出した。
「宰相閣下が、私に会いたいと?」
「はい。陛下のお許しは頂いている、と仰っておられます。どうなさいますか?」
「もちろん、会うわ。通して」
取次の侍従に許可を与えた後、リセアネは用心を重ね、続きの間にティアを下がらせることにした。
ランズボトム公爵と二人で話すのはこれが初めてだ。わざわざ訪ねてきた理由は何だろう。
「いいというまで姿を見せてはダメよ」
リセアネの念押しに、ティアは真剣な顔で頷いた。
ティアと共に保護された乳母と侍女の周りを嗅ぎまわっていたという、フェンドル人の密偵。クロードから聞かされた話を意識せずにはいられない。
兄は『グレアムに含みを持つフェンドル貴族の手の者ではないか』と推測を立てていた。それが宰相である可能性はどれくらいあるだろう。
ランズボトム公爵は、正妃候補だったエレノアの父だ。自分の娘が座る筈だった椅子におさまったリセアネを敵視していてもおかしくない。
宰相とは、夜会や晩餐会で幾度か顔を合わせた。年を重ねてなお人目を引く美貌の公爵は、女性招待客の憧れの視線を集めていた。
初めて紹介された時、ランズボトム公爵はリセアネにも人好きのする甘い笑みを向けてきたのだが、その瞳はどこか冷たい光を帯びていた。
要注意人物だ、と心に刻んだことを覚えている。
リセアネは幼い時分から、他人の感情の機微に敏かった。
だからこそ、姉姫をその外見だけで見下し、返す刀で自分を誉めそやす者たちに我慢がならなかったのだ。
家族以外の人間でリセアネが信用を置いた男性は、エドワルドとフィンとノルンの三人だけ。
グレアムのこともレオンハルトのことも、実はリセアネは全く信用していなかった。
何か事が起これば、彼らはリセアネがどんなに懇願しようと、ティアを切り捨てるだろう。
リセアネ自身に手出しはしないと思えるのは、彼らを信じてのことではない。
サリアーデという後ろ盾の持つ力を信じているからだ。
リセアネは、とっておきの儚げな微笑みを顔に貼り付け、宰相閣下を待ち受けた。
「王妃陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しゅう」
型通りの挨拶を一通り述べてから、アシュトンは手土産代わりに持参してきた珍しい髪飾りを差し出した。南の国でしか取れない宝石をあしらったピンク色の瀟洒な髪飾りだ。
エレノアですら羨ましそうに見ていた。きっと王妃も気に入るはずだ。アシュトンは自信たっぷりにリセアネの反応を窺った。
ところがリセアネは箱を開けて髪飾りを一瞥すると、微かに落胆したかのような表情を浮かべた。
「陛下がお持ちの美しい宝飾品には見劣りするかもしれませんが――」
内心気色ばんだアシュトンが精一杯遜って言うと、リセアネは恥ずかしそうに俯いた。
「そんなこと! あまりに素敵なので、私に似合うかどうか不安になってしまいましたの」
透き通った声に混じる謙虚な気後れに、アシュトンは微笑んだ。
「何を仰るかと思えば。陛下のように美しい方は、国中、いいえ世界中を探しても滅多に見つからないでしょう」
「まあ、なんてお優しい。……頼るものの少ない国で、実は心細く思っておりました。ランズボトム公のような立派な方に、こんなに心のこもった贈り物を頂けるなんて夢のようですわ」
リセアネの深い菫色の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
アシュトンは、小さく息を飲んだ。噂以上の美しさと可憐さだ。グレアム王の溺愛も頷ける。
「そのように喜んで頂けるのなら、どんなことでもして差し上げたくなる。王妃様は罪な方です」
「意地悪はおっしゃらないで」
リセアネは丁寧な仕草で髪飾りを箱に戻すと、小首を傾げた。
「今日は、この髪飾りをわざわざお持ちに?」
「ええ、ご機嫌伺いにと思いまして。雪が続いておりますので、さぞお気持ちも滅入っておいででしょう。もし良ければ、私の娘を話し相手に寄こしましょうか?」
リセアネは、なるほど、と心の中で腕を組んだ。
ランズボトム公爵は、グレアムではなく正妃の方から側室の根回しをするつもりらしい。
密偵に気づいた後すぐ、クロードの方もフェンドルに優秀な『耳』を何人か放った。そちらからの情報を今は待っているところだ。
いっそ彼と親しく交流を持ち、尻尾を出すのを誘ってみようか。リセアネは目まぐるしく考えた。
「確か、エレノア様でしたわね?」
「はい。二十六になるというのに、どこにも嫁がず家にいて、困っているのですよ」
嫌味とも本音とも知れない公爵の冗談混じりの口ぶりに、リセアネもふわりと微笑み相槌を打つ。
「でしたら、是非。私もちょうどお友達が欲しいと思っていましたの」
その夜、王妃の寝所を訪れたグレアムは、リセアネから昼間のいきさつの一部始終を聞かされ、目を大きく見開いた。
「エレノア嬢を、王宮に?」
「ええ」
「まさか、了承したのではあるまいな」
「しましたわ」
悪びれず答えるリセアネを前に、グレアムは苛立ちを顕にした。
「ランズボトムがそのエレノア嬢を王妃に、と考えていたことは知っているのだろう?」
「もちろんです、陛下。だからこそ、了承したのです」
リセアネの考えていることが分からない。
グレアムは胸中を渦巻く不快感に耐えかね、険しい顔つきのまま吐き捨てた。
「王妃じきじきに傍妃を選定するつもりか」
「まさか! それは陛下がお決めになること。私が出しゃばることではありません!」
では何故だ。
額に手を当て口を噤んだグレアムを、リセアネはそっと見上げた。
「私に取り入ろうとあからさまでしたの。しばらく近くで様子を見たくて」
グレアムは短く息を吐き、世間知らずな妻をいさめようと口を開いた。
「王妃が思っている以上に、ランズボトムは一筋縄ではいかない男だ。何かあったらどうする。もっと自分の身を弁えろ」
グレアムは、リセアネの安全を危惧して声を荒げたのだが、彼女の顔はみるみるうちに怒りに染まった。
「身を弁えろ、ですって?」
「ああ、そうだ。何でも勝手に決めるな。私の判断を待て」
そんなに華奢な身体で何が出来る。
今日だって、自分がいない隙に公爵は王妃の間までやってきた。
これからもリセアネが一人の時を見計らい、何か仕掛けてきてもおかしくない。暗殺までは考えすぎだろうが、己の娘可愛さに正妃を亡き者にしようとする可能性だって皆無ではないのだ。
グレアムは拳を固めた。
サリアーデとの同盟がどうなるかという懸念より先に、目の前にいるリセアネを失うことを想像した。
二度と生意気な物言いを聞けなくなる。無邪気な微笑みも好奇心に溢れた眼差しも、全てが失われる。それは嫌だ、と思った。
リセアネは、グレアムの素直ではない物言いに『心配だから』という理由を読み取ることは出来なかった。
何をするにも、まず夫である自分を通せ。自由を愛するリセアネにとって、グレアムの発言は屈辱的な征服宣言だった。
リセアネは心底がっかりし、失望したことで自分の気持ちを知らされた。気づかないうちに、グレアムに期待していたのだ。彼はリセアネが今まで会ってきた男性とは違うのはでないか、と。
「承知致しました。差し出がましい真似を、どうかお許し下さいませ」
寝台の上で三つ指をつき、深々と頭を下げたリセアネに、グレアムは虚を突かれた。
「い、いや。私がいいたいのは――」
「エレノア様のことは、陛下から断って下さって構いませんわ」
「貴女が話し相手が欲しいというのなら、誰か他のものを探させよう」
「結構です。……なんだか頭が痛みます。もう横になってもよろしいでしょうか?」
グレアムの弁明と譲歩をにべなく退け、リセアネは夫の目を見ないまま伺いを立てた。
グレアムはどうすることも出来ず、ただ頷く。
リセアネはわざわざ寝台の端まで移動し、小さな背中をグレアムに向けて横たわった。
初夜から慣例のようになっている毛布くるみをしようと動いたグレアムに、冷ややかな声が飛ぶ。
「自分で出来ますわ、陛下」
拗ねるのもいい加減にしろと怒鳴りつけたいのをこらえ、グレアムは溜息をついた。
どうやら、自分の言動は王妃を酷く怒らせてしまったらしい。間違ったことを言っていない筈だ。
リセアネを逆上させた原因が分からず、グレアムはその夜もなかなか寝付けなかった。