26.レオンハルト
グレアム王の挙式の為、レオンハルト・トランデシル伯爵は、フェンドル王国の属州となったダルシーザから一時帰国を果たしていた。
復興途中にあるダルシーザを長く留守にするわけにはいかない。宗主代理としての仕事はまだまだ沢山あった。グレアムから与えられた期間はわずか10年。それまでに、国政を立て直し、荒れた国土に緑を戻さねばならない。
その為には、まず民の疲弊を取り除くことが急務だ。戦場となった村や町の税を免除し、皇帝が蓄えていた私財を全て吐き出させる。皇城の奥の間には、驚くほど多くの金銀財宝が眠っていた。一体、何に使うつもりだったのか、今は亡き狂帝を問いただしたいほどだ。
だがそんなわけで、当分の資金繰りには苦労せずに済みそうだった。
それから有能な者を登用してかりそめの身分を与え、役職につかせる。身分制度の廃止は危険だとレオンハルトは考えていた。王政をしいているフェンドル王国が宗主国である以上、それに準じた政治体系を取るべきだろう。
彼は王城に滞在を許されている。トランデシル家も王都にタウンハウスを持ってはいるが、城にいる方がなにかと便利なので、帰国の際に自宅に戻ることは稀だった。
王の呼び出しを告げるまで、彼はダルシーザのことで頭がいっぱいだった。
まさか式の翌日早々に、王妃に引き合わされるとは予想もしていなかった。
そして、その王妃の傍らに今は亡きファインツゲルト皇国の皇女の姿を見ることになるとも。
「ま……さか」
「せいぜい驚け。私も驚いた。だが正真正銘、ここにいる王妃の侍女がパトリシア皇女だ」
王妃の間まで呼びつけられたレオンハルトの前に、あの時とは別人のように美しくなった黒髪の娘が進み出、丁寧に膝を折る。
あの日彼女は、血まみれのドレスで床に横たわっていた。乾ききった髪に骨と皮だけの体。三十を超えていると思っていたレオンハルトは、目の前の女性の若々しさに目を見張った。
なぜか彼女は無言だった。
代わりに、王の隣に立っているリセアネ王妃が口を開く。
「今はティアですわ、陛下。あなた、レオンハルト、といったかしら」
「はっ」
「ティアは頭のおかしい父王に喉を突かれて、声が出せないの。無理に話させようとはなさらないで。治療中で、喉をつかうことを医師に固く止められているから」
「……かしこまりました」
妖精のように無垢で美しい見た目の王妃の口からこぼれ出たとは思えないほど、言葉は辛辣だった。内心驚いたレオンハルトだったが、無表情のまま拳を胸に当てる。
リセアネは満足そうに頷き、グレアムを見上げた。
「では秘密を共有するのは、ここにいる4人だけ。他にはいないということでよろしくて?」
「ああ。その方がいい」
グレアムが答えると、リセアネは扇を握り直し、その先をレオンハルトに向けた。
「ティアへの無礼はこの私が許しません。あなたをここに呼んだのは他でもないわ。氷の猛将殿にも、ティアを守って頂きたいの」
戦場での二つ名を呼ばれ、レオンハルトは微かに笑みを浮かべた。
どうやら王妃にも、先の戦での不名誉な噂が伝わっているらしい。
女子供にも容赦のない冷血の猛将。冷静沈着な彼を称えた二つ名の持つ、もう一つの意味はそれだ。
レオンハルトは泣き叫んで助命を乞う側室らを引きずり出して首を刎ね、行く手を塞ぐ紅顔の少年兵を串刺しにしてきた。
己の所業を悔やんだことは一度もない。倒すか、倒されるか。それが戦争だ。
「私は陛下のご下命に従うだけです、王妃様」
暗に『他国の王女風情が出しゃばるな』と言われたのだとリセアネには分かった。
不敬と怒る者もいるかもしれないが、年上の将軍に対等に扱って貰えたことの方がリセアネは嬉しかった。何を意見しようと「そうですね、リセアネ姫の言うとおりです」と頷き、彼女の言葉を真剣に捉えようともしなかったサリアーデの貴族とレオンハルトは違う。
それがどんなに嬉しいか、誰にも理解はされないだろう。
「だそうですわ、陛下」
リセアネは春の陽のような明るい笑みを浮かべ、グレアムを促した。
「私が、王妃にこの者の保護を約束したのだ、レオンハルト」
グレアムの苦い口調に気づきながらも、レオンハルトは優雅に一礼した。
「陛下の仰せとあらば仕方ありません。私も微力ながらお手伝いさせて頂きます」
それから、黙ってやり取りを見守っているティアに視線を向ける。
「では、早速こちらの侍女殿にいくつか聞きたいことがあるので、お借りしてもよろしいですか?」
「あちらで聞くわ」
レオンハルトの申し出を予想していたのか、リセアネは頷き、応接間を指した。
「もちろん、私が同席して困るような質問はなさらないわよね?」
「当然です、王妃様」
グレアムは短く息をつくと、「私はもう行く」と言い残し、王妃の部屋を出て行った。
主の左手の指に巻かれた包帯にいち早く気付いていたレオンハルトは、やれやれと肩をすくめた。
この分では、世継ぎに恵まれるのはまだまだ先の話らしい。
レオンハルトはソファーに腰掛け、同じく隣に腰掛けたティアとの間に紙を置いた。
筆談する方がいいと聞いたので、自分も書こうと鉛筆を取ったレオンハルトにティアは首を振ってみせた。
<耳は聞こえます、トランデシル伯爵様>
「そうですか。私のことは、レオンハルトで結構です」
表情の読めない冷たい瞳がティアの喉元を見つめている。
喋れないことを疑っているのだろう。ティアは紙に鉛筆を走らせた。
<傷をお見せした方が?>
「不都合がなければ是非」
リセアネは心配そうにこちらをみてくる。
ティアは彼女を安心させるように微笑んで、今朝方支給されたばかりのお仕着せ服のリボンをほどいた。
「……傷に触れても?」
声だけは、非常に優しい。
ティアはレオンハルトの問いかけに頷き、目を閉じた。
ひんやりとした固い指で喉の傷跡をなぞられ、ティアは一際きつく目をつぶった。
「失礼。痛みがありますか?」
ゆっくりと首をふるティアを見て、レオンハルトは納得したのか体を引いた。
「結構。かなり深い傷だ。声帯まで傷ついたのでしょう。声が出せないのも納得です。では、次の質問ですが」
レオンハルトは、単刀直入にお伺いします、と前置きした。
「ファインツゲルト皇国を取り戻すおつもりは?」
<ありません>
「生き残ったファインツゲルトの貴族と接触したことは?」
<ありません>
「首尾よくサリアーデに逃げ込んだというのに、再び敵国に姿を見せたのは何故です?」
「レオンハルト!」
たまらずリセアネが声を上げたのを、ティアは手を挙げて止めた。
王の腹心に疑われたまま城に残ることは出来ない。王妃であるリセアネに不利益をもたらす結果になってしまう。
ティアは懸命に思いを伝えようと鉛筆を走らせた。
<私は名を捨て、ここにいらっしゃるリセアネ様に忠誠を誓った身。もはやゲルトの皇女などではありません。どうか、そのように扱って下さいませ>
「まあ、今の貴女ではそのように言うしかないでしょうね」
レオンハルトは全く信用していない、という顔つきでティアを眺め、そして彼女の耳元に顔を寄せた。
そしてティアだけに聞こえるような小声で低く囁く。
「いいですか。陛下に万が一、何かを仕掛けようとしたならば、私は速やかにあなたを殺す。これは脅しではなく本気の警告ですよ、パトリシア皇女殿下」
何一つ、伝わっていない。
皇女パトリシアは、あの日多くの兵士と共に死んだのだ。
どうして今更、母国を惑わす烈婦として救国の英雄であるグレアム王に弓引くことが出来ようか。
ティアの瞳に絶望の色が落ちたが、彼女は自らを奮い立たせるように何度か瞬きを繰り返した。
<いつか、信じて下さい>
震える手で、それでもティアは流麗な文字を書き綴った。
<グレアム陛下は、私とゲルトの民を救ってくれた恩人だと思っているということを>
レオンハルトは、しばらくその文字を眺めていた。
どんなことを考えているのかうかがい知れない端正な横顔に、ティアは言い知れぬ恐れを感じた。
式から三日後。
国に戻るというクロードとナタリアが、挨拶をしに王妃の間に現れた。
なぜか、クリス王子とミカエルも一緒だったので、リセアネは思わず眉を顰めてしまった。
慌てて侍女たちを下がらせ、人払いを済ませる。
「姉さま!」
式の後、わずかな言葉しか交わせなかったナタリアにとびついて、リセアネは別れを惜しんだ。
「一番寂しいのは、もう姉さまに会えなくなることだわ」
わかる、わかる、といいたげにクリス王子が視界の端で頷いている。
「私もです、王妃陛下」
ナタリアは優しい灰黒色の瞳にうっすらと涙を浮かべ、妹の抱擁に応えた。
「どうか、お健やかにお過ごし下さいませ。どこにいても、私は陛下の幸せを祈っております」
他国の公爵夫人である自分が、気安く口を聞いていい人ではなくなってしまった。
万感の思いで、ナタリアはフェンドル国王妃を見つめた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、リア。リセって適正あると思うな。腹黒そうだし王妃向きだよ。うちの母や兄上の母君も、リセに似てる」
褒め言葉のつもりなのだろうが、全く嬉しくない。
リセアネは思い切り頬を膨らませた。
ここには彼のことをよく知るものしかいないという安心感から、ミカエルは容赦なく主の右腕を捻りあげることにした。
「いったぁぁああ! な、なにっ!?」
「もう一度、適切なお別れの言葉をどうぞ、殿下?」
にっこりとほほ笑んだミカエルに気圧され、クリストファーは渋々言い直した。
「どうかお体にはお気を付け下さい。俺と結婚するよりは百倍マシだったって絶対最後には思うから、大丈夫! あ、初夜はどうだった? グレアム王ってあっちもつよそ――」
途端に炸裂したクロードの華麗な回し蹴りで床に沈んだクリストファーを残し、4人は和やかに最後の歓談を済ませた。
ティアだけが、変わり種の王子と、そんな王子と長年の友人関係を続けているクロードに目を丸くしていた。