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21.最後の夜会

 リセアネがサリアーデを立つ日が近づいてきたある日。

 一台の二頭立て馬車が、王宮の正門を潜り抜けた。

 剣と柊を使った紋章はロゼッタ公爵家のものだ。馬車の中にはナタリアが乗っている。

 手紙で今日の来訪を知っていたリセアネは、星の宮の外門の前でナタリアを待ち構えていた。そわそわと落ち着かない彼女の両脇は、ノルンとティアが固めている。


「姉様っ!」

「久しぶりね、リセ」


 公爵付きの騎士の手を借り、馬車から降りてきたナタリアは、自分に飛びついてきた妹姫を柔らかく抱きとめた。

 なめらかな頬を擦り付け甘えてくるリセアネの背中を何度か撫で、ナタリアは目尻を下げる。


「リセったら。いつまでくっついているつもりなの?」

「ずーっとよ。だって本当に久しぶりなんですもの!」


 リセアネが姉に会うのは去年の年越しパーティ以来なので、十ヶ月ぶりという計算になる。

 優しく情深い姉の傍にいる時間こそが、リセアネにとっても一番の癒しだった。ナタリアはいつでも、惜しみのない愛情をリセアネに注いでくれたから。

 だが、三年前に姉が幼馴染であるエドワルドの元に降嫁してからは、疎遠になってしまっている。ましてリセアネがフェンドル王国に嫁いでしまえば、殆ど会えなくなるだろう。


「星の宮にお泊りして下さるんでしょう? ね?」

「ええ。貴女が私達のリセアネでいられる最後の時間ですもの。なるだけ一緒にいたいわ」


 ナタリアの穏やかな口調には、大国に嫁ぐ妹への誇らしさと微かな寂しさが混じっていた。リセアネは目を細め、姉を見つめた。


「私はずっと姉様のリセアネだわ」

「いいえ。婚儀を上げた後は、グレアム様をお支えするフェンドル国のリセアネにならなくてはね」


 温かみを帯びた眼差しはそのままに、ナタリアの言葉には真摯な響きが混じった。

 リセアネはようやく体を離し、じっと姉を見つめた。


「私……心まで捧げるのは、難しいと思うわ」

「そうよね、分かるわ。でも、縁あってせっかく夫婦になるのですもの。愛情が無理だとしても友情を捧げることが出来るのなら、その方がうんと素敵だと私は思うのよ」


 プラチナブロンドの絹のような髪を優しく撫で、ナタリアは微笑んだ。

 リセアネは鼻に皺を寄せ、しばらく黙り込んだ。

 傍らで二人のやり取りを聞いていたティアは、ナタリアの言葉を心の中で反復し、改めて彼女の純粋さに憧れを抱いた。

 そんな夫婦だらけなら、この世界はどんなに平和なことだろう。私も心からそう思えたらいいのに、と。


 ナタリアが星の宮に滞在するのは、リセアネの婚約発表を兼ねた王宮主催の夜会までだという。

 その夜会が済めば、いよいよ出立だ。

 ティアは自室に運び込まれた大量のトランクを前に、途方に暮れていた。

 「向こうで不自由があってはいけない」そう言ってロゼッタ公爵がナタリアに持たせたティア宛の荷物で、部屋は手狭になってしまっている。

 まるで、ティア自身が嫁ぐのでは? と勘違いしそうになるほど、荷物は多岐に渡り、その全てが上質なもので揃えられていた。

 星の宮に仕える者達はその支度を見て、「やはり彼女は、ロゼッタ公爵の遠縁の姫なんだよ」と囁き合った。


「私の最後の夜会に出席しないなんて、許さないわ」


 リセアネの一言で、明日の夜会に出ることが決まってしまったティアは、積み上がった荷物を避けながら進み、クローゼットを開けてみた。

 リセアネに恥をかかせないで済むような夜会用のドレスを、今のうちにトランクから引っ張りだして掛けておかなくては。

 何の気なしにクローゼットの扉を開けたティアは、あっけに取られた。

 がらんとしたクローゼットの中には、青紫のシフォンタフタのドレスがすでにかかっていた。

 昨日まではなかった美しいドレスに、ティアは大きく目を見開いてしまう。

 袖や襟ぐり、ドレスの裾には手の込んだ意匠が銀糸で縫い取られ、首元はハイネックで肩は大胆に開けられている。

 流行の最先端だと一目で分かる洗練されたデザインだ。ティアの首の傷跡を隠す配慮も感じ取ることが出来た。

 ドレスに飾りピンで留められていた一枚のカードには、流麗な筆跡でこうあった。


<大切な私の姫へ クロードより>


 カードに挟まれていた押し花が、開いた瞬間にひらりと落ちる。ティアはすぐさまそれを拾い上げ、胸に押し当てた。

 ひと月前から、二日置きに届けられている例の花と同じだ。

 ――では、あれもクロード殿下が?

 この国にしか咲かない花なのだろうか。母国でも咲いていたのかもしれないが、皇城から出たことのないティアは、その花の名前を知らなかった。

 たとえ同情でもかまわない。

 ティアは唇を引き結び、泣くまいと力を込めた。

 『私の大切な姫』焦がれてやまない人からの特別な言葉、そして心を尽くした贈り物。息が止まりそうな幸福がそこにはあった。

 ドレスの表面をそっと撫で、立ち尽くしたティアの耳にノックの音が飛び込んできた。慌てて扉に駆け寄ったティアの前に、一人の近衛騎士が姿を見せる。


「殿下がお呼びです」

<すぐに参ります>


 エプロンのポケットから取り出したカードを掲げ、リセアネの自室に向かおうとしたティアを、その騎士は引き留めた。


「申し訳ありません、言葉が足りませんでした。クロード殿下がお待ちです」


 こちらへ、と促され、ティアは星の宮の中庭へと連れて行かれた。

 宝石箱をひっくり返したように眩い星空の下、クロードはティアを待っていた。

 今夜は本宮で王族だけの晩餐会が開かれていたはず。

 リセアネの支度を手伝ったので、彼らの予定は把握している。リセアネが戻ってきたら、彼女の入浴の手伝いをする手筈になっていた。

 ティアは急ぎ足でクロードの元へと歩み寄った。


「ティア! よく来てくれたね」


 嬉しそうに笑みを浮かべる彼を見上げ、ティアは手帳を取り出そうとお仕着せ服を探った。


「いいよ、こっちで」


 すっかり慣れた仕草で、クロードは手袋を外し、手の平を見せる。

 ティアは躊躇わず彼の手を取り、もどかしげに指を走らせた。


<どうされたのです? 晩餐会では?>

「たった今、終わったところだよ。君をリセに取られる前に、一目会っておきたくてね」


 言われてみれば、クロードはいつもに増してきちんとした正装をしている。

 上品かつ複雑に結ばれたクラヴァットに、艶やかな黒のロングコート。丁寧に整えられた髪は星の光を浴び、今にも光に溶けてしまいそうだ。

 いつのまにかクロードに見惚れていた自分に気づき、ティアはハッと意識を引き戻した。


<明日のドレス、本当にありがとうございます>

「あれくらいお安い御用だよ。ドレスに似合うイヤリングも準備してあるから、明日はリセやナタリアと一緒におめかしして来るといい」


 クロードの優しげな口調に、ティアの胸は切ない音を立て引き絞られた。

 妹姫をこよなく愛してらっしゃる殿下のこと。年の近い私のことも、きっと同じように大切にして下さってるのだわ。そのこと自体、望外な温情だと思うものの、どこか寂しさが拭えない。

 クロードの菫色の瞳を見ていられず、ティアは俯いた。


<お花も殿下でしたのね。いつも、心慰められておりました>


 堅い手の平に、指を走らせる。

 こうしてこの方に触れることが許されるのも、今日までかもしれない。

 ティアは、全神経を指先に集中させた。

 覚えておきたかった。愛しい想い人の温もりを。これ以上はどこにも行けない道の果てに立ち、それでも気持ちを止めることは出来そうにない。

 己の欲深さにおののきながら、ティアはじっと返事を待つ。


「そうか、嬉しいな。……ティア。私の自惚れでなければ、今、君が泣きそうになっているのは、私との別れが辛いからでは?」


 あまりに寂しげなクロードの口調に動揺し、ティアはコクリと頷いてしまった。

 直後にしまった、と焦る。慌てて、違う、と訂正しようとした次の瞬間。

 ティアはクロードの腕の中にいた。

 男の熱い吐息が髪に落ち、ぞくりと全身が震える。

 クロードの引き締まった腕はティアの腰に回され、ぴったりと二人の体はくっついていた。

 どんな隙間も許したくない、とでも言うように、クロードは腕の力を緩めない。

 あまりの出来事にじっと息を詰めていたティアだったが、堪えきれず吐息を洩らす。

 その刺激にクロードは僅かに身じろぎしたが、ティアを離そうとはしなかった。


「すまない。今だけ。……今だけは許してくれないか」


 激情を堪えた苦しげなクロードの声に、ティアはただ頷いた。

 その声に、ティアは気づいてしまった。

 私一人の想いではなかったのだ、と――。

 互いの立場が、身分が、この恋を決して許しはしない。

 クロードも言葉にするような愚かな真似はしないだろう。

 ティアはきつく目を閉じた。

 声を出せないことに、今だけは感謝したい。

 「お慕いしています」そう胸の内を吐露してしまいたくてたまらない。言葉に出来ないことが救いだった。

 代わりにティアはクロードの背中に手を回した。

 そして「今夜だけ」と自分に言い訳しながら、愛しい人の抱擁に応えた。


 

 次の日の夜会はそれは盛大なものだった。

 ティアも美しく髪を結い上げられ、化粧を施され、クロードの贈ったドレスを身に纏った。

 翡翠の大ぶりのイヤリングを耳に飾ったティアの姿を見て、侍女たちは感嘆の溜息を洩らした。


「なんて、美しいんでしょう!」

「ティア様、とても素敵ですわ!」


 口々に賞賛され、ティアはいたたまれずに面を伏せた。今までの人生において初めての体験で、どう返事をしていいのか分からない。

 大ホールに登場した後も、あの美しい人は一体誰なのか、と囁かれ、ティアの元にはひっきりなしにダンスの誘いを申し込もうとする青年らが押し寄せる。

 リセアネの供をして夜会に参加したことはあるものの、今夜集っているのはサリアーデでも有数の貴族ばかりだ。どう断れば失礼に当たらないのかが分からない。

 ティアが困りきっていると、ノルンが救いの手を差し伸べてくれた。


「私がエスコートしましょうか、ティア殿」

<よろしくお願いします>


 ホッとしたティアが赤く彩られた唇を動かすと、滅多なことでは動じないノルンまでもが照れ臭そうに顎に手をやる。


<お仕事はよろしいのですか?>

「今夜は非番ですよ。なんせ、あの方々が警備にあたっていますから」


 第二王女を送る会だということもあり、今夜のパーティには王と王妃が出席している。

 一際高い場所に設えられた二つの王座から、離れること数段下。ノルンの指さした方には、数名の近衛騎士たちが両陛下を守るように配置されていた。


「ナイジェル伯にカイト殿。どなたも優れた武勇を誇る、近衛騎士の中の精鋭です」

<そうなのですね>


 感心したように頷くティアに、ノルンは眉を上げて話題を変えた。


「フェンドルにご一緒されるのは、ティア殿だけということになったそうですね」


 輿入れに際しリセアネは、数名の侍女を連れて行く目算だったのだが、グレアム王が遠まわしに拒絶してきた。もちろん、騎士を連れていくことも出来ない。

 ノルンの勤めも、じきに終わる。リセアネに剣を捧げた時、彼女は十六だった。あれから六年。苦労がなかったとは言わないが、自由奔放にみえて心根の優しいリセアネを、ノルンは幼い妹のように愛しんできた。


「我儘ではありますが、私どもの大切な姫です。どうかよろしくお願いいたします」

 <この身に替えましても>


 重々しく頷いたティアを見て、ノルンは軽く首を振った。


「それはいけない。クロード殿下の為にも、ティア殿には健やかであって頂かなくては」


 クロードとティアの仲睦まじさは、星の宮付きの近衛騎士の間では有名な話だった。ノルンのからかうような口調に、ティアの頬が赤く染まる。

 遠目で二人のやり取りを見守っていたクロードは、無意識のうちに拳をきつく握りしめていた。


「兄様。そんなに怖いお顔をなさらないで」


 リセアネが傍らのクロードを諌めるように声をかける。

 王妃であるトリシアまでもが、扇で口元を隠すようにしながら声を上げた。


「クロードったら。そんな熱い目で見つめていたら、ここにいる誰もに貴方の心の内が分かってしまうわよ」

「母上に何を吹き込んだのかな? リセ」


 クロードが輝かんばかりに美しい妹を睨むと、王妃はクスクスと鈴の音を思わせる笑い声を溢し肩を震わせた。


「いいじゃないの。素敵な娘だわ。私は応援したいわ」


 いかにもトリシアのいいそうなことだ。

 王妃という立場にありながら、母には昔から夢見がちなところがある。

 王妃が三人の子供に好んで読み聞かせたのは、『だんまり王子とお掃除姫』というお伽話だ。魔女の呪いで下働きの少女に姿を変えられた隣国の姫を、王子が真実のキスで元の姿に戻す、という何とも都合の良いハッピーエンド。

 『そして二人はいつまでも幸せに暮らしました』

 パタンと絵本を閉じる度、母はいつも満足そうだった。


「彼女はリセの侍女ですよ、母上」

「そうね。今は、ね? でも可能性はどんな時でも消えないものよ。そこに愛がある時は特に」


 王妃はいたずらっぽい笑みを浮かべ、息子に向かって片目を瞑ってみせた。

 頭を抱えそうになったクロードを、リセアネが手にしていた扇でつつく。


「うだうだ悩んでいないで、ティアをダンスに誘ってはいかが? 義務は果たしたのだから、誰と踊ろうが構わないはずよ」


 確かにすでにクロードは、リセアネ、ナタリア、そして主だった大貴族の令嬢方と一通りダンスを済ませている。


「ああ、そうだな」

「ついでに、例の花言葉も打ち明けていらっしゃったら?」


 リセアネは、にんまりと猫のような笑みを浮かべた。


「変わらぬ愛、だったかしら? 兄様がティアに贈った【パトリシア】の花言葉は」

「君だけは敵に回したくないよ、リセ」


 歯ぎしりしながらクロードが呟くと、リセアネはしてやったり、という表情で「兄様だけには言われたくないですわ」と小首を傾げてみせた。



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