2.急な出兵
リセアネはその日、星の宮の音楽室にいた。彼女はピアノを奏でるのが好きなので、暇があると音楽室に足を運んでいる。
兄であるクロード王太子が、城下で流行ってる歌曲の楽譜を入手して彼女に贈ってくれたので、早速鍵盤に指を落として旋律を確認していると、第二王女付きの筆頭近衛騎士が急ぎ足で音楽室に入ってきた。
「なあに? ノルン。どうしたの、お前がそんなに慌てるなんて」
リセアネは優美な眉をひそめながら視線を上げ、三十をいくつか越えた目付きの鋭い大柄な男性を一瞥した。どうせ大した話じゃないわ。彼女は心の中で呟き、再び楽譜に向き直る。
リセアネの日常は、退屈と言ってもいいほど変わり映えのしないスケジュールで埋められている。変わったことなど、そうは起きない。
目覚めたら、食堂で朝食を取る。王宮の中にある礼拝堂で、一日の祈りを捧げる。
行事のある日は、それにふさわしいドレスに着替え出かけていき、王族としての義務を果たす。
夜会に招かれる場合もあるが、よほど断れない相手でなければ、リセアネは自分の宮にいることの方を好んだ。そうやって引き籠りがちな為、余計に「神秘的」などの称賛を呼んでしまうのだとは気付いていない。
リセアネは大国の王女でありながら、大勢の人の前に立つことが嫌いだ。姉のナタリアと自分を比較する人々の無遠慮な視線に、彼女は絶望に近い落胆を感じてきた。
――姉様の素晴らしさをちっとも分ろうとしない愚昧な者どもめ。そのような者に称賛を受けても虫唾が走るだけだわ。
傾国の美姫とまで謳われた母の美貌を受け継いだリセアネは、非常に美しい姫だ。体つきも華奢で、「神自らが手がけられた芸術品」と感嘆されることも珍しくない。
だがリセアネ自身が、その恵まれた容姿を有難いと思ったことは一度もない。『暁の姫巫女』などという大層な通り名も、彼女にとってみれば迷惑極まりない代物でしかなかった。容姿を絶賛される度、リセアネは自分が空っぽの人形だと突きつけられる。家族以外の誰も、彼女の性格や気性、考え方については言及しないからだ。
特に男性に崇められるような目つきで見られることほど、不愉快なものはないリセアネであった。
「リセアネ王女殿下。王宮から伝令が参りまして、直ちに謁見の間においでになるように、とのことでございます」
「珍しいわね、何かあったのかしら。……そういうことなら、お待たせしてはいけないわ。すぐに参ります」
せっかくの憩いの時間を邪魔されたのは面白くないが、王の呼び出しであれば話は別だ。リセアネは優雅にドレスの裾をさばいて立ち上がり、音楽室を後にした。
謁見の間に入ると、王とクロード王太子と近衛騎士団団長のナイジェル伯爵の三人だけがリセアネを待っていた。どうして人払いを済ませてあるのかしら。リセアネは不思議そうに小首を傾げた。
「ごきげんよう、陛下。皇太子殿下。伯爵様。陛下におかれましては――」
丁寧に膝を折り口上を述べ始めたリセアネを、父である王が手をあげて止める。どうやら内密な謁見のようだ。
普段は柔和な顔つきの父王が、珍しく眉間に皺を刻んでいる。リセアネの兄であるクロードもまた、いつになく厳しい表情で唇を引き結んでいた。
「どうなさったの? ……まさか、姉様になにか!?」
リセアネ最愛の姉姫であるナタリアは、三年の婚約期間を経て去年降嫁したばかり。幼馴染であるロゼッタ公爵の元に嫁ぎ、幸せな生活を送っている。その姉に何かあったのだろうか。
とっさに浮かんだ不吉な想像に、リセアネは大きく息を飲んだ。
「違う、そうではない。ナタリアに変わりはない。落ち着くのだ、リセアネ」
王は眉間に寄った皺を揉み、リセアネを宥める。
「ああ、良かった。……では、一体何のお話でしょう? 勿体ぶらずに早く仰って」
さっきまで真っ青な顔で卒倒しそうになっていたというのに、姉の無事を聞いた途端、けろりとした顔で話の先を促すリセアネに、ナイジェル伯爵が苦笑を漏らす。クロード王太子は困ったように妹姫を見つめながら、話を切り出した。
「実はね。フェンドル国のグレアム王から出兵依頼が来たんだ。同盟国からの正式な要請を断るわけにはいかない。私が指揮を取ることになるだろう。グレアム王は、とうとう隣国のファインツゲルト皇国を討つことになさったらしい」
「遅すぎたくらいだ」
国王は重々しく首を振った。
「もう少し早く動いていれば、あれほどの被害は出なかった。国が荒れて真っ先にその害を受けるのは、無力な民だ。民を守ることこそが、王として決して疎かにしてはならない義務だというのに」
「仰る通りでございます、陛下。今年皇国で飢え死んだ民は万を超えるとか。フェンドル国王陛下は清廉なお方。他国を力で蹂躙することに最後まで抵抗を示されていたそうですが、とうとう見過ごすことは出来なくなられたのでしょう」
ナイジェル伯爵の沈鬱な声に、流石のリセアネも表情を曇らせる。
「ファンイツゲルトがそんなに酷いことになっているなんて、知らなかったわ。姉様が聞いたら、どれほど心を痛められることでしょう」
リセアネの善悪に対する考え方は、姉であるナタリアの影響を強く受けている。姉姫への盲目的な崇拝は、リセアネを全ての責任から遠ざけていた。
姉ならばどう思うか。それがリセアネの物事に対する判断基準だった。
「まあ、そうだな。――というわけで、我がサリアーデからも軍を送ることにした。王国軍の将軍はクロードが兼任しているから、しばらく王太子が国を空けることになる。その間の公式行事への参加は、リセアネ、そなたが務めるように」
「ええ。……ええっ!?」
リセアネは途中まではしっかりと相槌をうちながら話を聞いていたのだが、最後の台詞に目を剥いた。
王太子の参加する行事は多岐に渡っている。視察を兼ねた各領地の訪問から、教会関係者が集まる大聖堂でのミサから、王都で行われる細々とした式典まで、挙げればきりがない程かなりの数の行事をクロードは涼しい顔でこなしているのだ。
兄であるクロードが戦地に赴くというのに、リセアネの心の中はあっという間に煩わしさで占められた。
――ファインツゲルト皇帝め。民を虐げているというだけでも大罪だというのに、我が国から王太子を奪い、私の平穏を奪うだなんて!
平和で満ち足りたサリアーデから一歩も外に出たことのないリセアネにとって、遠い北国の荒廃は完全な絵空事だった。
クロード王太子の武勇は他国にも轟いている。剣を扱わせても軍馬を操らせても、この国で彼の右に出るものは殆どいない。優しげで女性的とも言える美貌からは想像もつかない程、クロードは強かった。
フェンドル国軍も非常に勇猛だと聞く。
そこに兄様が加わるんですもの、戦なんてすぐに終わるわね。
リセアネは全くと言っていいほど兄の心配をしなかった。
こうしている今も、皇国では気の遠くなるほどの数の民が地獄のような苦しみを味わっていることすら、すっかり頭から抜け落ちてしまう。
リセアネは、人目の多い場所で『暁の姫巫女』の皮をかぶり続けなければならなくなった我が身を嘆くことで忙しかった。
「頑張って下さいね、王女殿下。ナタリア様がお聞きになれば、きっと姫様のことをお褒めになりますよ」
意気消沈したリセアネを励ます為、ナイジェル伯爵が声を掛ける。
リセアネは途端に瞳を輝かせた。兄の名代を立派に務め上げれば、姉は喜んでくれるに違いない。優しい瞳を和ませ、リセアネを誇りに思ってくれるかもしれない。
「そうかしら? いいえ、きっとそうよね。では次に姉様が王宮にいらした時にうんと褒めて頂けるように頑張るわ!」
世間知らずで能天気な姫を困ったように見つめ、クロード王太子は口を開いた。
「リセ。……君はいつになったら大人になるんだろうね」
「あら、兄様。私はもう二十二になったのよ? 立派なレディだわ」
得意げに胸を張る様子がたとえようもなく愛らしい末姫に、その場にいた三人が一様に頭を抱える。
幼いうちはそれで良かった。だが、大人になれば「気が付かなかった」「知らなかった」では済まされないことが数多く起こってくる。
そのことをはっきりとリセアネに分からせてくれる誰かが現れてくれないだろうか。クロードは思った。家庭教師を幾人つけようが、彼らはすぐに可憐なリセアネの虜になり甘やかしてしまうので、あまり役には立たない。リセアネは自分の容姿が武器になることを知っていた。
クロードも事あるごとに彼女を窘めようとするのだが、妹可愛さのあまり自分でも上手くいっていない自覚がある。
平和でのんびりとしたサリアーデにおいて、リセアネはみなに愛され幸せそうに過ごしている。
だが、このままでは良くないという懸念が、最近のクロードの心から離れなくなっていた。
可愛い妹、リセアネを心から愛している。だからこそ、近いうちに何とか手を打たねば。
クロードは改めて決意した。