17.休暇の過ごし方 その2
ここは王都・サリアードの一の郭。
スペンス子爵のタウンハウスで、ある一人の商人が美しい布を広げて如才ない笑みを浮かべていた。
「どうでしょう。このような染物はサリアーデにはないと聞いておりますが……。何でもパッシモ伯爵様の邸宅で来月茶会が催されるとか。今から仕立てに出せば、十分間に合いますよ」
「そうねえ。せっかくフランチェスカ様からご招待頂いてるのですもの、新しいドレスで参加したいわ。では、こちらを頂こうかしら。この生地なら、どんな形に仕立てても、他の方と似てしまうこともないでしょうし」
薄い紫の紗がかかった布に指を滑らせ、子爵夫人はほう、とため息を漏らした。
「でも、かなりのお値段がするのでしょうね。主人に怒られてしまうかしら」
「いえ、私もサリアーデに来て間もない身。うんと勉強させて頂く代わりに、どうか今後ともよしなにお願いいたします」
こちらで如何でしょう、と商人が請求書に書きつけた値段は、子爵夫人を驚かせた。
「まあ、こんなにお安く? 嬉しいけれど、本当にこれでやっていけるの?」
一の郭に屋敷を構える多くの貴族に比べて、スペンス子爵はさほど位が高いわけではない。衣装や宝石に多くの出費をかけるわけにはいかないのが現状なのだが、かといって社交場に顔を出さないわけにもいかない。
パッシモ伯爵夫人直々のお招きとあらば、尚更だ。伯爵家総領であるフィンは、王太子付きの近衛騎士筆頭を勤め、しかもクロード殿下とロゼッタ公爵の幼馴染であることは有名な話。先の戦でも多くの功労を重ね、あらたに褒賞を授けられたとも聞く。
今をときめくパッシモ家からの招待状に、子爵夫人は年甲斐もなく胸を弾ませていた。
「もちろんです、奥様。その代わりといってはなんですが――」
小柄で人の良さそうな外国の商人は、恥ずかしそうに面を伏せた。
「こちらには来たばかりで、貴族様のことや王族の方々のことなど、よく知らないのです。知らないまま、粗相があっては大変ですので、色々と教えて頂けると有難いと存じまして」
ゆくゆくは二の郭に店を構えて、故郷から家族も呼び寄せたいのだ、と身の上を明かされ、子爵夫人はすっかり絆されてしまった。王宮御用達にはなれずとも、その下請けくらいにはなりたい、と商人は熱い眼差しで夢を語った。
「まあ、そんなことならお安い御用だわ。と言っても、私も王宮に伺ったのは、王妃様の誕生日パーティとナタリア姫様の結婚披露パーティの時くらいですのよ」
「素晴らしいことではないですか! 王宮の警備は厳しいと伺っております。私のような商人風情が訪れることなど一生出来ない憧れの場所でございますよ」
子爵夫人は頬を上気させ、知っている限りの話を繰り広げ始める。
それはすごい、などと調子のいい相槌を打ちながら、商人は世間知らずで人のいい子爵夫人には気づかれないよう、こっそりとほくそ笑んだ。
――なるほど。まずは、滅多に人前に姿を現さないリセアネ姫ではなく、城下にも気軽に顔を出すという王太子殿下の方から探るとするか。
シークは丁寧に礼を述べ子爵邸を後にすると、あっという間に人ごみの中にその姿をくらませた。
同時刻。
二の郭のこじんまりとした仕立て屋の前に、クロードとティアは立っていた。
もちろん二人きりではない。
少し離れた場所で、フィンを始めとする近衛騎士数名が辺りに目を光らせている。
店の前に掲げられた銅版には『よろず仕立て承ります――ゲルト洋装店』と彫ってあった。
ゲルト、というのはファインツゲルト人が自らの国を呼ぶ際の愛称のようなものだ。
そっと手を伸ばし、店名の綴りをなぞってみる。
「ティア……大丈夫かい?」
彼女がどんな思いでその文字に見入っているのか、正しく理解したクロードは気遣わしげに声をかけた。ティアは、小さく首を縦に振る。
かつてファインツゲルト皇国であった土地は、フェンドル王国属州・ダルシーザ、と呼ばれることになったらしい、とクロードから教えてもらった。
この世界の言葉で『再生』を意味するダルシーザという名に、異論はない。
ただこうして、祖国を偲ぶよすがが少しずつ消されていくのだと思うと、寂寥の感がティアを苛むのだった。
<ありがとうございます>
ティアは手提げ袋の中から一枚のカードを取り出し、クロードに示した。
<ありがとうございます> <申し訳ありません> <すぐにやります>
この3つの言葉のカードは、いつでも取り出せるように準備してある。
「どうして礼など」
ティアは、視線を彷徨わせ俊巡しているようだったが、意を決したように隣のクロードを見上げた。
エルザとカンナに生きる為の手段を与えてくれたばかりか、店にこの名をつけることを許してくれたことを知り、ティアの胸は感激で満たされている。
少しでも、今抱いている感謝の意が伝わればいい。
唇を動かそうとすると、ティアの喉に負担がかかるのを恐れたクロードが、慌てて彼女の柔らかな唇に指を当てた。手袋越しに彼の体温を感じ、ティアは驚きのあまり一歩後ずさった。
遠くから二人のやり取りを見守っていたフィンは、溜息を吐き天を仰いでいる。
悪戯っぽい笑みを浮かべたクロードは、ティアを見つめ優しく言った。
「喉を使ってはダメだと言ったろう。仕方のない子だね。さ、ここに書いて」
手袋を外したクロードが、すっと手の平を差し出してくる。
ティアは困ったように首を傾げていたが、ほら、と促され、恐る恐るクロードの大きな手に指をあてた。
<クロード殿下の温情に感謝します。何もかも、本当にありがとう>
クロードの手の平は、想像以上に固かった。
武人の手だ、とティアは何故か己の胸が痛むの感じた。亡くなった兄も、こんな手をしていたような気がする。
――『いつか必ず君を、そしてこの国を私が守るから』
口癖のようにそう言ってティアを慰めてくれた優しい兄は、生まれつき病がちだった身体を血を吐くような思いで鍛え、剣を取り、戦場で散っていった。
皇族だった彼の遺体は、敵国から丁重に送り返されてきたが、父は一顧だにせず墓標すら立てなかった。一目会わせて、とむせび泣くティアを何度も足で蹴りつけ、父は嗤った。
『なぜ泣く。無力で無能なこの男は、お前の兄などでは、私の息子などではないわ!』
思い出すだけで、胸から鮮血が噴き出てきそうだ。
だから、ずっと心の奥にしまい込み、鍵をかけていたはずなのに――――
「ティア。戻っておいで」
憐れみに満ちたクロードの声に、ハッと顔を上げる。気づけば、小刻みに自分の指は震えていた。
<兄を、思い出しました>
「そうか……ラドルフ皇子のことは聞いている。残念だったね」
何もかも分かっている、といわんばかりの彼の眼差しに、パトリシアは深く息を吐いた。
この方の傍にいると、心のどこかが緩んでしまう。苦悩や辛い記憶、今まで感じてきた感情の全てを曝け出し、預けてしまいたくなる。
この衝動は、危険だ、とティアは改めて自分を戒めた。
クロードはこのサリアーデ王国の世継ぎ。そして自分はただの使用人。
身分を弁えなさい、ティア。
軽々しく心を寄せていい方ではないのだから。
かろうじて笑みを浮かべ、ティアは平気だというように頷いて、店のドアノブに手をかけた。
「ひめ、ティア様っ!!」
昔からの癖でつい「姫様」と呼びかけそうになったカンナは、慌てて言い直した。
そんなカンナをニコニコと見守るエルザは、見違えるようにふっくらしている。頬の血色もよく、10ばかり若返ったかのように瞳は輝いていた。
二人とも、上等過ぎるくらいのディドレスを身に纏い、見るからに貴族階級を相手にする一流の仕立て屋、という雰囲気だ。艶やかな黒髪を丁寧に結い上げたカンナには、付添で入店した若い騎士らの間から憧れの視線が集まっている。薄く施された化粧と相まって、人目を引かずにはおかない美人っぷりだった。
固い抱擁をそれぞれ交わした後、ティアは予めしたためてきた手紙をカンナに渡した。
「ティア様、これは?」
いいから読んで、と手振りでティアに急かされ、二人は顔を突き合わせるようにして、彼女の王宮での様子を綴った手紙に目を通した。
エルザとカンナの顔に、みるみるうちに安堵の表情が浮かぶ。
激しく遠慮する二人を宥め、見事な話法で希望を聞きだし、そして理想通りの店を与えたクロードは、実は何度もこの店を訪れていた。そんなクロードから、王宮でのティアの様子を伝え聞いてはいたものの、やはりこうして直接目にするまでは不安だったのだ。
手紙には、愛らしいリセアネ姫のこと、ノルンという真面目で厳格な近衛騎士筆頭のこと、ポーリアという親切な女官長のことなどが、美しい筆跡で生き生きと綴られていた。
二人が手紙から顔を上げたのを合図に、クロードは見る者の目を眩ませそうな笑みを浮かべた。
「仕事も繁盛しているようだし、こんなことを頼むのもどうかと思うが、ここで三日間ティアを預かってくれないか?」
「頼むだなんて、とんでもないことでございます! 私どもは、いつでもティア様をお待ちしておりますものを」
クロードの言葉に、エルザは心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
その気安い態度に、ティアは大きく目を見開いた。
かつてのエルザは、王太子であるクロードに怯え、震えていたのではなかったか。どういうことか戸惑い、助けを求めるような気持ちでカンナを見遣ると、彼女まで目元を和ませ「殿下は母さんをからかってらっしゃるのよ」などと言って笑っている。
「そうとも、冗談だよ。さあ、機嫌を直しておくれ。私はきちんと約束を守ったのだから」
「もちろんですとも、殿下。ティア様、どうか心安らかにお過ごしくださいませね」
心からの笑みを浮かべている3人の顔を順番に見比べているうちに、パトリシアの瞳にはうすい涙の膜が張ってきた。
ああ、こんなに優しく心を尽くして下さるこの方に、惹かれない女性などいはしないわ。
「ティア様? どうか。どうか、泣かないで下さいませ」
主の目に浮かび上がった涙を見て、カンナは両手を揉み絞った。
ゆるく首を振り、ティアは笑みを浮かべると、「ありがとうございます」というカードをもう一度クロードに示した。人を寄せ付けようとしない硬質なティアの雰囲気が、その笑みで一変した。辺りを照らすような暖かな笑みに、クロードは微かに目を細めた。
彼女らの微笑ましい光景に、事情を知らないまま居合わせた騎士たちは皆、明るい表情になる。
ただ一人。
フィンだけが、苦虫を噛み潰したような顔で、クロードを睨んでいた。
世慣れていない亡国の姫君の気持ちが、手に取るように分かる。
間違いなく、ティアはクロードに対して恋慕の情を抱き始めている。
だから、警告したのだ、とフィンは内心歯噛みした。
決して結ばれないと分かっている恋に、一人の哀れな娘を突き落とした罪は重いぞ、クロード。
フィンの視線には気づいているはずなのに、クロードは頑なに彼を振り向こうとはせず、ティアだけを愛しげに見つめていた。