15.リセアネの企み
星の宮は今日も大変賑やかだった。
「殿下。き、今日はどうされたのですか?」
誰もが聞きたくても聞けなかったことを、ノルンはあえて口にした。そんな近衛騎士を周囲の者が尊敬の眼差しで見つめている。
「何か変かしら?」
尋ねられたリセアネは、素知らぬ顔で問い返す。
「いえ、そのお召し物が……」
今は7月。
サリアーデは、一年を通じて穏やかで比較的涼しい気候を保つ国である。秋の二月ふたつきほど、乾季と呼ばれる雨の降らない時期はあるが、南国の暑さとも北国の寒さとも無縁だった。
大陸の中央を挟んで西に位置するスヴェル共和国などは、四季の移ろいがもっとはっきりしていて、その季節に応じた服装をしなければとても過ごせないと聞く。
サリアーデでは、せいぜい長袖と半袖の区別があるくらいだった。だったのだが。
「毛織物のドレスは、流石に暑いのでは? それに、首に巻いている草はなんです?」
ノルンは、騎士である。女性の服装に詳しいわけではない。だが、主が何を思ってそんな珍妙な恰好をしているのか、尋ねずにはいられなかった。
長椅子の肘置にもたれたリセアネは、扇子で首元を仰ぎながら、ちらりと新米侍女に目をやった。
「仕方ないじゃない。このドレスをティアが出して着せてくれたのだもの。首のコレは薬草だそうよ」
名前を出されたティアは、部屋の隅で真っ赤になって立っている。
筆頭侍女に選ばれたティアだけが、リセアネ姫の寝室に入ることが出来る。
朝の着替えは、ティアが一人で行わなければならないと聞かされた。着替えを済ませたリセアネが居室に現れた後に、数名の侍女がリセアネの髪を結ったり、化粧を施したり、朝食を運んできたりするのだった。
北国育ちで、しかも皇女でありながら不遇されてきたティアには、この国の王女がどのような恰好をするのかがまず分からない。
ティアはその日の朝も、頭を悩ませながらクローゼットルームの中をうろついた。
うすい寝着を纏ったリセアネは、手持無沙汰そうにベッドに腰掛け、足をぶらぶらさせている。
<どのようなドレスになさいますか?>と書いたカードを見せても「ティアに任せるわ」と素知らぬ顔をされるのだった。
待たせすぎると、リセアネは再びベッドの中にもぐりこんでしまう。
寝起きのよくないリセアネを起こすだけでも一苦労なのに、二度寝されては堪らない。
目についたクリームイエローのオーガンジーのドレスを手に取り、彼女の元に戻ろうとしたその時――。
「クシュン」
小さなくしゃみが聞こえてきた。
ティアは慌ててドレスを放り出し、リセアネのところに駆け戻った。
よくよく見てみると、彼女の小さな美しい頬が赤みを帯びている。
こんなに華奢なのだ。元来丈夫なファインツゲルト人の自分とは異なり、体が弱いとしても不思議ではない。
<寒いのですか? 頭は痛くありませんか?>
おろおろと両手を揉み絞るティアを眺め、リセアネはこっそりと笑みを浮かべた。
見かけと違い、風邪ひとつ引いたことがない丈夫なリセアネなのだが、新入りのティアはそれを知らない。
「少し寒いわ。身体もだるいし」
ティアはそれを聞き、飛び上がらんばかりに驚いた。
頬の赤み。寒気。そして倦怠感。すべての症状がファインツゲルトで度々流行した「グオムル病」の症状と当てはまる。10歳以下の少年少女のかかる病だと思っていたが、そうではなかったのかもしれない。
対症療法しかない、と聞いていたので、ティアは迷わず分厚いドレスを引き出し、リセアネに着せた。
その後、星の宮の中庭へと走り、年老いた庭師に<熱を下げる薬草はないですか?>と書き殴った紙を見せた。
不思議そうに首を傾げる庭師から薬草を受け取ると、それを揉んでリセアネの首に巻きつけたのだ。
幼い頃、熱を出したティアにエルザがしてくれた看病をそのまま真似てみたのだが、どうやら的外れだったらしい。
そういえば、医師を呼ぼうとしたティアをリセアネは物凄い勢いで引き留めた。
かつがれたらしい、とようやく気づいたティアは、リセアネに近づき頭を垂れた。
<申し訳ありません、姫様。どうか、お召し替えを>
怒るに違いないと予想していた相手が悲しげな顔で謝罪してきたので、リセアネは困惑してしまった。
「ど、どうしてティアが謝るの? 私が『寒くて体がだるい』と言ったのじゃない!」
「……姫様? どういうことか、詳しくお聞かせ願えますか?」
ノルンの額に青筋が浮かんでいる。
しまった。慌てて口元を抑えたリセアネだったが、もう遅かった。
それから半時間ほど。
ノルンに呼ばれた女官長のポーリアに「王女たるもの、仕える者に対する深い慈愛を持つべきでございます。ナタリア様におかれましては」云々かんぬんとしばらく説教されたリセアネは、ふくれっ面で寝室に引っ込んだ。
慌てて後を追ってきたティアを、リセアネはきっと睨みつけた。
「ティアのせいで怒られちゃったじゃない。あなたが私に注意しないからよ!」
とんでもない言いがかりだが、リセアネの表情は真剣そのものだった。
「あなたは私を叱るべきだった。私に何をされても、はいそうですか、としか言わない侍女なんていらない! いい? ここはあなたのいた国ではないの。女だろうが男だろうが、自分の意見はきっちり口にしないと、誰にも伝わらないわよ!」
ティアは唖然とした表情を浮かべ、まくしたてる王女を見つめ返した。
そんな事を今まで自分に言ってくれた者などいなかった。
――『辛抱なさいませ』『男とは、女の上に立ちたい生き物なのです』
父からティアを守ろうとしてくれた亡き侍従長さえ、そう言って彼女を諭した。だからこそ、ティアは塔に幽閉された我が身を諦観出来たのだと云える。
身の程を弁えず、賢しげに皇帝に向かって諌言などしたからこんな目に遭うのだ。ティアは自分の愚かさを責めながら、極寒の監獄で日々をやり過ごしてきた。
後悔などする必要はなかったのかしら。
ぼんやりと考え込み始めたティアを見て、リセアネはふうと息を吐いた。
「とりあえず、私が悪かったわ。からかって、ごめんなさい」
<そんな! 頭をお上げ下さい!>
深々と自分に向かって頭を下げたリセアネに、ティアはハッと我に返った。
リセアネは、困りきった表情を浮かべたティアをこっそり盗み見、ほくそ笑んだ。
困った顔でも何でもいい。ティアのあんな表情は、もう見たくない。
『何なりとお命じ下さい』
光の宮から連れ立って戻ってすぐ。
自分の前に片膝をついたティアを見て、リセアネは息を飲んだ。
罰を希うような悲痛な色を瞳に浮かべ、ティアは自分の後ろに違う誰かを見ていた。祖国に近しい者を残してきたのだろうか。それとも救えなかったという多くの民?
絶望と後悔に囚われたティアを見て、リセアネは決心した。
これから、うんと振り回してあげる。辛い思い出に浸る暇なんて与えないわ!
「じゃあ、着替えようかしら。流石に暑くて、湿疹が出来そうだわ」
<すぐにお持ちしますね>
ティアはホッと胸を撫で下ろすような仕草をして、クローゼットルームへ駆け戻っていった。
がりがりに痩せ細っていた体に、少しは肉付きが戻ってきたようだ。ティアの背中を見送り、リセアネは満足げな笑みを浮かべる。
全てを諦めたような顔をしてうつろな瞳で辺りを眺めていた娘は、感情を顔に出すようになった。
始終不安げにしているのは、まだ異国になれないせいだろう。いずれ慣れれば、ティアはもっと沢山の表情をリセアネに見せてくれるに違いない。
リセアネは生まれて初めて庇護されるのではなく、自分が庇護しなければならない対象を見つけた。それはリセアネにとって、大きな喜びだった。
ティアが王宮に上がって半月が過ぎようとしていた。