13.グレアムの決断
その頃、ファインツゲルトでは――。
グレアムは狂皇帝から文字通り奪い取った玉座に腰かけ、足を組んだ。
いつまでも国を空けておくわけにはいかない。
あと三月ほどはファインツゲルトに留まり、速やかな戦後処理の続きを自らの手で行いたかったのだが、それで自国が傾いては本末転倒だ。
宰相であるアシュトン・ランズボトム公爵は有能だが、グレアム自身に忠実とは言い切れない部分を持っていた。そして信用しきれない宰相に国を預けたまま、隣国に留まるほどグレアムも間抜けではない。
前王であるグレアムの父、ライオネルに盲目的な忠誠を誓っていたランズボトム公爵から見れば、まだまだ小僧ということなのか。
時折無性に腹立たしくなるのだが、感情を露わにすればそれこそ「前王陛下におかれましては……」という父王とグレアムを比較した長々しい説教が始まるに決まっている。
この先、どう舵を切っていくべきか。新たに増えた責任に、グレアムは一人息を吐く。
玉座に座ることで、グレアムは改めて自らを戒めた。
自分は倒れる寸前だった皇国を救った英雄などではなく、ただの簒奪者だ。決して驕ってはならない。
サリアーデへと戻る王太子一行の中に紛れた、三人の女が脳裏に浮かぶ。
黒い髪に生気のない黒い瞳の痩せこけた娘。まさか、と思った。それほど変わり果てていた。
ルドルフ皇子が一度だけ見せてくれた細密画の少女とは、似てもにつかない骨ばかりの娘。
――『可哀想に、パトリシアは父から虐待されているんだ。女というだけで、あそこまで我が子を疎んじる陛下が私には理解出来ない。いつか私が父の跡をついだら、その時はきっとあの子を守るつもりだよ』
フェンドル国建国500年を祝う祝賀会に、ファインツゲルトの代表としてやってきた第一皇子は、愛しげに妹姫の名を口にした。そして、皇帝に内緒で描かせたのだという小さな細密画を見せてくれた。
胸から下げたロケットに仕込んであったその絵には、10歳ほどの愛らしい少女が描かれていた。
王座に就いた暁には、お互いもっと豊かで平和な国にしよう。固く誓いあった盟友は、それから10年後、ルクサ共和国との国境に送られ、苛烈な戦死を遂げた。
民の為の進言を繰り返す息子を疎んじた皇帝自らが、戦に反対していた彼の皇子を最前線に送り込んだのだ。彼の戦死の報に、グレアムは拳を震わせた。悔しく悲しく、そして己の無力さが憎かった。
ラドルフが生きていなくて良かった。塔に幽閉され、喉まで潰されていた不遇のパトリシアを処刑しようとしたことを知ったら、彼は決してグレアムを許さなかっただろう。
ラドルフが最後まで気にかけていた妹姫は、サリアーデのクロード王太子が庇護した。
本来ならば、それは自分の果たすべき役割だったのでは? そんな疑念が、グレアムの心の片隅から消えてくれない。
だがどうしても、後顧の憂いを残すことは出来なかった。
有力な貴族は一人も残っていないとはいえ、ここはファンツゲルト人の国だ。
フェンドル人の支配に甘んじるよりも、正当な後継者であるパトリシアを担ぎ出そうとする者が現れても、不思議ではない。
己の決断は間違っていなかった。そう何度も言い聞かせ、グレアムは首を振った。
パトリシアをあのまま放置しておくことは出来ない。やはり早々に国に戻り、手を打っておくべきだろう。グレアムは腹心であるレオンハルトを呼ぶことにした。
玉座にゆったりと腰かけ、まさしく王の威厳を発している主の前に進みで、レオンハルトは片膝をついた。
「お呼びと伺いました、陛下」
レオンハルトの端正な顔には、疲労の色が濃く滲み出ている。
荒れた国土の修復。飢えた民たちへの炊き出し。残党狩り、そして軍の規律管理まで、グレアムのおおまかな方針を受け、昼夜を問わず細かい指示を飛ばしているのはレオンハルトだ。
数多の女性を惹きつけてやまないさえざえとした美貌は、陰りを帯びたせいでより蠱惑的な魅力を増していた。
「忙しいのに、呼びつけて悪かったな。たまには休めよ。お前の代わりはいない」
「有難いお言葉。ですがこの程度の職務で倒れるような、やわな鍛え方はしておりません」
うっすらと笑みを浮かべたレオンハルトに、グレアムも安堵の表情を浮かべた。
「明日、国へ戻る。ファインツゲルトの主だった領地は、いずれ三大公爵に分配するつもりなのだが、今のままではな。この戦に大軍と資金を提供した彼らへの褒美というより、嫌がらせになってしまう。……そうだな。10年やる。レオンハルト、お前が立て直せ。その期間この国は王領とし、お前を仮の国主に任じる」
「それで、諸侯が納得するでしょうか」
レオンハルトより位の高い大貴族は他にも多くいる。レオンハルトの心配をグレアムは一笑に伏した。
「むしろ、誰もがこぞってお前に押し付けるだろうよ。土地は荒れに荒れ、ろくな働き手など残っていないこの国を欲しがる奴がいるのなら、喜んでくれてやる」
「では、謹んで拝命仕ります」
レオンハルトは深々と頭を垂れた。
「お前という右腕なしで、国に戻らなければならないのは辛いがな」
グレアムが顎に手をやると、レオンハルトは「ランズボトム公爵がおいでになるではありませんか」と軽く眉を上げた。
途端、苦虫を噛み潰したような顔になった主に、レオンハルトは微かな笑みを浮かべた。
グレアム王と国王軍は、国民の熱狂的な歓声に迎えられた。
王の帰還を知らせる先触れは、勝利を祝う旗を次々と掲げさせていく。
「フェンドル国軍、万歳!!」
「グレアム陛下、万歳!!」
圧倒的な武力を持って、蠅のようにうるさくたかってきていた隣国を平らげたのだ。フェンドル国民の喜びは全てグレアムへの賞賛に代えられた。
今も、凛々しい王の姿を一目見ようと、大通りには溢れんばかりの人が押し寄せてきている。
「これでお世継ぎにさえ恵まれれば、完璧なのにねえ」
王都の下町では、一人の女性の零した言葉に、周囲の人だかりから賛同の声が上がった。
「まあ、じきに産まれるさ。エレノア嬢が王宮に召されるらしいってもっぱらの噂だからな」
「宰相閣下のところの姫様かい? エレノア嬢が正妃になられるのを、オルブライト公爵が黙って見てるかねえ」
「仕方ないだろう。オルブライト家のお姫様は、側室腹なんだから! 正妃様にはやっぱり、血筋のしっかりした方がふさわしいよ」
「前王陛下のように、側室として召し上げられるかもしれないよ?」
「あれは結局、すぐに下賜されてしまったじゃないか。御子は正妃様のお産みになったグレアム様お一人だけ。キャサリーヌ王太后だけを愛されたってのは、有名な話だろ。晩婚なのと、女性に一途なのは、王家の血筋なんだろうよ」
好き勝手に王室の噂話を始めて盛り上がっていた彼らは、やがて凱旋パレードの警備をしていた兵士に睨まれ、蜘蛛の子を散らすように雑踏に紛れていった。
熱狂的な出迎えに応えながらの道のりは遠かった。
王城の城門をくぐり、グレアムは肩の力を抜いた。だがまたすぐに、表情を引き締める。
謁見の間には、すでに主だった臣下が揃っている。グレアムはマントを翻し、まっすぐ王座を目指した。
「この度の勝利、心よりお祝い申し上げます」
重臣たちが次々に頭を下げる中、グレアムは一際高い場所に設えられた椅子の前に立った。
ようやく足を止め、くるりと振りかえる。
鷹のように鋭い眼差しを向けられ、多くの臣下が背筋を正した。
長身を鋼のように鍛え上げ、王冠がなければ、凛々しい将軍のように見える強き王。三十六を迎えてなお、引き締まった体躯には微塵の衰えも見られない。
「不在の間の留守、ご苦労だった。知っての通り、ファインツゲルトは我がフェンドルの属国となった。が、荒れた国土と疲弊した民をこれ以上踏みにじるような真似は許さん。トランデシル伯爵を、復興の間の仮の国主として任命してきた。異論のある者は、発言せよ」
グレアムの読み通り、誰一人口を開くものはいない。
腹の底に力を込め、グレアムは息を吸った。
「長年の懸案事項がこれで一つ減った。もう一つ、お前たちの進言を受け入れ、私は妃を迎えようと思う」
グレアムの発言を受け、謁見の間がざわめき声で包まれる。
豊かな髭を蓄えた中肉中背の年配の男が、堪らず声を上げた。
「まさか、陛下。エレノア嬢を娶るおつもりですか!?」
声を上げたのは、三大公爵家の一つ、オルブライト家の当主だ。ただでさえ、エレノア嬢の父、ランズボトム公爵は宰相を任じられている。この上、正妃の実家という権力まで持たせるつもりなのか、とオルブライト公爵は顔色を変えた。
もう一つの公爵家であるブランクリフ公爵は沈黙を保ったままだ。
というのもブランクリフ公爵は、現王太后・キャサリーヌの実の弟であるからだ。二代続けて同じ家が、正妃を輩出することは出来ない。
「そうではない」
グレアムは静かに答えた。辺りは水を打ったかのように静まり返る。
焦げ茶色の瞳を剣呑に光らせ、王はゆっくりと口を開いた。
「同盟国であるサリアーデの第二王女を、我が正妃として迎え入れることにする」