10.王都での出会いその1
「では、姫さ……ティア様は、王宮に上がられるのですね?」
「ええ、そうよ。私の妹姫の侍女を務めて頂くことになったの。元の身分を考えると、御労わしいのだけど、その方がティアにとって危険が少ないだろうと兄様が」
クロードとエドワルドは先に本館へと戻っていった。
ティアが落ち着くのを待って、ナタリアはカンナとエルザを呼び戻した。
長椅子に腰掛けたきり、俯いたまま動かないティアを視界に入れながら、優しい口調でこれから先の展望を話して聞かせる。
「……良かった! 王太子殿下が『奴隷として飼う』などと仰っておいででしたので、気を揉んでおりました」
カンナの安堵した声に、ナタリアは苦笑を零した。
「いつもはあのような物言いをされる方ではないのよ。ただ――」
図らずも生き残った自分を許せないでいる彼女を慮んばかり、わざと憎まれ役を買ってでているのだろう、とナタリアは推察していた。
優しい言葉で守られることを、今のティアは望んでいない。
「いいえ。恐れ多くも殿下がお優しくご立派な方であることは、旅をご一緒にしていて分かっておりました。どうか、ティア様をよろしくお願いいたします」
黙って話を聞いていたエルザが頭を下げたので、ナタリアはホッと息を吐いた。
王宮に連れて行くのは、ティア一人だけだ。彼女への忠誠心厚く、ここまでついてきた彼女たちには王都に新居を構えさせる、とクロードが話していた。固い絆で結ばれた主従を引き離してしまうことに、ナタリアは胸を痛めていた。
自らの行く先を弁えているようなエルザの発言に、カンナが目を見開く。
「……母さん?」
「私たちは、王宮に上がれるような身分じゃない。カンナ、分かるね」
「でもっ!」
身を賭してまで守りたかった主を、誰も味方のいない異国の王宮に差し出すことは、カンナにとって耐え難い悲しみだった。みるみるうちに、カンナの両目に涙が溢れてくる。
「ごめんなさい、カンナ。でもね。ここでしばらく休養してもらった後、あなた方二人も王都に移っていただく算段なの。王宮近くのニの郭に住まいを準備させると、兄様が話しておいでだったわ。そうすれば、宿下がりの度にティアもそちらに戻れるはずよ」
一の郭の方が王宮には近いのだが、そこは貴族のタウンハウスが立ち並ぶ一角だ。相手が貴族というだけで激しい怯えを見せるカンナ達には、王宮御用達の職人や商人たちが暮らす二の郭の方が、気が楽だろうというクロードなりの配慮があった。
<ありがとうございます>
それまで無言だったティアが、顔を上げてナタリアを見つめる。彼女の気がかりであった大切な二人を厚遇してもらえると聞かされ、ようやくティアの覚悟も決まった。
<誠心誠意、リセアネ姫さまに、お仕え致します>
ティアがゆっくりと口を動かす。じっとその動きを追っていたナタリアは、にっこり微笑んだ。
「気負うことはないのよ。あの子が我がままを言ったら、遠慮なく叱って差し上げてね」
<……はい>
そんな大それたことが、果たして自分に出来るだろうか。
ティアはまだ見ぬ第二王女への不安を覚えた。
そして次の日。
張りつめていた緊張が解け、気が緩んだせいか、エルザは熱を出して寝込んでしまった。
すぐに医者を呼びに走らせたナタリアだったが、「過労と栄養失調」という診断を聞かされ、更に胸を痛めることになった。やはり老いたエルザには過酷な旅だったのだ。
「心配でしょうけど、お医者様が仰るには、一週間ほどゆっくり体を休めて滋養のつくものを食べれば、元通りに回復するとのことでしたわ。王都までご一緒したかったので残念ですけれど、私はここに残ります」
重い病気ではないと云うものの、何かと忙しいエドワルドにエルザの様子を見てもらうことは気が引けたし、かといって使用人に任せてしまうのも不安だった。カンナが看病してくれるだろうが、必要なものがあっても中々彼女から言い出すことは出来ないのではないか、と思ったのだ。
ティアは後ろ髪を引かれる思いで、ドレーサ館を去ることになった。
後見人になったのだから、とエドワルドは、デイドレスやガウン、乗馬服に夜会用のドレスまで、ありとあらゆる服飾品をティアの為に揃えることを決めたようだった。そのせいで、ティアは丸一日を採寸と生地選びに費やさなくてはならなくなり、出発はその分遅れることとなった。
「出来上がり次第、王宮に届けよう。それまでどうかご辛抱を」
精悍な美貌の持ち主であるエドワルドは、愛想のないこともあって、ティア達に気難しい印象を与えていた。奥方であるナタリアと話す時だけ、彼の表情は柔らかく和む。
いかにも強そうで威圧的な男性が苦手なティアは、ロゼッタ公爵のことも避けていたのだが、その時ばかりは丁寧に腰を折った。
<お心遣いに、感謝いたします>
ティアが深々とお辞儀をした後、丁寧に礼を述べると、エドワルドは困惑したように視線を隣に向け、傍らに立っていたナタリアをそっと抱き寄せた。
「礼なら、ここにいる私の妻に」
「エドワルドったら、照れなくてもいいのに」
「照れてなどいない」
むきになってナタリアに言い返す公爵は、普段よりずっと素敵に見えた。
王都への道のりは、急げば丸一日くらいのものなのだが、途中で何度も凱旋パレードのような騒ぎになるものだから、結局ロゼッタ領を出発して三日目に王都に入ることが出来た。
王宮までの大通りには、王太子の到着をどこからか伝え聞いた民たちが、大勢集まっている。
「クロード殿下、万歳!」
「戦勝、おめでとうございます!」
歓声が波のように押し寄せてくる。民衆の熱狂ぶりを目の当たりにし、馬車の中でティアは耳を塞ぎたくなった。
多くのファインツゲルト兵が戦死したことを、誰か一人でも思い出してはくれないだろうか。
国を守るのだと信じて、無能な指揮官の下、暴虐な皇帝の盾となり散っていった命があることを。そしてその者達にもまた、帰りを待つ家族がいたことを。
「ティア様? 顔色が……」
<酔ったのかしら。平気です>
心配そうにこちらを伺ってくるマアサに、かろうじて笑みを浮かべてみせる。王太子一行がようやく一の郭を抜け、王城の荘厳な正面扉までやってきた時には、すっかりティアは疲弊していた。
『これから、陛下への拝謁の儀がある。その後、君を引き合わせるから、しばらく控えの間で待っていて欲しい』
彼女らが乗っている馬車にクロードからの言付かりを運んだフィンは、ティアに付き添っているマアサに軽く片目をつぶってみせた。
「君がいてくれて助かるよ、マアサ。彼女を頼むね。しばらくは、うちのタウンハウスに滞在するんだろう?」
「ええ、フランチェスカ様にご招待いただいております」
「良かった。隙をみて、君のところへ帰るからね」
甘い言葉を残し、真っ赤になったマアサにキスを投げると、フィンは再びクロードの元へ戻っていく。久しぶりに纏った近衛騎士の団服のコートを翻し、彼は軽やかに馬に飛び乗った。
<仲がよろしいのですね>
ロゼッタ公爵夫妻もそうだったが、結婚の約束を交わしているのだという彼らも非常に仲睦まじい。今までそういった光景には縁のなかったティアなので、小さい頃に読んだお伽話のようだ、と憧れてしまう。
「悪くは、ないですわ」
耳まで真っ赤になった男爵令嬢を見て、ティアは久しぶりに心からの笑みを浮かべた。
謁見の間に隣している控えの間で、マアサはゆったりとお茶の準備を始めた。
「お砂糖とミルクはどうされます?」
褒賞や叙勲なども行われるので、式は長引くだろうとマアサは予想していた。なので、待っている間くらいは寛くつろいでもらいたいと思っているのだが、当のティアは青ざめた顔で石像のように固まりソファーに浅く腰かけている。
「――ティア様?」
<……ではミルクだけ……>
サリアーデではティアのような黒目黒髪の者は珍しくない。現にエドワルドがそうだ。しかし、北国出身だと一目で分かる雪のように白い肌と、貴族の子女らしからぬ痩せ細った身体が、王宮内の人々の目を引いた。
使用人達にまでじろじろと値踏みされるように盗み見され、ティアは今にも吐きそうに緊張してしまった。温かなお茶でも飲めば、昂ぶった気が落ち着くだろうか。
――サリアーデ国王が、もし父上のような方だったら……。
どんなに王太子殿下が口添えして下さったとしても、その場で手打ちになってしまうだろう。どうか、クロード様には咎が及びませんように。時々きつい物言いをする彼だが、ティアへ向ける眼差しは優しかったし、悪い人のようには見えなかった。
国王の手にかかるなら、せめてファインツゲルト最後の皇女として、取り乱すまい。立派な最期だったと、クロードに思い出して貰いたい。
ティアはきつく唇を噛み締めた。
「ルクレティア嬢。陛下への拝謁が許されましたぞ。どうぞ、こちらへ」
何時間が過ぎた頃だろう、ようやく侍従長が控えの間に姿を現した。
「私はここまでです。ティア様、どうかお元気で」
<数々のご親切、忘れません>
マアサに向かって軽く膝を折り、ティアは悲愴な覚悟を固め、侍従長の後について広い謁見の間へと足を踏み入れた。
「そなたが、ファインツゲルトの――」
王冠を被った頑強そうな男性に声を掛けられ、ティアは片膝をついた。直接声を掛けられるとは思ってもいなかった彼女は、酷く動転してしまった。しかも、距離が近い。
煌びやかな王座を遥か後ろにして、彼の王は気さくな様子でティアの傍に歩み寄った。
「惨い目に遭ったな。……国境での小競り合いはさておき、国同士でひとたび戦いくさになれば、どちらかの王が倒れるまで戦い抜くのが世の習い。グレアム王を恨まないでやってくれ」
<もちろんでございます!>
一体、何を仰るのか。グレアム王は、もはや誰にも止めることのできなかった皇帝から、母国を救って下さった英雄だというのに。
ティアは驚愕に目を見開き、国王を見上げた。
年を重ねたその灰黒色の瞳は、静かな理知をたたえ、温かみを含んだ眼差しでこちらを見つめている。
<命を救って頂いたばかりか、侍女や乳母にもお慈悲を頂き、ありがとうございます>
一国の王に対する礼を尽くさねば。
ティアは必死に喉に息を当てた。潰れた醜い声が、途切れ途切れに響いた瞬間、彼女は大きく咳き込んだ。
とっさに口元を覆ったハンカチが鮮血で染まる。
「無理をせずともよい! クロード、王宮付きの医師に診せるのだ。少しだが声を出せている。治療を加えれば、良くなるやもしれぬ」
「はい、陛下。……では、先程の件は」
「そなたに任せよう。リセアネにも良く言い含めておいてくれ」
「ありがとうございます」
喉の痛みを必死に堪えるティアの手に、そっと大きな手が重なった。
国王の手のぬくもりに、頭の中が真っ白になる。
「皇女の身分は捨てて貰わねばならない。だが、国を想って行動を起こした貴女の心は、何物にも代えがたい尊いものだ。決して粗略には扱わさせぬ。どうか心安らかに勤めておくれ」
<――もったいない、お言葉>
ポタリ。
ティアの乾ききった頬に涙が伝った。連れ去られるカンナを見送ったあの日以来、凝り固まっていた彼女の心に、滴り落ちる涙が音を立て染み込んでいった。




