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1.皇女パトリシア

 とうとうこの日が来てしまったのね。

 

 パトリシア=ルクサーヌ=ファインツゲルトは、頑丈な格子の嵌められた小さな出窓からそっと外界をうかがった。汚れた裸足のまま精一杯背伸びをして、城のすぐ外まで押し寄せて来ている侵略者達を一目見ようと目を凝らす。


 侵略者、という言い方はおかしい。救済者、と呼ぶべきだろう、と心のどこかで囁くもう一人の自分がいる。パトリシアはようやく聞こえてきた城門を破る轟音に、フッと短い溜息を洩らし、足を引き摺りながら粗末なベッドに戻った。


 皇女であるパトリシアが高い塔のてっぺんにある小さな牢獄に入れられたのは、父であるファインツゲルト十二代皇帝に諌言した為だった。


 『もう少し、民のことをお考え下さいませ。今年の飢饉は、例年にも増して酷いものだとか。せめて皇宮にかけられている費用の十分の一でも、救済に回すことはできませんか?』


 彼は高らかに笑い出し狂気を帯びた笑顔のまま、腰に下げていたサーベルでパトリシアの喉を強く突いた。勇気を振り絞って皇帝の前に進んだパトリシアの小さな身体は、空に舞い床に打ち付けられた。


 『賢しげにさえずる小鳥ほど、わずらわしいものはない。誰ぞ、あれ。この者を塔に閉じ込めよ。余の元に連れてくることは二度と許さぬ』



 温和で優しかったパトリシアの兄は、その前の年に前線に送られ戦死を遂げていた。

 一つ下の弟は、初めて出かけた狩りの途中で流れ矢に当たり、あっけなくこの世を去った。

 暗殺ではないかという噂を耳にし、弟と仲の良かったパトリシアが酷く打ちのめされたのはもう遠い昔の話だ。


 過去の栄光を忘れられない現皇帝は領土拡大の野望に取りつかれていたが、ファインツゲルトがもはや斜陽の時代を迎えていることは、誰の目にも明らかだった。

 北の大国であったのは、遠い昔のこと。

 民をおもんばかり、産業を支え繁栄を促すことよりも、自身の欲求のみに関心を抱き、この世の贅の限りを尽くそうとする暗愚な支配者が三代も続けば、国は荒れていく他ない。

 跡継ぎである息子を二人とも失った皇帝は、この国ごと心中するつもりなのか、一切のまつりごとから手を引き、忠信を尽くしてきた歴代の賢臣たちを次々に処刑した。


 高い塔に入れられ、逃げ出さないように鍵をかけられ、日に一度わずかな食べ物を与えられて今日まで生き延びてきたパトリシアにとって、他国からの侵略は差し伸べられた救いの手でもあった。


 パトリシアは首元に手をやって、じっと涙をこらえた。

 父に思い切り突かれた喉は、あの日から役目を果たしていない。

 声を出そうとすると血の味が喉の奥を滑り落ち、酷く痛むのだ。


 今こそ、喝采を叫びたいのに。

 これでようやく、我が祖国の民は地獄のような苦しみから解放される、と。

 

 指揮を執るはずの上層部の腐敗と共にすっかり弱体化した皇国軍が、屈強かつ勇猛で知られるフェンドル国の軍隊に勝てるはずもない。しかもかの国は、同盟を結んでいるラヴェンヌ、サリアーデ両王国に援軍を求め、五十万を超える大軍で侵攻を始めたというのだ。もう一週間も前に。


 「姫様。ああ、姫様!」


 その話をパトリシアに教えてくれた彼女の侍女であるカンナが、大きな鍵束を持って塔に上がってきた。

 震える手で鍵束を探り、ようやくお目当ての一本を見つけたようだ。階段を駆け上がってきたので息が切れたのだろう、豊かな胸を上下させながら、長いこと開けられることのなかった格子扉を押し開ける。

 金属のこすれ合う耳障りな音にカンナとパトリシアは顔を顰めた。


 「城中が大騒ぎでございます。皇帝陛下と後宮の側室方はみな捉えられ、すでにフェンドル国王自らの手にかかられたとか。ここに敵兵が来るのも時間の問題かと。さあ、姫様、どうか私と服をお取替えになって下さい」


 早くに産みの母を亡くしたパトリシアにとって、乳母であるカンナの母と幼い頃から共に育ってきたカンナだけが家族だと言えた。父である皇帝は女児を産んだ妃に激怒し、彼女を斬り捨てたばかりか、王女であるパトリシアも殺そうとしたのだ。


 『強きファインツゲルトの血脈に弱き女など、いらぬ』


 皇帝はそう吐き捨て、産まれたばかりのパトリシアの首を絞めようとしたそうなのだが、周囲が慌ててそれを押し留めた。


 『女にとて使い道はございますぞ。陛下の駒が増えたとお考えになればよろしいのです』


 パトリシアを救おうと、あえて皇女の表面上の利を説いた当時の侍従長は、もういない。

 陰となり日向となりて彼女を庇い続けた彼は、パトリシアが塔に閉じ込められた日に処刑された。


 


 <なにを言ってるの? どうするつもり?>


 声の出ない口を必死に動かして、カンナを問い詰めようとするが、彼女はあっと言う間に自分のお仕着せの制服を脱ぎ、下着姿で今度はパトリシアのドレスに手をかけた。

 見廻りの看守にお金を握らせたカンナが定期的に洗濯しては取り替えてくれていたとはいえ、すでに薄汚れてしまっている薄紅のドレスがパトリシアからはぎ取られる。

 シュミーズ姿になったパトリシアが寒さで身震いすると、カンナが慌てて自分の脱いだばかりの侍女の制服を着せ始めた。


 まさか。

 まさか、私の身代わりになるつもりなの!?


 <やめて、カンナ!! やめて!!>


 滂沱の涙がパトリシアの両頬を濡らす。

 痛む喉を押し開き、なんとか声を出そうとするのだが、彼女の喉からはかすれた空気音が漏れただけだった。

 長い囚人生活で、力もすっかり落ちている。

 必死の抵抗もむなしく、パトリシアとカンナの服はとうとう入れ替わってしまった。


 「さあ、これでよろしいですわ。フェンドル国王は非常に義に厚く情け深い方と評判です。皇都に来られるまでの進軍中も、無辜むこの国民には一切の非道を働くな、とのお触れをお出しになったとか。飢餓にあえぐ民たちを集め、軍の一部を分けて炊き出しを行わせている、とも聞きました」


 カンナの口から語られる一部始終に、パトリシアは大きく目を見開き聞き入った。


 そんな方もおられるのだ。

 強さと慈悲深さを併せ持った王も。

 フェンドル国の民のなんと幸せであることか!


 父の死を聞かされたばかりだというのに、パトリシアの胸は安らかな充足感で満たされた。

 これで大丈夫。

 このファインツゲルトがフェンドルの属国となったとしても、国民が今より幸せになるのならば、それで十分ではないか。

 あとは亡国の最後の姫として、自らの責任を果たすだけだ。


 「姫様はこれまでずっと大変な苦労をされてきましたもの。もう自由になってもよろしいかと存じます。長年のご慈愛を賜り、本当にありがとうございました」


 カンナは大きな瞳に涙を浮かべ、それでもにっこりと微笑んで、パトリシアの艶のない汚れた髪から唯一彼女が母から受け継いだ美しい翡翠の簪を引き抜いた。


 ばさり、とパトリシアの黒髪がほどけ散らばる。

 カンナは手際よく自分の豊かな黒髪をまとめ上げ、くだんの翡翠の簪を挿した。


 パトリシアは乱れた前髪の隙間から、毅然と頭を上げるカンナを見た。


 間違ってる。

 こんなことは、間違ってる。

 やめて、お願いだからやめて!!


 パトリシアがカンナに掴みかかろうとしたその時。


 


 「ここだ!! ここにいたぞ!!」


 大勢の軍靴の音が高らかに響き渡り、塔のてっぺんに数名の敵兵らしき若者が姿を現した。


 「パトリシア皇女ですね? 一緒に来て頂きましょう」


 その中で一番年嵩の男がパトリシアの脇を通り過ぎ、まっすぐにカンナに向かっていく。


 <やめて!! 私がパトリシアよ!!>


 そう叫びたいのに声は出ない。ひゅーひゅーと喉を鳴らしているうちに、パトリシアは冷たい石床に膝をつき喀血してしまった。

 床に伏した侍女を助け起こそうと、軍服姿の一人の若者がパトリシアの肩に手をかける。


 「大丈夫か。無理をするな」


 「こんなに痩せて……。幽閉されていた皇女殿下は、使用人を虐待し、憂さ晴らしをされていたというわけですか」


 牢の外で待機していた敵兵の一人が、揶揄するように声を上げると、蔑みの視線が一気にカンナに集まった。


 「誰に向かってものを言っているの? 控えなさい!」


 カンナは昂然と頭をそらし、侮蔑に満ちた表情で若者たちを睨みつけた。


 「さあ、私は逃げも隠れもしません。手を触れることは許しませんが、抵抗しないと約束しましょう。どこへ参ればいいのです?」


 行ってしまう。

 いってしまう、私の大事なカンナが!!


 ボロボロと大粒の涙を零しながら、パトリシアは脇を通り過ぎようとしたカンナのドレスの裾にしがみ付いた。


 「なにをする、無礼者っ!」


 カンナの声が震えている。きっと敵兵たちは下賤な者に触れられた怒りの為だと思っているだろう。

 パトリシアにだけは分かった。それが別れの悲しみのせいだということを。


 冷え切ったカンナの細い手で払いのけられ、パトリシアは床に倒れこんだ。


 「なんということを……」


 先ほどパトリシアを気遣った若者が、慌てて彼女に駆け寄り抱き起す。

 カンナの小さな背中が、格子扉の向こうに消えていく。

 パトリシアは床に頭を打ち付け、絶叫した。



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