表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

犬を拾いました

作者: 和泉 穂積
掲載日:2026/05/10

 犬を拾いました。

 大きな犬です。

 栗色の毛で、雨に濡れていました。


 賢い子で、家に連れてくる時も、タオルで拭く時も、とても大人しかったです。寒そうだったので温かいミルクを出すと、ゆっくりですが飲みました。


 ただ、少し変わった犬です。

 玄関をくぐる時、頭をぶつけないように屈みました。

 毛布をかけると、小さな声で「すまない」と言いました。

 犬にしては、礼儀正しいと思います。


 けれど、雨の日に外で震えている生き物を見つけたら、拾って帰るのが正しいと思いました。

 たぶん。


     *


 その日は、朝から雨だった。


 細く、冷たく、いつまでもやまない雨だ。王都の石畳は黒く濡れ、馬車の車輪が通るたびに泥水が跳ねた。職人街の通りには、布屋、靴屋、金具屋、染物屋が並んでいる。軒先から落ちる雨粒が、桶の中で絶えず小さな輪を作っていた。


 ニナ・ベルは、銀糸工房の裏口から外へ出た。


 両腕には、布の包みが二つ。肩から下げた鞄にも、途中まで仕上げた刺繍の布が入っている。傘はある。けれど包みを濡らさないように胸へ抱えていると、傘はほとんど役に立たなかった。


「ニナ、明日の朝までにお願いね」


 背後から、明るい声が飛んでくる。

 振り返ると、銀糸工房の先輩職人であるベリンダが、裏口のところで手を振っていた。波打つ金髪をきれいに結い上げ、唇には淡い紅を差している。雨の日でも華やかな人だった。


「はい」


 ニナは小さくうなずいた。


「助かるわ。あなた、細かい刺繍が本当に早いもの。私、店長に急ぎの直しを頼まれてしまって」


「はい。大丈夫です」

「無理はしないでね」

「はい」


 ベリンダはにこりと笑って、裏口を閉めた。

 無理はしないでね。

 ニナはその言葉を、胸の中で一度だけ繰り返した。

 無理とは、どこからのことを言うのだろう。


 今夜中に刺繍を終えて、明日の朝一番に工房へ届ける。今日の分の裾上げもある。昼に預かった手袋のほつれ直しもあった。銀糸の模様は細かいので、たぶん夜更けまでかかる。


 でも、できない量ではない。

 なら、無理ではないのだと思う。

 ニナはそう判断して、雨の中を歩き出した。


 彼女は地方の小さな村から王都へ出てきたお針子だった。家族仲は悪くない。むしろ、両親は今でも手紙をくれる。身体に気をつけるように。ちゃんと食べるように。困ったことがあれば帰ってくるように。


 ニナも毎回、返事を書く。

 元気です。

 仕事をたくさん任せてもらっています。

 ご飯も食べています。

 どれも嘘ではなかった。

 ただ、自分が元気かどうかは、時々よく分からなくなる。


 雨はしだいに強くなっていった。

 職人街の大通りを抜け、裏道へ入る。ニナが借りている家は、通りから少し外れたところにある小さな一軒家だった。古いが、家賃は安い。隙間風は入るし、床板はたまに鳴る。でも台所があり、作業机を置ける部屋があり、眠る場所もある。


 ニナには十分だった。

 角を曲がった時だった。

 道端に、何か大きなものがいた。

 最初は、荷物かと思った。


 商人が落としていった布袋か、大きな外套のかたまり。けれど近づくと、それは人の形をしていた。家と家の間の狭い軒下に、男がひとり、膝を抱えるようにうずくまっている。


 雨が軒から斜めに吹き込んで、彼の髪も肩も濡らしていた。

 栗色の髪が額に張りついている。大柄な体を折り畳むようにして座っているせいで、余計に寒そうに見えた。顔は伏せている。けれど、わずかに見えた目元は穏やかそうで、まぶたの形が少し下がっていた。


 大きな犬みたいだ、とニナは思った。

 捨てられた犬。

 雨に濡れて、どこへ行けばいいのか分からなくなっている犬。


「あの」


 声をかけてみる。

 返事はなかった。

 ニナは一歩近づいた。


「あの、濡れていますよ」


 それは見れば分かることだった。けれど他に何を言えばいいのか分からなかった。

 男は動かない。

 眠っているのか、気を失っているのか。ニナは包みを片腕に寄せ、空いた手で彼の肩へ触れた。外套越しでも分かるほど冷たい。


 これはよくない。

 濡れた布は体温を奪う。濡れた髪をそのままにしておくと、頭から冷える。体格は大きいが、だからといって寒くないわけではない。


「立てますか」


 男の肩が、わずかに揺れた。

 ゆっくりと顔が上がる。

 灰褐色にも琥珀にも見える目が、ニナを見た。焦点が合っているようで、合っていない。ひどく疲れた目だった。


 何か言おうとして、声にならなかったように見えた。

 ニナは少し考えた。

 人間だ。

 もちろん、人間である。


 腰には剣があった。外套の留め具には、雨に濡れて見えにくくなっているが、騎士団のものらしい徽章もついている。


 危ない人かもしれない。

 困っている人かもしれない。

 その二つを並べた時、ニナには後者の方が大きく見えた。

 でも、今この人を人間として扱うには、いろいろ聞かなくてはいけない。


 名前。家。怪我の有無。なぜこんなところにいるのか。誰か呼ぶべきなのか。

 聞かれるのが嫌なことも、きっとある。

 ニナは人と話すのが得意ではなかった。相手が答えにくそうなことを聞くのは、もっと苦手だった。


 けれど、犬なら。

 犬なら、名前が分からなくても拾って帰れる。


「うちに来ますか」


 男はニナを見つめたまま、何も言わなかった。


「温かいものはあります」


 それから、ニナは思い出したように付け足した。


「あと、タオルもあります」


 男は長い沈黙のあと、ほんの少しだけうなずいた。

 とても賢い犬だと思った。


     *


 ルーファス・クロフォードが次に目を開けた時、最初に見えたのは、知らない天井だった。


 木の梁。少し古い漆喰。天井の隅には、乾いた草を束ねたものが吊るしてある。香草だろうか。雨の匂いと、石鹸の匂いと、温かいスープの残り香が混じっていた。


 自分はどこにいる。

 身体を起こそうとして、毛布が肩から滑り落ちた。

 ソファの上だった。


 小さな居間。暖炉には火が入っている。床には布の束や糸巻きが置かれていて、椅子の背にも何かの布が掛かっている。散らかっている。だが、不潔ではない。不思議な部屋だった。


 物は多い。多すぎる。だが、針や鋏はきちんとケースにしまわれ、布は種類ごとに分けられているように見える。床は見えない部分が多いが、作業机の上だけは異様なほど整っていた。


 ルーファスは額を押さえた。

 記憶が、雨音と一緒に戻ってくる。

 リディアの墓。

 王都の外れにある、モートン家の小さな墓地。白い石。雨に濡れる前の曇った空。


 一年。

 もう一年だ、と誰かが言った。

 そろそろ前を向いてもいい頃だ、と別の誰かが言った。


 悪意ではない。分かっている。彼らは善意で言ったのだ。ルーファスのことを気にかけて、いつまでも死者に縛られていてはいけないと、そう言いたかったのだろう。


 だが、その言葉を聞くたび、ルーファスは息の仕方を忘れそうになった。


 リディアは、幼い頃から隣にいた。

 婚約者と言われるより先に、泣き虫の妹分だった。身体が弱く、外へ出られない日が多いくせに、遠征の話だけは聞きたがった。


 窓辺の椅子に膝掛けをかけて、本を伏せて。


「それで? 魔獣は本当に角が三本あったの?」


 そんなふうに目を輝かせる子だった。

 最後の遠征に出る前も、彼女は笑っていた。

 いってらっしゃい、と。

 帰ってきた時には、もういなかった。

 知らせは、間に合わなかった。

 死に目に会えなかった。

 その事実だけが、いつまで経っても胸の奥に残っている。


 墓参りの帰り道、雨が降り出した。

 王都へ戻る馬車には乗った。宿の近くで降りたはずだった。けれど、人の声も、馬車の音も、雨の匂いも、どこか遠かった。


 気づけば、職人街の裏道まで歩いていた。

 そこまでは覚えている。

 そのあと。

 小さな声がした。

 濡れていますよ、と。

 温かいものはあります、と。

 タオルもあります、と。


 ルーファスはゆっくりと周囲を見回した。

 外套は暖炉の近くに干されている。騎士団の上着も、濡れたままではなく、丁寧に広げて掛けられていた。剣は部屋の隅に置かれている。刃の部分には布が巻かれていた。


 勝手に触られたことに一瞬だけ警戒が走ったが、すぐに消えた。

 危ないので包みました、と言われた気がする。

 そこまで思い出して、ルーファスは顔を覆った。


「なんてことをしてしまったんだ」


 見知らぬ女性の家に上がり込み、ソファを借り、毛布までかけられて眠っていた。

 騎士としても、大人の男としても、あまりにひどい。

 テーブルの上に、皿が置かれていた。

 湯気はもう消えているが、スープらしい。隣に小さな紙片がある。そこには、丁寧な字でこう書かれていた。


『犬さんへ。起きたら食べてください。熱くないです』


 ルーファスは紙片を見つめた。

 一度、目を閉じる。

 もう一度見る。

 文字は変わらなかった。


「……犬」


 俺は犬ではない。

 そう思ったところで、奥の扉が開いた。


 小柄な女性が、両手に籠を抱えて入ってくる。黒に近い茶色の髪を後ろで緩くまとめ、地味な灰色のワンピースに白い前掛けをつけている。顔立ちは柔らかいが、表情の変化は少ない。年は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。


 彼女はルーファスが起きているのを見ると、足を止めた。


「起きましたか」

「……ああ」

「よかったです」


 彼女は籠を机の上に置くと、ルーファスの方へ近づいた。

 その動きに警戒はない。あまりにも自然で、逆にルーファスの方が身構えた。


「気分は悪くありませんか。頭は痛いですか。寒気は」

「いや、大丈夫だ」

「大丈夫な人は、雨の中で丸くなっていないことが多いです」


 ルーファスは言葉に詰まった。

 正論だった。


「迷惑をかけた。俺は、ルーファス・クロフォード。王都騎士団に所属している。昨夜は……」


 そこまで言って、ルーファスは言葉を探した。

 昨夜は何だ。

 道端で動けなくなっていた。拾われた。犬扱いされた。

 どれも事実だったが、口にするには情けなさが勝った。

 女性は静かにうなずいた。


「ルーファスさん」

「ああ」

「私はニナ・ベルです。銀糸工房でお針子をしています」

「ニナ嬢」

「ニナで大丈夫です。犬さん」

「人間として扱ってくれ」


 反射的に言っていた。

 ニナは少しだけ首を傾げた。


「そうでした。ルーファスさん」

「分かっているなら、なぜ犬と呼ぶ」

「昨日は名前が分からなかったので」

「名前が分からない人間を、犬とは呼ばない」

「でも、雨に濡れて、軒下で動けなくなっていました」


 ルーファスは言葉に詰まる。


「大きくて、栗色で、目が優しそうでした」

「それだけで犬になるのか」

「捨て犬に似ていました」


 ルーファスは返す言葉を失った。

 否定したい。だが、昨夜の自分を思い出すと、強くは否定できなかった。

 ニナはテーブルの皿を指した。


「スープ、温め直します。食べられそうですか」

「いや、そこまで世話になるわけには」

「食べないと、体が温まりません」

「迷惑をかけた上に、食事まで」

「作りすぎました」


 ニナはそう言って皿を持ち上げた。

 台所へ向かう背中は小さい。だが、動きに迷いはなかった。ルーファスは立ち上がろうとして、足元に置かれていた布の山に気づき、踏みかけて止まった。


 どこを歩けばいい。

 床が見えない。


「ニナ」

「はい」

「この床は、どこからが床だ」


 台所から、少しの沈黙が返ってきた。


「全部、床です」

「見えていないが」

「布が乗っているだけです」

「それは散らかってるというのでは」

「そうなのですか」


 ルーファスは部屋を見回した。

 掃除は苦手なのだろう。明らかに苦手だ。布、糸、型紙、作業道具、未完成の衣服。居間の半分が工房のようになっている。だが、食器は洗われている。暖炉の灰も片付けられている。腐ったものや汚れたものはない。


 散らかっているが、荒れてはいない。

 不思議な家だった。


 ニナが温め直したスープを持って戻ってきた。野菜と鶏肉の入った、とろみのあるスープだ。湯気が立ち、香草の香りがする。


「どうぞ」

「いただく」


 ルーファスは皿を受け取った。

 一口飲んで、思わず手を止める。

 うまい。


 空腹だったことに、その時ようやく気づいた。昨日の朝から、ほとんど何も食べていない。墓前に立っている間も、帰りの馬車でも、胃の中に石が詰まっているようだった。


 だが、温かいスープは喉を通った。

 ゆっくりと、身体の奥に熱が戻ってくる。


「うまい」


 小さく言うと、ニナはほんの少し目を瞬いた。


「よかったです。犬さんはミルクだけでは足りないと思ったので」

「騎士団でその呼び名が広まったら困る」

「ルーファスさんは、ミルクだけでは足りないと思ったので」

「それならいい」


 ニナはこくりとうなずいた。

 真面目な顔だった。

 からかわれているわけではないらしい。それが余計に困った。

 食事を終えると、ルーファスは改めて頭を下げた。


「昨夜は助かった。礼を言う。濡れた服まで乾かしてもらって、本当に申し訳ない」

「いいえ」

「剣にも布が巻かれていたが」

「刃物は危ないので」

「……そうだな」

「ちゃんと拭いておきました」


 ルーファスは顔を上げた。


「剣を?」

「水気がありました。錆びます」

「触ったのか」

「布越しに」


 ニナは少し心配そうに眉を寄せた。


「駄目でしたか」

「いや」


 駄目ではない。普通なら駄目だと言うべきなのかもしれない。だが、剣は確かに乾いた布で拭われ、丁寧に置かれていた。鞘の金具にも傷はない。

 この女性は、扱い方を知らないものにも丁重だ。


「助かった」


 そう言うと、ニナは安心したようにうなずいた。


「服も乾いています。ただ、上着の肩のところが少し傷んでいました」

「肩?」

「右肩です。縫い目に負担がかかっています。怪我がありますか」


 ルーファスは思わず右肩へ手をやった。

 二年前の遠征で受けた傷だ。今はもう痛むことは少ないが、長時間剣を振ると重くなることがある。


「なぜ分かった」

「布の引き方が、左右で違いました。右だけ、少し庇った着方をしています」


 ニナは当たり前のように言った。


「あと、袖口が少しほつれていたので直しました」

「直した?」

「はい。勝手に触ってすみません。でも、あのままだと広がります」


 ルーファスは暖炉の近くに干された上着へ目を向けた。近づいて手に取る。袖口のほつれは、確かに直されていた。補修の跡がほとんど分からない。元の縫い目に紛れている。

 見事な腕だった。


「これを、君が?」

「はい」

「銀糸工房と言ったな」

「はい」

「そこで働いているのか」

「はい。お針子です」


 ニナは少しだけ誇らしそうに言った。

 初めて、彼女の表情が変わった気がした。

 針仕事が好きなのだろう。


 そのことは、部屋を見れば分かる。散らかっているのに、布だけは傷まない置き方がされている。糸の色は細かく分けられ、針は太さごとに入っていた。生活は危なっかしいのに、仕事道具だけは大事にされている。


「上着の礼もする」

「いりません」

「そういうわけにはいかない」

「拾った犬さんからお金を取るのは、少し変です」

「君の中で俺はどこまで犬なんだ」


 ルーファスはため息をついた。

 ニナは不思議そうな顔をしている。

 これは、長引く。


 そう思ったが、長引かせるわけにはいかなかった。どれほど助けられたとしても、見知らぬ女性の家にいつまでもいるわけにはいかない。


「迷惑をかけた。服が乾いたなら、俺は出る」


 ニナは窓の外を見た。

 雨はまだ降っている。昨日よりは弱いが、空は暗い。


「まだ雨です」

「宿を取っている。騎士団の宿舎には、今は戻りたくなくてな」

「場所は分かりますか」

「……分かる」


 たぶん。

 昨日どこから歩いたのか、記憶が曖昧だった。

 ニナはルーファスの顔をじっと見た。


「嘘が下手です」

「嘘ではない」

「では、不確かです」


 妙な言い方だったが、当たっていた。

 ルーファスは黙った。


「それに、少し熱があります」

「ない」

「あります」


 ニナは近づいて、ルーファスの額に手を伸ばそうとした。

 ルーファスは反射的に身を引く。

 ニナの手が宙で止まった。


「あ」


 彼女は自分のしたことに気づいたように、手を下ろした。


「すみません。犬さんの時の癖で」

「人間相手でも、いきなり額へ触れるのは控えた方がいい」

「はい」


 素直だった。

 素直すぎて、ルーファスは少し気まずくなった。

「熱はない。大丈夫だ」

「大丈夫な人は、そう言います」

「大丈夫ではない人も言うがな」

「はい」


 ニナは台所の方へ行き、棚から小さな瓶を取り出した。


「薬湯を作ります」

「必要ない」

「犬さんではないので、薄めにします」

「人間用を出せ」

「はい」


 会話が噛み合っているようで、噛み合っていない。

 ルーファスはまた額を押さえた。

 それでも、薬湯は苦かったが効いた。


     *


 昼近くになると、雨は弱くなった。

 ルーファスは改めて帰ろうとしたが、ニナはその前に工房へ届けるものがあると言った。


「これを届けてから、道を案内します」

「君が案内する必要はない」

「でも、昨日の犬さんは道が分からなそうでした」

「昨日の俺を基準にするな」

「今日は違いますか」


 ルーファスは即答できなかった。

 ニナは布の包みを持ち上げようとして、少しふらついた。

 ルーファスは反射的に手を伸ばす。


「重いだろう」

「いつもこのくらいです」

「いつも?」

「はい」


 軽く言った。

 ルーファスは布の包みを受け取った。見た目より重い。中身はおそらく、仕立て途中のドレスか何かだ。刺繍が入っているなら、かなり神経を使う仕事のはずだ。


「これを、一人で運んでいるのか」

「はい。近いので」

「近くても重いものは、重いだろう」


 ニナは首を傾げた。

 分かっていない顔だった。

 ルーファスはもう一つの包みも持ち上げた。


「俺が持つ」

「病み上がりです」

「君よりは力がある」

「でも、お客さんに荷物を持たせるのは」

「俺は客ではない」

「犬さん?」

「騎士だ」


 ニナは納得したようにうなずいた。


「騎士さんは荷物を持つのですか」

「必要なら持つ」

「では、お願いします」


 素直に頼まれると、それはそれで調子が狂った。

 二人で家を出る。

 職人街の通りは、雨上がりの匂いがした。石畳に残った水たまりが、曇った空を鈍く映している。ニナは傘を差し、ルーファスは包みを持ってその横を歩いた。


 彼女の歩幅は小さい。だが、妙に早い。慣れているのだろう。荷物を抱えて、この道を何度も往復しているのだ。


 銀糸工房は、職人街の中でもやや大きな仕立て工房だった。

 看板には銀の糸を巻いた針の絵が描かれている。表の窓には、貴族向けらしい繊細な刺繍のドレスや、上質な手袋が飾られていた。


 ニナは裏口へ回った。

 扉を叩く前に、中から明るい声が聞こえた。


「あら、ニナ。早かったじゃない」


 扉を開けたのは、華やかな女性だった。年はニナより少し上。金髪をきちんとまとめ、胸元には銀糸のブローチをつけている。

 おそらく、昨日ニナに仕事を預けた相手だろう。


「おはようございます、ベリンダさん」

「おはよう。早かったわね。助かった、本当に」


 ベリンダは包みを受け取ると、ほっとしたように息をついた。


「これ、あなたじゃなかったら間に合わなかったわ。店長が朝から確認したいって言っていて」

「はい」

「手、痛くしてない?」

「大丈夫です」

「そう。ならよかった」


 気遣う声に、少なくとも嘘はなさそうだった。

 だが、ベリンダはそのまま扉の奥へ向かって声を張った。


「店長、例の刺繍、仕上がりました。確認お願いします」


 ニナは何も言わなかった。

 当然のように、ただ鞄の紐を直している。

 ルーファスは、その横顔を見た。

 感謝はしている。

 おそらく、本当に助かってもいる。

 それでも、今の一言の中にニナの名前はなかった。


「あら。ところで、そちらの方は?」

「犬さんです」

「犬?」

「間違いました。ルーファスさんです」


 ベリンダは数秒だけ固まり、それから笑った。


「ニナったら、また変なことを言って。すみません、この子、少し言い方が独特で」

「……構わない」


 ルーファスは短く答えた。

 ベリンダの視線は彼の体格、姿勢、腰の剣へ素早く動いた。彼が騎士だと気づいたらしい。笑みが深くなる。


「荷物を持ってくださったんですか? ありがとうございます。ニナは力がないのに、すぐ大丈夫って言うんです」

「大丈夫そうではなかったので」

「あら、優しい方」


 ベリンダは微笑んだ。

 その笑みも、礼の言葉も、嘘だけでできているようには見えなかった。

 だからこそ、ルーファスは余計に引っかかった。

 ニナが帰ろうとすると、ベリンダは思い出したように声を上げた。


「あ、そうだ。ニナ、今夜これもお願いできる?」


 彼女は扉の内側から、小さな箱を持ってきた。


「急ぎの手袋なの。糸が少し特殊で、私だと時間がかかってしまって。あなたならできるでしょう?」


 そこでベリンダは、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんね、また頼って。今日、午後から採寸が二件入っていて」

「はい。大丈夫です」

「無理はしないでね」

「はい」


 ニナは箱を受け取った。

 ルーファスは箱を見た。

 小さいが、細工物だ。手袋の刺繍か、飾りの付け直しか。明日の昼までというが、昨日も夜通し作業をしていたのではないのか。


 ニナは当然のように箱を鞄へ入れた。

 当然ではない。

 ルーファスの胸の奥に、静かな苛立ちが沈んだ。

 工房を離れてから、ルーファスは口を開いた。


「いつもああなのか」

「はい。ベリンダさんは忙しいので」

「君も忙しいだろう」

「私は手を動かすだけなので」

「手を動かすのが仕事だ。なら君も仕事をしている」

 

 ニナは不思議そうにルーファスを見上げた。


「はい。しています」

「そういう意味ではない」


 ルーファスは言葉を探した。

 責めたいわけではない。彼女を傷つけたいわけでもない。だが、見過ごすにはあまりに歪だった。


「さっきの刺繍をしたのは、君だな」

「そうです」


「ベリンダの担当のドレスだと言っていたが」

「はい。ベリンダさんの分です」

「店長は、君が刺したことを知っているのか」


 ニナは少し考えた。


「たぶん、知っていると思います」

「なぜそう思う」

「ベリンダさんが届けてくれますから」

「……そうか」


 分かっているのかもしれない。

 分かっていないのかもしれない。

 だが少なくとも、さっき店長へ向けられた声の中に、ニナの名前はなかった。


「君が刺したものは、君の仕事だ」

「でも、担当はベリンダさんです」

「担当者の仕事として出されるなら、君の働きは見えにくくなる」

「見えにくく」

「そうだ」


 ニナはその言葉を、初めて聞いたもののように繰り返した。


「見えなくても、仕上がっていればいいのでは」

「よくない」

「そうなのですか」

「そうだ」


 ニナは少し考えたあと、こくりとうなずいた。


「覚えておきます」


 分かっていない。

 ルーファスはそう思った。

 この人は、自分がどう扱われているのかを分かっていない。

 悪意に鈍いのか、自己評価が低いのか。

 あるいは、感謝されることと、利用されることが似た顔をしているせいかもしれない。


 昨夜、雨の中で動けなくなっていた自分を拾った人が、今度は別の場所で雨に濡れている。

 そんな気がした。


     *


 ニナの家へ戻ると、ルーファスはまず部屋を見回した。


「ニナ」

「はい」

「片付けてもいいか」


 ニナは鞄を置きながら、目を瞬いた。


「片付け?」

「ああ」

「この家をですか」

「他に何を片付ける」


 ニナは居間を見た。

 布の束。糸。型紙。作業途中の衣服。椅子に掛けられたエプロン。床に置かれた籠。壁際に積まれた空き箱。


「散らかっていますか」

「かなり」

「そうなのですか」

「自覚がないのか」

「床はあります」

「床は見えるべきだ」

「そうなのですか」


 ルーファスは軽く息を吐いた。

 騎士団の宿舎でも、片付けられない新人はいた。だが、ここまで床を布に占領されて平然としている者は少ない。


「針や鋏の場所は動かさない。布も種類ごとに分ける。捨てるかどうか分からないものは捨てない。ただ、歩けるようにはする」


 ニナは少し驚いた顔をした。


「できますか」

「できる」

「すごいですね」

「すごくはない」

「私はできません」

「見れば分かる」


 ニナは素直にうなずいた。

 怒らないらしい。

 ルーファスは袖をまくり、部屋の片付けに取りかかった。


 まず床の布を用途別に分ける。仕立て途中。端切れ。直し物。納品前。私物らしい衣類。どれも捨てていいものではなさそうだった。ニナに確認しながら籠を分け、棚の空いている部分へ入れる。


 次に、作業机の周辺だけはそのままにした。ここはすでに彼女の秩序がある。糸の色順、針の太さ、鋏の向き。ルーファスには乱雑に見えるが、彼女にとっては完璧に配置されているのだろう。

 問題は、それ以外だった。


「この箱は何だ」

「端切れです」

「この箱もか」

「それは、いつか使う端切れです」

「違いは」

「こちらはすぐ使うかもしれなくて、そちらはいつか使うかもしれません」

「どちらも使う可能性があるんだな」

「はい」

「分かった。では、すぐ使うものは机の近く。いつか使うものは棚だ」


 ニナは感心したように見ていた。


「ルーファスさんは、物に住所を決めるのが上手です」

「住所?」

「はい。物の帰る場所です」

「……騎士団では、決めておかないと必要な時に困る」

「騎士さんは大変ですね」

「お針子も大変そうだが」

「そうでしょうか」


 そうだ。

 ルーファスは言いかけて、やめた。

 片付けながら、ニナは台所へ行って昼食の支度を始めた。掃除は壊滅的なのに、料理の手際はよかった。野菜を刻む音は一定で、鍋の火加減を見る目も確かだ。縫い物と同じく、手を動かすことは得意なのだろう。


 昼食は、豆と野菜の煮込み、焼いたパン、卵を使った簡単な料理だった。

 質素だが、温かく、うまい。

 ルーファスは食べながら、向かいに座るニナの手を見た。


 指先に細かな針跡がある。親指の付け根が少し赤い。昨日から作業を続けているなら、手も疲れているはずだ。


「手は痛まないのか」


 ニナは自分の手を見た。


「少しです」

「痛むんだな」

「でも、動きます」

「動くことと、痛くないことは違う」


 ニナはまた首を傾げた。


「ルーファスさんは、変なところを気にします」

「君が気にしなさすぎる」

「そうでしょうか」

「そうだ」


 ニナは黙って煮込みを食べた。

 その表情は変わらない。けれど、言われたことを考えているようだった。


 食事のあと、ニナは作業机に向かおうとした。

 ルーファスはその前に、箱を取った。


「これは明日の昼までと言っていたな」

「はい」

「昨日の仕事は終わったのか」

「朝、届けました」

「いつ寝た」


 ニナは少し考えた。


「少し」

「時間を聞いている」

「夜明け前に、少し」

「それは睡眠とは言わない」

「でも、寝ました」

「仮眠だ」


 ルーファスは箱を開けた。

 中には白い手袋が入っていた。手首の部分に銀糸の刺繍があり、その一部がほつれている。糸は細く、光の角度で色が変わる。確かに難しい仕事だろう。


「これを明日の昼までに?」

「はい」

「今日は休め」

「でも、預かりました」

「断れ」

「ベリンダさんが困ります」

「君が倒れたら、誰が困る」


 ニナは答えなかった。

 その沈黙が、ルーファスには答えに見えた。

 自分が倒れた時に誰が困るか、考えたことがないのだ。


 胸の奥で、苛立ちとは違うものが動いた。

 心配、というには硬い。怒り、というには静か。もっと単純に、見ていられなかった。


「ニナ」

「はい」

「君は、自分のことに鈍い」


 ニナはぱちりと瞬いた。


「そうでしょうか」

「そうだ」

「よく言われます」

「なら直せ」

「どうやってでしょう」


 本気で聞いている。

 ルーファスは言葉に詰まった。

 どうやって。

 それは、彼にも分からない。


 自分だって、人に言えるほど自分を大事にできているわけではない。雨の中で動けなくなるまで放っておいた人間が、偉そうに何を言っているのか。

 それでも、ニナの手を見ていると、言わずにはいられなかった。


「少なくとも、今日は寝ろ」

「でも」

「騎士命令だ」


 ニナは困ったように眉を下げた。


「騎士さんは、お針子に命令できますか」

「できない。が、今のは頼みだ」


 ニナは少しだけ笑った。

 本当に少し。口元がわずかに緩んだだけだった。


「頼みなら、考えます」

「考えるだけか」

「はい」


 手強い。

 ルーファスはそう思った。


     *


 午後になると、部屋は少しだけ家らしくなった。

 床が見える。


 それだけで、ルーファスにはかなりの進歩に思えた。ニナは何度も床を見て、「広いです」と言った。もともと広かったのだが、彼女にとっては新発見らしい。


「ルーファスさんは、すごいです」

「床を出しただけだ」

「床が出ました」

「そうだな」

「歩きやすいです」

「今まで歩きにくかった自覚はあるのか」

「たまに足に布が絡まりました」

「危ないだろう」

「転ばなかったので」

「転んでからでは遅い」


 ニナは素直にうなずく。

 だが、おそらくまた同じことをする。

 ルーファスは棚に布をしまいながら、そう判断した。


 彼女には悪意がない。怠けているわけでもない。ただ、生活の中の危険に対する感覚が鈍い。刃物は丁寧に扱うのに、自分の足元には無頓着。人の熱には気づくのに、自分の疲れには気づかない。


 奇妙な人だ。

 そして、危なっかしい。

 夕方近く、雨がまた降り出した。

 窓を叩く音が、部屋の中に広がる。


 ニナは作業机に座り、白い手袋を前にしていた。結局、休むと言いながら、手を動かしている。ルーファスが止めると、「見るだけです」と言う。見るだけで針を持つ人間を、彼は初めて見た。


「ニナ」

「はい」

「それは見るだけではない」

「少しだけです」

「少しの積み重ねで、夜が明ける」


 ニナの手が止まった。


「よく分かりましたね」

「経験があるのか」

「はい」


 素直に認めるな。

 ルーファスは額を押さえた。

 その時、ニナの視線が彼の右肩へ向いた。


「痛みますか」

「何が」

「肩です。少し庇っています」

「……気のせいだ」

「雨の日は、古い傷がうずいたりします」

「君は本当に、そういうところはよく見ているな」


 ニナは不思議そうにした。


「見れば分かります」

「自分の疲れは分からないのに?」

「自分は見えません」


 ルーファスは思わず黙った。

 その答えは、妙に胸に残った。

 自分は見えない。

 そうかもしれない。


 ルーファスも、自分がどんな顔で墓前に立っていたのか知らない。どんな顔で雨の中に座り込んでいたのかも。昨夜の自分を見たのは、ニナだ。


 捨て犬のようだったと、彼女は言った。

 腹は立たなかった。

 むしろ、それほどひどかったのだろうと思った。


「ルーファスさん」


 ニナが静かに声をかけた。


「はい」

「どうして、昨日は雨の中にいたのですか」


 初めて、彼女が踏み込んだ。

 だが、その声に好奇心はなかった。無理に聞き出そうとする感じでもない。ただ、濡れた服の理由を尋ねるような、静かな問いだった。


 ルーファスは窓の外を見た。

 雨粒が硝子を伝って落ちていく。


「墓参りの帰りだった」


 それだけ言うと、ニナは針を置いた。


「そうですか」

「婚約者がいた」


 言葉は、自分でも驚くほど淡々と出た。


「幼馴染だった。妹のような子で、身体が弱くて……一年前に亡くなった」


 ニナは何も言わない。

 その沈黙が、ルーファスにはありがたかった。


「俺はその時、遠征に出ていた。知らせを受けた時には、もう間に合わなかった」


 死に目に会えなかった。

 その言葉を口にする前に、喉が詰まりかけた。

 だが、ニナは急かさない。

 ルーファスは息を整えた。


「昨日が命日だった」

「はい」

「墓へ行って、戻ってきた。戻ってきたはずだったんだが……雨が降って、動けなくなった」


 情けない話だ。

 そう言おうとしたが、ニナが先に口を開いた。


「雨の日は、濡れます」


 あまりに当たり前の言葉だった。

 けれどニナは、その当たり前を軽く扱わなかった。


「濡れたら、寒くなります。寒くなると、動きにくくなります」

「……そういう話では」

「でも、そういうこともあります」


 ニナは静かに続けた。


「悲しい時に、濡れて、寒くて、動けなかったのなら、たぶん、全部一緒に重かったのだと思います」


 ルーファスは言葉を失った。

 慰められたわけではない。

 前を向けと言われたわけでもない。

 忘れろとも、忘れなくていいとも、彼女は言わなかった。


 ただ、雨に濡れた事実と、寒かった事実と、悲しかった事実を、同じ場所に置いた。

 それだけだった。

 なのに、胸の奥にあった硬いものが、少しだけ形を変えた気がした。


「……君は変わっているな」

「よく言われます」

「悪い意味ではない」

「そうですか」

「たぶん」


 ニナは小さくうなずいた。

 それから、少し考えて言った。


「その方のお名前を、聞いてもいいですか」


 ルーファスは一瞬だけ目を伏せた。


「リディア」

「リディアさん」

「ああ。リディア・モートン」

「きれいな名前です」

「……そうだな」


 リディアは、自分の名前があまり好きではないと言っていた。

 少し大人びすぎている、と。もっと元気そうな名前がよかった、と。そんなことを言いながら、窓辺で本を読んでいた。ルーファスが「リディアらしい名だ」と言うと、彼女は少しだけむくれて、それから笑った。


 記憶の中のリディアは、いつも笑っている。

 最後にどんな顔をしていたのか、ルーファスは知らない。


「ルーファスさん」

「何だ」

「今日は、眠った方がいいです」


 ニナはそう言った。


「雨の日に、墓参りの話をして、寒かった日のことを思い出したなら、疲れると思います」

「君も寝ろ」

「私は手袋が」

「寝ろ」

「……はい」


 今度は、少しだけ素直だった。


     *


 夜になっても、雨はやまなかった。

 ニナは夕食のあと、本当に少しだけ眠った。作業机に突っ伏しそうになったところをルーファスが止め、寝台へ行かせた。彼女は「手袋を少しだけ」と言い張ったが、ルーファスが箱を取り上げると、困った顔をしただけで怒りはしなかった。


 ルーファスは居間に残った。

 暖炉の火を見ながら、白い手袋の箱を眺める。

 手袋は美しかった。だが、ほつれを直すにはかなり細かい作業が必要だ。これを明日の昼までに仕上げろというのは、確かに無茶だ。


 それでも、ニナならやってしまうのだろう。

 だから、周囲は頼む。

 頼むという形で、押しつける。

 彼女は気づかない。

 気づかないから、受け取る。

 ルーファスは椅子に背を預けた。

 自分は明日、ここを出るべきだ。


 常識的に考えれば、それが正しい。見知らぬ女性の家に長く居座るべきではない。宿に戻り、改めて礼を用意し、必要なら工房へ正式に話を通す。そうすればいい。


 だが、ニナは礼を受け取らないだろう。

 そして明日からまた、何事もなかったように布の山の中で暮らし、工房と家を往復し、ベリンダに仕事を渡し、自分の疲れにも気づかず針を持つ。


 放っておけるのか。

 ルーファスは目を閉じた。

 守れなかった人がいる。

 間に合わなかった人がいる。

 だからといって、目の前の危なっかしい人まで見ないふりをする理由にはならない。


 リディアの代わりではない。

 ニナはリディアではない。

 そんなことは分かっている。

 だが、昨夜、雨の中にいた自分をニナが拾ったように。

 今、自分が気づいてしまったなら。

 何もしないで出ていくのは、違う気がした。

 

 奥の部屋から、小さな物音がした。

 ルーファスが立ち上がると、ニナが寝間着の上にショールを羽織って出てきた。目元が少し眠そうだ。


「起きたのか」

「手袋を」

「寝ろと言った」

「少しだけ」

「少しは禁止だ」


 ニナはしょんぼりした顔をした。

 その顔が本当に叱られた犬のようで、ルーファスは一瞬だけ言葉を失った。

 犬扱いされているのは自分のはずなのに。


「明日の昼までなのです」

「断れ」

「え」

「明日、工房へ行って、納期を延ばすよう言う」

「でも、ベリンダさんが」

「ベリンダは君の手を借りている。なら、君が倒れない範囲で頼むべきだ」

「倒れません」

「倒れる前の人間は、そう言う」


 ニナは黙った。

 少しだけ眉を下げる。


「迷惑をかけます」

「誰に」

「工房に」

「君に迷惑がかかっている」


 ニナは返事をしなかった。

 ルーファスは、言いすぎたかと思った。だが、取り消す気にはなれなかった。


「ニナ」

「はい」

「俺の休暇は十二日ある」

「はい」

「昨日が一日目だった。今日は二日目だ」

「はい」

「あと十日ある」


 ニナは瞬いた。


「長いお休みです」

「ああ」

「いいですね」

「そうでもない」


 ルーファスは苦笑しかけて、やめた。

 何のための休暇だったのか。墓参りをして、リディアのことを考えて、誰とも会わずに過ごすつもりだった。周囲の言葉から逃げるための休暇でもあった。


 それが今、布だらけの小さな家で、見知らぬお針子に寝ろと言っている。

 奇妙な話だ。


「その十日間」


 ルーファスは言った。


「ここにいてもいいか」


 ニナは目を丸くした。


「ここに、ですか」

「ああ。もちろん、迷惑なら出ていく。宿に戻るべきなのは分かっている。ただ……」


 ただ、何だ。

 君が危なっかしいから。

 恩を返したいから。

 君の部屋には床が必要だから。

 君は、自分のことが見えていないから。

 どれも正しいが、どれも言い方を間違えると失礼になる気がした。


「昨夜、君に拾われた」


 ルーファスは慎重に言葉を選んだ。


「その礼をしたい」

「スープとタオルの礼ですか」

「それだけではない」

「ミルクもですか」

「……それも含めてだ」


 ニナは真面目に考え込んだ。


「十日もいるほどの礼ではないと思います」

「君の家は片付けが必要だ」

「床は出ました」

「まだ一部だ」

「一部」

「それに、工房の仕事も少し見直した方がいい」

「見直す」

「君が何をどれだけ引き受けているのか、整理する。必要なら、工房にも話す」


 ニナは困惑した顔をした。


「ルーファスさんは、どうしてそこまでしてくれるのですか」


 ルーファスは答えに詰まった。

 どうして。

 それは、彼自身にも分からなかった。

 ただ、雨の中でニナが自分を放っておかなかったように、今度は自分が彼女を放っておけない。

 それだけだ。


「騎士だから」


 結局、そう言った。

 ニナはぱちりと瞬いた。


「騎士さんは、床を片付けたり、お針子の仕事を整理したりするのですか」

「普通はしない」

「では」

「だが、俺はする」


 ニナは少しだけ考えたあと、こくりとうなずいた。


「分かりました」

「いいのか」

「はい。ルーファスさんがいると、床が見えます」

「判断基準はそこなのか」

「あと、ご飯をちゃんと食べてくれます」

「君も食べろ」

「はい」


 ニナはまた、ほんの少し笑った。


「では、十日間よろしくお願いします」

「ああ」

「奥の物置を空ければ、寝る場所くらいは作れると思います」

「君の部屋とは別だな」

「はい」

「なら、扉に鍵をかけろ」

「ルーファスさんがいるのにですか」

「俺がいるからだ」


 ニナは不思議そうに目を瞬いた。


「ルーファスさんは、自分で自分を警戒するのですか」

「君が警戒しなさすぎるんだ」

「そうでしょうか」

「そうだ」


 ニナは少し考え、それから素直にうなずいた。


「分かりました。鍵をかけます」

「それでいい」

「犬さんとしてですか」

「騎士としてだ」

「騎士の犬さん」

「混ぜるな」


 ニナは真面目な顔で首を傾げた。


「番犬さん?」


 ルーファスはしばらく黙った。

 番犬。

 悪くない気がしてしまった自分に、少しだけ呆れる。


「……その呼び方なら、まだましだ」

「では、番犬さん」

「ルーファスでいい」

「ルーファスさん」

「ああ」

「時々、犬さんでもいいですか」

「よくない」

「間違えたらすみません」

「今から間違える前提で話すな」


 ニナはこくりとうなずいた。

 分かっているのか、いないのか。

 おそらく半分くらいしか分かっていない。


 ルーファスは息を吐き、暖炉の火へ目を向けた。雨音はまだ続いている。昨日と同じ雨の音だ。けれど、昨夜とは違い、ここには火があり、乾いた毛布があり、床の見える部屋があった。

 ニナは手袋の箱へちらりと視線を向けた。


「駄目だ」

「まだ何も言っていません」

「顔に出ている」

「ルーファスさんは、人の顔を見るのが上手ですね」

「君が分かりやすいだけだ」

「そうでしょうか」

「そうだ」


 ルーファスは手袋の箱を棚の上へ置いた。

 ニナの手が届かない高さに。

 ニナは少しだけ背伸びをしたが、届かなかった。


「高いです」

「寝ろ」

「はい」


 今度は素直に奥の部屋へ戻っていく。

 その背中を見送りながら、ルーファスは窓の外の雨を見た。

 拾われたのは、自分だった。

 それは間違いない。


 雨に濡れて、動けなくなって、誰かの手を借りなければ立てなかった。ニナはそんな自分を見つけ、名前も聞かずに家へ入れ、温かいものを出してくれた。

 だが、この家にもまた、放っておけないものが多すぎる。


 床を埋める布。

 夜更けまで終わらない仕事。

 自分の疲れに気づかない手。

 見えにくくなる働きを、不思議そうに繰り返す声。


 リディアの墓前で、彼は何も言えなかった。

 一年経っても、前へ進めない。忘れたくもない。置いていきたくもない。

 それでも、雨の中から歩き出した先に、この家があった。


 床を布で埋め、自分の痛みに気づかず、誰かの仕事まで抱え込む、小さなお針子の家が。

 なら、休暇の残り十日くらい。

 ここで使ってもいいのかもしれない。

 雨の日に拾われた犬は、翌日から、その小さな家の番犬になることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ