犬を拾いました
犬を拾いました。
大きな犬です。
栗色の毛で、雨に濡れていました。
賢い子で、家に連れてくる時も、タオルで拭く時も、とても大人しかったです。寒そうだったので温かいミルクを出すと、ゆっくりですが飲みました。
ただ、少し変わった犬です。
玄関をくぐる時、頭をぶつけないように屈みました。
毛布をかけると、小さな声で「すまない」と言いました。
犬にしては、礼儀正しいと思います。
けれど、雨の日に外で震えている生き物を見つけたら、拾って帰るのが正しいと思いました。
たぶん。
*
その日は、朝から雨だった。
細く、冷たく、いつまでもやまない雨だ。王都の石畳は黒く濡れ、馬車の車輪が通るたびに泥水が跳ねた。職人街の通りには、布屋、靴屋、金具屋、染物屋が並んでいる。軒先から落ちる雨粒が、桶の中で絶えず小さな輪を作っていた。
ニナ・ベルは、銀糸工房の裏口から外へ出た。
両腕には、布の包みが二つ。肩から下げた鞄にも、途中まで仕上げた刺繍の布が入っている。傘はある。けれど包みを濡らさないように胸へ抱えていると、傘はほとんど役に立たなかった。
「ニナ、明日の朝までにお願いね」
背後から、明るい声が飛んでくる。
振り返ると、銀糸工房の先輩職人であるベリンダが、裏口のところで手を振っていた。波打つ金髪をきれいに結い上げ、唇には淡い紅を差している。雨の日でも華やかな人だった。
「はい」
ニナは小さくうなずいた。
「助かるわ。あなた、細かい刺繍が本当に早いもの。私、店長に急ぎの直しを頼まれてしまって」
「はい。大丈夫です」
「無理はしないでね」
「はい」
ベリンダはにこりと笑って、裏口を閉めた。
無理はしないでね。
ニナはその言葉を、胸の中で一度だけ繰り返した。
無理とは、どこからのことを言うのだろう。
今夜中に刺繍を終えて、明日の朝一番に工房へ届ける。今日の分の裾上げもある。昼に預かった手袋のほつれ直しもあった。銀糸の模様は細かいので、たぶん夜更けまでかかる。
でも、できない量ではない。
なら、無理ではないのだと思う。
ニナはそう判断して、雨の中を歩き出した。
彼女は地方の小さな村から王都へ出てきたお針子だった。家族仲は悪くない。むしろ、両親は今でも手紙をくれる。身体に気をつけるように。ちゃんと食べるように。困ったことがあれば帰ってくるように。
ニナも毎回、返事を書く。
元気です。
仕事をたくさん任せてもらっています。
ご飯も食べています。
どれも嘘ではなかった。
ただ、自分が元気かどうかは、時々よく分からなくなる。
雨はしだいに強くなっていった。
職人街の大通りを抜け、裏道へ入る。ニナが借りている家は、通りから少し外れたところにある小さな一軒家だった。古いが、家賃は安い。隙間風は入るし、床板はたまに鳴る。でも台所があり、作業机を置ける部屋があり、眠る場所もある。
ニナには十分だった。
角を曲がった時だった。
道端に、何か大きなものがいた。
最初は、荷物かと思った。
商人が落としていった布袋か、大きな外套のかたまり。けれど近づくと、それは人の形をしていた。家と家の間の狭い軒下に、男がひとり、膝を抱えるようにうずくまっている。
雨が軒から斜めに吹き込んで、彼の髪も肩も濡らしていた。
栗色の髪が額に張りついている。大柄な体を折り畳むようにして座っているせいで、余計に寒そうに見えた。顔は伏せている。けれど、わずかに見えた目元は穏やかそうで、まぶたの形が少し下がっていた。
大きな犬みたいだ、とニナは思った。
捨てられた犬。
雨に濡れて、どこへ行けばいいのか分からなくなっている犬。
「あの」
声をかけてみる。
返事はなかった。
ニナは一歩近づいた。
「あの、濡れていますよ」
それは見れば分かることだった。けれど他に何を言えばいいのか分からなかった。
男は動かない。
眠っているのか、気を失っているのか。ニナは包みを片腕に寄せ、空いた手で彼の肩へ触れた。外套越しでも分かるほど冷たい。
これはよくない。
濡れた布は体温を奪う。濡れた髪をそのままにしておくと、頭から冷える。体格は大きいが、だからといって寒くないわけではない。
「立てますか」
男の肩が、わずかに揺れた。
ゆっくりと顔が上がる。
灰褐色にも琥珀にも見える目が、ニナを見た。焦点が合っているようで、合っていない。ひどく疲れた目だった。
何か言おうとして、声にならなかったように見えた。
ニナは少し考えた。
人間だ。
もちろん、人間である。
腰には剣があった。外套の留め具には、雨に濡れて見えにくくなっているが、騎士団のものらしい徽章もついている。
危ない人かもしれない。
困っている人かもしれない。
その二つを並べた時、ニナには後者の方が大きく見えた。
でも、今この人を人間として扱うには、いろいろ聞かなくてはいけない。
名前。家。怪我の有無。なぜこんなところにいるのか。誰か呼ぶべきなのか。
聞かれるのが嫌なことも、きっとある。
ニナは人と話すのが得意ではなかった。相手が答えにくそうなことを聞くのは、もっと苦手だった。
けれど、犬なら。
犬なら、名前が分からなくても拾って帰れる。
「うちに来ますか」
男はニナを見つめたまま、何も言わなかった。
「温かいものはあります」
それから、ニナは思い出したように付け足した。
「あと、タオルもあります」
男は長い沈黙のあと、ほんの少しだけうなずいた。
とても賢い犬だと思った。
*
ルーファス・クロフォードが次に目を開けた時、最初に見えたのは、知らない天井だった。
木の梁。少し古い漆喰。天井の隅には、乾いた草を束ねたものが吊るしてある。香草だろうか。雨の匂いと、石鹸の匂いと、温かいスープの残り香が混じっていた。
自分はどこにいる。
身体を起こそうとして、毛布が肩から滑り落ちた。
ソファの上だった。
小さな居間。暖炉には火が入っている。床には布の束や糸巻きが置かれていて、椅子の背にも何かの布が掛かっている。散らかっている。だが、不潔ではない。不思議な部屋だった。
物は多い。多すぎる。だが、針や鋏はきちんとケースにしまわれ、布は種類ごとに分けられているように見える。床は見えない部分が多いが、作業机の上だけは異様なほど整っていた。
ルーファスは額を押さえた。
記憶が、雨音と一緒に戻ってくる。
リディアの墓。
王都の外れにある、モートン家の小さな墓地。白い石。雨に濡れる前の曇った空。
一年。
もう一年だ、と誰かが言った。
そろそろ前を向いてもいい頃だ、と別の誰かが言った。
悪意ではない。分かっている。彼らは善意で言ったのだ。ルーファスのことを気にかけて、いつまでも死者に縛られていてはいけないと、そう言いたかったのだろう。
だが、その言葉を聞くたび、ルーファスは息の仕方を忘れそうになった。
リディアは、幼い頃から隣にいた。
婚約者と言われるより先に、泣き虫の妹分だった。身体が弱く、外へ出られない日が多いくせに、遠征の話だけは聞きたがった。
窓辺の椅子に膝掛けをかけて、本を伏せて。
「それで? 魔獣は本当に角が三本あったの?」
そんなふうに目を輝かせる子だった。
最後の遠征に出る前も、彼女は笑っていた。
いってらっしゃい、と。
帰ってきた時には、もういなかった。
知らせは、間に合わなかった。
死に目に会えなかった。
その事実だけが、いつまで経っても胸の奥に残っている。
墓参りの帰り道、雨が降り出した。
王都へ戻る馬車には乗った。宿の近くで降りたはずだった。けれど、人の声も、馬車の音も、雨の匂いも、どこか遠かった。
気づけば、職人街の裏道まで歩いていた。
そこまでは覚えている。
そのあと。
小さな声がした。
濡れていますよ、と。
温かいものはあります、と。
タオルもあります、と。
ルーファスはゆっくりと周囲を見回した。
外套は暖炉の近くに干されている。騎士団の上着も、濡れたままではなく、丁寧に広げて掛けられていた。剣は部屋の隅に置かれている。刃の部分には布が巻かれていた。
勝手に触られたことに一瞬だけ警戒が走ったが、すぐに消えた。
危ないので包みました、と言われた気がする。
そこまで思い出して、ルーファスは顔を覆った。
「なんてことをしてしまったんだ」
見知らぬ女性の家に上がり込み、ソファを借り、毛布までかけられて眠っていた。
騎士としても、大人の男としても、あまりにひどい。
テーブルの上に、皿が置かれていた。
湯気はもう消えているが、スープらしい。隣に小さな紙片がある。そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
『犬さんへ。起きたら食べてください。熱くないです』
ルーファスは紙片を見つめた。
一度、目を閉じる。
もう一度見る。
文字は変わらなかった。
「……犬」
俺は犬ではない。
そう思ったところで、奥の扉が開いた。
小柄な女性が、両手に籠を抱えて入ってくる。黒に近い茶色の髪を後ろで緩くまとめ、地味な灰色のワンピースに白い前掛けをつけている。顔立ちは柔らかいが、表情の変化は少ない。年は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
彼女はルーファスが起きているのを見ると、足を止めた。
「起きましたか」
「……ああ」
「よかったです」
彼女は籠を机の上に置くと、ルーファスの方へ近づいた。
その動きに警戒はない。あまりにも自然で、逆にルーファスの方が身構えた。
「気分は悪くありませんか。頭は痛いですか。寒気は」
「いや、大丈夫だ」
「大丈夫な人は、雨の中で丸くなっていないことが多いです」
ルーファスは言葉に詰まった。
正論だった。
「迷惑をかけた。俺は、ルーファス・クロフォード。王都騎士団に所属している。昨夜は……」
そこまで言って、ルーファスは言葉を探した。
昨夜は何だ。
道端で動けなくなっていた。拾われた。犬扱いされた。
どれも事実だったが、口にするには情けなさが勝った。
女性は静かにうなずいた。
「ルーファスさん」
「ああ」
「私はニナ・ベルです。銀糸工房でお針子をしています」
「ニナ嬢」
「ニナで大丈夫です。犬さん」
「人間として扱ってくれ」
反射的に言っていた。
ニナは少しだけ首を傾げた。
「そうでした。ルーファスさん」
「分かっているなら、なぜ犬と呼ぶ」
「昨日は名前が分からなかったので」
「名前が分からない人間を、犬とは呼ばない」
「でも、雨に濡れて、軒下で動けなくなっていました」
ルーファスは言葉に詰まる。
「大きくて、栗色で、目が優しそうでした」
「それだけで犬になるのか」
「捨て犬に似ていました」
ルーファスは返す言葉を失った。
否定したい。だが、昨夜の自分を思い出すと、強くは否定できなかった。
ニナはテーブルの皿を指した。
「スープ、温め直します。食べられそうですか」
「いや、そこまで世話になるわけには」
「食べないと、体が温まりません」
「迷惑をかけた上に、食事まで」
「作りすぎました」
ニナはそう言って皿を持ち上げた。
台所へ向かう背中は小さい。だが、動きに迷いはなかった。ルーファスは立ち上がろうとして、足元に置かれていた布の山に気づき、踏みかけて止まった。
どこを歩けばいい。
床が見えない。
「ニナ」
「はい」
「この床は、どこからが床だ」
台所から、少しの沈黙が返ってきた。
「全部、床です」
「見えていないが」
「布が乗っているだけです」
「それは散らかってるというのでは」
「そうなのですか」
ルーファスは部屋を見回した。
掃除は苦手なのだろう。明らかに苦手だ。布、糸、型紙、作業道具、未完成の衣服。居間の半分が工房のようになっている。だが、食器は洗われている。暖炉の灰も片付けられている。腐ったものや汚れたものはない。
散らかっているが、荒れてはいない。
不思議な家だった。
ニナが温め直したスープを持って戻ってきた。野菜と鶏肉の入った、とろみのあるスープだ。湯気が立ち、香草の香りがする。
「どうぞ」
「いただく」
ルーファスは皿を受け取った。
一口飲んで、思わず手を止める。
うまい。
空腹だったことに、その時ようやく気づいた。昨日の朝から、ほとんど何も食べていない。墓前に立っている間も、帰りの馬車でも、胃の中に石が詰まっているようだった。
だが、温かいスープは喉を通った。
ゆっくりと、身体の奥に熱が戻ってくる。
「うまい」
小さく言うと、ニナはほんの少し目を瞬いた。
「よかったです。犬さんはミルクだけでは足りないと思ったので」
「騎士団でその呼び名が広まったら困る」
「ルーファスさんは、ミルクだけでは足りないと思ったので」
「それならいい」
ニナはこくりとうなずいた。
真面目な顔だった。
からかわれているわけではないらしい。それが余計に困った。
食事を終えると、ルーファスは改めて頭を下げた。
「昨夜は助かった。礼を言う。濡れた服まで乾かしてもらって、本当に申し訳ない」
「いいえ」
「剣にも布が巻かれていたが」
「刃物は危ないので」
「……そうだな」
「ちゃんと拭いておきました」
ルーファスは顔を上げた。
「剣を?」
「水気がありました。錆びます」
「触ったのか」
「布越しに」
ニナは少し心配そうに眉を寄せた。
「駄目でしたか」
「いや」
駄目ではない。普通なら駄目だと言うべきなのかもしれない。だが、剣は確かに乾いた布で拭われ、丁寧に置かれていた。鞘の金具にも傷はない。
この女性は、扱い方を知らないものにも丁重だ。
「助かった」
そう言うと、ニナは安心したようにうなずいた。
「服も乾いています。ただ、上着の肩のところが少し傷んでいました」
「肩?」
「右肩です。縫い目に負担がかかっています。怪我がありますか」
ルーファスは思わず右肩へ手をやった。
二年前の遠征で受けた傷だ。今はもう痛むことは少ないが、長時間剣を振ると重くなることがある。
「なぜ分かった」
「布の引き方が、左右で違いました。右だけ、少し庇った着方をしています」
ニナは当たり前のように言った。
「あと、袖口が少しほつれていたので直しました」
「直した?」
「はい。勝手に触ってすみません。でも、あのままだと広がります」
ルーファスは暖炉の近くに干された上着へ目を向けた。近づいて手に取る。袖口のほつれは、確かに直されていた。補修の跡がほとんど分からない。元の縫い目に紛れている。
見事な腕だった。
「これを、君が?」
「はい」
「銀糸工房と言ったな」
「はい」
「そこで働いているのか」
「はい。お針子です」
ニナは少しだけ誇らしそうに言った。
初めて、彼女の表情が変わった気がした。
針仕事が好きなのだろう。
そのことは、部屋を見れば分かる。散らかっているのに、布だけは傷まない置き方がされている。糸の色は細かく分けられ、針は太さごとに入っていた。生活は危なっかしいのに、仕事道具だけは大事にされている。
「上着の礼もする」
「いりません」
「そういうわけにはいかない」
「拾った犬さんからお金を取るのは、少し変です」
「君の中で俺はどこまで犬なんだ」
ルーファスはため息をついた。
ニナは不思議そうな顔をしている。
これは、長引く。
そう思ったが、長引かせるわけにはいかなかった。どれほど助けられたとしても、見知らぬ女性の家にいつまでもいるわけにはいかない。
「迷惑をかけた。服が乾いたなら、俺は出る」
ニナは窓の外を見た。
雨はまだ降っている。昨日よりは弱いが、空は暗い。
「まだ雨です」
「宿を取っている。騎士団の宿舎には、今は戻りたくなくてな」
「場所は分かりますか」
「……分かる」
たぶん。
昨日どこから歩いたのか、記憶が曖昧だった。
ニナはルーファスの顔をじっと見た。
「嘘が下手です」
「嘘ではない」
「では、不確かです」
妙な言い方だったが、当たっていた。
ルーファスは黙った。
「それに、少し熱があります」
「ない」
「あります」
ニナは近づいて、ルーファスの額に手を伸ばそうとした。
ルーファスは反射的に身を引く。
ニナの手が宙で止まった。
「あ」
彼女は自分のしたことに気づいたように、手を下ろした。
「すみません。犬さんの時の癖で」
「人間相手でも、いきなり額へ触れるのは控えた方がいい」
「はい」
素直だった。
素直すぎて、ルーファスは少し気まずくなった。
「熱はない。大丈夫だ」
「大丈夫な人は、そう言います」
「大丈夫ではない人も言うがな」
「はい」
ニナは台所の方へ行き、棚から小さな瓶を取り出した。
「薬湯を作ります」
「必要ない」
「犬さんではないので、薄めにします」
「人間用を出せ」
「はい」
会話が噛み合っているようで、噛み合っていない。
ルーファスはまた額を押さえた。
それでも、薬湯は苦かったが効いた。
*
昼近くになると、雨は弱くなった。
ルーファスは改めて帰ろうとしたが、ニナはその前に工房へ届けるものがあると言った。
「これを届けてから、道を案内します」
「君が案内する必要はない」
「でも、昨日の犬さんは道が分からなそうでした」
「昨日の俺を基準にするな」
「今日は違いますか」
ルーファスは即答できなかった。
ニナは布の包みを持ち上げようとして、少しふらついた。
ルーファスは反射的に手を伸ばす。
「重いだろう」
「いつもこのくらいです」
「いつも?」
「はい」
軽く言った。
ルーファスは布の包みを受け取った。見た目より重い。中身はおそらく、仕立て途中のドレスか何かだ。刺繍が入っているなら、かなり神経を使う仕事のはずだ。
「これを、一人で運んでいるのか」
「はい。近いので」
「近くても重いものは、重いだろう」
ニナは首を傾げた。
分かっていない顔だった。
ルーファスはもう一つの包みも持ち上げた。
「俺が持つ」
「病み上がりです」
「君よりは力がある」
「でも、お客さんに荷物を持たせるのは」
「俺は客ではない」
「犬さん?」
「騎士だ」
ニナは納得したようにうなずいた。
「騎士さんは荷物を持つのですか」
「必要なら持つ」
「では、お願いします」
素直に頼まれると、それはそれで調子が狂った。
二人で家を出る。
職人街の通りは、雨上がりの匂いがした。石畳に残った水たまりが、曇った空を鈍く映している。ニナは傘を差し、ルーファスは包みを持ってその横を歩いた。
彼女の歩幅は小さい。だが、妙に早い。慣れているのだろう。荷物を抱えて、この道を何度も往復しているのだ。
銀糸工房は、職人街の中でもやや大きな仕立て工房だった。
看板には銀の糸を巻いた針の絵が描かれている。表の窓には、貴族向けらしい繊細な刺繍のドレスや、上質な手袋が飾られていた。
ニナは裏口へ回った。
扉を叩く前に、中から明るい声が聞こえた。
「あら、ニナ。早かったじゃない」
扉を開けたのは、華やかな女性だった。年はニナより少し上。金髪をきちんとまとめ、胸元には銀糸のブローチをつけている。
おそらく、昨日ニナに仕事を預けた相手だろう。
「おはようございます、ベリンダさん」
「おはよう。早かったわね。助かった、本当に」
ベリンダは包みを受け取ると、ほっとしたように息をついた。
「これ、あなたじゃなかったら間に合わなかったわ。店長が朝から確認したいって言っていて」
「はい」
「手、痛くしてない?」
「大丈夫です」
「そう。ならよかった」
気遣う声に、少なくとも嘘はなさそうだった。
だが、ベリンダはそのまま扉の奥へ向かって声を張った。
「店長、例の刺繍、仕上がりました。確認お願いします」
ニナは何も言わなかった。
当然のように、ただ鞄の紐を直している。
ルーファスは、その横顔を見た。
感謝はしている。
おそらく、本当に助かってもいる。
それでも、今の一言の中にニナの名前はなかった。
「あら。ところで、そちらの方は?」
「犬さんです」
「犬?」
「間違いました。ルーファスさんです」
ベリンダは数秒だけ固まり、それから笑った。
「ニナったら、また変なことを言って。すみません、この子、少し言い方が独特で」
「……構わない」
ルーファスは短く答えた。
ベリンダの視線は彼の体格、姿勢、腰の剣へ素早く動いた。彼が騎士だと気づいたらしい。笑みが深くなる。
「荷物を持ってくださったんですか? ありがとうございます。ニナは力がないのに、すぐ大丈夫って言うんです」
「大丈夫そうではなかったので」
「あら、優しい方」
ベリンダは微笑んだ。
その笑みも、礼の言葉も、嘘だけでできているようには見えなかった。
だからこそ、ルーファスは余計に引っかかった。
ニナが帰ろうとすると、ベリンダは思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。ニナ、今夜これもお願いできる?」
彼女は扉の内側から、小さな箱を持ってきた。
「急ぎの手袋なの。糸が少し特殊で、私だと時間がかかってしまって。あなたならできるでしょう?」
そこでベリンダは、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね、また頼って。今日、午後から採寸が二件入っていて」
「はい。大丈夫です」
「無理はしないでね」
「はい」
ニナは箱を受け取った。
ルーファスは箱を見た。
小さいが、細工物だ。手袋の刺繍か、飾りの付け直しか。明日の昼までというが、昨日も夜通し作業をしていたのではないのか。
ニナは当然のように箱を鞄へ入れた。
当然ではない。
ルーファスの胸の奥に、静かな苛立ちが沈んだ。
工房を離れてから、ルーファスは口を開いた。
「いつもああなのか」
「はい。ベリンダさんは忙しいので」
「君も忙しいだろう」
「私は手を動かすだけなので」
「手を動かすのが仕事だ。なら君も仕事をしている」
ニナは不思議そうにルーファスを見上げた。
「はい。しています」
「そういう意味ではない」
ルーファスは言葉を探した。
責めたいわけではない。彼女を傷つけたいわけでもない。だが、見過ごすにはあまりに歪だった。
「さっきの刺繍をしたのは、君だな」
「そうです」
「ベリンダの担当のドレスだと言っていたが」
「はい。ベリンダさんの分です」
「店長は、君が刺したことを知っているのか」
ニナは少し考えた。
「たぶん、知っていると思います」
「なぜそう思う」
「ベリンダさんが届けてくれますから」
「……そうか」
分かっているのかもしれない。
分かっていないのかもしれない。
だが少なくとも、さっき店長へ向けられた声の中に、ニナの名前はなかった。
「君が刺したものは、君の仕事だ」
「でも、担当はベリンダさんです」
「担当者の仕事として出されるなら、君の働きは見えにくくなる」
「見えにくく」
「そうだ」
ニナはその言葉を、初めて聞いたもののように繰り返した。
「見えなくても、仕上がっていればいいのでは」
「よくない」
「そうなのですか」
「そうだ」
ニナは少し考えたあと、こくりとうなずいた。
「覚えておきます」
分かっていない。
ルーファスはそう思った。
この人は、自分がどう扱われているのかを分かっていない。
悪意に鈍いのか、自己評価が低いのか。
あるいは、感謝されることと、利用されることが似た顔をしているせいかもしれない。
昨夜、雨の中で動けなくなっていた自分を拾った人が、今度は別の場所で雨に濡れている。
そんな気がした。
*
ニナの家へ戻ると、ルーファスはまず部屋を見回した。
「ニナ」
「はい」
「片付けてもいいか」
ニナは鞄を置きながら、目を瞬いた。
「片付け?」
「ああ」
「この家をですか」
「他に何を片付ける」
ニナは居間を見た。
布の束。糸。型紙。作業途中の衣服。椅子に掛けられたエプロン。床に置かれた籠。壁際に積まれた空き箱。
「散らかっていますか」
「かなり」
「そうなのですか」
「自覚がないのか」
「床はあります」
「床は見えるべきだ」
「そうなのですか」
ルーファスは軽く息を吐いた。
騎士団の宿舎でも、片付けられない新人はいた。だが、ここまで床を布に占領されて平然としている者は少ない。
「針や鋏の場所は動かさない。布も種類ごとに分ける。捨てるかどうか分からないものは捨てない。ただ、歩けるようにはする」
ニナは少し驚いた顔をした。
「できますか」
「できる」
「すごいですね」
「すごくはない」
「私はできません」
「見れば分かる」
ニナは素直にうなずいた。
怒らないらしい。
ルーファスは袖をまくり、部屋の片付けに取りかかった。
まず床の布を用途別に分ける。仕立て途中。端切れ。直し物。納品前。私物らしい衣類。どれも捨てていいものではなさそうだった。ニナに確認しながら籠を分け、棚の空いている部分へ入れる。
次に、作業机の周辺だけはそのままにした。ここはすでに彼女の秩序がある。糸の色順、針の太さ、鋏の向き。ルーファスには乱雑に見えるが、彼女にとっては完璧に配置されているのだろう。
問題は、それ以外だった。
「この箱は何だ」
「端切れです」
「この箱もか」
「それは、いつか使う端切れです」
「違いは」
「こちらはすぐ使うかもしれなくて、そちらはいつか使うかもしれません」
「どちらも使う可能性があるんだな」
「はい」
「分かった。では、すぐ使うものは机の近く。いつか使うものは棚だ」
ニナは感心したように見ていた。
「ルーファスさんは、物に住所を決めるのが上手です」
「住所?」
「はい。物の帰る場所です」
「……騎士団では、決めておかないと必要な時に困る」
「騎士さんは大変ですね」
「お針子も大変そうだが」
「そうでしょうか」
そうだ。
ルーファスは言いかけて、やめた。
片付けながら、ニナは台所へ行って昼食の支度を始めた。掃除は壊滅的なのに、料理の手際はよかった。野菜を刻む音は一定で、鍋の火加減を見る目も確かだ。縫い物と同じく、手を動かすことは得意なのだろう。
昼食は、豆と野菜の煮込み、焼いたパン、卵を使った簡単な料理だった。
質素だが、温かく、うまい。
ルーファスは食べながら、向かいに座るニナの手を見た。
指先に細かな針跡がある。親指の付け根が少し赤い。昨日から作業を続けているなら、手も疲れているはずだ。
「手は痛まないのか」
ニナは自分の手を見た。
「少しです」
「痛むんだな」
「でも、動きます」
「動くことと、痛くないことは違う」
ニナはまた首を傾げた。
「ルーファスさんは、変なところを気にします」
「君が気にしなさすぎる」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ニナは黙って煮込みを食べた。
その表情は変わらない。けれど、言われたことを考えているようだった。
食事のあと、ニナは作業机に向かおうとした。
ルーファスはその前に、箱を取った。
「これは明日の昼までと言っていたな」
「はい」
「昨日の仕事は終わったのか」
「朝、届けました」
「いつ寝た」
ニナは少し考えた。
「少し」
「時間を聞いている」
「夜明け前に、少し」
「それは睡眠とは言わない」
「でも、寝ました」
「仮眠だ」
ルーファスは箱を開けた。
中には白い手袋が入っていた。手首の部分に銀糸の刺繍があり、その一部がほつれている。糸は細く、光の角度で色が変わる。確かに難しい仕事だろう。
「これを明日の昼までに?」
「はい」
「今日は休め」
「でも、預かりました」
「断れ」
「ベリンダさんが困ります」
「君が倒れたら、誰が困る」
ニナは答えなかった。
その沈黙が、ルーファスには答えに見えた。
自分が倒れた時に誰が困るか、考えたことがないのだ。
胸の奥で、苛立ちとは違うものが動いた。
心配、というには硬い。怒り、というには静か。もっと単純に、見ていられなかった。
「ニナ」
「はい」
「君は、自分のことに鈍い」
ニナはぱちりと瞬いた。
「そうでしょうか」
「そうだ」
「よく言われます」
「なら直せ」
「どうやってでしょう」
本気で聞いている。
ルーファスは言葉に詰まった。
どうやって。
それは、彼にも分からない。
自分だって、人に言えるほど自分を大事にできているわけではない。雨の中で動けなくなるまで放っておいた人間が、偉そうに何を言っているのか。
それでも、ニナの手を見ていると、言わずにはいられなかった。
「少なくとも、今日は寝ろ」
「でも」
「騎士命令だ」
ニナは困ったように眉を下げた。
「騎士さんは、お針子に命令できますか」
「できない。が、今のは頼みだ」
ニナは少しだけ笑った。
本当に少し。口元がわずかに緩んだだけだった。
「頼みなら、考えます」
「考えるだけか」
「はい」
手強い。
ルーファスはそう思った。
*
午後になると、部屋は少しだけ家らしくなった。
床が見える。
それだけで、ルーファスにはかなりの進歩に思えた。ニナは何度も床を見て、「広いです」と言った。もともと広かったのだが、彼女にとっては新発見らしい。
「ルーファスさんは、すごいです」
「床を出しただけだ」
「床が出ました」
「そうだな」
「歩きやすいです」
「今まで歩きにくかった自覚はあるのか」
「たまに足に布が絡まりました」
「危ないだろう」
「転ばなかったので」
「転んでからでは遅い」
ニナは素直にうなずく。
だが、おそらくまた同じことをする。
ルーファスは棚に布をしまいながら、そう判断した。
彼女には悪意がない。怠けているわけでもない。ただ、生活の中の危険に対する感覚が鈍い。刃物は丁寧に扱うのに、自分の足元には無頓着。人の熱には気づくのに、自分の疲れには気づかない。
奇妙な人だ。
そして、危なっかしい。
夕方近く、雨がまた降り出した。
窓を叩く音が、部屋の中に広がる。
ニナは作業机に座り、白い手袋を前にしていた。結局、休むと言いながら、手を動かしている。ルーファスが止めると、「見るだけです」と言う。見るだけで針を持つ人間を、彼は初めて見た。
「ニナ」
「はい」
「それは見るだけではない」
「少しだけです」
「少しの積み重ねで、夜が明ける」
ニナの手が止まった。
「よく分かりましたね」
「経験があるのか」
「はい」
素直に認めるな。
ルーファスは額を押さえた。
その時、ニナの視線が彼の右肩へ向いた。
「痛みますか」
「何が」
「肩です。少し庇っています」
「……気のせいだ」
「雨の日は、古い傷がうずいたりします」
「君は本当に、そういうところはよく見ているな」
ニナは不思議そうにした。
「見れば分かります」
「自分の疲れは分からないのに?」
「自分は見えません」
ルーファスは思わず黙った。
その答えは、妙に胸に残った。
自分は見えない。
そうかもしれない。
ルーファスも、自分がどんな顔で墓前に立っていたのか知らない。どんな顔で雨の中に座り込んでいたのかも。昨夜の自分を見たのは、ニナだ。
捨て犬のようだったと、彼女は言った。
腹は立たなかった。
むしろ、それほどひどかったのだろうと思った。
「ルーファスさん」
ニナが静かに声をかけた。
「はい」
「どうして、昨日は雨の中にいたのですか」
初めて、彼女が踏み込んだ。
だが、その声に好奇心はなかった。無理に聞き出そうとする感じでもない。ただ、濡れた服の理由を尋ねるような、静かな問いだった。
ルーファスは窓の外を見た。
雨粒が硝子を伝って落ちていく。
「墓参りの帰りだった」
それだけ言うと、ニナは針を置いた。
「そうですか」
「婚約者がいた」
言葉は、自分でも驚くほど淡々と出た。
「幼馴染だった。妹のような子で、身体が弱くて……一年前に亡くなった」
ニナは何も言わない。
その沈黙が、ルーファスにはありがたかった。
「俺はその時、遠征に出ていた。知らせを受けた時には、もう間に合わなかった」
死に目に会えなかった。
その言葉を口にする前に、喉が詰まりかけた。
だが、ニナは急かさない。
ルーファスは息を整えた。
「昨日が命日だった」
「はい」
「墓へ行って、戻ってきた。戻ってきたはずだったんだが……雨が降って、動けなくなった」
情けない話だ。
そう言おうとしたが、ニナが先に口を開いた。
「雨の日は、濡れます」
あまりに当たり前の言葉だった。
けれどニナは、その当たり前を軽く扱わなかった。
「濡れたら、寒くなります。寒くなると、動きにくくなります」
「……そういう話では」
「でも、そういうこともあります」
ニナは静かに続けた。
「悲しい時に、濡れて、寒くて、動けなかったのなら、たぶん、全部一緒に重かったのだと思います」
ルーファスは言葉を失った。
慰められたわけではない。
前を向けと言われたわけでもない。
忘れろとも、忘れなくていいとも、彼女は言わなかった。
ただ、雨に濡れた事実と、寒かった事実と、悲しかった事実を、同じ場所に置いた。
それだけだった。
なのに、胸の奥にあった硬いものが、少しだけ形を変えた気がした。
「……君は変わっているな」
「よく言われます」
「悪い意味ではない」
「そうですか」
「たぶん」
ニナは小さくうなずいた。
それから、少し考えて言った。
「その方のお名前を、聞いてもいいですか」
ルーファスは一瞬だけ目を伏せた。
「リディア」
「リディアさん」
「ああ。リディア・モートン」
「きれいな名前です」
「……そうだな」
リディアは、自分の名前があまり好きではないと言っていた。
少し大人びすぎている、と。もっと元気そうな名前がよかった、と。そんなことを言いながら、窓辺で本を読んでいた。ルーファスが「リディアらしい名だ」と言うと、彼女は少しだけむくれて、それから笑った。
記憶の中のリディアは、いつも笑っている。
最後にどんな顔をしていたのか、ルーファスは知らない。
「ルーファスさん」
「何だ」
「今日は、眠った方がいいです」
ニナはそう言った。
「雨の日に、墓参りの話をして、寒かった日のことを思い出したなら、疲れると思います」
「君も寝ろ」
「私は手袋が」
「寝ろ」
「……はい」
今度は、少しだけ素直だった。
*
夜になっても、雨はやまなかった。
ニナは夕食のあと、本当に少しだけ眠った。作業机に突っ伏しそうになったところをルーファスが止め、寝台へ行かせた。彼女は「手袋を少しだけ」と言い張ったが、ルーファスが箱を取り上げると、困った顔をしただけで怒りはしなかった。
ルーファスは居間に残った。
暖炉の火を見ながら、白い手袋の箱を眺める。
手袋は美しかった。だが、ほつれを直すにはかなり細かい作業が必要だ。これを明日の昼までに仕上げろというのは、確かに無茶だ。
それでも、ニナならやってしまうのだろう。
だから、周囲は頼む。
頼むという形で、押しつける。
彼女は気づかない。
気づかないから、受け取る。
ルーファスは椅子に背を預けた。
自分は明日、ここを出るべきだ。
常識的に考えれば、それが正しい。見知らぬ女性の家に長く居座るべきではない。宿に戻り、改めて礼を用意し、必要なら工房へ正式に話を通す。そうすればいい。
だが、ニナは礼を受け取らないだろう。
そして明日からまた、何事もなかったように布の山の中で暮らし、工房と家を往復し、ベリンダに仕事を渡し、自分の疲れにも気づかず針を持つ。
放っておけるのか。
ルーファスは目を閉じた。
守れなかった人がいる。
間に合わなかった人がいる。
だからといって、目の前の危なっかしい人まで見ないふりをする理由にはならない。
リディアの代わりではない。
ニナはリディアではない。
そんなことは分かっている。
だが、昨夜、雨の中にいた自分をニナが拾ったように。
今、自分が気づいてしまったなら。
何もしないで出ていくのは、違う気がした。
奥の部屋から、小さな物音がした。
ルーファスが立ち上がると、ニナが寝間着の上にショールを羽織って出てきた。目元が少し眠そうだ。
「起きたのか」
「手袋を」
「寝ろと言った」
「少しだけ」
「少しは禁止だ」
ニナはしょんぼりした顔をした。
その顔が本当に叱られた犬のようで、ルーファスは一瞬だけ言葉を失った。
犬扱いされているのは自分のはずなのに。
「明日の昼までなのです」
「断れ」
「え」
「明日、工房へ行って、納期を延ばすよう言う」
「でも、ベリンダさんが」
「ベリンダは君の手を借りている。なら、君が倒れない範囲で頼むべきだ」
「倒れません」
「倒れる前の人間は、そう言う」
ニナは黙った。
少しだけ眉を下げる。
「迷惑をかけます」
「誰に」
「工房に」
「君に迷惑がかかっている」
ニナは返事をしなかった。
ルーファスは、言いすぎたかと思った。だが、取り消す気にはなれなかった。
「ニナ」
「はい」
「俺の休暇は十二日ある」
「はい」
「昨日が一日目だった。今日は二日目だ」
「はい」
「あと十日ある」
ニナは瞬いた。
「長いお休みです」
「ああ」
「いいですね」
「そうでもない」
ルーファスは苦笑しかけて、やめた。
何のための休暇だったのか。墓参りをして、リディアのことを考えて、誰とも会わずに過ごすつもりだった。周囲の言葉から逃げるための休暇でもあった。
それが今、布だらけの小さな家で、見知らぬお針子に寝ろと言っている。
奇妙な話だ。
「その十日間」
ルーファスは言った。
「ここにいてもいいか」
ニナは目を丸くした。
「ここに、ですか」
「ああ。もちろん、迷惑なら出ていく。宿に戻るべきなのは分かっている。ただ……」
ただ、何だ。
君が危なっかしいから。
恩を返したいから。
君の部屋には床が必要だから。
君は、自分のことが見えていないから。
どれも正しいが、どれも言い方を間違えると失礼になる気がした。
「昨夜、君に拾われた」
ルーファスは慎重に言葉を選んだ。
「その礼をしたい」
「スープとタオルの礼ですか」
「それだけではない」
「ミルクもですか」
「……それも含めてだ」
ニナは真面目に考え込んだ。
「十日もいるほどの礼ではないと思います」
「君の家は片付けが必要だ」
「床は出ました」
「まだ一部だ」
「一部」
「それに、工房の仕事も少し見直した方がいい」
「見直す」
「君が何をどれだけ引き受けているのか、整理する。必要なら、工房にも話す」
ニナは困惑した顔をした。
「ルーファスさんは、どうしてそこまでしてくれるのですか」
ルーファスは答えに詰まった。
どうして。
それは、彼自身にも分からなかった。
ただ、雨の中でニナが自分を放っておかなかったように、今度は自分が彼女を放っておけない。
それだけだ。
「騎士だから」
結局、そう言った。
ニナはぱちりと瞬いた。
「騎士さんは、床を片付けたり、お針子の仕事を整理したりするのですか」
「普通はしない」
「では」
「だが、俺はする」
ニナは少しだけ考えたあと、こくりとうなずいた。
「分かりました」
「いいのか」
「はい。ルーファスさんがいると、床が見えます」
「判断基準はそこなのか」
「あと、ご飯をちゃんと食べてくれます」
「君も食べろ」
「はい」
ニナはまた、ほんの少し笑った。
「では、十日間よろしくお願いします」
「ああ」
「奥の物置を空ければ、寝る場所くらいは作れると思います」
「君の部屋とは別だな」
「はい」
「なら、扉に鍵をかけろ」
「ルーファスさんがいるのにですか」
「俺がいるからだ」
ニナは不思議そうに目を瞬いた。
「ルーファスさんは、自分で自分を警戒するのですか」
「君が警戒しなさすぎるんだ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ニナは少し考え、それから素直にうなずいた。
「分かりました。鍵をかけます」
「それでいい」
「犬さんとしてですか」
「騎士としてだ」
「騎士の犬さん」
「混ぜるな」
ニナは真面目な顔で首を傾げた。
「番犬さん?」
ルーファスはしばらく黙った。
番犬。
悪くない気がしてしまった自分に、少しだけ呆れる。
「……その呼び方なら、まだましだ」
「では、番犬さん」
「ルーファスでいい」
「ルーファスさん」
「ああ」
「時々、犬さんでもいいですか」
「よくない」
「間違えたらすみません」
「今から間違える前提で話すな」
ニナはこくりとうなずいた。
分かっているのか、いないのか。
おそらく半分くらいしか分かっていない。
ルーファスは息を吐き、暖炉の火へ目を向けた。雨音はまだ続いている。昨日と同じ雨の音だ。けれど、昨夜とは違い、ここには火があり、乾いた毛布があり、床の見える部屋があった。
ニナは手袋の箱へちらりと視線を向けた。
「駄目だ」
「まだ何も言っていません」
「顔に出ている」
「ルーファスさんは、人の顔を見るのが上手ですね」
「君が分かりやすいだけだ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ルーファスは手袋の箱を棚の上へ置いた。
ニナの手が届かない高さに。
ニナは少しだけ背伸びをしたが、届かなかった。
「高いです」
「寝ろ」
「はい」
今度は素直に奥の部屋へ戻っていく。
その背中を見送りながら、ルーファスは窓の外の雨を見た。
拾われたのは、自分だった。
それは間違いない。
雨に濡れて、動けなくなって、誰かの手を借りなければ立てなかった。ニナはそんな自分を見つけ、名前も聞かずに家へ入れ、温かいものを出してくれた。
だが、この家にもまた、放っておけないものが多すぎる。
床を埋める布。
夜更けまで終わらない仕事。
自分の疲れに気づかない手。
見えにくくなる働きを、不思議そうに繰り返す声。
リディアの墓前で、彼は何も言えなかった。
一年経っても、前へ進めない。忘れたくもない。置いていきたくもない。
それでも、雨の中から歩き出した先に、この家があった。
床を布で埋め、自分の痛みに気づかず、誰かの仕事まで抱え込む、小さなお針子の家が。
なら、休暇の残り十日くらい。
ここで使ってもいいのかもしれない。
雨の日に拾われた犬は、翌日から、その小さな家の番犬になることにした。




