第九話
香澄がそこに立っていたことに安堵して力が抜ける。香澄は振り向いて、膝に手をつき息も絶え絶えな俺に気づきぎょっとする。
「どうしたの、大丈夫?」
「ごめん…待った?」
声を出す度に肺の辺りが一段と苦しくなる。
「さっき来たところだけど…いいよ、喋らなくて」
呼吸が少し落ち着いてから香澄が話しかけてくる。
「寝坊でもした?」
「いや、ちょっと朝色々あって。ごめん」
「そう…呼吸、もう大丈夫?」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、駅の方行こうか」
それを聞いた瞬間、「あぁ…」と腑抜けた声が息と一緒に漏れ出た。すっかりと目的が頭からすり抜けていた。今日は香澄と逃げるのだった。
通学路とは違う道を通る。息を整えながら歩く俺を気遣ってか香澄は駅に着くまで話しかけてこなかった。
土曜日の駅は朝でも人が多くごみごみとしていた。
「じゃあ学校に電話しなきゃね」
俺がそう言うと香澄はこちらを見て首を少し傾げる。少ししてからはっとして、嫌そうに顔をしかめた。
「休みの連絡しなきゃだめか。しない方が面倒くさいよね」
改札のそばにある公衆電話で学校に電話をかけた。番号は生徒手帳に載っていてどちらも学校の電話番号なんて覚えてなかったが問題なかった。
二人で保護者からの連絡が必要だったらとか公衆電話からかけるのはやっぱりおかしく思われるんじゃないかとか言い合って心配していたが杞憂に終わった。学年、組、名前と欠席する旨を伝えるだけで簡単に学校への連絡は終わり二人して拍子抜けした。
「学校も面倒事が嫌なのかもね」
香澄が切符を買いながら言った。
「そうだね。けどおかげでサボれたからいいよ」
「そうだね」
香澄は安心したような柔らかな表情でそう言った。
電車は最初は混んでいたが街から離れるにつれて人も減っていった。切符は香澄が言うものを買って乗り換えもしていくと窓から見える景色は田んぼや緑ばかりになった。その頃にはもう電車には俺と香澄の二人きりだ。
電車に乗る間会話はなくぼんやりと外を眺める時間が続く。そうすると意識はだんだんと頭の中に向いていき、小さくなったとはいえ依然として吹き荒れる頭の中の嵐を知覚してしまう。家から走り出してからは必死で忘れていたのに、一度気がついてしまうとその嵐もまた勢いを増していく。
なぜ俺があんなことを言われなくてはならないんだ。何週間ぶりかの会話で言うことがあれなのか。そもそも…
「史乃君」
不意に香澄の柔らかい声が聞こえた。隣に座る香澄がこちらを見ている。
「なにか嫌なことでもあった?」
心臓が跳ねた。
「なんで?」
言葉は喉に引っかかりながら出てきた。
「駅に向かう時も、今も、なんだか辛そうな顔してたから」
そう言われた瞬間、顔が熱くなって体の底から羞恥が込み上げてきた。
香澄が話しかけてこなかったのは俺の滲み出る不機嫌のせいだったのだ。
「ごめん…」
自分でもびっくりするぐらいに消え入りそうな声だった。
香澄は驚いたように目を見開いてから慌てたように言う。
「全然大丈夫だから。ただ何かあったのかなって思っただけ」
「…さっきまで忘れてたつもりだったんだけど、もしかしたらそんなことなかったのかもな」
香澄に言ってるはずなのに独り言みたいに言葉は出た。
香澄は少しの間、俺を見つめたあと視線を前に戻した。
「話したいなら、話して。そうじゃないなら、何も言わなくていいから」
俺の顔は見ずただ窓の外を眺めながら香澄は言った。無理に聞こうとしないでただ隣にいるだけなのが心地よくて、話すつもりなんてなかったのに、言葉が溢れる。
「朝、親と会って」
香澄の顔が少しこちらを向くのが横目で分かる。
「色々言われてさ。途中までは、流してたんだけど、最後に睨みつけちゃって。また何か言われるから逃げるようにして家、出てきたんだよね」
言葉にしてみるとそれはちんけなもので情けなくなってくる。
「ごめん、みっともない理由だね」
恥ずかしさと情けなさを誤魔化したくて言った。
「ううん。どれくらい嫌な気持ちになるかなんて、きっと、人によって違うから。物事の大きさだけで決められるほど、簡単なものじゃないから」
香澄は流れゆく景色を見るともなく見ながら、なにかを思い出すみたいにしてゆっくりとそう言った。
返事なんて求めてはいない様子で、俺もまた返事なんてしなくていい気がして、ただ隣でその言葉を噛み締めていた。
独特なイントネーションのアナウンスが流れ、しばらくして電車が揺れて減速していく。
「ただ、帰るの少し憂鬱になったかな」
もう自らの痴態は話してしまっているからいいかと思い、正直に思っていることを呟いた。それとほぼ同時にドアが開く。
香澄が立ち上がり、開いたドアに向かって歩きだす。
「普通は、尾を引くよね。けど私たちの家はそんなことないでしょ?」
ドアの前で香澄が振り返る。微笑を浮かべていて、だけどその笑顔の下には切なさが滲んで見える。
「だから、大丈夫。帰ればいつも通りだから」
その言葉を聞いてぽかんとした後、だんだん自分の口角が上がっていくのがわかる。
歪んだ家庭のことも腫れ物みたく扱わないその発言がおかしくも心地いい。
香澄の言う通りだ。帰ればきっと母はもう家にいない。散らかったリビングと俺が一人。いつも通りだ。
あれほど気が滅入っていたのが馬鹿らしくなって声を出して笑って、立ち上がった。
「確かにどうせ帰ったらいつも通りだ」
吹き荒れていた嵐は嘘のように消えていた。
「でしょ?ねえ、気づいてた?もう海まですぐなんだよ。行こ」
そう言う香澄の笑顔は今度はその下に何も隠れてないように見えた。
今週は明日水曜日も投稿します。火曜日、水曜日、木曜日の連続投稿となりますのでよろしくお願いします。日曜日の更新も変わらずある予定です。




