第八話
互いの破綻した家庭について話し約束を交わしたあの日から週を跨ぎ、もう翌日に授業参観を控えた金曜日だった。それまでの間、香澄とは変わらず過ごしたが会話が増えた。けれどそれは心地良さを壊すようなものではなく以前より自然に互いが話すようになった結果だった。香澄の普段どことなくあった陰りも減り、それはきっと俺もだ。
授業も終わり放課後、変わらず二人で並んで歩く。いつもの分かれ道についた時、香澄が口を開いた。
「じゃあ明日ここで待ち合わせでいい?」
「いいよ。じゃあ集合時間は七時半ぐらい?」
「分かった。じゃあまたね」
分かれ道を右に進む香澄の背中を見送る。
「うん。また明日」
そう香澄の背中に言って俺は左の道を進んだ。
家に着き、今日も母がいないことに安堵するとあとはもう早かった。こなすべきことをこなしていけば気が付けばもう十時を回っていた。早めに寝るかと思い布団に入るがすぐには寝つけず、ただ暗闇の中にいる時間が続く。
布団の中で目をつぶっていると次第に橙色の高揚感が溢れだしてくる。遠足の前日の小学生はこんな気持ちなのかと思った。小学校の頃の遠足は授業参観以上に憂鬱なものだったからみんなが言うそんな気持ちを初めて共感できた。
そんなことを考えていると不意に色んな、もしも、が頭を過る。もし学校を休んだことを親に連絡されたら…もし香澄が来なかったら…もし…。
それはどす黒い不安となって溢れてくる。黒はほかの何色にも打ち消されないで、水に墨汁を垂らしたみたいに広がっていく。
染めきられないで体の中に残っている橙色の高揚感とじんわりと広がる黒色の不安のせいで余計に眠れず布団の中で何度も寝返りを打った。
それに疲れきってぐったりしたころに意識を手放した。
差し込んだ朝日で目が覚める。朝日の眩しさにまさかと思い時計を見るがまだ六時を回ったころでほっと息が漏れる。
眠りにつくまでは永遠かと思うほどの時間だったのに眠ってしまうと一瞬だった。
着替えようと立ち上がってかけてあった制服に手を伸ばして、止まる。服は私服か制服、どちらにするか。迷って結局制服にした。普段からお洒落などしない俺は制服が無難だと思った。
顔を洗い歯を磨く。準備を終えて時計を見るとまだ七時前だったが早いに超したことはないかと思い財布を雑にポケットに突っ込んで玄関へ向かった。
玄関で靴を履く寸前、背後に気配がし、ぞわりとするのと同時に一番聞きたくない声がした。
「土曜日に制服でどこ行く気?」
錆びたおもちゃみたいにぎこちなく振り向く。
黒のスーツと膝丈の黒のタイトスカート。ぼさぼさの茶色みがかった髪の女がリビングに続くドアの前で立っていた。
母だった。
「学校に」
平静を装おうとした声は震えた。
「土曜日に?学校?」
興味なさそうにしながら母はそう言った。
しまったと思う。どうせ母は今日学校があるなんて知らないのだからそんなことを言う必要はなかったのだ。
「授業参観が今日あるらしいから、特別に今日学校があって」
口の中が乾いて喋りにくい。
「聞いてないけど」
来る気もないくせに、母はそう言う。
「来るの?」
「行かないけど。けど先に伝えておくべきなんじゃないの?」
ああ始まってしまうな、そう思った俺の予感は正しく、それから母はなにかと理由をつけては俺に文句を言った。母の言うことに意味なんてなくてただ憂さ晴らしに使われてるのだ。
言い返してもこの時間が長引くだけだと分かっているからただ「はい」と「すみません」とだけ言って母の鬱憤が晴れるのを待つ。
その間、母に対する怒りを超えた憎悪に近い感情が頭の中で嵐のように渦巻き始めて、何かを言われる度にそれは勢いを増した。どんどんと増す嵐の勢いに自分もくらっとした時、
「はやく行かないと遅刻するんじゃない」
そう言われ今まで抑えていたのに反射的にキッと睨みつけてしまう。
母の気だるげなどこか馬鹿にするような表情は歪んで怒りの滲む表情へと変わる。収まることを知らなそうな怒りの表情を浮かべる母に慄いて衝動的に玄関に置いてある靴に足を突っ込んだ。後ろから何か叫んでいる声が聞こえるが、無視して逃げるように家を出た。
玄関扉を閉めた後、緊張なのか怒りなのか分からない震えを抑えるようにワイシャツの胸の辺りをぎゅっと握って扉にもたれる。呼吸も乱れていた。しばらくすると落ち着いてきて何を考えるでもなくただ扉の前で立ち尽くして、それから、はっとする。香澄が待っている。
待ち合わせのあの分かれ道を目指して走る。
随分と長い間文句を言われていた気がする。時間は大丈夫だろうか。
胸は苦しく、家を出るまでの間で血の上った頭は急に走り出したせいでずきずきと痛む。
息も絶え絶えで前に倒れるようにして進むようになったころ、分かれ道が見えた。
白のセーラー服、紺のスカート、腰まである長い髪。
いつも通りの、制服姿の香澄がいた。




