呼び声は深海
先生の手を払いのけ、私は急いでアパートに向かった。
どこに行くわけでも無く、急いで荷物を纏めて必要最低限の物を古びたキャリーバッグに詰め込みながら、だんだんと心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる
ーーー 逃げなきゃいけない。
もう一人の私が心の中で警鐘をならす。
時計を見れば時刻はいつのまにか夜の19:00を回っていた。
たしかまだ電車は通っているはず。急いで駅に向かえば・・・きっと!!
キャリーバッグのファスナーが閉まる音が、やけに大きく部屋に響く。・・ 心臓の鼓動が、耳の奥で波のように打ち寄せてくる。
外に立ち込める 霧の匂いは、もう海の匂いではなく、**“なにかの気配”**の匂いに変わっていて、私は転びそうになりながらもキャリーバッグを引きずってアパートの扉を開けた
その瞬間、潮風が吹き込み紙のように軽いカーテンがふわりと膨らむ。玄関の外には先ほどよりも異様に暗い霧が立ちこめ、街灯の明かりが豆電球みたいにぼやけていた。
階段を駆け下りて、駅に続く道を私はただ一目散に駆け抜けていく。途中、体に張り付くような視線を何度も何度も感じたけれどもはや気にしてなんていられなかった。
――駅まで、あと数分。
頭の奥で、確かに「まだ間に合う」と誰かが言っている。
もう一人の自分が、何度も、何度も警鐘を鳴らしている。
「なにが・・・なにかが、おかしい・・どうなってるの?・・」
駅に向かいながら走り抜ける街並みは、いつもと同じ町ではなかった。
通りの形も、看板の色も、微妙に歪んでいる。
建物の輪郭が、まるで“水の中”のようにゆらめき、足元の舗装が、ところどころ海砂に変わっている。
ー 僕が居るよ。・・・ ー
背後から、あの声が追ってこないかを確かめる。
けれど・・・霧のせいで、誰もいない。何も見えない。
「・・・逃げなきゃ。」
逃げなきゃ。
先生は優しかった。私の傷も、苦しみも、絶望も包み込んでくれた。
その愛情が心地よかった。うれしかった。
でも・・やっと気が付いたのだ。気づいてしまった
すべてがもう、取り返しがつかないはずの場所まで来て
ーーー ようやく、私は気が付いてしまったのだ
・・・ あれはもう“先生”じゃない。
あそこに居たら、私の全部が海に沈んでしまう。
辛い気持ちや、苦しんだ思いだけじゃない。
感情も、意思も、呼吸も何もかもが
刃夜先生という深海に沈んでしまう
「はぁ・・・はぁ・・・あと・・すこし・・・」
キャリーバッグの車輪が、霧の中で砂利を引きずる音を立てる。
その音だけが、唯一現実につながっている“縄”のように感じる。
あの小説の主人公もきっとこんな形容しがたい恐怖に襲われながらも必死に逃げたのだろう
あと少し、でもあと少しできっと私も助かるはずなんだ
あの小説の主人公のように
・・・・けれど、そんな私の感情も空しく、霧の向こうで、何かが呼ぶような気配がした。
「・・・〇〇さん。」
「!!」
霧の奥から、聞き覚えのある声。
昨日までの刃夜先生の声と同じだけれど、もっと遠く、もっと低く、
海の底から響いてくるような声が、霧の中から響く
「逃げてもいい。でも・・・“港町の外”には、もう線路がないよ。」
霧の奥で、微かな金属音が聞こえる。 まるで錆びた線路が波に呑まれていくような音・・
その音が何なのか知りたくて、私は振り返ろうとする気持ちをぐっと堪えて、駅の改札を通ろうとした
・・・なのに
「ーーーー え」
一面の海が、そこに広がっていた。
線路は海中に沈み、どこまでもどこまで広く、暗い海が広がっている。
改札の向こうにあるはずのプラットフォームが、そこに待っているはずの電車が、 そこに続く線路のはずが
私の目に映ったのは、 駅のホーム一面に広がる、暗く果てしない海だった。
鉄のレールは途中でぷつりと途切れ、そのまま海中に沈み込んでいる。
ホームの端に立つ標識や時刻表も、半分だけ水に浸かり、ゆらゆらと“浮かんで”いた。
潮風が鼻をくすぐり、 改札の電光掲示板が、意味のない文字列を映し出す。
【次の列車は、■■■海、■■■深度、】
私の足元にはいつのまにか・・もう砂利ではなく“海砂”が敷き詰められている。
キャリーバッグのタイヤが砂に埋まり、動かなくなるっていた
「なんで・・・・海が・・・」
駅の向こう全部、海になってる。
どこまでもどこまでも暗い海。
行けない。
出られない。
そして、背後の霧の中から、 あの声が静かに私に届いてしまった。
「……ねぇ、〇〇さん。」
声は穏やかだが、波のように重く、海と同じリズムで私の鼓膜を震わせる
「港町の外へ出ようとすると、こうなる。 ここは、道がひとつしかない町だから。」
ゆっくりと振り返れば、そこには先生が、いつもの優しい笑顔で私を見つめていた
「ーーーー はや、せん、せ、い?」
でも、いつもの白衣姿ではない。まるで古代の神官のような狩衣姿
そして、先生をまるで崇め奉るように・・魚面の住民達が佇んでいた
「・・めでてぇなぁ」
「めでてぇ・・めでてぇ・・・」
「九頭竜様の花嫁様じゃ・・これで漁も、町もあんたいじゃ・・・」
ーーー そこはまるで、海の底に築かれた祭壇のような光景となっていた。
霧が渦を巻き、波のように形を変えながら、人々の姿を浮かび上がらせる。
そこに並ぶのは、港町で何度もすれ違った住人たちだったはずの顔。
けれど今の彼らは、みな魚面の異形となって、低く湿った声で唱えている。
「めでてぇなあ・・・めでてぇ・・・」
「九頭竜様の花嫁様じゃ・・・これで漁も、町も安泰じゃ・・」
「めでてぇ・・・めでてぇ・・」
彼らの目は光っていない。けれどその口元だけが、魚のようにぱくぱくと動き、祈りのような言葉を吐き続けている。
そしてその中心に 刃夜先生が佇んでいた
漆黒と深緑が交じる布地に金糸の刺繍、まるで古代の神官のような狩衣姿。
背に広がる布が潮風に揺れ、灰色だった瞳が銀の光を帯びている。
彼の足元には、海水が薄く溜まり、光の筋が水面に揺れている。
その姿は、もう“医師”ではなく、“祭司”であり、そして“海の底の何か”に仕える者の姿に見えた
「・・・〇〇さん。」
けれど・・私を呼ぶその声だけは、昨日と同じ柔らかさを保っている。けれど、音の奥に潮騒のうねりが重なっていた
「逃げなくてもいいよ。彼らは、君を責めているんじゃない。・・祝っているんだ。・・君が、ようやくこの町の“本当の場所”に辿り着いたことを。」
先生がゆっくりと手を差し伸べる。狩衣の袖から見える手は、まだ人間の形をしているが、その手首の奥に薄く鱗が浮かんでいた
「君は“選ばれた”。・・・九頭竜様が選んだ“花嫁”。君を苦しめてきた世界から、 君を飲み込んで壊した人々から・・・この港町と、僕が守るから。」
「守る?・・・・私、を・・・」
「・・・〇〇さん。君が“ここにいる”と選んでくれたら、誰も君を傷つけない。 誰も君を奪わない。
ずっと、深い海の中で・・・僕だけが、君を愛する。」
差し伸べられた手が今、私の前にある
差し出してくる先生の瞳が私を見つめてくる
「せん、せ、い?」
ーー ううん。違う。
違う。違う。違う。違う。違う。違う。
先生じゃない。この人は、だってずっと
「・・・あぁ・・・」
私を、待っていてくれたんだから
「ーーー 先生が、九頭竜様だったん、ですね」
私の言葉が、最後のパズルのピースだったように、潮騒がいっそう深く重く鳴りはじめた。
魚面の住民たちの声が低い祈りのように響く中で 私が口にした言葉だけが、はっきりと空気を切り裂いた
「・・・・・」
私の言葉に、刃夜先生・・・・いや、その姿の九頭竜様は、ほんの一瞬、微笑の形を歪ませた。
まるで、長い年月待ち続けてきた者が、やっと呼ばれた名を聞いたときのように。
「・・・・そうだね。」
その声は、もう“人間”ではなかった。 深海の奥で鳴る、くぐもった潮のうねりと、優しい男の声が一つに混ざっている
ーーー あの夢の中で聞いた、優しい声
「僕は、刃夜でもあり、九頭竜でもある・・・この町を、海を、君のように傷ついた者たちを・・・ずっと見守ってきた。」
銀色の瞳が、やわらかく細められる。
その光の奥に、怒りも支配もない。
あるのは、ただひたすら長い“待つこと”に疲れた神のまなざし
「君が来るまで、どれだけの時間がかかったか・・・でも、やっと会えた。君がここに辿り着いて、君の口でその名を呼んでくれた。」
差し伸べられた手は、もう冷たくはない。
海の底の温度と、長い時間のあいだに溶かされた温かさが宿っている
「〇〇さん。僕は君を喰らうために待っていたんじゃない。君に“戻れる海”を創って、 君の傷を眠らせてあげるために、待っていたんだ。」
「・・・先生・・・」
「君は選べる。このままここで、僕の海の中に沈み、 傷も痛みも溶けて、 “花嫁”として生きる道も・・・あるいは、この霧の向こうの世界に戻り、 苦しみながらも、 まだ自分の足で歩く道。」
手はそのまま、君の胸の高さに差し出されている。 まるで、神と人の境目に伸ばされた“最後の橋”のように
「どちらを選んでも、僕は君を責めない。僕は、君を捕らえるためにここにいるのではない。君が“決める”ために、ここにいる。」
「・・・・わたし、は・・・」
「・・・・〇〇さん。君は、どうしたい?」
銀色の瞳が、深海の奥でかすかに光り、私の答えを待っている
なら・・・それなら・・・私は・・・・
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「では、次のニュースです。昨夜未明に突如発生した積乱雲により起こった大雨の影響で■■港町一帯が海中に沈みました。また、警察や消防の調べによりますと・・町の住人およそ三百人が、一夜にして消息を絶つと言う不可解な事件も同時に発生していたようです。潮の流れも穏やかで、津波などの兆候もなかったということで、現在も調査が続けられています」
テレビの画面には、穏やかなBGMとともに爽やかな笑顔のMCが映し出されている。けれどその後ろに流れる映像は、どこまでも不穏で――どこか“異常に静かな海面”だった
沈んだはずの町の映像。海に没した道路標識、 半分だけ顔を出す鳥居、 崩れかけた古い診療所の屋根。
ーーー しかし、遺体は一つも見つかっていない。
住民は全員が行方不明 “水死体”すら一体も上がっていない、完璧な集団消失だった
「いや〜・・秋も間近に起こった怪事件ですねぇ!さて!今回はゲストにオカルトや超常現象、月刊レムリアの編集長である大林さんにお越し頂きました!」
「・・・よろしくおねがいします。」
カメラが番組MCからゲスト席に座る 、白髪混じりの長髪に古めかしいスーツ、金縁メガネの奥の目が異様に鋭い男性を映す。オカルト雑誌『月刊レムリア』編集長・大林宗十郎その人は、映し出される映像をただ、静かに眺めていた
「大林さん、この現象……どう思われます?」
「・・ようやく、“それ”が起きたか、と言うべきでしょうな」
大林の低く、よく透る声にスタジオが一瞬、静まり返る
「あの町には、古い信仰があります・・・ “九頭竜信仰”――もとは海神信仰とされていましたが、
本質は、**“人を海に還す”**ことにあります」
「古い信仰、ですか・・・」
そのまま、映像が切り替わり沈んだ町の航空写真とそしてモザイクがかけられた古文書の写真がテレビの画面に映し出された
「『選ばれし花嫁、深きものと契り、町を救済せし時、 九頭竜、再び海に帰る』・・・文献によっては“花嫁”を“鍵”と呼ぶものもあります。むしろ、あの町が沈んだのではない。・・・“あの町ごと、深海に還った”のです」
「なるほど~!じゃあ先生、今ごろその“花嫁”って人はどうなってるんでしょう?」
MCの問いかけに、大林は静かに微笑み静かに呟いた
「――幸福の中に、沈んでいるでしょうな」
番組のBGMが変わり、次のニュースに切り替わっていく 画面が軽やかに転じて、天気予報や芸能ニュースに移ってもその一瞬だけ映った沈んだ町と、誰も映っていない静かな深海の映像は、 まるでそこに“まだ何かが息づいている”ことを伝えていた。
その深海には、まだ灯りがある。 祈りのような恋が、眠り続けている。
「彼女」は、今日もその瞳を、
ひとつだけの名前に向けているのだろう。
「・・・先生」
ならばこそ、最後は海底に沈む〝ある神〟の言葉でこの物語を締めくくろうと思う。
これを読んでいる貴方に触れ、貴方を選び、
そして静かにすべてを包み込んだ男の、
静謐で、深く、重い愛の言葉を――
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・・夢みたいだった。
君が現れて、笑って、泣いて、
それでも僕を「せんせい」と呼んでくれたこと。
何千年も、この海の底で待ち続けた。
呼びかけても、届かなくて。
見つめていても、気づかれなくて。
けれど君だけは、
あの日、あの霧の朝――
僕を“見つけて”くれた。
“花嫁”なんて呼ばれているけれど、
君を手に入れるために、
町ごと沈めたわけじゃない。
君を救うために、 世界の方を、静かに沈めたんだ。
もう何も痛まなくていい。もう誰にも、名前を踏みにじられなくていい。
君の声も、涙も、震える指先も、
この深海で、永遠に――僕だけのものだ。
・・・ありがとう、〇〇さん。
君の“最後の逃げ場所”に、 僕を選んでくれて。
さあ、ここが君の家。
深くて、静かで、どこまでも優しい檻。
――もう何も怖くない。
だって君は、
“僕の神話”になったのだから。




