旅をしている小説家
私は旅をしている小説家だ。
最初にルールを示しておこう。
『*』を越えると、私は『*』以前の記憶を失う。
記憶を失っても基本的な事柄、『私は小説家である』、『旅をしている』という事は忘れない。
手帳に書いた事柄は消えない。
私は、私が『*』で記憶を失うことを知っている。
では、これらを踏まえて、ある旅の途中で出会った事件について語ろう。
*
私は旅をしている小説家だ。
今日は列車に乗って旅をしている。特に急ぐ旅でも無いので、乗っているのは各駅停車だ。
各駅停車の車窓は、洗い立てのシーツみたいな雲をゆっくり引きずっている。
昼下がりの車内の静けさと、テンポ良い電車の揺れで、少し眠くなってきた。
すると、進行方向右側の窓の上の網棚にあった茶色い紙袋がひとつ、ころんと転がりだした。棚の隅で止まらず、つうっと私の肩口にまで寄ってくる。
袋の口から、紫の小豆が刷られた紙が覗いている。
表には太い丸文字で「おはぎ」とあった。
「……誰のだろう」
私は袋を抱えて周囲を見回す。持ち主らしい人は眠っているか、スマホを見ているか。
声を上げるほどの事件ではない。
だからこそ、小説家としては、こういう小さな謎を丁寧に扱いたい。
とりあえず、袋の側面に鉛筆で小さく「返す」と書いてから、膝の上にのせた。
次の停車駅のアナウンスが流れる。気圧が変わり、鼓膜がちょっときゅっとなる。私は手帳を開いて、短い線を一本ひく。
*
私は旅をしている小説家だが、手帳を開いていた。
斜め前の女性がこちらを見て、すぐに視線を外した。
ふと、開いている手帳を見ると「返す」と書いてある。
膝の上には茶色い紙袋。袋にも同じ文字がある。
ああ、そうか。
私は満面の笑みで笑顔を「返した」。
袋を少し開けると、袋の口から、紫の小豆が刷られた紙が覗き、「おはぎ」と書いてあった。
どうやら「おはぎ」を買っていたらしい。
「おはぎ」を食べ始めると、斜め前の女性がこちらを凝視して驚いた顔をする。
笑顔が足りなかったか。
私はさらに満面の笑みで笑顔を「返した」。
「おはぎ」を食べ終え、空になった袋を胸ポケットにしまうと、ふと車内を見回した。
通路の向こうに銀色のキャリーケースが二つ。どちらも似ている。
片方には赤い布のタグが付いているが、もう片方には何もない。
私は手帳の「返す」に二重線を引き、「赤タグ」「片方」と付け加えた。
軽い揺れ。次の駅でまた人が乗り降りする。私はページの端に短い線を引いた。
*
私は旅をしている小説家だが、口の中には「おはぎ」の味が残る。
ふと、開いている手帳を見る。
手帳のページには二重線の引かれた「返す」と「赤タグ」「片方」とある。
通路の向こうに銀色のそっくりなキャリーケースが二つ置いてある。
片方には赤い布のタグが付いている。
私は座席を立ち、赤いタグが付いたケースに近寄った。
ケースには赤いタグが二つ結ばれていた。
結び目は緩く、引けば外れるくらいだ。
ああ、なるほど。赤タグを間違えたか。
私は、ケースから赤いタグを一つ外すと、もう片方のケースに結わえた。
席に戻り、車内を見回す。
斜め前の女性は目を伏せたまま。けれど窓ガラスに映る視線は、二つのケースへ向いている。
私は手帳の「赤タグ」「片方」に二重線を引き、「斜め前の女性」と付け加えた。
*
私は旅をしている小説家だ。
車窓を見続けていると、少し眠くなってきた。
うとうとしていると、列車が次の駅に止まった。
その駅では、一人の年配の男性が赤いタグのついた銀色のキャリーケースを持ち、降りて行った。
列車がふたたび走りだす。しばらくして、次の駅に近づいた頃である。前の車両からひとりの若い男性が来た。旅行者のようだ。
「すみません、銀色のキャリーケース、見ませんでしたか。赤いタグを目印にしていたんですが、中身が入れ替わってまして……」
声は落ち着いているが、不安が混じっている。
私は手帳を見てから、赤いタグのついたケースに視線を移した。
落ち着かないスーツの男が、わずかに体を固くした。
手帳のページには二重線の引かれた「返す」「赤タグ」「片方」と、「斜め前の女性」とある。
ふむ。
「あの女性が借りたようです」
っと、斜め前の女性を指さした。
若い男性が、斜め前の女性に声を荒げた。
「……あなたですよね。中身を入れ替えたのは!」
車内がわずかにざわめく。
若い男性がさらに声を強める。
「赤いタグを付け替えたでしょう? 駅員さんを呼びますよ!」
と、その時だった。次の停車駅に滑り込むと同時に、制服姿の駅員が二人入ってきた。彼らは事情を知っているかのように迷いなく女性の前に立ち、低い声で言う。
「少しご同行願えますか」
女性は駅員に腕を取られた瞬間、弾かれるように声を上げた。
「ち、違います! 私じゃありません! 触ってもいないんです!」
女性は駅員に腕を軽く取られ、通路を進んでいく。赤いタグの付いたキャリーケースが転がるように引きずられていった。
若い男性はなおも言葉を投げかける。
「中身をどうして……返してください!」
斜め前の座席から立ち上がり、必死に訴える。
若い男性はなおも詰め寄るように叫んだ。
「じゃあどうしてタグが入れ替わってるんです! あなたしかいなかった!」
車内の視線が一斉に彼女へ注がれる。
女性は真っ赤になった顔を左右に振りながら、駅員に引かれて通路を歩く。
「違う、違うんですってば! あれは……!」
女性は振り返り、私の方を一瞬だけ見た。
その目は懇願にも似ていた。
私は思わず、手帳を開いて鉛筆を走らせる。
手帳の「斜め前の女性」に二重線を引き、「事件解決」と書き加えると、ページの端にまた短い線を引いた。
*
私は旅をしている小説家だ。
胸ポケットがガサガサするので調べると、茶色の紙袋が入っていた。ゴミを入れていたらしい。
列車はゆるやかに減速をはじめ、終点のアナウンスが流れる。
手帳を開くと、最後に記された「事件解決」の文字が目に入る。
何か事件が起こったのか、と一瞬戸惑うが、もう確かめようがない。
列車が止まり、扉が開く。
乗客たちが次々とホームに降りていく中で、入口に杖をついた老婦人が立っていた。
「すみません……どなたか、茶色い袋を見ませんでしたか。おはぎが入っていたんですけれど」
その声は、長旅で疲れたようにかすれていた。
私は胸ポケットに残る紙袋を思い出す。けれど、すでに空だ。
老婦人は私の顔を覗き込むように見てきた。
――記憶は曖昧だ。だが、手帳には「返す」と二重線を引いた跡だけが残っている。
私は軽く首を振り、静かに答えた。
「知りません」
老婦人は「あら……そう」とつぶやき、視線を落とす。
私は手帳を閉じ、列車を降りた。
外の空気は澄んでいて、午後の光がホームに広がっている。
私の旅は、ここからまた続くのだろう。
(終)




