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旅をしている小説家

 私は旅をしている小説家だ。


 最初にルールを示しておこう。


 『*』を越えると、私は『*』以前の記憶を失う。

 記憶を失っても基本的な事柄、『私は小説家である』、『旅をしている』という事は忘れない。

 手帳に書いた事柄は消えない。

 私は、私が『*』で記憶を失うことを知っている。


 では、これらを踏まえて、ある旅の途中で出会った事件について語ろう。

 


 私は旅をしている小説家だ。

 今日は列車に乗って旅をしている。特に急ぐ旅でも無いので、乗っているのは各駅停車だ。


 各駅停車の車窓は、洗い立てのシーツみたいな雲をゆっくり引きずっている。

 昼下がりの車内の静けさと、テンポ良い電車の揺れで、少し眠くなってきた。


 すると、進行方向右側の窓の上の網棚にあった茶色い紙袋がひとつ、ころんと転がりだした。棚の隅で止まらず、つうっと私の肩口にまで寄ってくる。


 袋の口から、紫の小豆が刷られた紙が覗いている。

 表には太い丸文字で「おはぎ」とあった。


「……誰のだろう」


 私は袋を抱えて周囲を見回す。持ち主らしい人は眠っているか、スマホを見ているか。

 声を上げるほどの事件ではない。


 だからこそ、小説家としては、こういう小さな謎を丁寧に扱いたい。

 とりあえず、袋の側面に鉛筆で小さく「返す」と書いてから、膝の上にのせた。


 次の停車駅のアナウンスが流れる。気圧が変わり、鼓膜がちょっときゅっとなる。私は手帳を開いて、短い線を一本ひく。



 私は旅をしている小説家だが、手帳を開いていた。

 斜め前の女性がこちらを見て、すぐに視線を外した。


 ふと、開いている手帳を見ると「返す」と書いてある。

 膝の上には茶色い紙袋。袋にも同じ文字がある。


 ああ、そうか。


 私は満面の笑みで笑顔を「返した」。


 袋を少し開けると、袋の口から、紫の小豆が刷られた紙が覗き、「おはぎ」と書いてあった。

 どうやら「おはぎ」を買っていたらしい。


 「おはぎ」を食べ始めると、斜め前の女性がこちらを凝視して驚いた顔をする。


 笑顔が足りなかったか。


 私はさらに満面の笑みで笑顔を「返した」。

 「おはぎ」を食べ終え、空になった袋を胸ポケットにしまうと、ふと車内を見回した。


 通路の向こうに銀色のキャリーケースが二つ。どちらも似ている。

 片方には赤い布のタグが付いているが、もう片方には何もない。

 私は手帳の「返す」に二重線を引き、「赤タグ」「片方」と付け加えた。

 軽い揺れ。次の駅でまた人が乗り降りする。私はページの端に短い線を引いた。



 私は旅をしている小説家だが、口の中には「おはぎ」の味が残る。

 ふと、開いている手帳を見る。

 手帳のページには二重線の引かれた「返す」と「赤タグ」「片方」とある。


 通路の向こうに銀色のそっくりなキャリーケースが二つ置いてある。

 片方には赤い布のタグが付いている。


 私は座席を立ち、赤いタグが付いたケースに近寄った。

 ケースには赤いタグが二つ結ばれていた。

 結び目は緩く、引けば外れるくらいだ。


 ああ、なるほど。赤タグを間違えたか。


 私は、ケースから赤いタグを一つ外すと、もう片方のケースに結わえた。


 席に戻り、車内を見回す。

 斜め前の女性は目を伏せたまま。けれど窓ガラスに映る視線は、二つのケースへ向いている。

 私は手帳の「赤タグ」「片方」に二重線を引き、「斜め前の女性」と付け加えた。



 私は旅をしている小説家だ。

 車窓を見続けていると、少し眠くなってきた。


 うとうとしていると、列車が次の駅に止まった。

 その駅では、一人の年配の男性が赤いタグのついた銀色のキャリーケースを持ち、降りて行った。


 列車がふたたび走りだす。しばらくして、次の駅に近づいた頃である。前の車両からひとりの若い男性が来た。旅行者のようだ。


 「すみません、銀色のキャリーケース、見ませんでしたか。赤いタグを目印にしていたんですが、中身が入れ替わってまして……」

 声は落ち着いているが、不安が混じっている。


 私は手帳を見てから、赤いタグのついたケースに視線を移した。

 落ち着かないスーツの男が、わずかに体を固くした。


 手帳のページには二重線の引かれた「返す」「赤タグ」「片方」と、「斜め前の女性」とある。


 ふむ。


 「あの女性が借りたようです」


 っと、斜め前の女性を指さした。

 若い男性が、斜め前の女性に声を荒げた。


「……あなたですよね。中身を入れ替えたのは!」


 車内がわずかにざわめく。


 若い男性がさらに声を強める。

「赤いタグを付け替えたでしょう? 駅員さんを呼びますよ!」


 と、その時だった。次の停車駅に滑り込むと同時に、制服姿の駅員が二人入ってきた。彼らは事情を知っているかのように迷いなく女性の前に立ち、低い声で言う。


「少しご同行願えますか」


 女性は駅員に腕を取られた瞬間、弾かれるように声を上げた。


「ち、違います! 私じゃありません! 触ってもいないんです!」


女性は駅員に腕を軽く取られ、通路を進んでいく。赤いタグの付いたキャリーケースが転がるように引きずられていった。

 若い男性はなおも言葉を投げかける。


「中身をどうして……返してください!」


 斜め前の座席から立ち上がり、必死に訴える。

 若い男性はなおも詰め寄るように叫んだ。


「じゃあどうしてタグが入れ替わってるんです! あなたしかいなかった!」


 車内の視線が一斉に彼女へ注がれる。

 女性は真っ赤になった顔を左右に振りながら、駅員に引かれて通路を歩く。


「違う、違うんですってば! あれは……!」


 女性は振り返り、私の方を一瞬だけ見た。


 その目は懇願にも似ていた。


 私は思わず、手帳を開いて鉛筆を走らせる。

 手帳の「斜め前の女性」に二重線を引き、「事件解決」と書き加えると、ページの端にまた短い線を引いた。



 私は旅をしている小説家だ。

 胸ポケットがガサガサするので調べると、茶色の紙袋が入っていた。ゴミを入れていたらしい。


 列車はゆるやかに減速をはじめ、終点のアナウンスが流れる。


 手帳を開くと、最後に記された「事件解決」の文字が目に入る。

 何か事件が起こったのか、と一瞬戸惑うが、もう確かめようがない。


 列車が止まり、扉が開く。

 乗客たちが次々とホームに降りていく中で、入口に杖をついた老婦人が立っていた。


「すみません……どなたか、茶色い袋を見ませんでしたか。おはぎが入っていたんですけれど」


 その声は、長旅で疲れたようにかすれていた。

 私は胸ポケットに残る紙袋を思い出す。けれど、すでに空だ。

 老婦人は私の顔を覗き込むように見てきた。


 ――記憶は曖昧だ。だが、手帳には「返す」と二重線を引いた跡だけが残っている。


 私は軽く首を振り、静かに答えた。


「知りません」


 老婦人は「あら……そう」とつぶやき、視線を落とす。

 私は手帳を閉じ、列車を降りた。


 外の空気は澄んでいて、午後の光がホームに広がっている。

 私の旅は、ここからまた続くのだろう。


(終)

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