オウエンへの旅
朝靄が街の輪郭を柔らかくぼかす時刻、僕は重い扉の前に立っていた。
隣のアパートに住む彼を誘うための旅は、まるで未踏の地への遠征のように、僕の心をざわつかせる。
目的地は、『オウエイ』と呼ばれる場所だ。正確な発音は我々には難しく、地元の者でないと正しく伝えられない。
そこは、洗練された魂たちが集い、創造の炎を灯す聖域だと聞く。だが、その道程は容易ではない。隣の彼、ジーンを口説き落とすのは、まるで気難しい外交官を交渉のテーブルに着かせるようなものだった。
ジーンは、いつも窓辺で本を読み、どこか遠い世界に心を預けている男だ。彼の部屋は、古いレコードと埃っぽい哲学書の香りに満ち、まるで時間が止まったような空間だった。僕が彼を『オウエイ』に誘おうと決めたのは、昨夜、街灯の下で交わした短い会話がきっかけだった。「何か新しいことを始めたい」と彼が呟いた瞬間、僕の胸に火が灯った。『オウエイ』なら、彼の眠れる情熱を呼び覚ませるかもしれない。
朝の7時、僕は彼の部屋のドアを叩いた。鈍い音が廊下に響き、しばらくしてドアがわずかに開く。ジーンの顔が現れ、眠そうな目で僕を見た。「何だ、こんな朝早くに」と彼は言う。声には、どこか疲れた貴族のような響きがあった。
「ジーン、今日、『オウエイ』に行くんだ。一緒に来ないか?」
僕の声は、まるで遠征隊のリーダーが仲間を鼓舞するような勢いを持たせたつもりだった。だが、彼は眉をひそめ、ドアの隙間から半身を隠したまま答えた。
「『オウエイ』? あの、芸術家気取りの連中が集まる場所か? 面倒だな。今日は本を読みたい気分なんだ」
ここで引き下がるわけにはいかない。僕は、旅の準備を整える冒険者のように、言葉を慎重に選んだ。
「ジーン、君が昨日言っていたじゃないか。新しい何かが必要だって。『オウエイ』には、君の知らない世界が待ってる。行ってみないと、どんなインスピレーションが得られるか分からないよ。」
彼は一瞬、目を細めた。まるで、僕の言葉が彼の心の奥に隠された鍵穴に触れたかのようだった。
「…まあ、考えるよ」
と彼は呟き、ドアを閉めた。勝利ではなかったが、完全な敗北でもなかった。僕は第一の関門を突破した気分で、アパートの階段を降りた。
*
『オウエイ』への道は、都市という名の迷宮を抜ける必要があった。僕の住むこの街は、まるで古代の遺跡のように、入り組んだ路地と予期せぬ障害に満ちている。ジーンを連れ出す前に、僕は彼の心を動かすための「贈り物」を用意する必要があった。彼の心を掴むには、ただの言葉では足りない。何か、特別なものが必要だ。
街角のマーケットに向かう途中、僕は「吟遊詩人の広場」と呼ばれる場所に差し掛かった。そこでは、年老いたバリスタが、まるで魔法使いのようにコーヒーを淹れていた。彼の小さなキオスクは、香ばしい豆の香りと、遠くの異国を思わせるスパイスの匂いで満たされていた。僕は彼に近づき、ジーンの心を溶かすための「秘薬」を求めた。
「若者、何か特別なものを探しているな?」
バリスタは、まるで僕の魂を見透かすような目で言った。
「友人を誘うための、特別なコーヒーを。心を動かすような、強いやつを。」
彼はニヤリと笑い、棚の奥から小さな瓶を取り出した。
「これは、エチオピアの豆だ。野生の果実のような酸味と、深い土の香り。これを飲めば、どんな頑固者も旅に出たくなる」
僕は金貨を差し出し、その「秘薬」を受け取った。瓶の中の豆は、まるで小さな宝石のように輝いていた。これでジーンの心を動かせるかもしれない。僕は再び彼のアパートに戻り、ドアを叩いた。今度は、少し自信を持って。
「ジーン、これを見てくれ。特別なコーヒーだ。一緒に『オウエイ』で飲もう。こんな朝に、こんな香りを味わうのはどうだ?」
彼は瓶を手に取り、鼻を近づけた。かすかな笑みが彼の唇に浮かんだ。
「コーヒーか……コーヒーは苦手だが、慣れたいと思っていた。砂糖を大目に入れるなら、付き合ってやってもいい」
ついに、ジーンが旅の第一歩を踏み出した瞬間だった。
*
『オウエイ』への道は、街を二分する大きな運河を渡らねばならない。運河のほとりには、古びた船着き場があり、そこには「渡し守」と呼ばれる老女がいた。彼女は、まるで神話の門番のように、旅人を試すような目でこちらを見ていた。彼女の小さな舟に乗るには、ただ金を払うだけでは足りない。何か、心を動かす物語が必要だった。
「若者たち、どこへ行く?」
彼女は、低い声で尋ねた。
「『オウエイ』へ。創造の火を灯しに行くんだ」
と僕は答えた。ジーンは黙って僕の後ろに立っていたが、彼の目には、かすかな好奇心が宿っているように見えた。
「ふむ。では、物語を聞かせておくれ。なぜ『オウエイ』に行きたい? どんな火を灯したいんだ?」
僕は一瞬、言葉に詰まった。だが、ジーンの視線を感じ、胸の奥から言葉が溢れてきた。「僕たちは、日常の灰の中から何か新しいものを生み出したい。『オウエイ』には、色、音、言葉…すべてが交錯する場所がある。そこで僕たちは、自分たちの物語を紡ぎたいんだ。」
渡し守は目を細め、ゆっくりと頷いた。
「悪くない。乗れ」
彼女の舟は、まるで水面を滑るように進んだ。運河の水は、朝陽を反射して金色に輝き、まるで僕たちの旅を祝福しているようだった。ジーンは、舟の縁に手を置いて水面を見つめ、静かに呟いた。
「こんな気分、久しぶりだ」
*
運河を渡り、街の外れにたどり着いた。そこには、『オウエイ』が静かに佇んでいた。古い石造りの建物は、まるで中世の修道院のように荘厳で、蔦が絡まる壁には、過去の芸術家たちの情熱が刻まれているようだった。だが、門は固く閉ざされ、門番が立っていた。彼は、黒いコートをまとい、まるで審判者のような雰囲気を漂わせていた。
「ここに入るには、創造の証を見せなさい」
と彼は言った。
僕はジーンを見た。彼は一瞬、たじろいだが、ポケットから小さなノートを取り出した。そこには、彼が昨夜書いた詩の断片が綴られていた。彼はそれを門番に差し出し、静かに言った。
「これが、僕の火だ」
門番はノートを手に取り、ページをめくった。長い沈黙の後、彼は頷き、門を開けた。
「入れ。だが、覚えておけ。ここでは、魂をさらけ出す覚悟が必要だ。」
『オウエイ』の中は、まるで別世界だった。砂を使って造形に浸る人々、菅楽器の響き、詩人たちが囁く言葉。すべてが混ざり合い、創造の嵐を生み出していた。ジーンは、初めてその場に足を踏み入れ、目を輝かせた。
「ここ…悪くないな」
と彼は呟き、僕に微笑んだ。
*
僕たちは『オウエイ』で数時間を過ごし、絵を描き、詩を読み、音楽に耳を傾けた。ジーンは、まるで新しい自分を見つけたかのように、生き生きとしていた。帰り道、運河のほとりで彼は言った。
「お前、よくこんな場所に誘ってくれたな。ありがとう」
僕は笑って答えた。
「なあ、ジーン。次はもっとすごいところに行こうぜ」
彼は笑い、僕の肩を軽く叩いた。その瞬間、僕たちの旅は終わった。
*
「じゅん~?」
「あ、お母さんだ、じゃあ帰るね」
ジーンが母親と呼ぶ女性が、そこにいた。
「また公園に来ていたのね。そろそろ帰りましょう」
『オウエイ』正しくは公園と発音する用だ。まだ難しいかな。こうして隣に住む『ジーン』――じゅんと僕、たった7歳の冒険者たちの旅は終わった。
街外れの公園を『オウエイ』と呼び、運河はただの用水路、渡し守は近所のおばさん、門番は公園の管理人だった。でも、僕たちの心の中では、それは確かに大人の旅だった。『オウエイ』へのオデッセイは、これからも続く。




