満月の裏切り
春の夜、俺は港町の海岸で、人魚を拾った。
銀色の尾びれ、濡れた髪から滴るしずく。絵本の中から抜け出してきたような美しい女だった。
「助けて……」
その一言で俺は迷わず背負い、狭いアパートへ連れ帰った。
浴槽に海水を張り、彼女はそこにすっぽり収まった。名前はマーレ。少し人見知りだが笑うと小さな犬歯が覗き、そのたび心臓が跳ねた。
海の話、仲間の話をした後、マーレは俺に「次の満月の日には海に帰らないといけない」という話をした。
それならば、という事で俺はマーレに街を案内することにした。
*
俺はマーレの尾を隠すために長いスカートとサンダルを用意した。
初めての陸歩きに「わあ、地面ってこんなに固いんだ!」と感動し、地面をパンパンと叩いていた。俺はフフッっと笑い、その姿を愛らしいと思った。
雑貨屋では、貝殻モチーフの髪飾りを選び、店員に褒められて照れていた。
「よく似合う! 可愛いよ」
「ありがとう。うれしいわ」
港のカフェではクリームソーダを飲んだ。
「海水より甘い!」
「人魚には海水が甘いの?」
「うーん……塩辛い時もあるよ」
「へー」
夜になって、夏祭りが始まった。浴衣をレンタルし、マーレに着せる。マーレは浴衣の着付けで大騒ぎだった。
「この服、スースーする」
「うーん、尾が寒い?」
「ちょっとね」
金魚すくいでは、金魚を海に返してしまおうとして屋台の親父に怒られていた。
「だって可哀想じゃない! 早く海に返してあげないと」
「待って! 金魚は海じゃ生きられないから!」
「え……人間も?」
「も、もちろん!」
「うーん、可哀想……」
花火が始まった。
花火が上がるたび「空が爆発してる!」と驚き、俺の袖を掴んで離さなかった。花火で映えるマーレの顔は、美しかった。
「ん? 花火見ないの? 綺麗なのに」
「こっちの方が綺麗で……」
「フフフ、変なの」
季節が進むにつれ、彼女は人間社会にも慣れ、スカートで尾を隠して街にも出た。隣町のカフェでケーキを食べては「甘いのって素敵」と笑った。
俺は完全に恋に落ちていた。
――こんな日々が、ずっと続くと思っていた。
*
そして満月の夜。
浜辺で俺は彼女の手を握った。
「帰らないでくれ」
「……いいの? なら、あなたのそばにいる」
俺たちはいつまでも抱き合い、何度もキスをした。
世界が終わりになっても二人を引き裂けないと思った。
*
翌朝、マーレのベッドには中年の男が寝ていた。
「ん……おっす」
声は低く、肩幅は倍。腹は小太り。
人魚は寿命こそ短いが、ある年齢で性転換するらしい。
しかも今日が、ちょうどその日だったという。
さらに残酷なことに、足も生えていた。つまり、もう浴槽にこもる必要もない。
*
一週間後。
俺の部屋には、昼間っからソファでだらけるオジサンがいた。
Tシャツ短パン、腹は出ていて、手には袋菓子。
「なあ、冷蔵庫のビール取ってくれよ」
「自分で取れ!」
足があるんだから。
しかも体臭が、潮と魚とおっさんの汗を混ぜたような強烈さ。
風呂は二日に一度しか入らず、部屋は常に磯臭い。
「人間はもっとちゃんと洗うんだぞ!」と言えば、
「海じゃこれが普通なんだよ」と返される。
外出も面倒がり、スーパーに行けば刺身コーナーで延々と立ち止まり「こいつ、海で会った」とか言い出す。周りの客は距離をとる。俺も一緒にいたくない。
*
ロマンチックだったはずの生活は、今や我慢大会になった。
恋心はどこへやら、代わりに出てくるのはため息ばかり。
でも、不思議と追い出せなかった。
夜、ベランダで缶ビールを渡すと、オジサンは昔の海の話をした。
「俺さ、人間になったらもっとかっこよく生きる予定だったんだ。なんでこんなになっちゃたんかなあ……」
「……」
「……キスする?」
「……いや、やめとく……」
「……そっかあ、そっかあ」
「……」
くだらない話の合間、ほんの一瞬だけ、あの頃のマーレの面影が瞳に浮かぶ。
*
冬の満月の夜。
オジサンは立ち上がり、珍しく真面目な顔をした。
「そろそろ潮時だ。海に帰るよ」
「……そうか」
浜辺で、背中が波に消えるのを見送った。
潮風と一緒に、あの独特な磯臭さも遠ざかっていった。
胸の中には、やっぱり恋とも友情とも言えない、不思議な空洞が残った。




