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満月の裏切り

 春の夜、俺は港町の海岸で、人魚を拾った。

 銀色の尾びれ、濡れた髪から滴るしずく。絵本の中から抜け出してきたような美しい女だった。


「助けて……」


 その一言で俺は迷わず背負い、狭いアパートへ連れ帰った。


 浴槽に海水を張り、彼女はそこにすっぽり収まった。名前はマーレ。少し人見知りだが笑うと小さな犬歯が覗き、そのたび心臓が跳ねた。


 海の話、仲間の話をした後、マーレは俺に「次の満月の日には海に帰らないといけない」という話をした。


 それならば、という事で俺はマーレに街を案内することにした。



 俺はマーレの尾を隠すために長いスカートとサンダルを用意した。


 初めての陸歩きに「わあ、地面ってこんなに固いんだ!」と感動し、地面をパンパンと叩いていた。俺はフフッっと笑い、その姿を愛らしいと思った。


 雑貨屋では、貝殻モチーフの髪飾りを選び、店員に褒められて照れていた。


「よく似合う! 可愛いよ」

「ありがとう。うれしいわ」


 港のカフェではクリームソーダを飲んだ。


「海水より甘い!」

「人魚には海水が甘いの?」

「うーん……塩辛い時もあるよ」

「へー」


 夜になって、夏祭りが始まった。浴衣をレンタルし、マーレに着せる。マーレは浴衣の着付けで大騒ぎだった。


「この服、スースーする」

「うーん、尾が寒い?」

「ちょっとね」


 金魚すくいでは、金魚を海に返してしまおうとして屋台の親父に怒られていた。


「だって可哀想じゃない! 早く海に返してあげないと」

「待って! 金魚は海じゃ生きられないから!」

「え……人間も?」

「も、もちろん!」

「うーん、可哀想……」


 花火が始まった。

 花火が上がるたび「空が爆発してる!」と驚き、俺の袖を掴んで離さなかった。花火で映えるマーレの顔は、美しかった。


「ん? 花火見ないの? 綺麗なのに」

「こっちの方が綺麗で……」

「フフフ、変なの」


 季節が進むにつれ、彼女は人間社会にも慣れ、スカートで尾を隠して街にも出た。隣町のカフェでケーキを食べては「甘いのって素敵」と笑った。


 俺は完全に恋に落ちていた。


 ――こんな日々が、ずっと続くと思っていた。



 そして満月の夜。

 浜辺で俺は彼女の手を握った。


「帰らないでくれ」

「……いいの? なら、あなたのそばにいる」


 俺たちはいつまでも抱き合い、何度もキスをした。

 世界が終わりになっても二人を引き裂けないと思った。



 翌朝、マーレのベッドには中年の男が寝ていた。


「ん……おっす」


 声は低く、肩幅は倍。腹は小太り。


 人魚は寿命こそ短いが、ある年齢で性転換するらしい。

 しかも今日が、ちょうどその日だったという。


 さらに残酷なことに、足も生えていた。つまり、もう浴槽にこもる必要もない。



 一週間後。

 俺の部屋には、昼間っからソファでだらけるオジサンがいた。

 Tシャツ短パン、腹は出ていて、手には袋菓子。


「なあ、冷蔵庫のビール取ってくれよ」

「自分で取れ!」


 足があるんだから。


 しかも体臭が、潮と魚とおっさんの汗を混ぜたような強烈さ。

 風呂は二日に一度しか入らず、部屋は常に磯臭い。


「人間はもっとちゃんと洗うんだぞ!」と言えば、

「海じゃこれが普通なんだよ」と返される。


 外出も面倒がり、スーパーに行けば刺身コーナーで延々と立ち止まり「こいつ、海で会った」とか言い出す。周りの客は距離をとる。俺も一緒にいたくない。



 ロマンチックだったはずの生活は、今や我慢大会になった。

 恋心はどこへやら、代わりに出てくるのはため息ばかり。

 でも、不思議と追い出せなかった。


 夜、ベランダで缶ビールを渡すと、オジサンは昔の海の話をした。


「俺さ、人間になったらもっとかっこよく生きる予定だったんだ。なんでこんなになっちゃたんかなあ……」

「……」

「……キスする?」

「……いや、やめとく……」

「……そっかあ、そっかあ」

「……」


 くだらない話の合間、ほんの一瞬だけ、あの頃のマーレの面影が瞳に浮かぶ。



 冬の満月の夜。

 オジサンは立ち上がり、珍しく真面目な顔をした。


「そろそろ潮時だ。海に帰るよ」

「……そうか」


 浜辺で、背中が波に消えるのを見送った。

 潮風と一緒に、あの独特な磯臭さも遠ざかっていった。

 胸の中には、やっぱり恋とも友情とも言えない、不思議な空洞が残った。


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