3000倍になった嗅覚
朝、目を覚ました瞬間、世界が変わっていた。
いや、正確に言えば、「におい」が変わっていた。目が覚めた瞬間から、部屋中のあらゆる匂いが洪水のように鼻を襲ってきたのだ。
「……なにこれ……うっ……!」
寝起きの脳が混乱した。香りの嵐。布団のダニ、壁の塗料、枕の皮脂、洗い残した柔軟剤、昨晩の焼肉の残り香、何日か前に落とした靴下の発酵臭――すべてが異様な鮮明さで鼻孔に飛び込んでくる。まるで、鼻がカメラのズーム機能を最大にしたかのように。
「うわっ……!」
慌てて飛び起きた。部屋の空気すら吸うのが苦しい。鼻にフィルターをかけたい。いや、いっそ閉じたい。でも開けてしまう。そう、そこにあるから。
「うぅぅ……気持ち悪い……」
隣のベッドでもがく声。同棲している彼女だった。彼女も同じ状態のようで、布団の中で身を縮めていた。
「お前も……? 鼻が、なんか変……?」
「変ってレベルじゃないよ……! くさいっていうか、強いっていうか……!」
僕たちは顔を見合わせたが、すぐに顔をそむけた。
「う、うわ、ちょ、近いと……やばい……。なんか、体臭が……立体的……?」
「うわーん! 朝から何言ってんの!? わたし臭いってこと!?」
「ちがう! そういう意味じゃなくて!」
「ちがうってなに!? でもわたしもあんたの口臭で死ぬかと思ったよ!? 寝起きのコーヒーと歯磨きの間みたいな……なんか、雑巾を煮詰めたような……!」
「言い過ぎだろ!?」
「事実だよ!!」
怒りと羞恥と、恐怖と苦しさが入り混じる朝。布団の上でふたり、顔を背けながら呻いていると、足元で「にゃあ」と鳴く声。
「あ、やばい……モカ……!」
飼い猫のモカが、ベッドにひょいと飛び乗ってきた。普段なら愛らしい瞬間。だが――
「く、くさい……」
「うぅぅ……猫なのに魚介系と獣系と便所系がミックスされて……っ!」
「モカ! ダメ! 来ないでええええ!!」
モカは何も悪くない。ただ、彼の毛皮には昨晩トイレにこもった際のアンモニアの名残が、砂の中で寝た時の埃が、そして昨日僕がスリスリした時についた僕自身の匂いが、全て残っていた。
それらが、3000倍に拡張された嗅覚で襲ってくる。
「モカ! お願い、ベランダに出てて……!」
彼女が懇願するように窓を開け、モカをそっと運び出した。モカはきょとんとしていたが、空気の異変を察知したのか、静かに丸まった。
*
それから数時間、僕はひとりでトイレに閉じこもっていた。なぜなら、どこに行っても「匂い」がありすぎて耐えられなかったからだ。
トイレの中も、決して良い匂いがするわけではない。いや、むしろ悪い。壁の掃除残しのカビ、床の隅に落ちた髪、消臭スプレーの人工的な甘さ。それらが一つ残らず鼻の奥に焼きついてくる。
だが、そこは“予測できる匂い”だけだった分、まだましだった。
スマホで「嗅覚過敏 急に」などと検索してみるが、それらしい情報はヒットしない。花粉症でも風邪でもない。むしろ、鼻が詰まってるときに戻りたい。
*
しばらくして、僕たちはマスクを3枚重ねし、さらにラベンダーのエッセンシャルオイルを内側に垂らすという臨時対応でリビングへ向かった。
「この匂い、効くね……」
「うん……鼻がちょっと麻痺するくらいがちょうどいい……」
キッチンに立ったが、冷蔵庫を開けた瞬間、地獄が始まった。
「ぎゃっ! チーズ、殺人兵器……!」
「腐ってないのに腐ってるように感じる……! おえっ……!」
食材ひとつひとつが、精密な匂い情報を放っている。牛乳は“昨日開けたばかりの微妙な酸味”、卵は“殻の薄皮の乾いた匂い”、ハムは“ビニール袋の圧迫臭”――それらが脳に直撃してきた。
「だめだ、食欲消えた……」
「同じく……でも何か食べなきゃ倒れる……」
結局、白米をラップして電子レンジで加熱し、無味の海苔で包んで、鼻をつまんで流し込んだ。
*
夕方。ようやく呼吸が少し落ち着いてきたころ、テレビをつけた。
「速報です。本日早朝より、世界各国で『嗅覚が過剰に鋭くなった』という報告が相次いでいます。WHOでは感染症の可能性を調査中ですが、空気中の異常な分子濃度や太陽フレアの影響とする説も浮上しています――SNS上でも、『食べ物の匂いが濃すぎて吐いた』『電車内が地獄』などの声が――」
画面に映し出されたのは、マスクで顔を覆う人々。街中で、匂いに耐えかねてうずくまる人、アロマショップに殺到する人、スーパーで大騒ぎになる客……。
「原因は今のところ不明ですが、何らかのウイルス、あるいは気象条件が引き起こした突然変異の可能性もあると専門家は見ています」
SNSでは「#嗅覚3000倍」がトレンド1位になっており、
> 「夫のにおいで離婚届を出した」
> 「焼肉屋が閉店ラッシュ」
> 「猫が一番やばい」
という地獄のような投稿が並んでいた。
「……俺たちだけじゃなかったんだ」
ホッとしたような、不安が深まるような、複雑な感情が胸に渦巻いた。
「これ……収まるのかな……?」
「わかんない。でも、少しは慣れてきた気がしない?」
「うん……というか、段々『匂い』を選別できるようになってきたかも……」
「たとえば……?」
「たとえば、今のあんたのにおい。朝は強すぎて苦しかったけど……今はちゃんとわかる。ラベンダーの柔軟剤と、コーヒーの香ばしさと、寝汗の名残と、あと……なんか、安心する匂い」
「それ……褒めてる?」
「もちろん」
彼女は笑った。僕も、なんだか力が抜けて笑っていた。
*
「ちょっと……ハーブティーでも淹れようか」
僕たちは、モカを部屋に戻し、空気清浄機を最大にした。
僕はキッチンへ行き、お湯を沸かし始める。ガスの燃える匂いが、いつもよりもずっと鋭く、しかし不思議と心地よく感じられた。
ハーブティーはカモミールとミントのブレンドだった。お湯を注ぐと、香りがふわりと広がる。甘さと苦さと、草の優しさが混ざった空気に包まれ、鼻の奥が心地よく刺激される。
「すごい……今まで気づかなかったけど、これ……すごく複雑で、すごく、きれい」
「うん。わたしも、ちょっとだけわかる。前は全然気づかなかったけど、今はミントとカモミール、それにレモングラスもちょっと混じってる感じがする」
「人類、今日から嗅覚民族になるのかもな」
「なんか、犬っぽいね」
ふたりでくすくす笑い合った。久しぶりに、自然な笑いだった。
カップを手に、僕たちは並んでベランダに出た。
夕暮れの空気は、夏の匂いがした。アスファルトが冷めていく匂い、どこかの家のカレー、遠くの花壇のラベンダー。
「……これから、けっこう大変だと思うよ。トイレの匂いも、満員電車も、外食も、全部きつくなる」
「うん。でも、ちゃんと話せば、だいじょうぶ」
「そうだな」
彼女の香りも、少しずつ変化していた。怒りの残り香から、安堵の気配に。少し甘くて、少し苦くて、それでも僕が大好きな香りだった。
「……今日からまた、よろしくね」
二人で並んで、ハーブティーを飲んだ。
それは、とても、静かで、香り高い、はじまりだった。




