嘘だけの世界
目覚まし時計が鳴ると同時に、男は目を開けた。時刻は午前七時ちょうど。時計は古びたデジタル式で、赤い数字が不吉に見えた。
男は独り身の中年男性。四十三歳。小さなワンルームに住み、定職もなく、隣人もいない。いや、正確には、隣人はいるが、この街では「いないこと」になっていた。
歯を磨くと、鏡の中の自分がにやりと笑った。
「今日も最高に健康だね。余命はあと四十年くらいだよ」
男は苦笑した。鏡の中の自分もまた、嘘をつく。この世界では、すべてが嘘だ。病院で「元気です」と言われたら、たいていは重病。恋人に「愛してる」と言われたら、たぶんもう別れ話の準備をしている。
だが、そんな中でも一つだけ、本当のものがきっとある――そう信じていた。それが何なのかはわからない。
男はキッチンの隅に置かれた小さな電気ポットでお湯を沸かし、インスタントの粉をカップに落とした。やがてコーヒーの湯気が立ち昇る。コーヒーをひと口すすると、微かな苦みと共に昨日の記憶が蘇った。夢のような、現実のような、曖昧な光景――
赤いドレスの女が言った。「あれは“真実”の匂いがする」
真実。それが男の心に引っかかっていた。なぜその言葉だけが、こんなにも鮮烈に残るのか。なぜか、自分の中の“何か”が、それを求めている気がする。
冷めかけたコーヒーを置き、男は立ち上がった。今日こそ、探してみようと思った。“真実”とやらを。嘘の街に、ひとつだけ残された、本当の何かを――
パン屋「ル・フー」は駅前の角、古いビルの一階にひっそりとある。毎朝、店主の老婆が並べる焼きたてのパンは、街の誰もが「不味い」と言う。だからこそ、あのパンは、きっと美味い。
上着を羽織り、鍵をかけて、男は外に出た。
部屋を出ると隣人と思われる若い女とすれ違った。派手なスーツを着込み傘を持って慌てている様子だった。女は軽く会釈をするとポツリと言った。
「ヒゲ面のいい男ね」
もちろん男にはヒゲは無い。気を良くした男はがふと考える。
いい男の方が嘘だったとしたら――
女はすれ違うと慌てて出て行った。それに続いて男も外へ向かった。
外の世界は静かだった。空は曇っているように見えたが、天気予報では「快晴」と言っていた。つまり今日は雨が降るだろう。案の定、角を曲がった瞬間にポツリと雫が落ちてきた。
「今日は快晴だねえ」
すれ違う女が笑った。だが彼女の手には新品の傘があった。
男は無言で道を歩く。顔を上げず、誰とも目を合わせない。広告の看板には「全員当たる宝くじ」「絶対裏切らない恋人」「全品半額割引セール」といった嘘が躍っていた。
信号が青になったので渡ろうとすると、すぐに赤になった。「ご通行の皆さま、ご安心ください。この横断歩道は安全です」アナウンスが流れる。だが横を見れば、昨日ここで誰かが事故に遭った形跡がまだ残っていた。
男は、信号の指示を無視して走り抜けた。足元を濡らす雨は、ぬるく、どこか懐かしい匂いがした。
やがて、男はパン屋にたどり着いた。古い木製の看板には、うっすらと「LE FOU」の文字が見える。フランス語で「狂人」という意味らしい。
「いらっしゃいませ。まずいパンしかありませんよ」
カウンターの奥に座る老婆が、笑顔で言った。
男は黙ってカゴを取った。棚には並んでいる。フランスパン、クロワッサン、チョココロネ、そして名前のない小さな丸パン。全てが、形は美しく、香りだけで胃袋を刺激する。
男は「今日のおすすめ」を選んだ。それは「まったく人気のない絶品メロンパン」だった。
会計のとき、老婆が小さな声で言った。
「……今日は、雨ですね。本当は、晴れてほしかった」
それが、この街で初めて聞いた「本音」のような気がして、男は一瞬動けなくなった。
金を払い、袋を受け取ると、彼は一礼して店を出た。
帰り道、雨は小降りになっていた。傘を差す人々の顔が、どれも作り物のように見える。
公園では子どもたちが「サッカーしようよ!」と叫んでいるが、誰一人としてボールに触れていなかった。
「この世界は小説なんだ」と、かつて誰かが言った。だが小説であるなら、読書はどこにいる?
*
男は家の近くで立ち止まると、ふと考えた。あの店で買ったパンは、本当に美味いのだろうか?
――メロンパン
当然中身はメロンパンじゃないに違いない。外側もかたく、味も塩辛いに違いない。美味しそうな匂いはするが香料をふんだんに使ってるだけ。
――きっとそうだ。もう騙されないぞ
部屋に戻り、濡れた上着を脱ぎ、男はパンの袋を開けた。温もりはまだ残っていた。
中から取り出したメロンパンは、表面がしっとりとしていて、わずかに甘い香りが漂う。
彼はテーブルに腰を下ろし、一口、かじった。
――その瞬間、何もかもが静かになった。
甘さは控えめで、外はさくさく、中はふわりと柔らかい。メロンの香料など一切使われていない、どこか懐かしい味。
男は、ふと涙ぐんだ。これは、昔、母が作ってくれたおやつの味に、少し似ていた。
誰も信じられないこの街で、ただ一つだけ、信じられる味。
男は、ゆっくりとパンを食べ続けた。口の中で広がるその小さな真実を、何度も何度も確かめるように。
食べ終えた男は、ふと立ち上がった。空腹は満たされ、心の何かが静かに満たされていた。
窓の外を見ると、相変わらずの曇天。だが、彼にはその向こうに、青空があるように思えた。
「また、明日も買いに行こう」
誰に言うでもなく、そうつぶやき、鏡の前に立った。
テレビは「世界の終わりが近い」と言っていた。スマホは「あなたは今日、最高に幸せです」と通知を出していた。
だが、彼にはもうどうでもよかった。ただ一つ、本当のものを、口にできたから。あのメロンパンの味は、少女だった頃に母と作ったものだった。
鏡の中に映る姿は、昔の自分——少女の自分。
涙が止まらなかった。ようやく自分を思い出した。
男だった彼女は電気を消し、ベッドに横になった。明日もまた、嘘の街が始まる。けれど、パンは本当だ。あの味だけは。
翌朝、彼女は目を覚ました。時計は七時ちょうどを指していた。目覚ましは鳴らなかった。だが、それが正しいように思えた。
(完)




