メガネをかけると
ジリリリリリ――ジリリリリリ――!
けたたましい目覚ましのベルが、部屋の隅で怒鳴り散らしていた。
枕をかぶっても、音は壁を突き抜けて頭蓋に響いてくる。
なんとかベッドから起き上がり、重い足取りで階下へ降りる。
リビングへ行くとさっそく……母の声が追い打ちをかけてきた。
「もう七時過ぎてるわよ! 顔洗ったの? 歯は? 制服ちゃんと着てる? 弁当忘れないでね!」
「靴下は昨日のままじゃないでしょうね!」
「今日は傘いるかもしれないから持っていきなさい!」
ベルと声が混じり合い、朝から世界はやかましさに満ちている。
耳が痛い。頭が軋む。
*
私はいつも眼鏡をかけている。
それは近視のための眼鏡ではない。これをかけると、人が――人間だけが、変わって見えるからだ。
私は枕元の眼鏡をつかみ、そっとかける。
――瞬間。
母は棒になった。
声は消え、黒い看板が棒の前に浮かんでいる。
「早く顔を洗って」
「弁当忘れないで」
「傘を持っていきなさい」
同じ言葉でも、声で押し寄せるときほどには煩わしくない。
ただの文字。平らで、冷たい。
私は席に着き、パンをかじる。
母の棒はまだ看板を光らせていた。
「牛乳も飲んで」
「靴下に穴ないでしょうね」
無音の世界で、私は小さく息を吐いた。
――やっぱり、この眼鏡がないとやっていけない。
*
学校へ向かう道。
自転車に乗る子供が横を通り過ぎる。彼は棒になり、回るタイヤだけが妙に鮮やかに見える。
サラリーマンの棒がスマホをいじりながら歩いていく。
声は一切しない。
車のエンジン音や鳥の鳴き声はそのままなのに、人間だけが音を失っていた。
教室に入ると、机に並ぶ棒たち。
「おはよう」
ひとつの棒が看板を光らせる。
私は返事をしない。鞄を机に置いて、ただ前を向く。棒はそれ以上光らなかった。
授業が始まる。先生も棒だ。
黒板にチョークを走らせる音はするが、振り向いた顔の代わりに、大きな看板に「ここ、テストに出るぞ」と浮かんだ。
クラスメイトが笑っている気配がある。机が揺れ、椅子が軋む。
でも笑い声は存在しない。無音のまま、世界は進んでいく。
昼休み。
棒たちが机を寄せ合い、看板を次々に光らせる。
「昨日のドラマ見た?」
「部活だるい」
「次の数学マジでやばい」
光っては消える文字の連鎖。まるで無音の漫才。
私はパンを食べ、窓の外を見つめる。遠くでサイレンを鳴らす救急車の音だけが鮮明に聞こえていた。
*
夕暮れの街を抜け、家のドアを開ける。
玄関には母の棒が待ち構えていた。
看板がぱっと光る。
「遅かったじゃない」
「どこに寄り道してたの」
「宿題は終わってるの?」
無音の文字が次々に現れては、消えていく。
私は靴を脱ぎ、かばんを抱えたまま廊下を通り過ぎる。
母の棒はついてきた。
「制服にアイロンかけないとダメでしょう」
「部屋、また散らかってるんじゃないの」
「テスト勉強してるの?」
声があれば、とっくに私は耳をふさいでいただろう。
けれど、看板の無機質な文字は黙って突きつけてくる。
音がないぶん、余計に逃げ場がなかった。
私は振り返らず、階段を上がる。
背中に次々と看板の光が重なり、まるで無数の標識に追い詰められているようだった。
部屋に入って扉を閉めても、しばらくは目の奥に白い文字が残像のようにちらついていた。
その夜、机に座ってノートを広げても、内容は頭に入らなかった。
眼鏡の横には小さなスライダーがある。
指先で触れると、わずかに抵抗を感じた。
私はそれを、ほんの少し上げてみた。
カチリ――。
*
翌朝
母の棒に浮かぶ看板が小さくなっていた。
「明日のお弁当、どうする?」
文字は読めるが、昨日よりも遠くにあるように感じられた。
私は返事をせず、ペンを握りしめた。
学校に着くと、看板が一斉に点滅していた。
「ノート見せて」
「昨日の課題やった?」
「席替え、どうする?」
その群れが、頭を締め付ける。
私は息を吐き、またスライダーを動かした。
カチリ。
看板がさらに小さくなり、輪郭が曖昧になる。
相手の言葉は豆粒のようで、ほとんど読めない。
それでいい。何を言っているかなんて、どうでもいいのだ。
昼休み。
棒が二人、私の机に近づく。
「今度一緒に駅前でごはん食べようよ」
看板の文字は丸みを帯びた字体で浮かぶ。だが、私は視線を逸らし、再び強度を上げた。
カチリ。
文字は細い線に変わり、意味を失った。
棒は何度か看板を光らせたが、やがて諦めて去っていった。
私はパンをかじり、窓の外だけを見つめていた。
放課後。
靴箱の前でまた誰かが近づく。
看板がちらつき、必死に何かを伝えようとしている。
けれど、強度を上げすぎてしまった私は、もう文字を読むことができなかった。
小さな光点が滲んでは消え、街灯のように瞬いているだけ。
私は立ち止まらず、そのまま歩き出した。
クラスメイトも、教師も、母親も、すべて棒。
顔がなく、声もなく、ただそこに立っているだけの存在になる。
声は聞こえない。抑揚も感情も消えている。
ただ文字だけがそこに浮かぶ。
無機質で、冷たくて、しかし私にとっては、それが何よりも楽だった。
人の声に振り回される必要がない。
表情から感情を読み取ろうとする必要もない。
煩わしいものは、すべて棒と看板に変わる。
私は静かな世界で、ただ呼吸をする。
*
夜。布団の中で、さらに指を動かした。
カチリ。
次の瞬間、世界はほとんど消えていた。
車は丸太ですらなく、黒い影が滑るだけ。
街灯も、机も、壁も、輪郭を失って白と黒の面に変わる。
人は棒ですらなくなり、ただの線。看板も現れない。
耳を澄ませても、音はしない。自分の心臓の鼓動すら遠ざかる。
私は目を開けているのか、閉じているのか分からなかった。
世界が消え、残っているのは呼吸だけ。
細く、頼りない呼吸。
――全部なくなればいい。
そう思う自分と、
――これ以上は戻れない。
そう囁く感覚がせめぎ合う。
時間の流れも消えて、ただ無の中に漂っていた。
*
どれくらいそうしていたのだろう。
突然、胸の奥に寂しさが湧いた。
からっぽの世界に一人だけでいると、自分の存在すら曖昧になる。
「……あの人は、どうしてるんだろう」
頭に浮かんだのは、クラスで毎朝「おはよう」と看板を光らせていた棒。
うるさいと思っていたはずなのに、今はあの看板の光が恋しかった。
私は震える指で、眼鏡の横を下げた。
カチリ。
白と黒の面に色が戻る。
遠くの風の気配、鳥の声、丸太の車の転がる音。
少しずつ、世界が形を取り戻す。
さらにもう一段階。
カチリ。
看板が再び現れ、文字が浮かぶ。
「おやすみ」
母の棒がドアの前に立ち、看板にそう書いていた。
その文字が、今は愛おしかった。
声はなく、感情もわからない。
けれど、この棒と看板がある世界こそ、私の帰る場所なのだと実感した。
胸の奥に、安堵と痛みが同時に走る。
完全に消すことはできない。
消してしまえば、自分さえも消えてしまう。
だから私は強度を下げ、戻ってきた。
煩わしさと寂しさのあいだで揺れながら。
(終)




