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メガネをかけると

 ジリリリリリ――ジリリリリリ――!


 けたたましい目覚ましのベルが、部屋の隅で怒鳴り散らしていた。

 枕をかぶっても、音は壁を突き抜けて頭蓋に響いてくる。


 なんとかベッドから起き上がり、重い足取りで階下へ降りる。


 リビングへ行くとさっそく……母の声が追い打ちをかけてきた。

 「もう七時過ぎてるわよ! 顔洗ったの? 歯は? 制服ちゃんと着てる? 弁当忘れないでね!」

 「靴下は昨日のままじゃないでしょうね!」

 「今日は傘いるかもしれないから持っていきなさい!」


 ベルと声が混じり合い、朝から世界はやかましさに満ちている。

 耳が痛い。頭が軋む。



 私はいつも眼鏡をかけている。

 それは近視のための眼鏡ではない。これをかけると、人が――人間だけが、変わって見えるからだ。


 私は枕元の眼鏡をつかみ、そっとかける。


 ――瞬間。


 母は棒になった。

 声は消え、黒い看板が棒の前に浮かんでいる。


 「早く顔を洗って」

 「弁当忘れないで」

 「傘を持っていきなさい」


 同じ言葉でも、声で押し寄せるときほどには煩わしくない。

 ただの文字。平らで、冷たい。


 私は席に着き、パンをかじる。

 母の棒はまだ看板を光らせていた。


 「牛乳も飲んで」

 「靴下に穴ないでしょうね」


 無音の世界で、私は小さく息を吐いた。

 ――やっぱり、この眼鏡がないとやっていけない。



 学校へ向かう道。


 自転車に乗る子供が横を通り過ぎる。彼は棒になり、回るタイヤだけが妙に鮮やかに見える。


 サラリーマンの棒がスマホをいじりながら歩いていく。


 声は一切しない。

 車のエンジン音や鳥の鳴き声はそのままなのに、人間だけが音を失っていた。


 教室に入ると、机に並ぶ棒たち。

 「おはよう」

 ひとつの棒が看板を光らせる。

 私は返事をしない。鞄を机に置いて、ただ前を向く。棒はそれ以上光らなかった。


 授業が始まる。先生も棒だ。

 黒板にチョークを走らせる音はするが、振り向いた顔の代わりに、大きな看板に「ここ、テストに出るぞ」と浮かんだ。

 クラスメイトが笑っている気配がある。机が揺れ、椅子が軋む。

 でも笑い声は存在しない。無音のまま、世界は進んでいく。


 昼休み。

 棒たちが机を寄せ合い、看板を次々に光らせる。


 「昨日のドラマ見た?」

 「部活だるい」

 「次の数学マジでやばい」


 光っては消える文字の連鎖。まるで無音の漫才。

 私はパンを食べ、窓の外を見つめる。遠くでサイレンを鳴らす救急車の音だけが鮮明に聞こえていた。



 夕暮れの街を抜け、家のドアを開ける。

 玄関には母の棒が待ち構えていた。

 看板がぱっと光る。


 「遅かったじゃない」

 「どこに寄り道してたの」

 「宿題は終わってるの?」


 無音の文字が次々に現れては、消えていく。

 私は靴を脱ぎ、かばんを抱えたまま廊下を通り過ぎる。


 母の棒はついてきた。

 「制服にアイロンかけないとダメでしょう」

 「部屋、また散らかってるんじゃないの」

 「テスト勉強してるの?」


 声があれば、とっくに私は耳をふさいでいただろう。

 けれど、看板の無機質な文字は黙って突きつけてくる。

 音がないぶん、余計に逃げ場がなかった。


 私は振り返らず、階段を上がる。

 背中に次々と看板の光が重なり、まるで無数の標識に追い詰められているようだった。


 部屋に入って扉を閉めても、しばらくは目の奥に白い文字が残像のようにちらついていた。


 その夜、机に座ってノートを広げても、内容は頭に入らなかった。

 眼鏡の横には小さなスライダーがある。

 指先で触れると、わずかに抵抗を感じた。


 私はそれを、ほんの少し上げてみた。


 カチリ――。



 翌朝

 母の棒に浮かぶ看板が小さくなっていた。


 「明日のお弁当、どうする?」

 文字は読めるが、昨日よりも遠くにあるように感じられた。

 私は返事をせず、ペンを握りしめた。


 学校に着くと、看板が一斉に点滅していた。

 「ノート見せて」

 「昨日の課題やった?」

 「席替え、どうする?」

 その群れが、頭を締め付ける。


 私は息を吐き、またスライダーを動かした。


 カチリ。


 看板がさらに小さくなり、輪郭が曖昧になる。

 相手の言葉は豆粒のようで、ほとんど読めない。

 それでいい。何を言っているかなんて、どうでもいいのだ。


 昼休み。

 棒が二人、私の机に近づく。

 「今度一緒に駅前でごはん食べようよ」

 看板の文字は丸みを帯びた字体で浮かぶ。だが、私は視線を逸らし、再び強度を上げた。


 カチリ。


 文字は細い線に変わり、意味を失った。

 棒は何度か看板を光らせたが、やがて諦めて去っていった。

 私はパンをかじり、窓の外だけを見つめていた。


 放課後。

 靴箱の前でまた誰かが近づく。

 看板がちらつき、必死に何かを伝えようとしている。

 けれど、強度を上げすぎてしまった私は、もう文字を読むことができなかった。

 小さな光点が滲んでは消え、街灯のように瞬いているだけ。

 私は立ち止まらず、そのまま歩き出した。


 クラスメイトも、教師も、母親も、すべて棒。

 顔がなく、声もなく、ただそこに立っているだけの存在になる。


 声は聞こえない。抑揚も感情も消えている。

 ただ文字だけがそこに浮かぶ。

 無機質で、冷たくて、しかし私にとっては、それが何よりも楽だった。


 人の声に振り回される必要がない。

 表情から感情を読み取ろうとする必要もない。

 煩わしいものは、すべて棒と看板に変わる。

 私は静かな世界で、ただ呼吸をする。



 夜。布団の中で、さらに指を動かした。


 カチリ。


 次の瞬間、世界はほとんど消えていた。


 車は丸太ですらなく、黒い影が滑るだけ。

 街灯も、机も、壁も、輪郭を失って白と黒の面に変わる。

 人は棒ですらなくなり、ただの線。看板も現れない。

 耳を澄ませても、音はしない。自分の心臓の鼓動すら遠ざかる。


 私は目を開けているのか、閉じているのか分からなかった。

 世界が消え、残っているのは呼吸だけ。

 細く、頼りない呼吸。


 ――全部なくなればいい。

 そう思う自分と、

 ――これ以上は戻れない。

 そう囁く感覚がせめぎ合う。


 時間の流れも消えて、ただ無の中に漂っていた。



 どれくらいそうしていたのだろう。

 突然、胸の奥に寂しさが湧いた。

 からっぽの世界に一人だけでいると、自分の存在すら曖昧になる。


 「……あの人は、どうしてるんだろう」


 頭に浮かんだのは、クラスで毎朝「おはよう」と看板を光らせていた棒。

 うるさいと思っていたはずなのに、今はあの看板の光が恋しかった。


 私は震える指で、眼鏡の横を下げた。


 カチリ。


 白と黒の面に色が戻る。

 遠くの風の気配、鳥の声、丸太の車の転がる音。

 少しずつ、世界が形を取り戻す。


 さらにもう一段階。


 カチリ。


 看板が再び現れ、文字が浮かぶ。

 「おやすみ」

 母の棒がドアの前に立ち、看板にそう書いていた。


 その文字が、今は愛おしかった。

 声はなく、感情もわからない。

 けれど、この棒と看板がある世界こそ、私の帰る場所なのだと実感した。


 胸の奥に、安堵と痛みが同時に走る。

 完全に消すことはできない。

 消してしまえば、自分さえも消えてしまう。


 だから私は強度を下げ、戻ってきた。

 煩わしさと寂しさのあいだで揺れながら。


(終)

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