魅入られし者
その手は自分の物ではなかった。
「紅運?!」
「いやはや、これはとんだご無礼を」
そう言って彼はさっとその手を引っ込めた。
「少し容体が悪そうだったので、お体を支えた方が良いかと思い、思わずその手を差し伸べてしまっていました。ご容赦を」
それは大変ありがたいが、何の用だ? と問えば、紅運はすぐに返事をした。
「これを旭様から預かって来ました。今夜のお相手が決まりました」
「うん、分かった」
早いな……と思いつつ、紅運から受け取った紙には知らぬ名があった。
まだ手を付けていないのがいたか。
「この者はどこの者だ?」
「紫楽宮だそうです。こちらに入られた瀏亮の代わりに入ったそうにございます」
「そうか」
だとするとまだ手を付けていないのも頷ける。
紫楽宮といえば、あの鶯妃の居る所だ。
そことの繋がりが出来てしまいそうなのが気掛かりだが、相手がいないよりは良いだろう。
「他に何か用が?」
帰る素振りのない紅運に話し掛けない方が良かったかと志遠は思ったが、話し掛けずにはいられなかった。
それくらいこちらを無言でじっと見ている。
不気味だ。
「時に」
紅運は静かに話し出した。
「志遠様は何か思い悩んでいる事でもございますか? お心が晴れているようには思えません」
そう言われてしまうと相当なのか、この問題は――と思えて来る。
「いいや、お前に話すほどではない」
「そうですか。でも、いざとなったら私にもお話を聞くことは出来ますから何なりとお申し下さい」
「ああ、ありがとう」
感謝の意を伝えたが、そんなこと絶対しないと分かっているはずだ。
なのに、何がしたいんだ? この紅運は。
今までそんな事を一度も言ったことがないのにどうした事か、怪しい。
「紅運は何かその……、思う所があるのか? 私に関して」
「いいえ……はい、そうですね」
彼は少し悩んだ挙句言った。
「聞きたいのでございます。あなたがあの方に出会った時の思い出を」
「あの方とは?」
「……」
言いたくないのか、言えないのか。黙ってしまった。
そういえば、紅運が赤い物を持ち歩いているのは崇拝する方に似合う色だからと春鈴が言っていたか。
そうだとするとその者とは『綺霞』なのだろうか――。
ふと試しに聞きたくなった。
「お前の思い人というか、崇拝しているというのはあの噂の仙女か?」
「はい、そうでございます」
すんなりと躊躇いもなく言った。
その顔を見るなり本当のようで、こちらとしてはそれはやめといた方が良いと言いたいくらいの驚きだ。
「どうして、そうまでしてその仙女を思う?」
「明らかに、どなたよりも優れているからでございます」
紅運は明確にさらりと言った。
「誰よりも強く、思われれば思われるほど、その心は満たされる。全てはそうなっているのでございます」
それは宣戦布告なのだろうか、どうしてそんな事を自分に言うのだろう。
「それで、私が心を傾けると?」
「思ってはおりません。ただ、芽を出すには種を蒔くことからでございましょう?」
そう言って、紅運は去って行った。
種を蒔くだと? 無理だ! この私に?!
あり得ない事が始まろうとしているのではないか? と思えた時、ようやく志遠は怖いと思えた。
今まで何も思えなかったのはその感情を思い出したくなかったからなのだと気付いた時、春鈴が思い出された。
すぐに会いたいと思うのは身勝手で、でもそれ以上に今は思っている。
あの時、しっかりと旭の前で頷いていれば良かったと思っても後の祭りであり、それは止められないものだと思い知るのも近い気がする。
「はぁ――」
ようやく、志遠は志遠としてではなく、永華の為に溜め息を吐いた。




