君の優しさに僕は、
【第一章 夕焼けとカフェラテ】
八月の終わり。夕暮れのオレンジ色がアスファルトを染める帰り道、僕はアルバイトの面接会場である小さなカフェの扉を初めて開けた。
ドアベルが柔らかく鳴った瞬間、店内の空気が外とはまるで別世界に感じられた。木の温もりが漂う落ち着いた空間、鼻をくすぐるコーヒーと焼き菓子の香り。そして、カウンター越しにこちらを向いていた一人の女性。
「いらっしゃいませ」
その声は澄んでいて、微かに笑みを含んでいた。
「面接に来た、高梨蓮です」
彼女は一瞬目を見開いたあと、ふっと笑った。
「ああ、蓮くん。店長から聞いてる。私、佐伯沙耶。今日の面接、担当するね」
年上の女性らしい、落ち着きと柔らかさを兼ね備えた笑顔。僕よりひとつ年上の、二十歳だと後で知った。
面接は緊張したけれど、彼女が終始優しく対応してくれたおかげで、思っていたよりもうまく答えられた気がする。
「来週からシフト入れる?」
「はい、ぜひ」
「よかった。じゃあ、よろしくね」
手渡されたエプロンと一緒に、僕は小さな期待を受け取った。
彼女と、また話せるかもしれないという希望。
***
初めての出勤日、僕は早めに店に着いた。まだ開店前の時間、店内では佐伯さんがカウンターの準備をしていた。
「おはよう、蓮くん。早いね」
「家が近いんで」
「そうなんだ。じゃあ朝番もお願いできそうだね」
冗談交じりのその言葉に、僕は「はい」と少し照れくさく頷いた。
開店準備を一緒にしながら、僕は彼女の手際の良さに感心した。コーヒー豆の計量、カップの配置、レジの確認。どれも無駄がなく、動きが綺麗だった。
「沙耶先輩って、いつもこんなに早く来てるんですか?」
「うん。静かな時間の店内が好きなの。誰もいないと、余計なこと考えないで済むでしょ?」
それが彼女の本音なのかどうか、僕には分からなかった。でもその言葉の奥に、少しだけ寂しさのようなものを感じた。
***
カフェは午後になると少し混み合う。慣れない僕は、オーダーミスをしたり、トレーを傾けて水をこぼしてしまったり。
「ごめんなさい!」
焦る僕に、沙耶先輩は微笑みながらハンドタオルを差し出した。
「大丈夫、大丈夫。最初は誰でもそうだよ」
その優しさが嬉しくて、同時に、どこかくすぐったかった。
***
閉店後、後片付けをしていると彼女がひと息ついて、カウンターに肘をついた。
「今日、頑張ってたね。えらい」
「えっ、いや……全然です」
「ううん、ちゃんと見てたよ。成長してる」
その言葉が、どこか胸に残った。
店の照明が少し暗くなり、夕焼けが窓の向こうに広がっていた。
「……ここ、いいですね。雰囲気が」
「うん、私もそう思ってる。夕方になると、なんだか落ち着くんだ」
彼女は静かに笑って、窓の外を見つめた。
その横顔に、僕は目を奪われていた。
***
バイトが終わって、帰り道を並んで歩いた。
「蓮くん、コーヒーよりカフェラテ派でしょ?」
「……なんで分かったんですか?」
「初日に飲んでたの、ミルク多めのやつだったから」
「見てたんですね」
「見てたよ、ちゃんと。新人だもん」
笑い合う中で、僕は心のどこかに、小さな灯がともるのを感じていた。たった数日のことなのに。それでも、彼女の存在は確実に僕の中で大きくなり始めていた。
夕焼けに染まった帰り道。そのときの空の色と、彼女の笑顔は、今も忘れられない。
【第二章 小さな違和感】
夏の終わりが少しずつ秋へと変わろうとしている頃、カフェの窓から差し込む光にも、どこか柔らかな陰りが混じり始めていた。
僕は少しずつ仕事に慣れてきて、常連のお客さんの顔も覚えられるようになった。けれど、沙耶先輩と話すときだけは、まだ緊張してしまう自分がいた。
ある日、昼のピークが終わって一段落した頃、店の扉が開いて一人の男性が入ってきた。
スーツ姿で背が高く、整った顔立ち。どこか都会的で、店の雰囲気に似合わないと思った。
「沙耶」
そう呼びかけたその声に、僕の中で小さな違和感が生まれた。
沙耶先輩は驚いたように振り返り、すぐに笑顔を見せた。
「岩田くん、どうしたの?」
「近くで打ち合わせだったから、寄ってみた。今日も働き者だな」
彼女は嬉しそうに笑いながら、彼のためにカフェラテを淹れ始めた。その手際は丁寧で、どこか特別なもののように見えた。
僕はレジ横の棚を整理しながら、耳をそばだててしまっていた。
「例の映画、もう観た?」
「ううん、まだ行けてなくて。忙しくてさ」
「じゃあ、来週あたり一緒に行く?」
「……いいの?」
「もちろん」
沙耶先輩は少しだけ頬を赤らめていた。
僕はなぜだか胸がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
***
その日の閉店後、いつものように片付けをしていたが、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
「蓮くん、今日、元気なかった?」
「えっ……そんなこと、ないです」
彼女は僕の顔をじっと見たあと、ふっと微笑んだ。
「無理しなくていいよ。私に話せることなら、聞くから」
「……さっきの人、よく来るんですか?」
唐突に出てしまったその質問に、自分でも驚いた。けれど、もう止められなかった。
「岩田くん? 大学の同級生。前のバイト先でも一緒で、よく話してたの」
「……付き合ってるんですか?」
彼女の動きが一瞬止まり、そして笑った。
「違うよ。ただの友達。そういう風に見えた?」
「……少し、だけ」
「そうか……ごめんね。やきもち妬かせちゃった?」
その一言で、僕の顔は一気に熱くなった。
「べ、別にそういうわけじゃ……!」
「ふふ。かわいい」
沙耶先輩はからかうように笑って、それ以上は何も言わなかった。
でも、僕の心の中には確かにあったのだ。小さな、けれど確かな、嫉妬心が。
***
それから数日、僕は自分でも気づかないうちに、彼女に対して少し距離を置いてしまっていた。
話しかけられても、素っ気なく返したり、わざと他の仕事に集中したり。
そんな僕に、彼女は寂しそうに目を伏せるときがあった。
でも、それでも何も言わなかった。
「沙耶先輩……」
シフト終わり、誰もいないカフェで、僕は意を決して口を開いた。
「……俺、たぶん先輩のこと、好きです」
彼女は驚いたように僕を見つめた。
「……ありがとう。でも、どうして“たぶん”なの?」
「まだ、よく分からないから。先輩のこと、もっと知りたい。もっと近くで、ちゃんと知ってから、本当に好きって言いたい」
彼女は少しの沈黙のあと、ゆっくりと頷いた。
「……うん。じゃあ、これから少しずつ、知ってもらおうかな」
その言葉に、僕は初めて心からの安堵を感じた。
カフェの窓の外には、夜の帳が静かに降りていた。
【第三章 雨音の向こう側】
九月のある午後、空はどんよりと曇っていた。開店前のカフェにはまだ誰もおらず、外からはぽつりぽつりと雨音が聞こえてくる。
「今日、雨なんだね」
沙耶先輩がふと窓の外を見ながら呟いた。長い髪を後ろでまとめて、いつもより少し落ち着いた表情をしている。
僕はコーヒー豆の準備をしながら、その言葉にうなずいた。
「秋雨って、なんか物寂しいですよね」
「でも、嫌いじゃないよ。静かで、落ち着くし……なんとなく、自分の声が聞こえる感じがするの」
僕はその言葉に、ふと胸の奥がくすぐられるような感覚を覚えた。沙耶先輩は、いつも自然にそんなふうに僕の心に触れてくる。
開店してしばらくは客足もまばらだった。雨の日は、常連客がいつもの席で本を読んだり、ノートパソコンを開いたりして過ごしていく。
そんな中、僕と沙耶先輩はカウンターの中で隣り合って、時折小さな会話を交わしながら作業を続けていた。
「この前のこと、覚えてる?」
突然、彼女がそう切り出した。
「えっ……えっと、どの……?」
「“好きかもしれない”って言ってくれたこと」
僕は思わず手を止めて、顔を上げた。彼女は微笑んでいたけど、どこか真剣な表情でもあった。
「嬉しかったよ。でも、蓮くんが言ってた“もっと知ってから”って言葉、あれもすごく大事だと思ってる」
僕は黙って頷いた。あの時の自分の言葉は、ただ感情に任せたものではなくて、確かにそう思ったからこそだった。
「じゃあ……知ってもらえるように、今日は少しだけ、昔話してもいい?」
僕は少し驚いたが、すぐにうなずいた。
「もちろん。聞きたいです」
***
沙耶先輩は、静かに語り始めた。
「高校の頃、私はすごく人付き合いが苦手だったの。周りの子たちがキラキラして見えて、でも自分はその輪にうまく入れなくて……」
彼女の声は雨音に溶けるように、穏やかだった。
「そんなとき、カフェっていう空間に救われた。言葉がなくてもよくて、でも誰かがいて、温かくて。だから、大学に入ってすぐ、ここで働きたいって思ったの」
僕は、彼女のその言葉を噛みしめるように聞いていた。
「誰にでも優しくしちゃうのも、たぶん昔の癖なんだと思う。周りに馴染めなかったぶん、嫌われたくなくて……」
その瞬間、僕の中で何かがすっと腑に落ちた気がした。
「……それで、岩田さんにも?」
「うん。でも、彼は……私のことを、恋愛として見てたかもしれない。でも、私はその気持ちに応えられなかった。たぶん、誰にも本当の気持ちを見せるのが怖かったんだと思う」
彼女の瞳が、少し潤んで見えた。
「でも、蓮くんには話せた。不思議だね」
僕は彼女の手にそっと、自分の手を重ねた。
「僕は、先輩の全部を知りたいです。怖がらないでください。ちゃんと、受け止めますから」
沙耶先輩は少し驚いたように僕を見て、それから静かに笑った。
「……ありがとう」
***
その夜、バイトが終わった後、僕たちは閉店後のカフェに残って、カウンターに並んで座った。
外はまだ雨が降っていたけれど、僕の心の中には、不思議なほどの静けさと温かさが広がっていた。
「沙耶先輩、今度、映画一緒に行きませんか?」
彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、それからふっと微笑んだ。
「うん、行こう」
小さな約束が交わされたその瞬間、僕は確かに感じた。この気持ちは、“たぶん”じゃない。
もう、迷わなくていい。
【第四章 映画と沈黙】
その日は、約束していた映画の日だった。
日曜日の午後、駅前の映画館で待ち合わせをした。蓮は10分前には着いていたが、何度もスマホの時間を確認しては落ち着かない様子だった。駅前のロータリーには人が行き交い、秋風がゆっくりと髪を揺らしていく。
「蓮くん」
その声に振り返ると、沙耶先輩がいた。私服姿は、バイトの制服とはまた違う雰囲気で、どこか柔らかく、でも少し背筋が伸びたような緊張感もあった。
「お待たせ。……早く着いた?」
「いえ、僕も今来たところです」
定番の嘘をついたけど、沙耶先輩は少し笑って、なにも言わなかった。
***
映画は、恋愛ものだった。静かな台詞回しと、切ない展開が続く大人向けの作品で、正直、僕には少し難しかった。でも、沙耶先輩が最後の方で涙ぐんでいるのを横目で見て、僕はただ静かに座っていた。
映画が終わったあと、僕たちは並んで駅前を歩いた。日が落ち始めていて、空は淡いオレンジに染まっていた。
「いい映画だったね」
沙耶先輩のその一言に、僕はどう答えていいか迷った。
「……ちょっと難しかったけど、綺麗な話でした」
「うん。ああいうの、昔から好きなの。言葉が少ないぶん、表情とか仕草で伝わるのが」
言葉じゃなく、表情で伝える。沙耶先輩がそう話すとき、ふと自分自身のことを言っているように思えて、僕は少し胸が苦しくなった。
「先輩って、やっぱり優しいですね」
「……どうして?」
「たぶん、誰かに優しくされた経験があるから、自分もそうなろうと思ったんじゃないかって」
沙耶先輩は立ち止まり、こちらを見た。その瞳は、映画の中のヒロインよりずっとリアルで、でも同じくらい美しかった。
「蓮くんって、たまに驚くようなこと言うね」
そう言って笑ったが、その笑みはどこか寂しげで、僕は何かを聞きたくなった。でも、何を聞いていいか分からず、口をつぐんだ。
「……じゃあさ、今度は蓮くんのこと、私に教えて」
「え?」
「私、話すばっかりだったでしょ?蓮くんのこと、もっと知りたいなって思って」
その一言が、まるで心の奥をノックされたようで、僕は戸惑った。
「……じゃあ、今度カフェで。バイトじゃなくて、ちゃんとプライベートで」
「うん、楽しみにしてる」
***
帰り道、別れ際に僕は思いきって聞いた。
「先輩って、恋愛って……怖いですか?」
沙耶先輩はふと足を止めた。そして、数秒の沈黙のあとで、ぽつりと言った。
「……うん、怖いよ。好きって気持ちが強いほど、失うのも怖い。でも、最近ちょっとだけ思うようになった。怖がってばかりじゃ、何も始まらないって」
それは、彼女の決意のように聞こえた。僕は頷いた。
「僕は……怖くても、ちゃんと向き合いたいと思ってます」
「……うん。そういうところ、ほんと強いね。蓮くんのこと、もっともっと知りたくなった」
僕の胸は、高鳴り続けていた。
それは、映画のラストシーンよりも鮮明に、心に焼きついていた。
【第五章 すれ違いと決意】
秋も深まり、木々が色づき始めた頃。カフェの窓から見える街路樹も、赤や黄のグラデーションをまとっていた。
「蓮くん、お願いしてた注文の確認、もう一回一緒にしてもらえる?」
バイト中、沙耶先輩がそう声をかけてきた。いつもの柔らかい調子。でも、どこかぎこちない。
「はい、今行きます」
僕はレジ横の在庫リストを手に、先輩とストックルームに向かった。けれど、その短い道のりで僕の心はざわついていた。ここ数日、沙耶先輩の様子が少し変わっていた。
確かに、映画の日以降も笑顔は変わらない。でも、その笑顔の奥に、なにか壁のようなものを感じる瞬間があった。
***
確認作業を終えた帰り道、沙耶先輩がぽつりと言った。
「最近……ちょっと考えることがあって」
「……はい」
「ううん、なんでもない。ごめんね、変なこと言って」
彼女はそれ以上何も言わず、バイトの後もいつも通りに過ごした。けれど僕の中には、霧のような不安が広がっていた。
***
数日後、大学の講義が早めに終わり、カフェに顔を出すと、沙耶先輩と岩田さんがカウンターの奥で談笑していた。
「久しぶりに顔出してくれて嬉しいよ、沙耶ちゃん」
「ありがとう。元気そうでよかった」
柔らかな笑顔。けれど、岩田さんの視線はどこか熱を帯びていた。
その様子を遠くから見ていた僕は、胸の内に針を刺されたような感情を抱えていた。
嫉妬。それは、僕がずっと目をそらしていた感情。
(なんでこんなに、気になるんだろう……)
沙耶先輩が誰と話していても、本当はそんなこと気にしたくないのに。でも、彼女が他の誰かと親しげに話すたびに、心の奥がざわつく。
***
その夜、思い切って彼女にメッセージを送った。
『少し、話せませんか? ちゃんと、僕の気持ちを伝えたいです』
すぐに返事が来た。
『うん、明日、閉店後に少しだけ時間あるよ』
僕は深く息を吸って、スマホを胸元で握りしめた。
***
次の日。閉店後のカフェには、もう誰もいなかった。
テーブルに向かい合って座った僕たちの間には、いつもの距離があった。でも、今日はその距離を超えたかった。
「沙耶先輩、最近……なんだか遠く感じます」
彼女は目を見開いて、それから少しだけ視線を伏せた。
「……蓮くんのこと、すごく大事に思ってる。だからこそ、少し怖くなったのかもしれない」
「怖い、って……」
「気持ちが強くなりすぎるのが怖いの。もし、蓮くんを傷つけたらと思うと、踏み出すのが怖くて……」
僕は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「先輩。僕は、傷ついてもいいです。それより、先輩のことをちゃんと知って、ちゃんと向き合いたい。逃げないで、一緒に進みたいんです」
沈黙が流れる。けれど、その静けさの中に、何かが変わる音がした。
沙耶先輩は、ゆっくり顔を上げた。そして、僕をまっすぐに見て、笑った。
「……ありがとう。蓮くんの言葉、ちゃんと届いたよ。怖いけど、それでも前に進みたいって思えた」
ふたりの間の距離が、確かに縮まった気がした。
秋の夜、カフェのガラス窓に映る僕たちの姿は、どこか少しだけ、大人びて見えた。