第七章『襲来』
翌日、日菜は母に朝早くに叩き起こされ、お風呂に入ってから小学校へと向かった。そして放課後、妖精界へと足を運ぶ。
「結局昨日はどこ行ってたのさ、兄ちゃん」
「え? ああ、野暮用だから気にすんな」
三人でアカデミーへと向かう道中、双子は昨日のことについて話していた。まだ飛ぶことができない日菜のために、面倒だが歩いていく。
「兄ちゃんっていつも教えてくれないよね」
「お前に教える義務はねえよ」
「そうだけどさあ」
「いいから気にすんなって。そうだ、日菜ちゃんは人間界に戻ってから何してたんだ?」
トトの質問は日菜の耳に入らず、ぼーっと歩き続ける。
「日菜ちゃん? 大丈夫か?」
もう一度トトが声をかけると、日菜は驚いてトトのほうを向く。
「わ、え、何?」
「おいおい、大丈夫かよ」
本気で心配になるトト。事情を知っているララは笑いを堪えている。
「色々とわけがあるんだって」
「まあ、色々と、ね」
ララからの会話のパスに、日菜は少し言葉を濁す。
「おお? 詳しく聞かせてもらおうか」
トトが顔を覗き込み、観念した日菜は話し始めた。
「夜ご飯食べた後、お風呂入らずに寝ちゃって、朝六時にお母さんに無理やり起こされて、お風呂に入らされて、小学校までダッシュしてギリギリ遅刻した……」
日菜が学校に行っている時に戻ってきたトトは、そんなことが起きていたとは露知らず、今全てを知り、大声で盛大に笑い出した。
「ちょ、笑わないでよ! 大変だったんだから!」
「だって、面白いんだからしょうがないだろ」
トトに続いてララも隣でけらけらと笑う。
「もうララまで!」
双子は散々笑った後、ふてくされた日菜を慰めるのだった。
二回目のアカデミー、二回目の教室、当然隣の席にはミヅキがいる。
「お、おはよう」
なぜかまだ人見知りが抜けない日菜。
「おはよう」
今まで二言以上の会話が続いたことはほぼない。今回もそのパターンだと日菜が諦めていた時、珍しくミヅキから話題を出してきた。
「トト兄は、君の前ではどんな感じなの」
鞄から教科書類を取り出しながら聞くミヅキに、日菜は慌てて答えを考える。滅多にないことだ、良い返しが見つからない。
「え、えっと……」
ミヅキはなかなか返事が返ってこないことに疑問を感じ、手を止めて日菜をじっと見つめる。
「ねえ、どんな感じ」
とても圧を感じている日菜だが、ミヅキにそのつもりは一切ない。
「普通、かな。ミヅキくんの時と同じような感じだよ」
「ふーん」
面白みのない答えに少しがっかりしたミヅキは、興味をなくしたように再び作業に戻った。日菜はそれ以上何も言えなかった。
朝の会開始のチャイムが鳴り、ミント先生が教室に入ってくる。
「皆さん、おはようございます。今日はいい天気ですね、ちょうど体育日和です。一時間目が体育なので、チャイムが鳴る前に校庭に集合してくださいね」
先生は早めに挨拶を済ませ、職員室へと戻っていった。
「今日の先生、なんか変」
ミヅキの呟きにぞっとした日菜だったが、聞く暇もなくミヅキは教室を出て行ってしまった。
今日はなんだか、職員室が騒がしい。
違和感を覚えているのは日菜も同じだった。他の生徒たちの間でも少し噂になっているようだ。
チャイムが鳴る五分前、生徒は全員校庭に集合して先生を待っていた。
「先生遅いね」
「また探し物かな」
生徒たちから不安の声が漏れ始める。その時だった。
「おい、今はお前たちだけか?」
明らかに妖精ではない、黒いスーツのような服を着たつり目の男が声をかけてきた。背中に羽はついておらず、日菜から見れば人間に酷似していた。
「おじさん、誰?」
「先生が、知らない人には何も教えないようにって……」
生徒たちは無意識に危険を感じたのか、少しずつ男と距離を取り始める。
「怖がらなくてもいい、ちょっと聞きたいだけだ」
男が生徒たちに近づいていた時、校舎から出てきたミント先生は青ざめた表情で叫ぶ。
「あなた、私の生徒たちに何してるんですか!」
「来てしまったか。あまり手荒な真似はしたくないんだが」
先生は生徒たちの元に駆けつけ、守るように前に立ちはだかった。
「今は授業中ですので、今日はお帰りください」
男を睨みつけ、帰るよう促す先生。生徒たちはその後ろで怯えていた。
「ちょっと確かめたいことがあってな、そうもいかないんだよ」
そう言うと男は先生に近づき、先生の額に人差し指を突き立てる。その瞬間、先生の目がうつろになった。
「ここに新しく来た、転入生は誰だ」
「あの子です」
先生は抵抗もせず日菜を指差した。何か操られているようだ。男はにやりと笑い、指を離す。
「感謝するよ、先生」
そのまま意識を失い倒れた先生を放置し、日菜に近づく男。先生の周りには生徒たちが集まり、どうにか医務室へと連れて行こうとしていた。一人の生徒が職員室に報告しようと、校舎へと走り出す。
「動くな!」
その行動に気づいた男が叫ぶ。その場の空気が一瞬で凍りつき、生徒は静止した。
「それ以上動いたら、この場の誰かが死ぬぞ?」
男の言葉によって、何か行動しようとする者はいなくなった。日菜に危険が忍び寄る。
「先生みたいになりたくなかったら、正直に答えろ。いいな?」
気がつけば日菜は校舎の壁まで追い詰められ、逃げ場がなくなっていた。恐怖のあまり腰が抜け、壁づたいに座り込む。そして怯えながら頷いた。
「お前の名前は?」
「ひ、ヒナです」
男は日菜の目線に合わせてしゃがみ、怯える日菜に容赦なく質問する。
「ヒナか。じゃあ次、この前悪魔の森に入ったな?」
「は、はい」
「その時のことを詳しく話せ」
日菜の恐怖心が増す。あの時の記憶は思い出すこともなく、すっぽりと抜けていた。
「お、覚えてない、です」
男が大きな反応を見せることはなく、やっぱりかといったように小さくため息をついた。
「そうか。じゃあ思い出させてやろう」
男は日菜の耳元で、静かに呟いた。
「悪魔になれ、そうすればお前はもっと強くなれる」
聞き覚えのある言葉に日菜は目を見開く。脳内に記憶が蘇り、体温が上昇していくのを感じる。そして何かが暴れるように、日菜の心に激しい痛みが走った。
「う、何これ……」
徐々に息苦しくなり、その場に倒れ込む。
「我慢するのは苦しいだろう。どちらが正しい選択か、もう答えは出てるみたいだな」
男は立ち上がり、くるりと方向を変え歩き出した。苦しさの中で絞り出した「待って」という日菜の声を無視して、男は去っていった。
男がいなくなり、一人の生徒が職員室へと報告に行く。他の生徒たちは先生と日菜を抱え、医務室まで運んで行くのだった。
妖精界全体に危機が迫っていた。
「その人物は、何者なのでしょうか」
教員の一人が深刻な表情で口を開く。
日菜がアカデミーに登校する数時間前、アカデミーでは教職員たちと女王が緊急会議を開いていた。
「最近、国の外で傷害事件が多く発生しており、被害者の方々からは、『羽のない黒い服の男に話しかけられた』と報告を受けています。」
女王は資料を読み上げ、危険人物が妖精界で事件を起こしていることを教職員たちに伝えた。
「悪魔だとしても、羽がないなど聞いたことも見たこともありません」
生物担当の教員が頭を悩ませる。
「妖精でも悪魔でもない、新しい種族……ということでしょうか」
「もしや魔法で姿を変えているとか」
「ばかな。妖精ならまだしも、悪魔は魔法が使えんだろう」
「妖精が妖精を傷つける理由もないですし」
教職員たちは口々に意見を言っていく。初めての事例に混乱するのも無理はなかった。ただ問題はこれだけではない。
「もう一つ。今まで見たことのない生き物が、森に入る妖精を傷つける事件も同時に多発しているようです」
女王はモニター画面に、魔法を使って資料の写真を映した。
「これは、カメ……?」
「でも、二足歩行ですよ?」
そこにはカメに似た、二足歩行の不気味な生き物が映っていた。
「凶暴な爪と強靭な顎を持ち、妖精を見つけるとすぐに襲いかかるようです。生徒たちには森に近づかないよう、諸注意等お願いします」
女王は生徒たちを第一に考え、何か対策が取れないか考えていた。教職員たちも同様に、今起こっている二つの事件に頭を抱えた。
「そろそろ生徒たちが登校してくる時間ですね。また対策を練るため話し合いの場を設けようと思っています。先生方、お忙しい中ありがとうございました」
女王は教職員たちに深く頭を下げ、アカデミーを後にした。
知られざる深い闇が、徐々に妖精界を飲み込もうとしている。災厄のサインはすでに出始めてきているのだった。
「日菜ちゃん、大丈夫か?」
話を聞いて駆けつけたトトが、目を覚ましたばかりの日菜を心配していた。ララはミント先生と話している。
「変な奴が現れたって、一体何があったんだ」
「わかんない。その人に『悪魔になれ』って言われたら急に苦しくなって。悪魔の森でのこと聞いてきたの」
日菜の言葉を聞いてトトは察した。誰かが、悪魔が日菜に何かしようと企んでいる、あの悪魔の森で目をつけられたのだと。
「厄介だな。会ったら絶対に許さねえ」
トトの心は怒りに満ちていた。大切な友達を傷つける奴は容赦しない、と過剰に闘志を燃やしている。
「ごめん、またこんなことになっちゃって」
「日菜ちゃんは悪くない、気にすんな」
「でも……」
毎回トトに助けられているような気がしている日菜は、後ろめたさを感じていた。トトはいつものように日菜の頭を撫で、目を見つめる。
「いいか、大切な友達なんだから助けるのは当たり前だ。そういうことだから気にすんな」
少し泣き顔の日菜に歯を見せて笑いかけるトト。その笑顔のおかげで、日菜の不安は少しだけ吹き飛んだ。
「ヒナさん、あの時はごめんなさい。私、なんてことを」
操られていたとはいえ、生徒を危険にさらしてしまったことにミント先生は罪悪感を抱いていた。ベッドから起き上がり、日菜に頭を下げる。
「そ、そんな、謝らないでください。先生も怖かっただろうし、その、とにかく大丈夫ですから」
日菜は気にしていないということを伝えるため、大きな素振りで必死に訴える。
「ヒナさんは優しいですね。先生も大丈夫ですから、安心してください」
「は、はい!」
二人の様子を、双子は後ろから静かに見守っていた。トトが風邪で寝込んでしまった時、女王が必死に看病している姿を、ララはその二人に重ねていた。
「兄ちゃん。女王様、いや、お母様のとこに寄って行こうよ」
「な、なんだよ急に」
「いいじゃん、会いたくなったの」
「変なやつ。まあ、俺も? ちょうど会いたいと思ってたとこだからいいけどよ」
双子は自然と意気投合して、城へと仲良く向かった。
城には一人、女王が紅茶を嗜みながら本を読んでいた。滅多に開かない城の扉がぎぎぎと音を立てて開く。女王は不審に思い、様子を見に行くことにした。
「どなたでしょうか」
扉まで続く長い廊下の先に、一人の男が立っている。黒い服を着た羽のない男、それは事件を起こしている危険人物と特徴が一致していた。
男はゆっくりと女王に近づいてくる。女王はその場から動かず、男に質問を投げかけた。
「あなた、何者なのですか?」
「そんなこと今はどうでもいい。一つ忠告しに来てやったんだよ」
男は女王の質問を跳ね除け、歩みを止めることなく話を続ける。
「最近物騒なことが多いだろ? そろそろとんでもねえことが起きる」
「それはあなたが企んでいるのでしょう?」
妖精に危害を加えるような男だ、女王は容赦なく男を疑う。
「さあ、どうだろうな」
はぐらかす男に女王がさらに問い詰めようとした時、再び城の扉が開いた。
「また邪魔が入った。忠告の件、信じるかはお前次第だ」
扉を開けたのはトトとララだった。男は気にも留めずそのまま城から出て行った。
緊張が一気に解け、女王は座り込んだ。双子は驚き慌てて駆け寄る。
「「お母様!」」
双子は女王を気遣いながら、部屋に移動するのであった。