第六章『同じ者』
「ここはなんていう森なの?」
「鈴鳴の森。ほら、耳をすませてごらん」
日菜の質問にララが答え、三人で耳をすます。
風の音とともに鈴の音が聞こえてくる。
「この奥にいつもいるんだ、あの子は」
トトが指を差した先には一人の少女が立っていた。
焦茶色のショートヘアに白い肌、緑の葉の飾りがついた髪留めをつけている。
「コノハ、久しぶりだな」
トトの声を聞いて振り向いた『コノハ』という少女は、笑顔で返事をする。
「久しぶり。その子が二人目?」
「そう、日菜ちゃんっていうんだ」
日菜はトトの紹介に合わせて頭を下げる。
「懐かしいね。昔は私のことも『コノハちゃん』って呼んでくれてたのに、今じゃ二人とも呼び捨てなんだもん」
コノハは頬を膨らませ、わかりやすく嫉妬した。
「だって、アカデミーも卒業して、妖精界ではもう立派になっちゃったからさ」
ララがコノハの顔をじっと見つめる。少し照れたコノハは顔を逸らし、腕を組んで再び頬を膨らませた。
「確か、人間界では『中学生』って言うんだろ?」
「そうそう、今年の春からね」
コノハと慣れた様子で話す双子を見て、日菜はおろおろと視線を動かすことしかできなかった。
まだ出会って間もないが、他の妖精より仲が良いという自信が日菜の心の中には少なからずあった。しかし、それが今目の前で崩されていく。
「六年間色々あったよな」
「魔法で葉っぱまみれになったり、枝を伸ばしすぎて教室の壁に穴あけたり」
双子はコノハとの思い出をすらすらと口にする。
「あったあった、ミント先生も流石に苦笑いしてたもん」
コノハも笑いながら楽しそうに思い出を語る。
日菜はすぐにでもここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。同じ境遇の少女、会うのを楽しみにしていたはずなのに、仲良くなるどころか会話にすら入れない。
「日菜ちゃん?」
ララの声が、日菜の耳にはノイズがかかったように聞こえていた。頭の中は真っ暗で、何も考えられない。胸の中で焼けるような痛みが走り、苦しくなる。
「どうして泣いてるんだ?」
トトの一言で、音もなく静かに、目から涙がこぼれ落ちていることに日菜は気づいた。
止めることも拭うこともできずにただその場で固まっている日菜。そもそもなぜ泣いているのかさえわからない。双子は日菜に声をかけ続けるが、それは日菜の耳には一切届いていなかった。
この状況で唯一冷静だったのはコノハだけだった。ゆっくりと日菜に歩み寄り、そっと頭を撫でる。
「寂しくなっちゃったんだよね、ごめん」
コノハには日菜の気持ちが痛いほどわかっていた。人間界で経験した、輪から外れるという感覚。妖精界での、『個』が集まったものとは違う、人間界での集団行動はもはや義務なのだ。
日菜はこれが仲間はずれではないことをわかっている。でも心は、そう簡単に言うことを聞いてくれない。
「妖精界は自由だよ。一人でいるのも誰かといるのも、全部自分で決めていいの」
そう言いながらコノハは日菜を優しく抱きしめる。双子は未だに状況が掴めないでいた。何度も人間界に通っている妖精でも、人間になりきることはできない。人間界の常識は、やはり人間にしか理解できない。
「だから泣かなくていいんだよ。いっぱいお話してくれていいんだよ」
日菜は涙が止まらなかった。コノハの優しさが心を温めて、涙の雫を増やしていく。
「落ち着くまで、ちょっとあっちで休憩しよっか」
コノハは日菜と一緒に木陰へと移動し、近くの岩に腰掛けた。その光景を見た双子は、何も言わずただ茫然と立ち尽くしていた。
三十分ほどが経ち、落ち着いた日菜とコノハが戻ってきた。
「日菜ちゃん、大丈夫か?」
「うん、急に泣いちゃってごめんね。もう大丈夫だから」
トトは日菜の笑顔を見て安堵し、いつも通り日菜の頭を撫でた。
「そういえばコノハ、時間は大丈夫なのか?」
「今日は病院に行かなくていい日だから」
コノハは十二歳という若さにも関わらず、人間界で生きる辛さを知っている。それには理由があった。
「病院?」
日菜の悪気のない質問にトトは少し渋い顔をする。
「コノハは病気持ちなんだよ」
「えっと、『喘息』って言うんだっけ」
ララがうろ覚えの病名を辛そうな表情で言った。
「そう、結構ひどくて大変なの」
コノハは自分の胸をそっと撫でる。
「え、じゃあ安静にしてたほうが……」
「それは大丈夫。妖精の姿だと病気の影響は出ないから」
コノハは生まれつき喘息を患っている。そのせいで学校も休みがちで友達ができず、寂しい日々を過ごしていた。学校で発作を起こすこともあり、周りの人間に気を使われることに慣れてしまい、人間関係もうまくいっていなかった。そんな時、幸か不幸か、トトが出会い頭に誤って妖精になる魔法をかけてしまったため、今に至る。
「そっか、それなら安心だね」
日菜はコノハの言葉を聞いて安心した。ただここで、一つの疑問が発生する。
「じゃあずっと妖精のままなの?」
「それは……」
コノハは言葉に詰まった。もし人間に戻す魔法が見つかったら、必ずしも戻らなければならないのか。
「まあまあ、いいじゃねえか。無いものの事考えたってしょうがねえだろ」
トトが呑気に口を挟む。何の考えもなしに言ったことが、悪い空気を払拭した。
「兄ちゃんは探す気ないだけでしょ」
「う、うるせえ。ちゃんと目を凝らして探してるって」
ララのツッコミでまたいつものけんかが始まった、
「目を凝らしてって、魔法はそんなんじゃ見つかんないよ。落とし物じゃないんだから」
「やってみなきゃわかんねえだろ」
「じゃあまだやってないってことだね」
言葉ではララに一歩及ばないトト。コノハは久しぶりに双子のけんかを見て、トトの馬鹿がバレないか心配になっていた。
「また言い負かされてる」
でもコノハは、そんな双子が好きだ。
「いつもこうなるの、どうしたらいい?」
日菜は真剣に解決策を考えていた。止めない限り終わらないであろう言い合いを見物しながら、コノハは質問に答える。
「けんかするほど仲が良いって言うからね」
「それってつまり……?」
コノハはそれ以上答えなかった。日菜も察したのか、くすくすと小さく笑いながら、意味のないけんかをコノハと眺め続けるのだった。
数時間後、コノハは時間だと言って人間界へと戻っていった。
妖精界と人間界の流れる時間の速さは異なっている。妖精界での一時間は、人間界ではおよそ一分。妖精界に一日いたとしても人間界では一時間にもならないのだ。
「心乃葉、部屋にこもって何をしていたの?」
「本を読んでたの。可愛い妖精の話」
母の質問に平然と嘘をつく心乃葉。妖精界で見せた笑顔を家族に見せることもなく、祖母が作った質素な夕飯を食べ始める。
「このちゃんは体が弱いんだから、本を読むのはとても良いことねえ。小さい時はだめと言っても外に遊びに行ったりして大変だったけれど、今は良い子になって、ねえ」
心乃葉は祖母が苦手だ。本来の性格を受け入れてくれない祖母は間違っていると証明するために、子供らしくはしゃぐのをやめ、笑顔のない病弱な少女を一生懸命演じている。
「そ、そうですね。お義母さん」
母が祖母に反論することはない。自分の娘である心乃葉に関することでさえ、祖母の言いなりなのだ。
「ごちそうさま」
「心乃葉、後で少し話を……」
「疲れてるから、また今度にして」
心乃葉は母の言葉を遮り、そそくさと自分の部屋に戻る。心配しているだけだと理解していても、祖母の味方をする母が、心乃葉は気に食わなかった。
部屋に入り扉を閉める。妖精界に繋がる木の幹の穴に飛び込みたい気分だが、こんな時間にいなくなれば流石に警察が動いてしまう。
心乃葉はため息を吐きながらカーテンを閉めた。ベッドに寝転がり、愚痴をこぼす。
「二人とも馬鹿みたい」
家族が好きになれない、といっても友達といえる存在は妖精ぐらいで、頼れる人間は心乃葉の周りにはいない。
「結局一人じゃだめなんだ。人間のままじゃ、何もできない」
自然と涙が出てくる。日菜に言った言葉は、同時に自分自身にも向けている。
「自由になりたい」
子供は大人の言うことを聞くもの。迷惑をかけないように過ごして、大人になって社会に出ても、結局見知らぬ誰かが喜ぶように自分の身を削る。
十二歳の少女が考えるにはあまりにも重すぎる内容だった。ずっとそんな考えが、心乃葉の頭の中でぐるぐる回り続けている。
「また泣いてるのか」
換気のために少し開けていた窓の隙間から、昔のように心乃葉を心配するトトの声が聞こえた。
「いつからいたの」
「さっきだ、どうせ寂しがってるだろうと思ってな」
心乃葉は寝転んだまま目を腕で覆っている。二人は対面せず、会話だけが続く。
「もうそんな歳じゃない」
「俺からしたらそんな歳なんだよ」
「うるさい、あっち行ってよ」
本当は来てくれて嬉しいはずが、心乃葉の口からは心にもない言葉が出る。
「泣きべそかいてる女の子置いて行けるかよ」
「……あっそ」
そこからは静かな時間が続いた。トトの無意識な優しさは、確かに心乃葉の支えになっていた。
沈黙の中、誰かが扉をノックする。
「帰ってきたぞ。寝てるのか?」
時刻は夜十一時半、仕事を終えた父がいつもの報告をしに心乃葉の部屋にやってきた。
「入るぞ」
心乃葉の父はあまり娘と関わる機会がなかったため、まだ心乃葉を小さい子供だと思っている。だが実際、心乃葉は中学生で、女子の部屋に無断で入るのは父親といえどデリカシーがなさすぎる行為だ。
心乃葉は慌てて寝たふりをする。
「もう中学生か。いつの間にこんな大きくなって」
優しく頭を撫でる父を内心鬱陶しく感じながらも、どこか温かい気持ちになる心乃葉。親子の愛を間近で見たトトは、日菜のことを思い出していた。
「父親……か」
トトの呟きが純粋な人間に聞こえることもなく、心乃葉の父は娘の顔を見つめて言った。
「今日も生きていてくれて、ありがとう」
しばらくして父親は部屋を出て行き、心乃葉はなぜか止めていた息を思いっきり吐き出した。
「はあ、焦ったあ」
あからさまな父からの愛を自覚せず、まるで怪物にでも触られたような態度をとる心乃葉に、トトは静かに怒りを向けた。
「家族だろ、大事にしろよ」
「わかってるって」
反抗期の中学生が言う『わかってる』は、大体わかっていないことが多い。そんな細かいことは知らないが、トトの怒りはさらに増す。
「わかってないだろ、いなくなって後悔するのはお前なんだぞ」
「何、急に。親でもないくせに意味わかんない」
トトの言葉は、心乃葉にはまるで届いていなかった。日菜のこと言いそうになって、喉まで差し掛かったところでトトは言葉を飲み込んだ。その代わりに出たのは、自分自身の家族のことだった。
「俺たちの母親が女王様だってことは知ってるよな?」
「それが何」
「父親は戦争で死んだ」
「……う、ん」
妖精界の歴史はアカデミーで習うため、心乃葉は過去に大規模な戦争があったことを知っている。ただ、六年間一緒にいても、個人的な部分は知らないことがある。
「会ったこともない。顔も声も、俺たちは何もわからないんだよ」
不幸自慢をしているわけではない。父親がいない、その事実を悲しまずに話せるのは、そもそも父親がどういう人なのか知らないからだ。
「でもお前には、顔も声も知っていて、頭を撫でてくれる父親がいる」
「うん……」
「それがいきなりいなくなったら、寂しくなってお前はまた泣くだろ。俺はそれが嫌なんだ」
心乃葉はもう頷くことしかできなかった。トトの本心を聞いて深く反省する。
「まあ、言いたいのはそれだけだ。わかったらもう寝ろ」
「わかった。おやすみ……」
布団に潜り込み、眠りにつく心乃葉。トトはしばらくその様子を眺めながら、優しく笑みを浮かべるのだった。
一方、コノハと同じタイミングで人間界へと戻ってきた日菜は、母の作ったカレーを勢いよくかきこんでいた。
「おかわり!」
「慌てないの、いっぱいあるからゆっくり食べなさい」
「はあい」
母の注意に一応返事はするものの、二杯目もまるで飲み物のように食べていく。
「ごちそうさま!」
「あ、日菜! 先にお風呂入りなさい!」
「あとでー!」
食べ終えた皿をそのままに、日菜は双子の待つ自分の部屋へとダッシュする。
「お待たせ、あれ、トトは?」
「ちょっと用事あるって、どっか行っちゃった」
部屋に戻るとトトの姿はなく、ララだけがベッドにちょこんと座っていた。
トトは二人には何も言わず、コノハの様子を見に行っていたのだ。
「まあ、朝になる前には戻ってくるよ」
「そっか」
日菜は膨れたお腹をさすりながらベッドに横たわる。そして段々と目が閉じていく。
「やばい、眠い……」
「幸せそうで何よりだよ、おやすみ」
そのまますやすやと寝息を立てて寝てしまった日菜を見て、ララ自身も幸せを感じていたのだった。