3 1日目終了
「はい」
イヌタンは即座に手をあげる。
「皆さんお疲れ様でした。今日の感想を青井さんからどうぞ」
「午後の卓球が楽しかったです」
「熊野君」
「色々な人と話せて楽しかったです」
「黒澤君」
「ゆっくりできました」
そういった感じで川の流れのように、前の人から順に名前が呼ばれる。
え? エエ〜!?
そしてついに優陽の番が来た。
「ゆ、ゆ、ゆっくりできました」
緊張して少しどもってしまった。
その時、葉子と目があった。
葉子はなんともなかったかのように、優陽に笑いかけた。
優陽は一気に汗が吹き出してきた。呼吸と鼓動が聞かれているかもしれないくらい大きくなる。そして下を向いて呼吸を整えると、無理矢理に笑顔を作った。しかし、葉子はこちらを見ていなかった。
その後、皆が感想を言い終わるとまた俊が口を開いた。
「自己負担の料金払う人は前に来てください。お疲れ様でした。熱中症予防をして帰るようにして気をつけてください」と締めくくる。
優陽はお金を払いに列の最後尾へ。
自己負担のお金と引き換えにピカピカの診察カード、保険証、自己負担上限額管理票を受け取った。
後は帰るだけだ。今日は色々な人と話せたな。土日以外は来るようにしよう。
♪
?
ケータイが音を発している。今までにケータイに関しての本来の使い方を忘れていた。それくらいケータイが鳴ることが珍しかった。手にとると石井美優と表示されている画面が映っている。震える手で通話ボタンを押した。
『もしもし、母さん?』
『私だけど。優陽、今どこ?』
『デイケアがちょうど終わったとこ』
『クリニックまで行くから一緒に帰ろう?』
『仕事は?』
『もう終わったよ、今から行くから5分くらい待ってて』
『わかったよ、待ってる』
優陽は切られるまで待った。
ふー。無事電話も終えたし、ビールでも飲むかな。
「お疲れ様です」
「あ、どうも」
おそらく帰りの車を外で待っている若い女の子とかち合う。
「お名前なんていうんですか?」
「河田瑠奈子です。石井優陽さんですよね」
瑠奈子は痩せていて金髪の髪を長く伸ばしている。前髪も長い。化粧はしていない。
「そうです、よろしく。河田さんは親待ち?」
「旦那待ちです」
「若いのに結婚してるんだ?」
「27歳ですので一般的に結婚適齢期かと」
「そうなんだ」
「石井さんは彼女居ないんですか?」
「い、いないけど」
「ふうん、そうですか」
「け、結婚相手探しに来てないし」
「あ、旦那来たんで、それじゃあ」
「はい、お疲れ様」
瑠奈子は真っ赤なルークスに乗り込んだ。
それにしても彼女居ないのか聞かれて、動揺してしまった。普通は結婚してるのか聞くのではないか? 彼女いそうに見えないからか? 何か見透かされた気分だ。
さっき口走ってしまったが、ここは確かに療養の場だ。結婚相手や彼女なんて探しても見つからないのではないか。170センチメートルギリギリで75キロの自分には鬱があり、引きこもり歴ありの、陰キャで、スペックとしても……。 ダイエットすれば違うかな?
色々考えていると美優の運転するミニカがやってきた。助手席に乗車した。
「どうだった?」
美優はまっすぐと目を合わせた。
優陽は目をそらした。
「どうって、別に普通だよ」
「友達できた?」
「面白そうな人は何人かいたよ」
「あぁ、良かった」
「好きな人もできたよ」
「え?」
「好きな人、スタッフの人だけど」
「……それさ、医療用語で転移っていうやつじゃない?」
「転移? 何それ」
「過去に好きだった人への感情を現在の医療者へ投影すること、だって」
美優はケータイを取り出して調べる。
優陽は胸に針を刺されるかのようにチクリと傷んだ。
「そんな事ない、俺、気持ち伝えたいんだ」
「困らせるようなことしちゃいけないよ。胸の中にしまっておきな」
「半年だ」
「半年?」
「この気持ちが続いたら告白する」
「うーん、まあ、頑張ってみたら? でも相手の人いくつよ?」
「20代の気がする。結婚指輪はしていなかった」
「何だって? そりゃ外さないとやっかまれて大変だよね」
「もう少し、距離を縮めたいんだけど」
「いやいや、そんなに視野を狭めてないでさ。もう少しデイケアに馴染んでみて、どんな人なのか周りの人にどんなふうに接してるとか、もしくは他にやりたいことをするとかしてみなよ」
「そうだねえ、あんまりがっつかないでみるよ」
「うん、それで今日のご飯何がいい?」
「焼き肉」
「ふふっ」
何故か美優は笑い出した。
「何で笑うんだよ」
「あなたさ、いつもいつも、何がいいって聞くと、焼き肉って答えるんだもん」
「美味えじゃん」
「まあいいや、買い物して帰ろうか」
美優の運転する車はスーパーに寄って、1時間後に自宅に帰ってきた。
「そういえば、車に弾かれそうになってた子供はどうなったの?」
「無事だって、無傷で済んだらしいよ」
「良かったー。僕も生きてるし」
「あなたが死んだら私、生きていけるかわからない」
「大丈夫だよ、母さん」
優陽は美優の手を握った。
今日は引きこもっていた時間が巻き戻るかのように、色んなことが起きた。前はやつれていた美優の顔は嬉しそうで、優陽の脳裏に深く刻み込まれた。
ご飯を食べて、風呂に入る。
このような普通のことは今まで思い出せるほど近い記憶になかった。いつも気が向けば風呂に入り食事も深夜に美優が寝静まった頃、冷蔵庫を漁る生活を続けていた。
美優は簡単に食べれる中華まんや魚肉ソーセージ、冷凍食品のたこ焼きなどを切らさず買ってきていた。
優陽がお腹をすかさないようにと。
風呂の汚れが1つもない床に涙が落ちた。
「明日もデイケア頑張るから」
優陽は涙をこらえて泣き止ませた。
次に葉子の事が頭に浮かんだ。
あの子、可愛かったな。でも、連絡先渡すのは半年後だ。でも大丈夫、仲良くなれる。
1時間近くの長風呂を経て、思いがけないご馳走にありつく。
「いただきます」
焼き肉、焼き芋、ポテトサラダ、チョレギサラダ、コーンスープ、ご飯、コーヒーゼリー。
バリエーションが豊富でどれも美味しかった。