第36話 都合の良い幻
五感を通して脳に干渉することで事象を錯覚させる魔法。それが幻術だ。
幻術には干渉深層と呼ばれる段階があり、五感、意識、現実、世界の順に影響を与える難度が上がってゆく。
しかし、対象を人間とする五感、意識と違い現実、世界への幻術は意思を持たない物体や世界を対象とするため、使いこなせる者は極めて少ない。そのため、幻術師は五感に干渉する感覚系幻術と意識に干渉する精神系幻術の使い手がほとんど占めるだが、ここにもそれなりの隔たりが存在する。
五感と言う表面的な部分を惑わせることとその奥にある相手の意思そのものを騙すことのどちらが難しいかを問われればその意味が分かるだろう。
そう言った理由で精神系幻術の使い手も魔法の世界では十分な熟練者として扱われる。
そしてロナルドはそんな精神系幻術の達人だった。
「――――」
体をピクピクと小刻みに痙攣させ、光を失った目を虚空に泳がせるジェイミーにロナルドは「やったな」とほくそ笑んだ。
第四階位魔法精神系幻術《操り人形》。対象を操り人形の如く意のままに操る幻術だ。
干渉経路は視覚。幻術による視覚からの干渉は特定の物体や行動と呼ばれる決められた動作を視認させることで発動される。最も容易な手段が前者であるが、拘束力の低さから熟練の幻術師は後者を選ぶことが多い。
だが、行動による動きは分かりやすく、防がれやすいという大きな欠点がある。
そのため、行動による幻術をかける時は気づかれないよう自然な動作を交えて行うことが重要なのだが、そのような面倒な手法をロナルドは必要としていなかった。
ロナルドの行動は対象に自分の話す姿を見せること。それだけだった。
余程不自然な状況でない限り人間が話している事に違和感を持たれることはない。
これによってロナルド結界術教師であるセシルから幻術で学園を守護する結界の詳細を聞き出し、【薔薇十字教団】へ伝えた。
そしてジェイミーにも容易に幻術をかけることに成功したのだ。
当然、このような力を持っていれば警戒されかねないが、ロナルドは周囲に「自分の幻術は呪物を用いて大きな効力を発揮する」と周知させていた。
そのため、旧知の仲であるセシル相手にも警戒されず幻術をかけることが出来たのだ。
「その場で休め」
ジェイミーが完全に術中にいるのか確認のためロナルドはそう指示を出した。
するとジェイミーはぎこちない動きで両腕を後ろに回し、足を軽く開いた。
(抵抗の様子が見られる。まだ完全にかかってないか……)
そう判断すると更に魔素を注ぎ込み、魔法を強化する。
「跳べ」
改めて指示を出すと先程よりは滑らかなもののまだ固さのある動きでジャンプした。
それ受けると改めて魔素の量を増やし、再三指示を出すとようやく違和感のない動きで従うようになった。
(僕の幻術にここまで抵抗するとは――)
幻術に逆らうにはそれなりの技量が要求される。
間違っても学生と教師の力量差ではどうにかなるものではない。
(この少年、何者なのか――)
内通者を追い、レイチェルがここで襲われることを読み切っただけでなく《燻製鰊の虚偽》を使い自分の存在感を薄めさせていた。間違ってもただの学生ではない。
(なら一体――)
そんな疑問が湧いてくるがすぐに幻術で話させればいいと思い直す。
「これを拾え」
そう言いながら手袋のはめた手で短剣をジェイミーの足元へ放り投げた。
「それでレイチェル・ライダーを殺せ」
バッジの存在を認識しているレイチェルは絶対に殺さなければならない。
事故を装って始末してもいいが、それよりも明確な犯人のいる他殺の方が疑われにくい。
だからこの手で犯人を操り、被害者を殺させる。
ついでに内通者の濡れ衣を着せるのもいいだろう。
幻術で操られたジェイミーはロナルドの命令通り短剣を拾うと意識のないレイチェルへ近づき、彼女を見下ろす。
その様子をロナルドはジェイミーとレイチェルの体を左右から挟む形で少し離れた場所から見守っていた。
操られたジェイミーはレイチェルのすぐ隣でしゃがみ込むと逆手で持った短剣を彼女の心臓の上に持っていった。
「やれ」
下されるロナルドの死刑宣告。
その号令に従い、ジェイミーの持つ短剣が振り下ろされる。
肋骨の間を刃が滑り込み、命を循環を司る鼓動を破壊するとともに少女の息の根も断ち切る――それがロナルドの描いた光景だった。
しかし、それは幻術に等しい有り得べからざる理想。現実とは異なっていた。
短剣を振り下ろされようとした瞬間、何の前触れもなくジェイミーしゃがんだ体勢からの超低姿勢のダッシュを繰り出し、一足でロナルドとの距離をなくした。
ロナルドの目にはまるで時間が消し飛んだように映った。
制御が外れた時に備えて、二十メートルは距離を取った相手が突然目の前現れたのだから。
(いやそれよりも何で命令に逆らって――)
ロナルドの心の声は最後まで続かなかった。
眼前で体を上げたジェイミーがレイチェルを殺すはずだった短剣で斬撃を振るってきたからだ。
反射的に体をのけ反らせるロナルドだが、躱しきれず喉笛から鮮血が舞った。
「ごっ……ぽ……!」
吐血混じりの叫びがロナルドの喉から洩れる。
勢い良く飛び散った鮮血を顔の左半分に浴びたジェイミーは「まだ浅いか」と感じ、止めの追撃を繰り出す。
「――――ぼぐをばぼれぇっ‼︎」
だが、それは壁となった魔獣たちによって防がれた。
『決闘』で運用されていた魔獣達の一部にあらかじめ《操り人形》を使っていたのだろう。
このまま突っ込んでも仕留めきれないと判断したジェイミーは跳び退ると同時に意識を失ったままのレイチェルの襟首を掴み共に距離を取った。
「ぐ…………が…………」
魔獣たちに守られながら仰向けに倒れたロナルドが喉を押さえ、苦しげに呻く。押さえられた手の間から血が流れ続けており、放っておけば死に至る重傷だった。
「なん…………で…………」
首を起こしたロナルドが苦悶の表情で問いかける。
何故《操り人形》が効かなかったのかを聞いているのだろう。
生物の生命活動は体内を流れる電気信号によって支えられている。精神もまた然りだ。
幻術の根本原理は魔素によって脳の電気信号に影響を与えることで起こされている。
そしてジェイミーの電位系魔術は体内の生体電位を制御出来る。
つまりジェイミーは例え幻術で脳の電気信号を操られたとしてもその制御を取り返し元に戻すことが出来るのだ。
これが意味するのはジェイミーに幻術は効かない。
ジェイミーは二回目の試運転の時点でとうに制御下から抜け出しつつあり、ロナルドが完全にかけきったと思った三回目の時には《操り人形》を無力化していた。
しかし、そのことをジェイミーがわざわざ口に出すことはない。
レイチェルの体をゆっくり横たえると血で染まった短剣を持ったまま無言で迫る。
「ぐ…………くるなぁっ‼︎」
迫り来る死を拒むようにロナルドが叫ぶとその意思に呼応するが如く操られた魔獣達が一斉にジェイミーへ襲いかかった。
数は七体。赤い肌に黒い体毛を持ち、長い腕と尻尾で二メートル近い体躯に見合わない俊敏さで動き回る真紅猩々、鶏を丸呑みし、剣を弾くほどの硬い皮を持つ大蛇迷宮蛇、迷宮内の壁を破壊しながら移動する頑強な身体と突進力を併せ持つ剛牡牛、死神を思わせる両腕の鎌で人をも切り裂き、捕食する大鎌蟷螂、全身を覆う綿はあらゆる物理攻撃の衝撃を吸収し、そこから生じる静電気で雷撃を起こすことも出来る攻防一体の電羊、狼型の魔獣をも圧倒する膂力と仲間と連携し作戦を練ることも出来る知性を有し、相手を一時的に麻痺させる咆哮を発する狂猟犬が二体。
いずれもCレートの魔獣で例え教師たちであっても単騎での相手は厳しい戦力だった。
それでもジェイミーは動じなかった。
魔獣退治専門の傭兵である冒険者であっても苦戦するCレート魔獣の攻撃を糸を縫うような動きで躱しながらおにごっこでもするかのように次々とその体へタッチをしてゆく。
こちらをおちょくっているのかと顔を赤くしたロナルドだったが、すぐにその意味に気がつくと一転して顔を青くした。
「ま……まさかっ……!」
七体の魔獣が動きを止めたかと思うと同時にロナルドの方を向く。
その十四つの眼には明確な敵意が宿っていた。
生体電位を操る《電位制御》には自分以外の対象に使用する際に一つの条件がある。
それは相手の体に触れること。詠唱を唱えるだけでは発動出来ず、対象に触れて初めて他者へ使用出来る少々使い勝手の悪い魔法だった。
だが、一度触れさえ出来れば何でも出来る。
記憶を改竄することも、感情を操ることも、体調に異変をきたさせることも、価値観を変えることも何でも出来るのだ。
そして今、魔獣達にかけられていた幻術が解かれ、代わりにロナルドへ敵意を向けるよう脳を書き換えられた。
「頭と足だけは残せ」
「待っ――――」
その命乞いの言葉は最後まで続かなかった。
それを言い終わるよりも魔獣達が襲いかかる方が早かったからだ。
幻術を掛け直す暇すら与えられず体を貪られ、人としての形を無くしてゆく。
多方面から体を劈く激痛と自分を無くしてゆく恐怖にロナルドは血で溺れた声で絶叫し、涙を流しながら助けを求めるも言葉の通じぬ魔獣が耳を貸すはずもなく着実に質量を減らしていった。
そんな内通者の姿をジェイミーは嘲笑うでもなく、惨さに顔を顰めるでもなく、当たり前の風景を眺めるような無感動な目で眺め続けた。
やがてロナルドの声が止むとジェイミーは魔獣を追いやり、ぐちゃぐちゃになった体の中で唯一無事な頭に近づき、鷲掴みにして持ち上げた。
「〈不可視の糸よ〉、〈我が意思に応じろ〉、〈そして総てを晒せ〉」
人間は例え心臓が機能を停止したとしてもその直後であれば脳は死なない。つまり《電位解析》で電気信号を読み取り、頭の中を解析することが可能なのである。
これをジェイミーは理解していたため、頭だけは魔獣達に残させたのだ。
「――まさかここまでとはな。一度指示を仰がなくては」
情報を読み取ったジェイミーはそう呟くと頭を手放し、ロナルドの靴を履いてから勢い良く踏み潰す。
頭だけが無傷では不審に思われるのは明白。懸念の芽を潰すのは当然だった。
足を上げると靴裏からどろっとした血が滴り落ちた。
そこへ足音がいくつか聞こえてくる。
「先生方が来たのだろう」と察したジェイミーは急いで自分の靴へと履き直した。
これで立ち去る時、血の足跡を残さずに済む。魔法では痕跡を残してしまうため、物理手段での破壊を選んだのだった。
そしてジェイミーはベルンハルト達が近づいてくるのを背中で感じながら獣が食い荒らした肉塊と頭蓋骨ごと弾けた脳漿を残して立ち去っていった。
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