#5 一夜が明けて
「うっぷ……胸がムカムカする……」
翌朝。まだ朝が少し早い時間。微かにカチャカチャという音が漏れ聞こえる一階の廊下に、苦しげな声が響いた。
昨日の夕食は凄まじく豪華だったけれど、いかんせん量が多かった。その量は見かけによらず健啖家だった翼さんと霊葉さんを以てしても平らげきれない程で、軽く十人前くらいはあったように思える。
「……どれも美味しかったけど、まさか冷蔵庫に入らないとはね……」
リビングに繋がる扉を押し開けながら命がひとりごちる。
ある程度平らげて満足した後、冷蔵庫のキャパシティ的にお寿司くらいしか入らない事が判明した後は、まさに地獄絵図だった。
早々にリタイヤしようとする健啖家二人をなだめすかし、一応、体は男の子な命が奮戦したが、それだけでは収まらなかった。山のように残る豪華な見た目のご馳走を、死んだ目をしてお腹をさすりながら詰め込んでいくさまは、とても見れたものではなかった。
「ごめんよ……僕がもう少しでも食べられれば……」
こっそりと呟きながら、朝の支度を手伝おうとキッチンを覗くと、そこにはエプロンを纏った霊葉さんが所狭しと動き回っていた。
「おはよ……大丈夫?」
「おはよう。うん……何とかね。霊葉さんは?」
命に気付いた霊葉が鍋の火を弱めて、足を止める。霊葉は少なくとも命の倍は食べていたはずなのだが、恐ろしい事に顔色一つ変えていない。
「今は、大丈夫」
「凄いね……何か手伝う事はある?」
「ん。机の準備と配膳。お願い」
「わかった!」
命と向かい合っていた霊葉が背を向け、再び動き始めたタイミングで声をかけると、今度は涼しげな声だけが命の耳に届いてくる。
「う~……オハヨ……ごめんけど、今日は朝ごはん要らないや……」
命が机を拭いて小さなサラダを配膳していると、弱々しい声と共に龍子がリビングに入ってくる。
「龍子……気持ちはわかるけど――」
「大丈夫」
ゾンビの如く昨夜の席に座った龍子が視線を上げると、両手に温かな湯気を上げる器を持った霊葉が立っていた。
「煮殺しに玉子がゆ。お粥はほぼスープにしてあるから食べられる」
「っ……」
音もなく龍子の前へ配膳されていく品々を見て、僕は思わずゴクリと唾を呑み込んだ。霊葉さんの言う通り、お粥はサラリとしていて口当たりが良さそうなダシの香りがふんわりと漂っている。そして、極めつけがこの煮殺し。見た目は具の無いお味噌汁なんだけれど、何故だかすごく食欲がそそられるというか……。
「……一度沸騰させて味噌の風味を飛ばしてある。今ならちょうど、いいお味」
どこか自慢げに胸を張った霊葉さんが、ドヤ顔(ただし霊葉さん比)でスープの解説をしてくれる。どうやら普通のお味噌汁を沸騰させただけではなく、出汁が出過ぎないように途中で濾したりと、かなりの手間がかかっているらしい。
「……霊葉さん、料理上手なんだね」
さっきまでの死に体はどこへやったのやら、胸いっぱいに朝食の香りを楽しむ龍子を眺めながら隣の霊葉さんに賛辞を贈る。
「ううん。スープだけ」
「へっ?」
「好きこそものの……上手なれ」
ピクリと何かに反応した霊葉さんが、意味深な言葉を残して台所へ引っ込むと、一目見ただけで胃もたれの具合が見て取れる表情の皆が次々とリビングに入ってきた。
「……おは、よう。すまないが……」
「おはようございまひゅ……ううっ……?」
天子も志保も料理の香りさえ煩わしいかのようにしていたのに、霊葉が器を前に置いた途端に、顔色まで少し良くなりはじめた。
「これ……は……」
「はい……さっきまで、ぐえへろ~って感じだったのに……」
驚いて顔を見合わせる天子たちを、先に体験していた龍子がニンマリとした表情で眺めている。
「まるで魔法だな……うぇ……私にもそのエリクサーをくれ……」
最後に、いっとうボロボロな様子の翼がフラフラと現れて命の肩に捕まった。
「わっ……とと、大丈夫ですか先生? いっぱい食べたうえにお酒まで飲むから……」
命は反射的に振り払いそうになるのを堪えて肩を貸すと、苦笑いを浮かべながら翼を定位置である最奥の席へと誘う。
「うるへ~……あんな量を一晩で食うなんて飲まなきゃやってられるかっての……そもそも冷蔵庫に食材がないなんてあたしゃ聞いてないって――」
「わかりました。わかりましたから……それに、注文したのは全部先生です。まだお酒が残ってるんですか?」
命はわきわきと力なく体をまさぐろうとする手を器用に撃退しながら、翼を椅子に座らせてさり気なく魔手の射程外へと退避する。
「んもぅ……伊沙那のイケズ……」
「……命で良いです。伊佐那だと天子達と一緒なので。あと私はイケズで良いです」
いつの間にか霊葉さんがセットしてくれた食卓に着きながら、ぶっきらぼうに言い放つ。これでも一応男の子なんだから、『行けず』なんて言われても困る。
「あ~ん。も~……拗ねないでさ~」
「……先生、ホントにお酒残って無いですよね?」
命は、ワイワイと賑やかになった食卓には目もくれず、自分の分を用意してきた霊葉が音もなく自分の席に落ち着くのを視界の端で捕えながら、呆れたような視線を翼に注いでいた。
「――ともかく、だ」
ぐだぐだにダレてきた空気を入れ替えるように手を叩くと、志保が一度手を叩くと凛とした声で言葉を続ける。
「霊葉。素敵な朝食をありがとう。お陰で、暗い表情で入学式を迎えなくて済みそうだ」
「……ん」
一同が口々に礼を述べると、どこか恥ずかしそうに霊葉はコクリと頷いた。
「っと、そろそろ時間があぶない。入学早々に美味い朝食を食ってて遅れました……なんて伝説を残したくなかったら早速戴くぞ」
チラリと壁の時計に視線をやった翼が真面目モードに入ると、霊葉に向かって手を合わせてから朝食に口をつける。つられて時計を確認すると、その針は確かに出発予定時間が近い事を指していた。
「あわわわっ、い、いただきまっす!」
なんだかかんだで楽しい生活が送れそうだ。霊葉の料理が胸やけと一緒に不安を押し流すのを感じながら、命はそっと微笑みを零すのだった。