#3 密やかな好奇心
西日の差し込み始めた廊下を見回しながら龍子の部屋の前まで出てくると、それぞれの部屋からは微かな物音が聞こえてくる。どうやらまだ、片付けの最中らしい。
「そう言えば、寮生が私達だけなら3階は何があるんだろう……?」
心の中で一人称を意識しながら呟き、上への階段を登っていく。
「ま……ですよね。ここのちょっとしたスペースにソファーとか置いたら……怒られちゃうかな?」
最上階は、命達が使っている階とほとんど同じ作りだった。ただ、階下とは異なり空白になっているネームホルダーを眺めながら、最上階特有の僅かなちがいを見つけて微笑んだ。
どんな場所でも、家具の配置とかを考えるのはなかなか楽しくて。命の頭の中では、たちまち階段横のスペースが小さな談話スペースへと姿を変えた。
「……落ち着いたら提案してみよっと」
鼻歌交じりに階段を下り玄関ホールまで戻ってくると、ちょうど昼頃に先生が消えていった扉から霊葉さんが顔を出した。
「霊葉さん、片付けはもう終わったの?」
「ん」
霊葉さんは一音だけ発して少し悩むようなそぶりを見せたあと、扉の中に一歩引いて手招きをした。
「……?」
首を傾げる命をそのままに、霊葉は何も言わずにそのまま奥へと入っていってしまう。
「……なんか、いいにおい」
ほのかな香りに誘われて霊葉さんの後を追うと、大きなダイニングテーブルの上に、琥珀色の液体が満たされたスープカップが温かな湯気を上げていた。
「コンソメ……かな? すごいいい匂い……」
息を吸い込むと、様々な野菜の旨味が詰まったあの独特な香りが胸いっぱいに広がって幸せな気分になってくる。
「でも、あれ? これ……カレー?」
ほのかに香るスパイスの香り。よくよく気を付けていないと気付かないくらい微かにカレーのようなツンとした香りが混ざっている。
「凄い。香りだけで隠し味を当てられたのは初めて」
「わぁっ!?」
後ろからかけられた声に振り返ると、そこにはもう一つ湯気の立つスープカップを持った霊葉さんが立っていた。
「霊葉さん?」
「お茶でもしよ」
「えっ……と……」
淡々と言われてしまって思わず戸惑う。誘ってくれるのはすごく嬉しいんだけれど、都会ではお茶をするときのお茶にはスープも含まれるのだろうか。
「……命はコンソメ、嫌い?」
「う、ううんっ! 好きだよ! いただきますっ!」
少しだけ、ほんの少しだけ読みとれる程度に残念そうな表情を浮かべた霊葉さんに、命は慌てて返事を返す。
せっかく誘ってくれたんだ。楽しむものがお茶でもスープでも大した差はないだろう。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
命が霊葉の対面に腰を掛けると、音もなくスープカップが命の前に差し出される。
確かに、こうして目の前でよくのぞいてみれば、具は入っていないし一種のお茶のような物かもしれない。
「スープ、好きなんだ?」
「ん。一日三食一汁三菜全部スープでも……おっけー」
「ふふっ」
無表情で淡々と繰り出される霊葉さんの冗談に、思わず笑みがこぼれてしまう。
「……ところで」
しばらくの間、2人が無言でスープを楽しんでいると、静かに霊葉が口を開いた。
「ソレ……まさか命も席次持ちだとは思わなかった」
霊葉さんの視線が、テーブルの端……正確にはテーブルを通り越して僕の左腰に提げられている刀へと向けられる。
「『も』ってことは、霊葉さんは……」
「ん。2席」
朝の挨拶を交わすかのように事も無げに告げた霊葉さんの目は、まるでそちらの方が大事であるかと言うように、僕の手の中のスープに注がれて……。
「美味しい?」
そう問いかける霊葉の顔には、誇らしげな微笑みが浮かべられていた。
「うん……すごく」
その表情を見た途端。胸の中に、一つの言いしれぬ激情が芽生えるのを自覚する。
それは羨望であり、尊敬でもあり……そして、嫉妬でもあった。
突如現れた、ぐるぐると渦巻く感情に戸惑いながら、僕はそっと、その温かい部分だけを掬い上げて言葉に乗せた。
「……凄いんだね、霊葉さんは」
「そうでもない」
そう返した霊葉がテーブルの上に身を乗り出して、命の間近まで顔を寄せるとその頬を捕らえた。その恰好はまるで、キスでもする直前のような体勢だった。
「わっ……れ、霊葉さん……?」
「第一席は鷹乃衛。三席は四条院。……なら、貴女は?」
至近距離で霊葉さんに目を覗き込まれて頭が真っ白になる。というか、この体勢は非常にまずいのだけれど……。
「あの結界を受けて無傷で済んでいる……貴女程の実力者が四条院に負けるはずがない。手、抜いた?」
「ち、ちがくてっ!」
霊葉さんの目に剣呑な光が宿りかけたのを見て慌てて否定する。もしかしなくても、霊葉さん怒ってる?
「私は特待生なんだ……なんだか、持ってる魔力量とかがすごいらしくて……簡単な魔法も発動できないのにね……」
「……ふむ」
迫力に負けて思わず漏らしてしまった秘密を吟味するように、霊葉さんは黙って僕の頭を捕まえ続ける。
やがて、僕の方がその緊張に耐えられなくなって。
「そ、それより霊葉さんはなんで帯剣しないの?」
強引に話の矛先を逸らすことを試みた。
これ以上迫られたら最悪の秘密がバレかねないし、そもそも自分から白状してしまいそうな気までしてくる。
「……必要。ないから」
「えっ?」
元の位置へと戻りながら、霊葉さんが気だるげに答えてくれる。
「私ができるのは魔法だけ。騎士になる気もないから――いらない」
「そっ……か……」
ひょっとしたら、霊葉さんにも事情があるのかもしれない。濁した言葉を隠すように、強く締めくくられた否定の言葉から違和感を覚えながらも、僕は話を流した。秘密を探られて困るのは僕もだし、何より根掘り葉掘り聞かれて気持ちの良いものでは無いだろう。
「その……なんか、ごめんね?」
「気にしてない……お互い様」
そう言って微笑んだ霊葉さんの笑みには、いつも通りの静けさが戻っていたのだった。