10.50階層と魔法使い
50階層は寒い。
吐き出す息は、白く輝いている。
クラリスは厚めのローブを着ていることが幸いして、凍えるほどではない。
それでも、やはり寒い。
横たわるベヒーモスを尻目に、辺りを見回してみる。
どうやら、ここは孤立した小さな空間だ。
今のところ魔物が湧く様子はない。
しばしの安全が確保されているみたいだ。
上層階への大穴は、すっかりと修復されている。
完全に取り残された。
上に戻るために探索をしたい。
しかし、クラリスには即死魔法しかない。
ここは50階層。おそらく彼女の即死魔法の確率はほぼ0に近い。
10階層の魔物にやっと効いた魔法だ。
クラリスはこの厳しい状況をよく理解していた。
「なんとか戦いを避けながら……進むしかない」
全ての魔物から逃げ切って、上へ上へと登っていく。
これもまた大変難しいことだった。
簡単に回避できるのなら、他の冒険者がこの階層まで攻略しているはずだ。
「それでもやるしかないよね」
ここに留まれば、手持ちの食料があまりないクラリスにとっては死を意味する。
クラリスはバッグを開けた。
所持品を改めて確認して、有効に使うためだ。
マジックポーションが2つ。空き瓶が一つ。
薬草が19枚。
ナイフが一本。
食料と飲み物は半日分だけ。
元々、低階層で日帰りの狩りをするつもりだった。そのため、身軽さも考慮して少ししか持っていなかった。
まさか、50階層にこれほどの準備で来てしまうなんて思ってもなかった。
食料は切り詰めても3日が限度だろう。
問題は飲み物だ。
食べ物は我慢できる。喉の渇きはどうしようもない。
脱水状態で倒れてしまうだろう。
「まずは飲水を確保しないと」
クラリスは諦めない。
50階層という深みまで落ちてきても、生きているのだ。
これだけでも十分なくらいの奇跡だ。
もしかしたら、一生分の幸運を使い切ってしまったかもしれない。
だからこそ、今生きていることを大事にしようと思った。
自分を追放した賢者マーテルも見返えせていない。
冒険は始まったばかりだ。
諦められるわけがない。
「どこかに……」
迷宮には水が湧く場所がいくつか設けられている。
なぜかというと、魔物のためだ。
迷宮の魔物は、ここで湧く水を飲んで命をつないでいる。
魔力を帯びた特別な水らしく、それさえ飲んでいれば魔物は生きていけるという。
凶暴な魔物は、他の魔物を食べたり、共食いするらしいが。もちろん、冒険者も美味しくいただくという。
死んでいるベヒーモスがそれに当たる。
あの戦いで負けていたら、今頃クラリスはベヒーモスのお腹の中にいたかもしれない。
クラリスは意を決して、小さな空間から出ようとする。
よく見ると、これもまた小さな隙間がある。
ちょうどクラリスくらいの小さな女の子が通れるくらいだ。
この隙間なら外から魔物は入ってこれないだろう。
安心して進めそうだ。
ネイリングが引っかからないように気を使いながら、隙間の中へ。
もうすぐ出口だ。
クラリスは息を呑んで、ゆっくりと顔を出した。
魔物はいない。
「よかった」
胸を撫で下ろす。
まだ心臓はバクバクと音を立てていた。
これからが本番だからだ。
探索して水の確保。欲張れば、上への道も見つけたい。
「いけない、いけない……欲張っちゃ」
二兎追う者は一兎も得ず。
命の危険がある時には、無謀というものだ。
まずは水の確保を優先させる。
クラリスは石橋を叩いて闊歩したい。
水音を聞くためにそっと耳を澄ませる。
「この音は!?」
水滴が落ちる音がわずかに聞こえる。
運がいい。まだ幸運は残っていたみたいだ。
この分だとそれほど離れていない。
隙間からそっと出ると、音が聞こえる方へ進む。
いつでも身を隠せるように、瓦礫がある場所を把握しておく。
息を殺しながら進んでいくと、大きな広間に出た。
それは神秘的な場所だった。
「すごい……」
至るところに紫水晶が生えており、迷宮の灯りを受けて輝いていた。
それを大きな泉が、鏡のように映している。
クラリスは魔物がいない今を見計らって、水面に近づく。
水の中にも魔物はいないようだ。
ほっとする間もなく彼女は手で掬って、水を飲み干した。
「生き返る!」
ずっと緊張の連続だった。
喉の渇きがここに来て、一気に襲ってきたのだった。
これ以上飲めないというほど飲む。
この水は迷宮の魔力を帯びている。
人が飲むと、どのような影響かわからないため、ギルドからは禁止されていた。
でも今回は緊急事態。
もしかすると飲めば、魔物と同じように食事を取らなくてもいいかもしれない。
一縷の望みにかけてみた。
「ふぅ~、もう飲めない」
結果は水腹だ。
お腹が膨れた感じはしない。
人だと魔物と同じようにはいかないようだ。
空いている瓶にも水を入れておく。
さて、とりあえずもと居た小さな空間へ戻ろう。
そう思って立ち上がった時、地面を踏みしめる音が聞こえた。
咄嗟に、岩陰に隠れる。
この泉の水を飲みに魔物がやってきたのだ。
毛むくじゃらで四足歩行する魔物。大きさはクラリスの3倍くらいある。
それが群れをなして、次から次へと現れた。
おそらく魔物が水を飲む時間帯なのだろう。
我先にと水面に顔を突っ込む。
クラリスは静かに魔物たちが去るのを待つしかない。
見つかれば、一巻の終わりだ。
どれだけ飲むんだというほど、毛むくじゃらは泉にいた。
その間、クラリスは身を潜めるしかない。
でも、この魔物の習性をつかめば、もしかすると水の確保はしやすいかも……。
なんて甘いことを思っていたクラリス。
すぐに考え直すことになる。
毛むくじゃらの魔物の悲鳴が泉のある大きな空間に響き渡る。
クラリスは、魔物が上へと連れ去られるように見えた。
あまりの速さだったため、はっきりとは難しい。
そして、泉の上……天井を見た時、思わず声が漏れる。
「嘘でしょ……」
天井にぎっしりと大型の蜘蛛が犇めいていたからだ。
蜘蛛の狙いは、毛むくじゃらの魔物。
上からそっと垂らした糸に引っかかれば、釣りのように引っ張られていた。
「あの糸にボクも引っかかっていたら」
今頃、美味しくいただかれていた。
血の気が引いていった。
おそらくたまたま運が良かったのだ。
蜘蛛はあの魔物がもうすぐここへくることを知っていた。
だから、あえて本命ではないクラリスを釣り上げようとはしなかった。
毛むくじゃらの魔物はすべて蜘蛛に捕まってしまう。
取りすぎて食べきれないものは、糸でぐるぐる巻きにしている。
クラリスは今のうちにとばかりに、泉から逃げ出した。
「危なかった……ん!?」
蜘蛛が後ろから追いかけてきた。
クラリスを見逃してはいなかった。
まずは本命の魔物。
その後は迷い込んだ冒険者。
迷宮の魔物は、冒険者を襲う。
例外はなく、必ず襲う。
蜘蛛は糸を口から吐いて、クラリスを捕まえようとする。
「ぎゃああぁ」
クラリスは女の子として、出してはいけないような声が漏れる。
そんなことを言ってはいられない。
捕まれば、毛むくじゃらの魔物のように生きたままで、ボリボリと食われてしまう。
こうなったら、やけくその即死魔法である。
「デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス、デス!」
まったく効果がない。
蜘蛛は元気だった。
「来ないで、お願いデス!」
やはり、まったく効果がない。
強い魔物に対して、即死魔法は最弱だ。
最弱過ぎる……。
これなら、まだ下位魔法のほうがいい。
クラリスはデスデスと叫んでいるだけだった。
既のところで来た道を逆戻りして、隙間に飛び込んだ。
蜘蛛が壁に突っ込んできて、クラリスをなんとか捕まえようとする。
鋭い牙が、毒を滴らせながら動いていた。
「はぁはぁはぁ」
その前に、クラリスは奥へ進んで逃げ切れた。
危なかった。
隙間から様子を窺う。
蜘蛛は隙間の前に居座って、クラリスが出てくるのを待ち伏せしているようだ。
チラチラと蜘蛛の影が行ったり来たりしていた。
「閉じ込められた」
あの蜘蛛は執念深そうだ。
水を確保できたのはいいが、ここから出れない。
出れる方法は、隙間の先にいる蜘蛛を倒すしかない。
しかし、クラリスには倒す力がない。
「疲れた」
彼女の疲労は限界に達しようとしていた。
ここは体力の回復をしたい。
一眠りすれば、いい考えが浮かぶかもしれない。
クラリスはバッグを枕にして、眠りにつくことにした。
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